| 年月日 |
できごと |
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年月日 |
できごと |
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668 |
(天智 |
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672/6/22 |
大海人皇子が 吉野から挙兵の使いを美濃の 安八麿(あはちま)郡の湯沐令(ゆノうながし)・多品治(おおノほむじ)に遣わし、 壬申の乱が勃発したのが行基5歳の時で |
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672/6/24 |
大海人皇子は妻子と共に吉野を発って東国へ向い、従う者は書根麻呂(ふみノねまろ)・書智徳ら極わずか |
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672/6/26 |
不破( 岐阜県)山中で近江側の書薬(ふみノくすり)が 吉野側に捕まり |
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672/7/23 |
近江側の大友皇子が山科( 京都)の山中で自害し、この冬、大海人皇子が飛鳥の浄御原宮へ移って、第40代 天武天皇に即位しました。 |
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677/4 |
生まれたという説もある。父は百済系渡来人氏族の末裔西文氏(かわ ちのあやし)一族の 高志才智とされる |
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681 |
出家、官 大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して 関西地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。 |
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682 |
(天武11)15歳で出家し(飛鳥寺の道昭を師としたと考えられる),瑜伽論(ゆがろん),唯識論(ゆいしきろん)の教義をすぐ理解した。道昭は |
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682 |
(天武 |
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686 |
(朱鳥元年) |
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686/9 |
天武天皇が崩御して |
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701/6/1 |
道君首名が僧尼令を大官大寺に講じて |
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701/7/30 |
藤原宮子が首皇子(後の 聖武天皇)を生み、また、橘三千代が安宿媛(あすかべひめ、後の 光明皇后)を生みました。 |
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701/8/3 |
大宝律令が成立し |
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702 |
( 大宝2) 大宝律令施行によって天皇と貴族が庶民を支配する体制が確立し,庶民は課税軽減,生産向上,宗教的救済を切望した。行基は |
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704 |
この頃から僧の( 行基 )が社会事業で活躍。朝廷はこれを弾圧 |
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704 |
行基37歳は、生家を掃き清めて「家原寺」とし、 行基建立初めての寺院で、 行基は後に四十九の寺院を建立したが、それらには加えられず、特別な扱いになっている寺院で |
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704 |
(慶雲1)生家を寺に改め(家原寺(えばらでら)。 大阪府 堺市),その後都鄙に伝道と社会事業を展開した |
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706 |
行基39歳の時、蜂 田寺( 大鳥郡蜂田里)を建立しました。 |
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709 |
春の宵、行基は、 千葉県 市原郡 山倉村 堂谷の森の中で、闇夜に光を放つ枯木を見つけ、その枯木で「薬師如来像」を彫り、天台宗医王山「円薬寺」の本尊としましたが、その後も行基は勅命によって、 関東を巡錫したので、房総半島には行基に関する寺院が多く、湿 津村の「寿福寺」にしばらく滞在し、松ヶ浦に錫を掛け、 出津の祇園山「神光寺」に立ち寄り、 市原市 五井の「光明寺(現在の守 永寺)」も行基の開基とされ、 市原村 寺山「光善寺」薬師堂の薬師如来、 姉崎町 豊成の「不動院」の不動明王も行基の作で、 戸田村 風戸の「 日光寺」の聖観音像も楠でもって行基が彫ったとされています。 |
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710 |
710年 |
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710/3/10 |
都が藤原京から 平城京へ遷都され、 行基43歳は、薬師寺、 大安寺(大官大寺)等の南都の諸大寺の 移建に貢献したが |
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711/9/4 |
諸国の役民が造 都に労し奔亡(ほんぼう)多く、詔(みことのり)が出されて、 兵庫に軍営が建てられ |
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712/16 |
諸国の役民で帰郷の時に飢える者が多く、国司らが賑恤(しんじゅつ)し |
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712/10/29 |
