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できごと |
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年月日 |
できごと |
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1118 |
平 清盛(たいら の きよもり)(1118年~ |
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1118 |
伊勢平氏の頭領である平忠盛の嫡子として伊勢 産品(うぶしな、現在の 三重県 津市 産品)で生まれる。生母は不明だが祇園女御の妹という説が有力である |
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1118 |
誕生となる。『平家物語』では 白河法皇の寵愛を受けて懐妊した祇園女御が、忠盛に下賜されて清盛が生まれたとなっているが、『平家物語』の成立は 鎌倉時代以降であり、祇園女御は当時40歳を越えていたと推測されることから信憑性は薄い |
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1120 |
『中右記』保安元年 |
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1120/7/12 |
条には「 伯耆守忠盛妻俄に卒去すと云々。是 仙院の辺なり」という記事があり、忠盛の妻が 仙院( 白河法皇)の周辺に仕えた女房だったことがわかる |
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1129 |
正月に12歳で従五位下左 兵衛佐に叙任されたことについて、藤原宗忠は「人耳目を驚かすか、言ふに足らず」と驚愕している(『中右記』)。武士の任官は三等官の尉から始まるのが通常で、二等官の佐に任じられるのは極めて異例だったためである |
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1129/1/24 |
左兵衛佐。 |
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1129/3 |
石清水臨時祭の舞人に選ばれるが、清盛の馬の口取を祇園女御の養子とされる内大臣・源有仁の随身が勤めていることから、幼少期の清盛は祇園女御の庇護の下で成長したと思われる。 |
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1135/8/21 |
従四位下。 |
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1137 |
忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後守に任じられる。 |
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1146/2/2 |
安芸守兼任。肥後守任替 |
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1147 |
平時子との間に宗盛が生まれる。時子の父・時信は鳥羽法皇の判官代として、藤原顕頼・高階通憲( 信西)とともに院庁の実務を担当していた |
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1147/6/15 |
清盛は 祇園社に赴くが郎等の武具を咎めた神人と小競り合いとなり、郎等の放った矢が宝殿に当たるという事件が発生した( 祇園闘乱事件)。 祇園社を末社とする延暦寺は忠盛・清盛の流罪を要求して強訴するが、鳥羽法皇は延暦寺の攻勢から忠盛・清盛を保護し、清盛の罪を贖銅三十斤という罰金刑にとどめた |
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1149 |
その後、清盛に代わり異母弟の家盛が常陸介・右馬頭に任じられ頭角を現す。しかし、 久安5年 |
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1149 |
家盛は急死したため、清盛の嫡流としての地位は磐石となる。安芸守に任じられて 瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげ、父と共に西国への勢力を拡大した |
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1153 |
またその頃より宮島の厳島神社を信仰するようになり、仁平3年 |
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1153 |
忠盛の死後に 京都の伊勢平氏一門の頭領となる。 |
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1156 |
保元の乱では池禅尼が崇徳上皇の子・重仁親王の乳母だったことから、清盛の立場は難しいものであったが一門の結束につとめ、後 白河天皇側について勝利をもたらし播磨守、大宰大弐となる。 信西( 藤原通憲)と藤原信頼・二条親政派の対立では中立的立場をとっていたが |
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1159 |
平治の乱で政権を握った藤原信頼・経宗・惟方などの反 信西派を一掃することで、急速にその政治的地位を高めることになる。この過程で 源義朝・源重成・源季実・源光保といった 有力武士が滅亡したため、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握した |
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1160/8/11 |
参議。大宰大弐如元 |
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1161/9 |
白河上皇と平滋子の間に第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)が生まれると、平時忠・教 盛が立太子を画策した。二条天皇はこの動きに激怒し、時忠・教 盛・藤原成親・藤原信隆を解官して後 白河院政を停止した |
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1162/2/9 |
検非違使別当・右衛門督兼職。 |
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1162/3 |
平治の乱で配流されていた二条天皇親政派の藤原経宗が帰京を許され |
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1162/4/7 |
皇太后宮権大夫兼任。 |
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1162/6 |
時忠・源資賢が二条天皇を 賀茂社で呪詛した罪で配流された。清盛は二条天皇の厚い信任を受け、親政を軌道に乗せた |
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1162/8/20 |
従二位。 |
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1164 |
蓮華王院を後 白河上皇のために造営している。蓮華王院には荘園・所領が寄進され、後 白河上皇の経済基盤も強化された |
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1164 |
