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黒田官兵衛(くろだかんべえ)

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黒田官兵衛(くろだかんべえ)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1546/12/22 黒田職隆の嫡男として姫路に生まれる。黒田氏は、『寛政重修諸家譜』などによれば近江国伊香郡黒田(現在の滋賀県伊香郡木之本町黒田)の武家出身とされるが定かではない 情報源のサイトへ
1566 現在この兜は同地にある盛岡市中央公民館に保存されている[6]。なお、この兜は別名「如水の赤合子」とも呼ばれ、1566年 情報源のサイトへ
1567 志方城の城主櫛橋定から贈られた兜である[7]。また、如水所有の刀のうち数点も現在、福岡市博物館に保管されており 情報源のサイトへ
1567 頃、孝高は家督を継ぎ、櫛橋定の娘を正室に迎え、姫路城代となった。 情報源のサイトへ
1569 赤松政秀が足利義昭を抱える織田信長に属した池田勝正と別所安治の支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくるが、300の兵で奇襲攻撃を仕掛け撃退した(青山土器山の戦い)。 情報源のサイトへ /20060604_37939.JPG /hon-senkyou.jpg /252-5.jpg
1573 小寺氏など播磨の大名たちは、浅井長政を討ち畿内で勢力を拡大する織田信長山陰・山陽に勢力を張る毛利輝元の2つの大勢力に再び挟まれることになった。 情報源のサイトへ /1018fukui113.jpg /c0114.jpg /1195195236_sub1.jpg /10062963.jpg
1575 長篠の戦いで武田勝頼を破った信長の才能を高く評価していた孝高は一早く主君・政職に織田家への臣従を勧め、羽柴秀吉の部下であった縁者をつてに岐阜城で信長に謁見。さらに近隣勢力も説得し、政職、別所長治、赤松広秀 らを謁見させた 情報源のサイトへ /b_014.jpg /FIG-COL-0081.jpg /nagahamajou-s.jpg /c7.jpg
1575/7 美濃国岐阜城にて織田信長と謁見した際に信長より贈られた山城国の刀工長谷部国重が製作した「圧切長谷部金霰鮫青漆打刀拵付(へしきりはせべきんあられさめあおうるしうちがたなこしらえつき)」と[8][9] 情報源のサイトへ /1117yukituri.jpg /P1010003.JPG
1576 毛利は小早川隆景の水軍の将、浦宗勝を5000の兵で攻め込ませるが、賀に上陸したところを孝高は500の兵で攻撃し退ける。この戦いの後、長男の松寿丸(長政)を人質として信長の元へ送る 情報源のサイトへ
1576/10 信貴山城松永久秀を討った羽柴秀吉豊臣秀吉)に命じて播磨に進駐させた。孝高は居城である姫路城を秀吉に提供し、一族を父の隠居城である飾東郡の国府山城(甲山)に移らせた 情報源のサイトへ /P10006211.jpg /IMG_Hh6687.jpg /aduchi_2005059.jpg /biwako152.jpg
1578 播磨の大勢力である三木城主別所長治が織田氏に反旗を翻した。これに他の播磨の勢力は大きく動揺した 情報源のサイトへ
1578 ころが天正6年 情報源のサイトへ
1578 秀吉による中国攻めの途中では『別所長治・荒木村重(あらきむらしげ)・小寺政織・高山右近・中川清秀』らが次々と謀反を起こしますが、小寺孝高(こでらよしたか)は信長軍の将来性と優位性を強く確信しており、信長に謀反を起こした主君の小寺政職を見限って姓も『小寺』から『黒田』へと改名しました。 情報源のサイトへ
1580 秀吉は難攻の末にようやく陥とした別所長治の三木城を拠点とし、姫路城を孝高に還そうとするが、孝高は「姫路城は播州統治の適地である」と進言する。村重の謀反の際、主君の小寺政職も同調して信長から離反したため、信長の嫡男・織田信忠によって討伐された 情報源のサイトへ
1581 秀吉は因幡の鳥取城を兵糧攻めで落城させた。策略により周辺の米を買い占めた上で完全に包囲して兵糧の補給を絶ったため、鳥取城内は飢餓で凄惨極まりない状況に追い込まれて3ヶ月で降伏を余儀なくされたが、城中の備蓄米が少ないことを見抜き、この作戦を秀吉に献策したのは孝高だったと言われる 情報源のサイトへ
1581/11 第一次四国征伐の際に淡路国にて安宅河内守(安宅清康かあるいは安宅貴康)を攻めた折に安宅河内守を討ち取った時に使用したとされている「安宅切金霰鮫青漆打刀拵付(あたきぎりきんあられさめあおうるしうちがたなこしらえつき)」と[10][11][12] 情報源のサイトへ