帰郷の役夫と運脚夫の困難を救う為、郡稻を便地に貯えて交易せられたが、見るに見かねた行基45歳は、貧困に苦しむ民衆に飯を与えて泊める為の施設、「布施屋」を 摂津に3つ、和泉、河内、山城にそれぞれ2つ建て、また、 生駒山の東側( 生駒谷)に僧庵「草野仙房(かやのせんぼう)」を営み、そこで布教活動をしましたが、寺院外でも布教の禁止を破って行ったため |
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717 |
717年 |
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717 |
(養老1)政府が行基の伝道を《僧尼令(そうにりよう)》違反として禁圧したのは,彼への社会的信望を忌避したためとも,政府が隋の 文帝や唐の 高宗による三階教(教団は王権から独立すべきものだと主張)弾圧から刺激されたためともいう。しかし政府は行基の土木技術や,庶民を動員する力量を利用するため,三世一身法や墾田永年私財法発布の過程で |
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717/4 |
百姓の違法の出家を禁じ、行基の活動を禁圧する。 |
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717/4/23 |
行基の民間伝道が僧尼令違反として弾圧されたが、それでも、女帝で第44代 元正天皇の御代 |
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717/4/23 |
詔をもって糾弾されて弾圧を受けた。だが、行基の指導による墾田開発や社会事業の進展や地方豪族や民衆らを中心とした教団の拡大を抑えきれなかったこと、行基の活動が政府が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないことから |
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721 |
行基54歳は、 平城京 右京 三条三坊に寺史 乙丸より宅を寄進され、そこの地名を取って菅原寺(現在の喜光寺)と称し、それまでの 和泉、河内を中心とする活動から、菅原寺を中心に活発な布教活動を行うと、境内に入りきれない難民が溢れました。 |
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726 |
聖武天皇の勅願で、行基が南 房総最古の寺、 関東天台の雄、 長安 山 東光院「石堂寺」の堂宇を建立し、当寺は創建当時、水晶で造られた宝塔が納められていたので、石 塔寺と呼ばれ、近江の阿育王 山、 上 州の白雲 山と共に 日本 三石 塔寺の1つです。なお、行基は全国を行脚するために我国初の 日本地図である「行基図」を作り、後々まで 日本地図の原図として用いられ、原図は現存しないけど、 江戸時代の中期に「 長久保 赤水」や「 伊能忠敬」が現われる以 |
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729 |
729年 |
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729 |
行基62歳は、 聖武天皇の勅願で、岩船寺を |
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729/11/30 |
また天皇の勅願で、 瀬戸内海の生口島( 広島県 瀬戸田町)に光明三昧院(こうみょうさんまいいん)を創建し |
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731 |
年明けに行基を慕って春日野に数千から1万にも及ぶ群衆が犇き |
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731/11/30 |
河内の 狭山 下池の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用した。 |
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看病禅師として内道場に出仕し、天平宝字5年 |
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733 |
地震が続き、疱瘡がまん延しました。 |
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734 |
聖武天皇の夢枕に薬師如来が立ち、孝謙皇女永年の病を平癒されたので、勅命によって行基が、 富雄川の右岸 矢田丘陵の中腹に伽藍を建立することになり |
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736 |
736年 |
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736/8 |
菩提遷那(ぼだいせんな)33歳、 仏哲、道?35歳らが 難波 津に着き、 行基69歳ら僧侶99人、 治部(じぶ)や 玄蕃(げんば)の役人達が雅楽で盛大に出迎え、暗峠 奈良街道を通って、 奈良へ向う途中で、 行基が建立中の伽藍に立寄り、菩提遷那がここは天竺( 印度)の「霊 鷲山」に似ていると云い、寺号を「霊山寺」と命名しました。 |
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737 |
光明皇后の勅願で、行基が 千葉県 市原市 引田「橘禅寺」を創建し、また、 千葉県 里見村の 山中で黄金に光る古木を見つけ、それを掘り出して薬師三尊を刻み安置する草堂を建てたのが、岩問 山延命院「東漸寺」の奥の院「岩問 山 薬師堂」です。また、行基は全国各地の温泉も掘り出し、 草津温泉、 野沢温泉、 山代温泉、 山中温泉、有馬温泉など、行基開湯の伝説が数多く残っています |
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738 |
