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鑑真(がんじん)

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鑑真(がんじん)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
688 持統天皇 情報源のサイトへ /middle_1108176885.jpg /vn-tenmu.jpg
729/4 橘諸兄が没すると、藤原仲麻呂道祖王を廃して、大炊王(おおいおう、舎人親王の子、後の淳仁天皇)を皇太子に立て、まだ一部を残して盧舎那仏の鍍金がやっと終り、聖武上皇の崩御で一時中断していた鑑真の「建初律寺」で「金堂」が造営され、橘奈良麻呂の変があり 情報源のサイトへ /heijo.jpg /heijyokyo.jpg
732 鑑真の招聘に尽力した普照(ふしょう)のもとへ、唐から一対の鴟尾(しび)が届き、「金堂」の屋根に据えられ 情報源のサイトへ
733 日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。 情報源のサイトへ
735 唐招提寺で死去(入寂)した。76歳 情報源のサイトへ
735/5/2 本への渡海 情報源のサイトへ
735/5/3 本での戒律の確立 情報源のサイトへ
735/5/6 奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖 情報源のサイトへ
735/6/6 鑑真和上が76歳で亡くなり、彼の肖像は「御影堂」に安置され、毎年「唐招提寺」で鑑真和上の故郷、の花「けい花」が咲く頃、命日を挟んで3日間開扉されます。 情報源のサイトへ
742 日本から唐に渡った僧叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。 情報源のサイトへ
743 夏のことで、このときは、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放された。鑑真は留め置かれた 情報源のサイトへ /200608020005o1.jpg /220px-%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E6%9C%AC%E7%B7%9A0km%E6%A8%99%EF%BC%88%E9%96%80%E5%8F%B8%E6%B8%AF%E9%A7%85%E3%81%AB%E3%81%A6%E6%92%AE%E5%BD%B1%EF%BC%89.JPG
744/1 周到な準備の上で出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった。再度、出航を企てたが、鑑真の日を惜しむ者の密告により叡が逮捕され、3回目も失敗に終わる 情報源のサイトへ
748 叡がふたたび大明寺の鑑真を訪れた。懇願すると、鑑真は5回目の日を決意する 情報源のサイトへ
748/6 出航し、舟山諸島で数ヶ月風待ちした後 情報源のサイトへ
748/11 日本へ向かい出航したが、激しい暴風にあい、14日間の漂流の末、はるか南方の海南島へ漂着した。鑑真は当地の大雲寺に 情報源のサイトへ
751 鑑真はに戻るため海南島を離れた。その途上、端の地で叡が死去する 情報源のサイトへ
752 必ず日を果たす決意をした鑑真のもとに訪れた遣唐使藤原清河らに日を約束した。しかし、当時の玄宗皇帝が鑑真の才能を惜しんで日を許さなかった 情報源のサイトへ
753 遣唐使が帰日する際、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否した。それを聞いた副使の大伴古麻呂はひそかに鑑真を乗船させた 情報源のサイトへ
753/11/17 遣唐使船が出航ほどなくして暴風が襲い、清河の大使船は南方まで漂流したが、古麻呂の副使船は持ちこたえ 情報源のサイトへ
753/12 薩摩国へ・唐招提寺(鑑真像=乾漆像) 情報源のサイトへ
754/1 鑑真は平城京に到着し、聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。 情報源のサイトへ
754/4 鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢である 情報源のサイトへ
754/4/5 大仏殿前に戒壇を築き、仏教心の厚い聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇を始め、多くの僧尼ら総勢440人に鑑真が「授戒の儀」を授け 情報源のサイトへ
758 (天平宝字2)、淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。 情報源のサイトへ /ohi_jinjya2.jpg
759 (天平宝字3)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた 情報源のサイトへ
761 (天平宝字5)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。 情報源のサイトへ
763 没隠しカテゴリ: 仏教関連のスタブ項目 | 人物関連のスタブ項目 情報源のサイトへ

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