さらに関白・藤原基実に娘・盛子を嫁がせて、摂関家とも緊密な関係を結んだ。院政を停止させられた後 白河上皇への配慮も怠りなく、長寛2年 |
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1165 |
重盛を参議に任じて平氏への依存を深めるが |
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1165 |
二条天皇は後 白河上皇の動きに警戒心を抱き、長寛3年 |
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1165 |
法住寺に寄進した蓮華王院(三十三間堂) |
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1165/7/28 |
崩御した。 |
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1165/8/17 |
権大納言。 兵部卿・皇太后権大夫如元 |
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1165/9 |
時忠が帰京を許され |
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1165/12/25 |
憲仁親王が親王宣下を受けると、清盛は勅別当になった。後 白河院政派は次第に勢力を盛り返していたが、清盛は後 白河上皇の行動・性格に不安を覚え、院政復活を望まなかったという |
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1166/7/26 |
摂政・氏長者の基実が急死して後 白河院政が復活すると、基実の子・基通が幼少であることから弟・基房が摂政となる。基房は後 白河上皇の近臣として信頼が厚く、基実の領していた摂関家領が基房に移動すれば平氏にとって大打撃となる |
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1166/10/1 |
春宮大夫兼任。 兵部卿・皇太后宮権大夫両官止む |
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1166/10/10 |
憲仁親王が立太子すると清盛は春宮大夫となり |
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1166/11 |
内大臣となった。翌 |
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1167/2 |
太政大臣になるが、太政大臣は 白河天皇の治世に藤原師実と摂関を争って敗れた信長が就任してからは実権のない名誉職に過ぎず、わずか3ヶ月で辞任する。清盛は政界から引退し、嫡子・重盛は |
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1167/5 |
宣旨により 東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。 |
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1167/5/17 |
太政大臣辞任。 |
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1168 |
厳島神社 仁安3年 |
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1168 |
清盛は病に倒れ、出家する。原因は「寸白(すびゃく)」(寄生虫の病)だったとされる |
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1168 |
清盛の援助によって今日のような海上社殿が造られた。 |
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1169 |
後 白河上皇は出家して法皇となるが、清盛は後 白河法皇とともに東大寺で受戒して協調につとめた。これは、鳥羽法皇と藤原忠実が同日に受戒した例に倣ったものであった |
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1177/6 |
鹿ケ谷事件が起こる。これは多田行綱の密告で露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る |
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1177/7/9 |
食物を与えられず殺害される)、俊寛らは鬼界 ヶ島に流罪に処した。ただし清盛もさすがに後 白河法皇に対しては罪を問わなかった |
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1178/6 |
娘の盛子が死去する。ところが盛子が死去すると、法皇は直ちに盛子の荘園を清盛と相談もせずに没収するにいたった |
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1178/7 |
重盛が42歳で病死してしまった。これには清盛もさすがに落胆の色を隠せなかったが、後 白河法皇は重盛の死去と同時に、またも清盛に何の相談もなく重盛の知行国であった越前国を没収してしまった |
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1178/11/14 |
福原(現在の 神戸)から軍勢を率いて自ら上洛し、翌 |
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1178/11/15 |
クーデターを決行した。いわゆる |
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1178/11/30 |
清盛にとって不幸の連続であった。まず |
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1179 |
政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。 |
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1179 |
政変であるが、清盛は関白・基房、権中納言・師家を手始めに、藤原 師長など反平氏的とされた39名に及ぶ公卿・院近臣(貴族8名、殿上人・受領・検非違使など31名)を全て解任とし、代わって親平氏的な公家を任官するにいたったのである。これに対して後 白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが、清盛はこれを許さず |
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1179/11/20 |
鳥羽殿に幽閉するにいたった。ここに後 白河院政は完全に停止された |
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1180 |
平氏の勢力基盤である西国においても 伊予の河野通清・河野通信父子、翌 |
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1180/2 |
高倉天皇が譲位、言仁親王が践祚した(安徳天皇)。安徳天皇の母は言うまでもなく清盛の娘・徳子である |
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1180/6 |
一門の反対を押し切り、平氏の拠点である国際貿易 港の 大輪田泊(現在の 兵庫県 神戸市)を望む地への遷都を目指して福原行幸を強行する。 |