1582 清水宗治(しみずむねはる)が守る備中高松城に対する大規模な堤防を築いた“水攻め”も黒田官兵衛の発案によるものとされます。黒田官兵衛は信長が横死した本能寺の変後も秀吉に仕えて、四国征伐や九州征伐で勲功を上げて豊前中津の12万5000石を与えられます 情報源のサイトへ /%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA.bmp /hon-hieizan.jpg
1582 毛利氏の部将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際し、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。これに対し、孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し成功させたと言われる[1] 情報源のサイトへ
1582/6/3 夜に、備中高松城を水攻めしていた羽柴秀吉の元に『信長が本能寺で討たれる』という報告が届き、予期せぬ本能寺の変に驚いた秀吉でしたが、軍師・黒田官兵衛の助言を受けて迅速に『中国大返し(中国戦線からの即時退却)』の戦略を断行しました。本能寺の変を起こした明智光秀は、毛利輝元や上杉景勝に『信長の死去』を伝える飛報を出していましたが、羽柴秀吉は驚異的な早さで毛利方の安国寺恵瓊(あんこくじえけい, 1539-1600)との講和をとりまとめて『有利な講和条件』を結んで退却することに成功しました 情報源のサイトへ /%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA.bmp /PICT44951.jpg /hon-hieizan.jpg /P1090802.JPG
1583 から 情報源のサイトへ
1583 秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の猛攻に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。 情報源のサイトへ /P10102911.jpg /P10102621.jpg
1584 小牧・長久手の戦いにも参加。毛利との外交に手腕を発揮し国境線を確定し、実質的に秀吉配下に加える 情報源のサイトへ /kosenjoukouen.jpg /nagakute.jpg
1585 羽柴秀次を総大将とする四国征伐に、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家の軍勢の軍監として加わり諸城を陥落させていった。植田城に対してはこれを囮であると見抜いて阿波国へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったと言われる 情報源のサイトへ /kouti.jpg /motochika07.jpg
1586 従五位下勘解由次官に叙任された。 情報源のサイトへ
1587 九州征伐では毛利氏などを含む羽柴秀長の軍勢の軍監として、戦勝に大きく貢献している。九州平定後の 情報源のサイトへ
1587/6 本拠地の中津をはじめとする豊前国の中の6、およそ12万5000石(検地後17万石)を与えられた。しかし 情報源のサイトへ
1587/7 佐々成政が肥後国の仕置きに失敗し、隈部親らによる肥後国人一揆が起きたため、如水も鎮圧のための援軍として差し向けられるが、その隙をついて豊前でも国人勢力の城井鎮房・野中鎮兼らが呼応し一揆を起こす。長政・後藤基次らが鎮圧に一旦は失敗するが、その後孝高はこれを鎮圧し和議・婚姻を結ぶ 情報源のサイトへ /utoyagura.jpg
1587/7 秀吉がバテレン追放令を出すと高山右近らがこれに反抗して追放される中、孝高は率先して令に従った。秀吉の側近である孝高の行いは、篤く遇していた宣教師やキリスト教を信仰する諸大名に大きな衝撃を与えたことがルイス・フロイスの書簡から窺える 情報源のサイトへ
1588/4 城井氏らを謀殺することとなった。 情報源のサイトへ
1589 家督を長政に譲って隠居し、「如水軒」と号した(※これ以降は如水と記述する)。 情報源のサイトへ
1590 小田原征伐では小田原城に入って北条氏政・北条氏直父子を説得し、無血開城させる功績を立てた。このとき、北条氏直から日光一文字の名刀を与えられている(国宝、福岡市博物館所蔵) 情報源のサイトへ
1590 小田原征伐の際に、降伏を勧める為に小田原城へ派遣された折に北条家当主の北条氏直より贈られた「日光一文字・葡萄文蒔絵刀箱付(にっこういちもんじ・ぶどうもんまきえかたなばこつき)」が保存されている[13][14]。また、この降伏交渉の際に北条氏直から歴史書の『吾妻鏡』と法螺貝の北条白貝も如水に贈られ[15]、『吾妻鏡』は国立公文書館に[16]、北条白貝は福岡市美術館に保存されている[17][18] 情報源のサイトへ