行基の布教活動を朝廷が認め、彼を「 行基大徳」と呼び、その業績を大いに讃え、 行基の布教活動を許しましたが、 行基は宗教活動の他、社会事業にも精進し、 摂津から 河内への直道や、橋( 摂津に4、山城に2)、 大阪 狭山 市の 狭山池、岸和田 市の久米田池、伊丹 市 行基町の 昆陽池などの溜池( 和泉に8、 摂津に6, 河内に1)、船溜まり( 和泉、 摂津にそれぞれ1)造り、 摂津から播磨にかけて、河尻泊(尼崎 市 神崎町)、 大輪田泊(神戸 市 兵庫区)、魚住泊(明石 市 魚住町)、韓泊(姫路 市 的形町)、室生泊(たつの 市 御津町 室津)の5つを整備し、 行基が海上の安全を祈祷したら、畳2枚ほどの大きなエイが現れたのが明石の 江井島(えいがしま)漁港で、堀( 摂津、 河内にそれぞれ1)、溝( 摂津に3、 和泉に2, 河内に1)、樋( 河内に3)などを各地に造り、その他、 行基は「興福寺」、「元興寺」および総国分寺「東大寺」の建立に尽力し、生涯に48ケの大寺院を始め、全国津々浦々に寺院道場を約1400も建立したのに、「元興寺」の智光は 行基の悪口を云ったので、地獄へ落ちたが、その後蘇生して 行基に謝ったと云われ、「元興寺」の屋根は、 日本最古の瓦を使用し、 行基葺と呼ばれています。 |
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739 |
739年 |
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739/2/26 |
光明皇后が病んで、大赦があり、病者・僧尼に賑給がなされ |
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739/5/23 |
郡司の数が多く、百姓を侵損するので、その定員が改正され、 行基72歳は 聖武天皇の勅願で「浄瑠璃寺」を創建し、なお、 行基には蟹の恩返しで有名な「蟹満寺」の逸話(*下記注1)など色々多くの伝記があります。 |
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740/2/7 |
聖武天皇が 光明皇后を伴って 難波宮に行幸され、同 |
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740/2/19 |
天皇らは 平城京へ帰還されたが、この往還のいずれかで河内国 大県郡( 柏原市)「智識寺」の盧舎那仏を拝し、自分も盧舎那仏を造りたいと考えられ、これが大仏造営の端緒になったと云われ、また |
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740/9/3 |
大宰少式 藤原広嗣が上表して、時政の得失を指摘し、天地の災異を陳述の上、僧正玄昉と右衛士督吉備真備の罷免を求めて挙兵したので、 大野東人(あづまびと)が 大将軍に任命され、同 |
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740/9/15 |
「 広嗣の乱」鎮圧を祈る為、諸国に観世音菩薩像と観音経を造写させ |
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740/10/29 |
聖武天皇が 伊勢に行幸し |
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740/11/1 |
広嗣が斬られ |
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740/12/15 |
天皇が山背国 相楽郡の恭仁宮に行幸され |
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741 |
(天平13)までに河内,和泉, 摂津,山背(城)国などに造った池15,溝7,堀4,誇3,道1,港2, 布施屋(ふせや)(調庸運脚夫や役民(えきみん)を宿泊させ食料を与える)9などの農業・交通関係施設の位置と規模が〈 |
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741 |
741年 |
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741/3/17 |
行基74歳は、 京都府 山城南部の賀世山の東で、恭仁 京の正面の木津川に泉橋を架けた時、 聖武天皇が「泉橋院」にわざわざ行基を訪ね |
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741/4 |
行基は 聖武天皇の勅願で、 島根県 出雲市 下古志町「阿彌陀寺」を創建し、なお、 出雲市東林 本町に大寺( 万福寺)を建立して、薬師如来を彫って安置し、また、 出雲市 塩冶町「 神門寺」も開基して、更に 出雲市 馬木町「光明寺」の「馬木不動尊」は行基が彫って、 日本三大不動明王( 東京「 目黒不動」、 千葉「 成田不動」と共に)の一つです。 |
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743 |
紫香楽(しがらき)での大仏造営詔発布のさい勧進(募財)役に起用し, |
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743/10/15 |
聖武天皇が盧舎那大仏造営の詔を発せられると、行基は勧進に起用され、弟子を率いて勧進し |
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744/11/13 |
紫香楽離宮の甲賀寺で、盧舎那大仏の体骨の柱が建てられましたが |
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745 |
行基が大僧正となる。 筑紫 観世音寺に左遷 |
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745 |
ころまでに畿内に開いたいわゆる四十九院の寺の位置と建立年代が記され,これも庶民の信者の寄進や協力で造られた。四十九院は社会事業施設と結合しており,たとえば 狭山池院( 大阪府 南河内郡 狭山町)には 狭山池, 昆陽(こや)施院( 昆陽寺 |
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745 |
朝廷より 日本最初の大僧正の位を贈られた。 |
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745 |
大僧正に任じた。平城還都後,大仏造営は金鐘(こんしゆ)寺(のち東大寺)で再開されたが,行基は |
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745/21 |
行基78歳が 聖武天皇から我国初の最高僧階「大僧正」に任じられ、度者400人を賜った後 |
