| 年月日 |
できごと |
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年月日 |
できごと |
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1556 |
1556〜1630 (弘治2年〜 |
| 1568/2 |
織田軍により北 伊勢平定 黒田長政・誕生 |
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1570 |
(15歳) |
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1573 |
(18歳) |
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1576 |
(21歳) |
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1576 |
やがて近江を去り、信長の甥・織田信澄の家臣として仕えるも長続きせず、 天正4年 |
| 1577 |
(9歳) |
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1577 |
(22歳) |
| 1578 |
信長に一度降伏した荒木村重が信長に反旗を翻したとき( 有岡城の戦い)、父の孝高は村重を説得する為に 伊丹城に乗り込んで拘束された。この時、信長は孝高がいつまでたっても戻ってこない為、村重方に寝返ったと考えて 長政を処刑しようとしたが、竹中半兵衛の機転により、一命を助けられている |
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| 1578 |
(10歳) |
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1580 |
(25歳) |
| 1582 |
(14歳) |
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1582 |
(27歳) |
| 1582/6 |
本能寺の変で信長が死去すると、父と共に秀吉の家臣となる。 |
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| 1583 |
賤ケ岳の戦いでも功を挙げて、 河内国に450石を与えられる。 |
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1583 |
(28歳) |
| 1583 |
(15歳) |
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| 1584 |
小牧・ 長久手の戦いでは父と共に大坂城の 留守居を務めた。その功績により、2000石を与えられる |
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1585 |
(30歳) |
| 1586 |
九州の役では、秀吉の使者として西下し、宣教師を援助した。また、小早川秀包、黒田長政たちを洗礼に導いた |
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1587 |
(32歳) |
| 1587/3/4 |
黒田長政・福島正則・浅野幸長らと 石田三成殺害を企図するも |
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| 1589 |
(21歳) |
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1591 |
(36歳) |
| 1592 |
(24歳) |
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1592 |
(37歳) |
| 1592 |
から行なわれた秀吉の 朝鮮出兵である文禄・ 慶長の役にも渡海している。 長政は五千人の軍役を課せられ、主将として三番隊を率いて一番隊の 小西行長や二番隊の 加藤清正等とは別の進路を取る先鋒となった |
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| 1592/5 |
初旬の 漢城会議で 黄海道を担当することとなった三番隊は平安道担当の一番隊と共に 朝鮮王の宣祖を追って開城を攻略し、 平壌まで進んだ。 |
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| 1592/5/7 |
漢城へ到達した。 |
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| 1592/7/7 |
海 州を攻略した。 |
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| 1592/8 |
初旬の 漢城会議で明の援軍を警戒して戦線を縮小して主要街道を固めることとなり、黒田長政は李廷馣の守る延 安城を攻撃を行ったが攻略することが出来ず、以後 黄海道の広範な制圧から転換して北方からの攻勢に対応するために主要街道沿いにある 白川城・江陰城を守ることとなった。同じく三番隊の大友吉統は鳳山城・黄 州城を拠点とした |
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| 1593 |
正月に中央から派遣された 李如松率いる明の大軍が 小西行長等の守る 平壌城を急襲し、落城寸前の状態から撤退してきた小西軍を 長政は 白川城に収用した。 以後、明の攻勢を警戒して 漢城へ集中した 日本軍は 碧蹄館の戦いで明軍を撃破し戦意を失った明軍と補給不足に悩む 日本軍の戦いは停滞する中で、 長政は 幸 州山城の戦いにも出陣した |
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| 1593/4 |
漢城を放棄して 朝鮮半島南部へ布陣を行った。 |
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1594 |
(39歳) |
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1595 |
秀保が早世したため、出家して高野山に上るも、その将才を惜しんだ 豊臣秀吉が召還したため還俗し、5万石を加増されて 伊予 板島(現在の 宇和島)7万石の大名となる。このとき、秀吉から 日本丸という軍艦を拝領したとされる |
| 1596/9 |
日明和平交渉は大詰めを迎え、秀吉による明使謁見で双方の外交担当者による欺瞞が発覚して交渉が破綻すると秀吉は諸将に再出兵を命じた。 |
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| 1597 |
(29歳) |
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1597 |
からの 慶長の役にも水軍を率いて参加し、 漆川梁海戦では 朝鮮水軍の武将・元均率いる水軍を殲滅するという武功を挙げ、帰国後に加増されて8万石となる。この時期に 板島 丸串城の大規模な改修を行い、完成後に 宇和島城に改称している |
| 1597/7 |
元均率いる 朝鮮水軍による攻勢があり、反撃により 漆川梁海戦で 朝鮮水軍を壊滅に追い込んだ 日本軍は |
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| 1597/8/30 |
教訓から明軍は不活発であり小競り合いに終わり(第二次 蔚山城の戦い)、そのまま撤退を迎えた。 |
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| 1597/12 |
末から経理 楊鎬・提督麻貴率いる明軍が完成間近の 蔚山倭城へ攻勢をかけ(第一次 蔚山城の戦い)、 加藤清正が苦戦すると西部に布陣していた 日本軍は 蔚山救援軍を編成して明軍を撃破した。 長政はこの救援軍に六百人を派遣しており、後にその不活発さが秀吉から叱責されることとなる |
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1598 |
(43歳) |
| 1598/8 |
秀吉が死去すると、 三成ら文治派との対立路線から五大老の 徳川家康に接近し、家康の養女(保科正直の娘)を正室に迎えた。 |
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| 1599 |
(1599)利家が病死した事により、歯止めがなくなり、清正は 福島正則、黒田長政、浅野幸長ら六将とともに大坂の石田邸を襲撃したのである。この襲撃は事前に察知した三成が 徳川家康を頼った事により失敗することとなる |
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| 1600 |
家康が 会津の上杉景勝討伐の兵を起すと家康に従って出陣し、出兵中に 三成らが大坂で西軍を率いて挙兵すると、東軍武将として 関ヶ原の戦いにおいて戦う。 三成に対する恨みからか、本戦における黒田隊の活躍は凄まじかった |
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1600 |
上杉景勝が家康に対して挙兵すると、家康による 会津征伐に軍勢を率いて従軍する。そして 石田三成ら西軍が挙兵すると、高虎は家康の東軍に従って 織田秀信が守る 岐阜城攻めに参戦し |
| 1600 |
(32歳) |
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1600 |
(45歳) |
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1604 |
(49歳) |
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1608 |
(53歳) |
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1608/10 |
出した21か条の法度 |
| 1614 |
(46歳) |
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1614 |
からの大坂冬の陣では徳川方として参加する。 |
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1614 |
(59歳)〜 |
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1614/6 |
従四位下に昇任した。 |
| 1615 |
(47歳) |
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1620 |
(65歳) |
| 1623/8 |
(享年55歳) |
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1630 |
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1630/10/4 |
本では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前であり、何度も主君を変えるのは不忠でも卑しい事でもなかった(高虎も当時としては当然の行動をしただけであるが、同輩からの大名に出世した嫉妬と、外様でありながら家康の覚えが良い事を嫌う徳川譜代との確執が背景にあると思われる)。 |
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1630/10/5 |
死去。享年75 |