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近衛文麿(このえふみまろ)
| 生没 | 1891年~1945年 | カテゴリ | 大正時代以降の人物 政治家・官僚 |
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| 主なできごと |
1891年 公爵近衛篤麿と旧加賀藩主で侯爵前田慶寧の三女... 1940年 大政翼賛会の発足式で「綱領も宣言も不要」と新... 1941年 独ソ戦が勃発、ドイツ・イタリアと三国同盟を結... 1945年 没 | 自殺した人物 1945年 GHQからの逮捕命令を聞いて、A級戦犯として... |
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| ライバルや仲間 |
吉田茂
木戸幸一 犬養毅 東條英機 伊藤博文 |
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| 年月日 | できごと | 写真 |
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| 1891 |
近衞 文麿(このえ ふみまろ、明治24年
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| 1891/10/12 |
公爵近衛篤麿と旧 |
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| 1898 |
勅令第258号))
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| 1904 |
篤麿は41歳の若さで死去。文麿は12歳にして襲爵し近衛家の当主となるが、父が残した多額の借金をも相続することになった
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| 1904 |
父の篤麿は |
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| 1914 |
第三次『新思潮』に、オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳し、「社会主義論」として発表した。しかし、これは発売頒布禁止処分となり、近衞は宮内省に呼ばれて厳重注意された
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| 1914 |
続いて |
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| 1916 |
満25歳に達したことにより公爵として世襲である貴族院議員になる。
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| 1918 |
雑誌『 |
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| 1919 |
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| 1921 |
演説で、統帥権によって将来軍部と政府が二元化しかねない危険性を説き、その後それは現実となったのだが、このような状況は |
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| 1927 |
旧態依然とした所属会派の研究会から離脱して木戸・徳川家達らとともに火曜会を結成して貴族院内に政治的な地盤を得るとともに、次第に西園寺から離れて院内革新勢力の中心人物となっていった。
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| 1927 |
その後、1927年
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| 1933 |
貴族院議長に就任。
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| 1933 |
近衛を中心に政策研究団体として昭和研究会が創設される。この研究会には後に |
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| 1936 |
開院式で勅語奉答文を読む(1936年)
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| 1936 |
二・ |
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| 1937 |
次女の温子(よしこ)は1937年
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| 1937/2/6 |
組閣の大命を拝命後、荻外荘で記者団の質問に答える近衞。各方面からの「近衞人気」を反映して、近衞への取材攻勢は並み大抵のものではなかった(1937年2月6日)。
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| 1937/4 |
当時まだ |
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| 1937/6/4 |
後方左は |
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| 1937/6/4 |
元老・西園寺の推薦の下で、各界の期待を背に第1次近衛内閣を組織した。その直後には、「国内各論の融和を図る」ことを大義名分として、治安維持法違反の共産党員や二・ |
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| 1937/7/7 |
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| 1937/7/11 |
現地の松井久太郎大佐( |
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| 1937/7/26 |
陸軍が要求していないにも拘らず、9,700万円余の第一次北支事変費予算案を閣議決定し
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| 1937/7/31 |
4億円超の第二次北支事変費予算を追加した。
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| 1937/8/2 |
増税案を発表。この間に宋子文を通じて和平工作を行い、近衞と蒋との間で |
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| 1937/8/8 |
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| 1937/8/9 |
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| 1937/8/15 |
海軍による |
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| 1937/9/2 |
「北支事変」という公式呼称を「支那事変」と変更を閣議決定し、戦域を拡大した。
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| 1937/9/10 |
臨時軍事費特別会計法が公布され、「支那事変」が |
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| 1937/12/13 |
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| 1938 |
(兼任)
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| 1938 |
宣伝絵葉書 上段の丸枠の写真は左からヒトラー |
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| 1938/1/11 |
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| 1938/1/14 |
和平交渉の打切りを閣議決定し
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| 1938/1/16 |
「爾後國民政府ヲ對手トセズ」の声明を国内外に発表し、講和の機会を閉ざした。更に、汪兆銘政権を樹立し、 |
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| 1938/5/5 |
支那事変のためとして、国家総動員法や電力国家管理法を成立させ、経済の戦時体制を導入し、 |
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| 1938/9/23 |
北部 |
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| 1938/9/27 |
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| 1939/1/5 |
内閣総辞職する。
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| 1939/8/23 |
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| 1940 |
(臨時代理)
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| 1940 |
(mp3ファイル)
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| 1940/1 |
他に日記(昭和十五年一月と