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745/4/11 |
紫香楽宮の 東山で火事があり、連日滅(き)えず、都下の男女が競って物を川に埋め、 聖武天皇は大丘野に難を避け |
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745/5/2 |
諸司の官人に何処を都とすべきかを問い、同 |
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745/5/4 |
薬師寺に四大寺(興福寺・ 元興寺・ 大安寺・薬師寺)の僧を集め 都とすべき地を問い、大仏造営を一時中止して、同 |
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745/8/23 |
国中連公麻呂を造 仏長官にして、山金里(やまがねノさと、現在の東大寺)で大 仏造営が再開され |
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746 |
行基は宿願があって 春日神祠に参籠すると、 春日明神の夢のお告げがあり、「ここから坤(ひつじさる、西南)の方向に霊地がある。すみやかに精舎を建て、人々を救え」と云われたので、当時密生していた椣(しで)の霊木を以て、一刀三礼(いっとうさんらい、一刀するごとに三度礼拝)しながら、高さ1mほどの本尊「薬師如来坐像」を彫り、 聖武天皇の勅許を受け一大精舎を建立し、名付けて 椣原山(しではらさん)「 金勝寺」と称し、また、 聖武天皇より賜った長谷試観世音菩薩像を携えて、これを安置する場所を求め、 山陽道を下り、和田岬まで来た時、異光を放つ処があったので、不思議に思い近づくと、地中より薬師如来が出現し、その地を有縁の地と定めて伽藍を創建し、薬師如来と携えて来た観世音菩薩像を共に祀ったのが 兵庫区 今出在家の「薬仙寺」です |
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749 |
カテゴリ: 日本の僧 | 飛鳥時代の人物 | 奈良時代の人物 | 東大寺 | 668年生 | 749年没 |
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749 |
行基は大僧正の号の上にさらに「大菩薩」の称号を与えられたが、彼は大仏開眼を見ることはなく |
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749 |
菅原寺( 奈良市)で没。彼が大野寺( 大阪府 堺市)に造った土塔は インドのストゥーパ(仏塔)に源流をもつ |
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749/2/2 |
夜、菅原寺(喜光寺)で数千のお弟子達に看取られながら、82歳で入寂し |
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749/2/2 |
菅原寺で81歳で入滅し、 生駒市の竹林寺に墓所がある。また、朝廷より菩薩の称号が下され、 行基菩薩と言われる |
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749/4/3 |
「竹林寺」の奥ノ院・「往生院」で「 行基忌」が行われ、何故か 鎌倉時代の「新勅撰(しんちょくせん)和歌集」に次の、 行基辞世の歌が載っています。 |
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749/4/3 |
後、大蛇が彼女に妻になることを要求して来たので、女が 行基菩薩に悩みを訴えると、 行基菩薩が、「 仏・法・僧の三宝を厚く信じなさい」と云われたので、約束の日に女が家に篭り、一心に三宝を敬いお祈りしていると、大蛇が屋根に穴を開けたのに、ドスンと落ちて来ました。よく見ると、大蛇に八匹の蟹が食いつき、八つ裂きにして、昔の恩返しをしました |
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749/4/8 |
遺言により生駒山東麓の「往生院」で火葬に付して、「 生馬寺(今の竹林寺)」に埋葬され、毎年 |
| 761 |
保良宮において 孝謙天皇(後の 称徳天皇)の病気を治して以後重んじられた。 藤原仲麻呂の乱の後 |
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| 763 |
少僧都に任じられ |
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| 765 |
太政大臣禅師 |
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| 765/11/30 |
法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進した。 |
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| 770 |
称徳天皇が病死するが、葬礼の後も僥倖を頼み 称徳天皇の御陵を守っていたが |
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| 770/8/21 |
造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没し庶人の待遇で葬られた。道鏡死去の報は |
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| 772 |
カテゴリ: 奈良時代の人物 | 日本の僧 | 河内国の人物 | 栃木県の歴史 | 弓削氏 | 772年没 |
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| 772/5/13 |
下野国から 光仁天皇に言上された。道鏡は長年の功労により刑罰を科されることは無かったが、親族(弓削浄人とその息子広方、広田、広津)4名が捕えられて 土佐国に流されている |
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| 772/5/13 |
奈良時代の法相宗の僧。物部氏の一族の弓削氏の出自で、弓削櫛麻呂の子[1] |
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