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長屋王(ながやのおう)

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長屋王(ながやのおう)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
684 長屋王、生 情報源のサイトへ
704 【長屋王】、正四位上に直叙され、官職は宮内卿、式部卿を歴任 情報源のサイトへ
709 従三位宮内卿、同 情報源のサイトへ
710 平城京遷都自体が、旧豪族の基盤を逃れ、藤原氏中心で新しい政治を行いたいという藤原不比等の狙いがあったとされる。さらに 情報源のサイトへ
712 出羽国が置かれていたが、少し後に秋田城が築かれ、共に蝦夷対策の中心地となっていく。 情報源のサイトへ
713 大隅国(おおすみのくに)が置かれ 情報源のサイトへ
714 亡き文武天皇と藤原不比等の娘宮子の息子、首皇子(おびとのみこ)(701-756)(後の聖武天皇)が皇太子になった。右大臣となって政権を握っていた不比等だったが、天皇に娘を嫁がせて外戚(がいせき)関係を強め、政権の安定化を目差したのが成功したようである 情報源のサイトへ /monbu-mae.jpg /monmu.jpg /toudaijisyoumusai-1030502.jpg /toudaijisyoumukyugen-1030502.jpg
714/11/30 ころが皇太子になった翌年 情報源のサイトへ
715 女帝元明天皇は崩御(ほうぎょ)されてしまった。まだ首皇子は若すぎると判断したのだろうか、元明天皇は亡くなる前に自分の娘に天皇を譲位(じょうい)した 情報源のサイトへ /a2-3.jpg /p031221d.jpg
715 して即位した。聖武天皇が即位するまでのつなぎである 情報源のサイトへ /toudaijisyoumusai-1030502.jpg /toudaijisyoumukyugen-1030502.jpg /gensho03.jpg /m4437.jpg
715/2 元明天皇は勅語を出して、三品吉備内親王(元明天皇の娘、長屋王の妻、首皇子の父帝・文武天皇の妹)の子らを、皆皇孫(みなすめみま)の例(つら)に入れ 情報源のサイトへ /a2-3.jpg /monbu-mae.jpg /p031221d.jpg /monmu.jpg
716 正三位に叙せられている。平城京遷都後、右大臣藤原不比等が政界の中心となり、舎人親王や長屋王ら皇親勢力がこれに対する形であった 情報源のサイトへ /134629.jpg /toneri.png
717 左大臣石上麻呂が死去すると 情報源のサイトへ
718 不比等の娘(長蛾子)婿である長屋王が不比等の後ろ盾を得た形で大納言となった。長屋王は天武天皇の子供である高市皇子の子供である 情報源のサイトへ /08-tenmu-s.jpg /3_05_01Ls.jpg /takechi.jpg /header_image.jpg
718 誕生した娘、阿倍内親王(後の孝謙天皇)についで 情報源のサイトへ /b1500013-2.jpg /02_pic02.jpg
719 新羅からの使者を長屋王邸に迎えて盛大な宴会が催され、長屋王自身の作になる詩や、時の文人らが作った詩が『懐風藻』に収録されている。なお『懐風藻』にはこのときの詩を含め、長屋王の漢詩が計3首収められている 情報源のサイトへ
720 不比等が亡くなると、後任の右大臣には不比等の娘婿である長屋王がなった。 情報源のサイトへ
720 (720)に藤原不比等がなくなると、皇親を代表する長屋王が政権を握りました。藤原不比等には四人のすぐれた男子がいました 情報源のサイトへ
720 不比等は亡くなってしまった。この時期、不比等に対抗出来るほどの勢力を持っていたのは、天武天皇の息子である舎人親王(とねりしんのう)(676-735)、天武天皇の息子である高市皇子(たけちのみこ)の息子、長屋王(ながやのおおきみ、ながやおう)(684?-729)であった 情報源のサイトへ /20080213142806.jpg /3_05_01Ls.jpg /134629.jpg /toneri.png /takechi.jpg /header_image.jpg
720 没すると、その子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、議政官は当時参議の地位にあった房前のみであったため、長屋王は皇親の代表として政界の主導者となった。その後長屋王は 情報源のサイトへ
720 病床の元明上皇より長屋王と共に召され、後事を託された。44元正天皇内臣に任命された 情報源のサイトへ /gensho03.jpg /m4437.jpg
720 新羅の使者を招きもてなし、漢詩などを歌ったりしている。彼の邸宅は、万葉集に代表されるヤマトの歌や、漢詩を嗜む文化人の中心の一つを担っており、長屋王邸で生まれた幾つもの漢詩が、我が国最初の漢詩集「懐風藻」(かいふうそう)に収録されることになった 情報源のサイトへ
720/8 舎人親王】、右大臣藤原不比等薨去に伴い知太政官事に就任、右大臣(後、左大臣)の長屋王とともに皇親政権を樹立 情報源のサイトへ /134629.jpg /toneri.png
721 大伴旅人(おおとものたびと)(665-731)が隼人への征服軍を繰り出して、支配力を強化したのである。この大伴旅人は、「懐風藻」「万葉集」にも作品を残し、大の酒好きであったことでも知られるが、芸術界でも中心的な役割を果たす長屋王とは、親しい間柄であったようだ 情報源のサイトへ
721 長屋王が右大臣になった時、中納言となり 情報源のサイトへ
722 吉備内親王(長屋王の妻)が母・元明太上天皇の菩提を弔うため、薬師寺の「東院堂」を建立して、元明太上天皇の等身大の観音像を安置しました。また 情報源のサイトへ
722/11/30 (あるいは当時の農地全部を超える百万町歩の開墾をうたった意気込みだけの?開墾計画)が出され、翌年 情報源のサイトへ