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1180/8 |
伊豆に流されていた 源頼朝、それとほぼ同時期に甲斐源氏が挙兵する。 |
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1180/9 |
信濃国において 源義仲らが挙兵する。これに対して清盛は頼朝らの勢力拡大を防ぐため、嫡孫の平維盛を総大将とした大軍を 関東に派遣したが、 富士川の戦いでは交戦をせずに撤退してしまった |
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1180/11/23 |
清盛は 京都に帰還するにいたった。 |
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1180/12 |
なると清 盛は、知 盛を総大将とした軍勢を差し向けて園城寺を焼き払い、近江源氏の山本義経・柏木義兼を打ち破って、近江の平定に成功する。次に清 盛が標的としたのは、畿内最大の反平氏勢力・興福寺だった |
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1180/12/28 |
興福寺・東大寺など南都の諸寺は炎上した。確かにこれにより都周辺の反平氏勢力の動きは鎮静化したが、南都焼き討ちは清盛が恐れていた「仏敵」の汚名を着せるにいたってしまった |
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1181 |
豊後の緒方惟能・ 臼杵惟隆・ 佐賀惟憲ら豪族が挙兵し、 伊勢 志摩においても反乱の動きがあった。さらに東国においても平氏方であった佐竹氏などが頼朝によって討伐されるなど、反乱がいよいよ深刻化してくる |
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1181 |
平安時代末期の武将。公卿 |
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1181 |
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 平安時代の武士 | 平家 | 1118年生 | 1181年没 |
| 1185/2/13 |
鎌倉に 京都の時政から静を送る旨の返事が届く。 |
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| 1185/3/1 |
静、母の磯禅師と共に 鎌倉に到着。安達新三郎の屋敷に入る |
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| 1185/3/6 |
すでに 京都で時政に調べられたが、はなはだ信用できないとして再び 問注所の役人に義経の行方を問われる。静「 吉野の山中ではなく、その僧坊である |
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| 1185/3/22 |
静再び子細を尋ねられるも、義経の行方は知らないというだけであった。義経の子を妊娠しているので出産ののち帰すとの沙汰 |
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| 1185/4/8 |
頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参拝。舞を行うよう控えの間から静を廻廊に召し出す |
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| 1185/5/14 |
工藤祐経・梶原景茂・ 千葉常秀・八田 朝重・藤原邦通ら御家人たちが酒を持って静の宿所に向かい宴会を催す。磯禅師が舞を舞う |
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| 1185/5/27 |
夜、頼朝の長女大姫の依頼により、南御堂に舞を納めて禄を給う。 |
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| 1185/7 |
静男子を出産する。これは豫州(義経)の息子である |
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| 1185/7/29 |
(閏は2度目の |
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| 1185/7/30 |
桜より癒されたといわれている。 |
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| 1185/8/30 |
桜」ともいわれおり山中深く 美麻の丘に一本佇む姿は「神聖な桜」とも伝えられ、修行僧が静御前の魂を供養し |
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| 1185/11/17 |
義経が大和国 吉野山に隠れているとの噂があるので、 吉野山の執行(修行)僧兵によって捜索するも見つからなかったところ、夜10時頃、義経の妾の静が藤尾坂を下り 蔵王堂にたどり着く。その姿がいかにも怪しいので衆徒達はこれを見咎め、執行坊に連れてきて詳細を問う |
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| 1185/11/18 |
静の証言によって義経を探す為、 吉野の大衆はまた雪を踏み分け山を捜索する。 吉野執行は静を大変気の毒に思い、充分労ってから 鎌倉へ差し出す事になった |
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| 1185/12/3 |
目に 吉野山に着きました。そこで五日間逗留し、それを最後にお別れしました |
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| 1185/12/15 |
北条時政から 鎌倉へ送られた手紙より静の証言。「豫州が都を出て 西海へ赴いた明け方、一緒に連れ立って大物浜に到着しました |
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| 1185/12/15 |
都落ちした義経の一行が 九州へ渡るべく大物浜( 尼崎市)から乗船するが、暴風雨によって難破し一行は離散。義経に従っていたのは源有綱・堀景光・武蔵坊弁慶並びに妾の静のみであった |
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| 1186 |
源平合戦後、兄の 源頼朝と対立した義経が 京を落ちて 九州へ向かう際に同行するが、義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻される。 吉野で義経と別れ 京へ戻るが、途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ 京の 北条時政に引き渡され、文治2年 |
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| 1186/7/29 |
静は男子を産んだ。安達清恒が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった |
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| 1186/9/16 |
静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという |
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