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| 1940/5/26 |
木戸幸一や有馬頼寧と共に、「新党樹立に関する覚書」を作成。再度、 |
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| 1940/6/24 |
「新体制声明」を発表している。
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| 1940/7/17 |
二度目の組閣の大命を拝命後、華族会館で記者団と会見する近衞。各方面から期待されていた再登板だけに100人以上記者が集まった(1940年7月17日)。
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| 1940/7/19 |
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| 1940/7/26 |
「基本国策要綱」を閣議決定し、「皇道の大精神に則りまづ日満支をその一環とする大 |
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| 1940/8 |
父が総理に返り咲いて間もなく、温子は腹膜炎をこじらせて小石川の細川邸で死去した。享年23、夫と父に看取られての最期だった
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| 1940/8/15 |
民政党の解散をもって、 |
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| 1940/10/12 |
大政翼賛会の発足式で「綱領も宣言も不要」と |
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| 1940/12 |
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| 1941 |
制定された国民学校令は、ナチス率いる当時の |
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| 1941 |
(兼任)
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| 1941/4/13 |
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| 1941/5 |
松平恒雄 - 佐藤尚武 - 河井彌八 - 松野鶴平 - 重宗雄三 - 河野謙三 - 安井謙 - 徳永正利 - 木村睦男 - 藤田正明 - 土屋義彦 - 長田裕二 - 原文兵衛 - 斎藤十朗 - 井上裕 - 倉田寛之 - 扇千景 - 江田五月
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| 1941/6/22 |
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| 1941/7/2 |
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| 1941/7/7 |
いわゆる関東軍特種演習を発動し、演習名目で兵力を動員し、 |
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| 1941/7/18 |
第3次近衛内閣を組織。これは、 |
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| 1941/7/18 |
内閣総辞職した。
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| 1941/7/23 |
すでに |
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| 1941/7/28 |
南部 |
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| 1941/8 |
麻生久を書記長とする社会大衆党を中心として、大 |
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| 1941/9 |
末に近衞から対 |
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| 1941/9 |
辞任した。
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| 1941/9/6 |
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| 1941/9/6 |
夜、近衞はようやく |
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| 1941/10 |
近衛内閣が総辞職すると、近衛文麿に替わって内閣総理大臣に就任しました(陸軍大臣、内務大臣を兼務)。東条内閣は、 |
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| 1941/10 |
上旬に区切り、この時までに要求が受け入れられない場合、 |
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| 1941/10/12 |
戦争の決断を迫られた近衞は豊田貞次郎外相、及川古志郎海相、 |
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| 1941/10/15 |
するよう要求した。外交期限の迫った
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| 1941/10/15 |
「 |
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| 1941/10/16 |
内閣を投げ出し
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| 1941/10/18 |
総辞職した。近衛と東條は、 |
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| 1941/12/8 |
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| 1942 |
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| 1943 |
から、近衞とそのグループは、やがて「近衛上奏文」につながる軍部赤化論や共産革命脅威論を唱え始める。発端は皇道派軍人の真崎甚三郎や小畑敏四郎たちであった
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| 1943/6/24 |
近衛文麿は、枢密院議長を辞任し、 |
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| 1943/7/19 |
近衛文麿は、 |
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| 1943/10/12 |
大政翼賛会の発会式が行われ、総裁に近衛文麿首相が就任されました。
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| 1944/6 |
終戦」のシナリオ』(毎日ワンズ
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| 1944/7/9 |
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| 1945 |
没 | 自殺した人物
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| 1945/2/14 |
近衞は |
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| 1945/8/15 |
ことだった。
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| 1945/8/15 |
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| 1945/8/17 |
二列目最右に国務相として入閣した近衞、その左に |
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| 1945/10/4 |
近衞は連合国軍総司令官 |
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| 1945/11/1 |
近衞の憲法改定にはGHQは関与しないとして、近衞を切り捨てた[要出典]。また近衞の責任追及も行われるようになり、砲艦に呼び出され軍部と政府の関係について質問があった
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| 1945/12/6 |
GHQからの逮捕命令を聞いて、A級戦犯として |
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| 1945/12/15 |
次男の近衛通隆に遺書を口述筆記させ、「自分は多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る」と言い残した[7]。
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| 1945/12/16 |
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| 1945/12/16 |
荻外荘で青酸カリを服毒して自殺した。 |
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| 1945/12/21 |
行なわれた。 墓は |
