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道鏡(どうきょう)

 

吉備真備(きびのまきび)

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道鏡(どうきょう)と吉備真備(きびのまきび)に関する本・DVD

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道鏡   吉備真備
年月日 できごと   年月日 できごと
      716 下道真備は22歳のときに遣唐留学生となり情報源のサイトへ
      717 入唐した。帰路では種子島に漂着するが情報源のサイトへ
      730 称徳天皇孝謙天皇の重祚)と法王に就任した弓削道鏡の下で中納言となり、藤原真楯の薨逝で大納言となった後、右大臣に昇進して、左大臣の藤原永手とともに政治を執った(地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも、近世以前では、吉備真備と菅原道真のみである)。情報源のサイトへ
      731 大宰大弐(大宰府の次官)に昇任した。その後、暦学が認められ、儀鳳暦に替えて大衍暦が採用された情報源のサイトへ
733 看病禅師として内道場に出仕し、天平宝字5年情報源のサイトへ      
      735 多くの典籍を携えて帰国した。唐では儒学のほか、天文学や音楽、兵学などを学び、帰朝時には、経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦立成』12巻)、日時計(測影鉄尺)、楽器(銅律管、鉄如方響、写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、弓(絃纏漆角弓、馬上飲水漆角弓、面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻、平射箭10隻)などを献上し、『東観記』を持ち来たらした情報源のサイトへ
      736 造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京した。恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱を起こした際には、従三位に昇叙され、中衛大将として追討軍を指揮して乱鎮圧に功を挙げ(藤原仲麻呂の乱)情報源のサイトへ
      737 従五位に列せられた。情報源のサイトへ
      737 帰朝後は聖武天皇光明皇后の寵愛を得て、737年情報源のサイトへ
      738 橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると、同時に帰国した僧玄昉とともに重用され、真備右衛士督の役職を兼ねた。情報源のサイトへ
      740 真備と玄昉を除くのを名目に、大宰府で藤原広嗣が反乱を起こしている。情報源のサイトへ
      741 東宮学士として皇太子阿倍内親王(後の孝謙天皇称徳天皇)に『漢書』や『礼記』を教授した。その後情報源のサイトへ
      743 従四位下、春宮大夫兼皇太子学士情報源のサイトへ
      746 吉備朝臣の姓を賜り情報源のサイトへ
      747 右京大夫に転じて情報源のサイトへ
      749 従四位上に昇った。孝謙天皇即位後の情報源のサイトへ
      750 藤原仲麻呂が専権し、真備は、筑前守、肥前守に左遷されたが情報源のサイトへ
      751 遣唐副使となり情報源のサイトへ
      752 (天平勝情報源のサイトへ
      753 帰路で屋久島に漂着するが、鑑真を伴って無事に帰国している。情報源のサイトへ
      754 大宰少弐に昇任情報源のサイトへ
      756 新羅に対する防衛のため筑前に怡土城を築き情報源のサイトへ
      758 大宰府で唐での安禄山の乱に備えるよう勅を受け情報源のサイトへ
761 保良宮において孝謙天皇(後の称徳天皇)の病気を治して以後重んじられた。藤原仲麻呂の乱の後情報源のサイトへ      
763 少僧都に任じられ情報源のサイトへ      
765 太政大臣禅師情報源のサイトへ   765 勲二等を授けられた。情報源のサイトへ
765/11/30 法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進した。情報源のサイトへ      
770 称徳天皇が病死するが、葬礼の後も僥倖を頼み称徳天皇の御陵を守っていたが情報源のサイトへ   770 称徳天皇じた後には、後継の天皇候補として文室浄三および文室大市を推したが敗れ、「長生の弊、却りて此の恥に合ふ」と嘆息したという。ただし、この即位をめぐる話は『水鏡』など後世の史書や物語にしかみえておらず、『続本紀』には認められないので、後世の作り話ではないかと疑うひとも多い(瀧浪貞子など)情報源のサイトへ
770/8/21 造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没し庶人の待遇で葬られた。道鏡死去の報は情報源のサイトへ      
      771 再び辞職を願い出て許された。それ以後の生活については何も伝わっておらず情報源のサイトへ
772 カテゴリ: 奈良時代の人物 | 日本の僧 | 河内国の人物 | 栃木県の歴史 | 弓削氏 | 772年没情報源のサイトへ      
772/5/13 下野国から光仁天皇に言上された。道鏡は長年の功労により刑罰を科されることは無かったが、親族(弓削浄人とその息子広方、広田、広津)4名が捕えられて土佐国に流されている情報源のサイトへ      
772/5/13 奈良時代の法相宗の僧。物部氏の一族の弓削氏の出自で、弓削櫛麻呂の子[1]情報源のサイトへ      
      775 薨去した。情報源のサイトへ
      775 没 | 吉備情報源のサイトへ
      775/11/3 日本奈良時代の学者、政治家(公卿)。正二位・勲二等・右大臣情報源のサイトへ

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