723 当時の施策としては、養老7年 情報源のサイトへ
723 発令された三世一身の法がある。また 情報源のサイトへ
723 不比等死後に政権を担当したのは、高市皇子の子で天武天皇の孫にあたる長屋王であった。彼は右大臣に昇って権勢を誇ったが、その前後から負担に苦しむ農民の浮浪や逃亡がふえ、社会不安が表面化したため、政府は財源確保のため723年 情報源のサイトへ /08-tenmu-s.jpg /3_05_01Ls.jpg /takechi.jpg /header_image.jpg
723 三世一身法(さんぜいっしんのほう)が発布された。これは水路などの潅漑施設からすべて切り開いて新田開墾(つまり墾田)を行った者には、当人が死んだ後も田を取り上げず、三世(本人→子供→孫、または子供、孫、曾孫)の代まで所有が認められる 情報源のサイトへ
724 聖武天皇の即位と同日、正二位左大臣に進み、また、元正天皇も自分の妹である吉備内親王とその夫の長屋王に厚い信任を寄せていたといわれている。 情報源のサイトへ /kokubunji03-2.jpg /gensho03.jpg /m4437.jpg /te80117b.jpg
724 聖武天皇即位直後、天皇は、宮子を「大夫人」と称する詔を発するが、長屋王らが、その称号は令に違反することを指摘し、天皇は、先勅を撤回、公式には、令通り「皇太夫人」とする詔を発した。 情報源のサイトへ /kokubunji03-2.jpg /te80117b.jpg
724 太平洋側に多賀城(たがじょう)も築かれた。場所は今日の宮城県多賀城市にあり、国府(こくふ)だけでなく鎮守府(ちんじゅふ)という東北に備える軍隊が設置されている 情報源のサイトへ
724 が即位した。妻である光明子(こうみょうし)は藤原不比等の娘 情報源のサイトへ
724 左大臣となり聖武天皇が即位した。この頃になると藤原氏と長屋王の関係が急速に悪化し、遂に 情報源のサイトへ /kokubunji03-2.jpg /te80117b.jpg
724/4 持節大将軍に任命された藤原宇合(ふじわらのうまかい)が蝦夷(えみし・政権の及ばない東北方面に住む人々)の反乱を平定。このような征夷(せいい)、あるいは征東(せいとう)と呼ばれる北方進軍の将軍名が、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)という役職へ繋がっていくことになる 情報源のサイトへ /CA390654.jpg /zatu2.jpg
727 基王(もといおう)という男子が産まれ、皇太子として成長のあかつきには天皇となる事が期待された。ところが基王(もといおう)は 情報源のサイトへ
727/11/30 わずか1歳で亡くなってしまった。これによって外戚関係強化によって政権を狙う藤原四兄弟の思惑が外れ 情報源のサイトへ
728 不比等の娘である光明子(こうみょうし)と聖武天皇の皇子基王(もといおう)が亡くなると、藤原四兄弟は今度は光明子を聖武天皇の皇后(こうごう・天皇の正妻)に押し立てようと目論んだ。長屋王は反対するだろう 情報源のサイトへ /sibusi38.jpg /clip_image002343.jpg
729 左大臣にのぼった長屋王に対し藤原四兄弟は「左道によって国政を傾ける」と讒訴して、自殺に追いこみ(長屋王の変)、政権を手にした。変の直後、藤原氏は不比等の娘光明子を、臣下で最初の皇后(光明皇后)に立てることに成功した 情報源のサイトへ /heguri211.jpg /heguri172.jpg /ph02.jpg
729 長屋王の変で一族諸共滅んだのである。 情報源のサイトへ /heguri211.jpg /heguri172.jpg /08-tenmu-s.jpg /3_05_01Ls.jpg
729 長屋王の変に勝った藤原氏勢力は光明皇后の後ろ盾もあり朝廷で並ぶ者無しになった。ところが 情報源のサイトへ /heguri211.jpg /heguri172.jpg /ph02.jpg
729 長屋王の変を筆頭に、「天平のロマン」と讃えられる時代の影には、数多くの陰謀騒乱が渦巻いていたのである。 情報源のサイトへ /heguri211.jpg /heguri172.jpg
729 反乱を起こすと密告され、自殺に追い込まれてしまいます。なお、長屋王の邸宅跡からは多くの木簡[もっかん]が見つかっています 情報源のサイトへ
729 長屋王の変」の時武智麻呂、舎人親王らと王邸に派遣され、王を訊問。この時大将軍 情報源のサイトへ /heguri211.jpg /heguri172.jpg /134629.jpg /toneri.png
729 長屋王の乱の時、新田部皇子と共に窮問使となった。長屋王自害 情報源のサイトへ /pic76-3.jpg
729 長屋王はあまりにもあっけなく転落することになった。 情報源のサイトへ
729/2 漆部造君足(ぬりべのみやつこきみたり)と中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまひと)が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告があり、それをうけて藤原宇合(ふじわらのうまかい)らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲[1]し、舎人親王などによる糾問の結果、長屋王はその妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺させ服毒自殺した[2] 情報源のサイトへ /134629.jpg /toneri.png /zatu2.jpg
729/3/20 奈良時代の皇族、公卿。正二位左大臣 情報源のサイトへ
729/6 長屋王の祟りによる落雷があり、朝廷は諸国に祭祀を命じ 情報源のサイトへ

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