1592 から秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参加し、和式城郭の縄張りや、第二次晋州城攻防戦において後藤基次らが用いた亀甲車の設計などに携わっているが 情報源のサイトへ /5fb12706ad7954147865ae04de0066e4-1.jpeg /keityou.gif
1593 石田三成との対立で豊臣秀吉の激昂を受けてからは豊後中津で悠々自適の生活を送っていました。黒田官兵衛の隠居の理由には『秀吉の官兵衛の軍略に対する恐怖・猜疑心』があったとも言われ、秀吉が家臣に対して『自分の次に天下を獲る者は黒田官兵衛である』と吹聴したことから、自分に謀反の疑いが掛けられることを恐れた官兵衛は自発的に出家・隠居の道を選んだと伝えられています 情報源のサイトへ /sg0403.jpg /jodoji3.jpg /honmaruato.jpg
1593 五奉行の石田三成との間に確執を生じ秀吉の怒りを買ったために、「如水円清」と号して出家、中津城に引退した。 情報源のサイトへ /honmaruato.jpg
1594 伏見大地震の際、倒壊した伏見城に駆けつけたが、秀吉は同じ蟄居中の加藤清正の場合には賞賛したのに対し、如水に対しては「俺が死ななくて残念であったであろう」と厳しい言葉をかけたと言われている。 情報源のサイトへ /200510092217intl1.jpg
1598/8 豊臣秀吉が死去した。如水情報源のサイトへ /PICT63761.jpg /thumb.jpg
1598/12 上洛し伏見屋敷に居住したという。この頃、如水吉川広家に宛てた書状が残されている 情報源のサイトへ
1600 徳川家康らが会津の上杉景勝討伐のため東へ向かうと 情報源のサイトへ /kubijikken-s.jpg /0016.jpg
1600/8/25 石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。嫡男・長政は家康の養女を正室として迎えていたことから秀吉の死去前後から家康に与し、豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み後藤基次ら黒田軍の主力を率いて家康に同行、関ヶ原本戦で武功を挙げた 情報源のサイトへ /20071122_02.jpg /nakasen58c.jpg /sekigahara-s.jpg /PICT65471.jpg
1600/9/13 道中の諸城を攻略した後、9月13日 情報源のサイトへ
1600/10/15 再興を目指して西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地である杵築城を包囲攻撃した。城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請、同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した 情報源のサイトへ /P10006941.jpg /hamo.jpg /073.jpg /edo_mori.jpg
1600/10/19 石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した。黒田二十四騎に数えられる母里友信らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した 情報源のサイトへ
1600/11 入り加藤、立花、鍋島勢を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが 情報源のサイトへ /57Jinbaori.jpg /seki_ki.jpg
1600/11/12 肥後水俣まで進軍したとき、徳川家康と島津との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した。 情報源のサイトへ /masamune-haka-p.jpg /naomasa-zou-p.jpg /kubijikken-s.jpg /0016.jpg
1604 カテゴリ: 黒田氏 | キリシタン | 戦国武将 | 織政権の大名 | 播磨国の人物 | 1546年生 | 1604年没 情報源のサイトへ
1604/4/19 京都伏見藩邸にて死去。59歳 情報源のサイトへ

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