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近衛文麿(このえふみまろ)

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近衛文麿(このえふみまろ)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1891 近衞 文麿(このえ ふみまろ、明治24年 情報源のサイトへ
1891/10/12 公爵近衛篤麿と旧加賀藩主で侯爵前田慶寧の三女・衍子の間の長男として、東京市麹町(現:千代田)で生まれた。その名は、長命であった祖父の忠煕による命名で、読みは「あやまろ」では語呂が悪いので「ふみまろ」とされた 情報源のサイトへ
1898 勅令第258号)) 情報源のサイトへ
1904 篤麿は41歳の若さで死去。文麿は12歳にして襲爵し近衛家の当主となるが、父が残した多額の借金をも相続することになった 情報源のサイトへ
1904 父の篤麿はアジア主義を唱え、東亜同文会を興すなど活発な政治活動を行っていた。ところが、1904年 情報源のサイトへ
1914 第三次『新思潮』に、オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳し、「社会主義論」として発表した。しかし、これは発売頒布禁止処分となり、近衞は宮内省に呼ばれて厳重注意された 情報源のサイトへ
1914 続いて東京帝国大学(戦後の東京大学)で哲学を学んだが飽き足らず、高名な経済学者であり、当時急速にマルクス経済学[4]に傾倒しつつあった河上肇に学ぶため、京都帝国大学(戦後の京都大学)法学部に転学した。在学中の1914年 情報源のサイトへ
1916 満25歳に達したことにより公爵として世襲である貴族院議員になる。 情報源のサイトへ
1918 雑誌『日本日本人』に論文「本位の平和主義を排す」を執筆。 情報源のサイトへ
1919 パリ講和会議には全権西園寺公望に随行し、見聞を広めた。 情報源のサイトへ /S058-001l.jpg /S058-001r.jpg /013.jpg /v02.jpg
1921 演説で、統帥権によって将来軍部と政府が二元化しかねない危険性を説き、その後それは現実となったのだが、このような状況はアメリカ側には理解し難い内容であった。しかし、昭和天皇への責任追及を避けるために、統帥権という語は口にできなかった 情報源のサイトへ /taisyo6.jpg /gaiyu.jpg
1927 旧態依然とした所属会派の研究会から離脱して木戸・徳川家達らとともに火曜会を結成して貴族院内に政治的な地盤を得るとともに、次第に西園寺から離れて院内革新勢力の中心人物となっていった。 情報源のサイトへ
1927 その後、1927年 情報源のサイトへ
1933 貴族院議長に就任。 情報源のサイトへ
1933 近衛を中心に政策研究団体として昭和研究会が創設される。この研究会には後にゾルゲ事件の首謀者として絞首刑に処せられた尾崎秀実も参加していた 情報源のサイトへ /06102_s.jpg /sorge_face.jpg
1936 開院式で勅語奉答文を読む(1936年) 情報源のサイトへ
1936 二・二六事件直後には岡田首相の後継として初めての大命降下があったが、この時は健康問題を理由に辞退している。辞退の真因に関しては各説あるが、近衞が親近感をもっていた陸軍皇道派の勢力が相沢事件とそれに続く二・二六事件により失墜していたことから、政権運営の困難を感じていたのではないかとの説がある 情報源のサイトへ /112786IMG1.jpg /9784480090171.jpg
1937 次女の温子(よしこ)は1937年 情報源のサイトへ
1937/2/6 組閣の大命を拝命後、荻外荘で記者団の質問に答える近衞。各方面からの「近衞人気」を反映して、近衞への取材攻勢は並み大抵のものではなかった(1937年2月6日)。 情報源のサイトへ
1937/4 当時まだ京都帝大在学中だった細川護貞と結婚した。その直後に父は総理となり、夫は総理秘書官となる 情報源のサイトへ
1937/6/4 後方左は米内海相、1937年6月4日) 情報源のサイトへ
1937/6/4 元老・西園寺の推薦の下で、各界の期待を背に第1次近衛内閣を組織した。その直後には、「国内各論の融和を図る」ことを大義名分として、治安維持法違反の共産党員や二・二六事件の逮捕・服役者を大赦しようと主張して、周囲を驚愕させた 情報源のサイトへ /112786IMG1.jpg /9784480090171.jpg
1937/7/7 盧溝橋事件をきっかけに戦争(支那事変)が勃発。 情報源のサイトへ /photo11.jpg /hoi2j2.jpg
1937/7/11 現地の松井久太郎大佐(北平特務機関長)と秦徳純(第二十九軍副軍長)との間で停戦協定が締結されたにもかかわらず、内地三個師団を派兵する「北支派兵声明」を発表。しかし、その後の国会では「事件不拡大」を言い続けた 情報源のサイトへ
1937/7/26 陸軍が要求していないにも拘らず、9,700万円余の第一次北支事変費予算案を閣議決定し 情報源のサイトへ
1937/7/31 4億円超の第二次北支事変費予算を追加した。 情報源のサイトへ
1937/8/2 増税案を発表。この間に宋子文を通じて和平工作を行い、近衞と蒋との間で合意が成立した 情報源のサイトへ /01698585.jpg /20080928006_DAT_20080928204659005.jpg
1937/8/8 支間の防共協定を目的とする要綱を取り決めた。 情報源のサイトへ
1937/8/9 上海で、蒋介石軍の挑発による上海事変が勃発。それに応じて 情報源のサイトへ
1937/8/15 海軍による南京に対する渡洋爆撃を実行し、同時に、「今や断乎たる措置をとる」の声明を発表。 情報源のサイトへ
1937/9/2 「北支事変」という公式呼称を「支那事変」と変更を閣議決定し、戦域を拡大した。 情報源のサイトへ
1937/9/10 臨時軍事費特別会計法が公布され、「支那事変」が戦争、戦争、第一次世界大戦と同列の戦争と決定され、不拡大派の石原莞爾参謀本部作戦部長が失脚。 情報源のサイトへ /boshin03.jpg /photo5.jpg
1937/12/13 南京攻略。 情報源のサイトへ
1938 (兼任) 情報源のサイトへ
1938 宣伝絵葉書 上段の丸枠の写真は左からヒトラー総統、近衞総理、ムッソリーニ首相 情報源のサイトへ
1938/1/11 御前会議で支那事変処理根本方針が決定され、ドイツの仲介による講和(トラウトマン工作)を求める方針だった。しかし 情報源のサイトへ /gozenkaigi.gif /a2.jpg
1938/1/14 和平交渉の打切りを閣議決定し 情報源のサイトへ
1938/1/16 「爾後國民政府ヲ對手トセズ」の声明を国内外に発表し、講和の機会を閉ざした。更に、汪兆銘政権を樹立し、石原莞爾らの独自和平工作を完全に阻止した 情報源のサイトへ
1938/5/5 支那事変のためとして、国家総動員法や電力国家管理法を成立させ、経済の戦時体制を導入し、日本の国家社会主義化が開始された。なお、国家総動員法や電力国家管理法は、ソ連の第一次五ヶ年計画の模倣である 情報源のサイトへ
1938/9/23 北部印進駐。 情報源のサイトへ
1938/9/27 三国軍事同盟を締結。 情報源のサイトへ
1939/1/5 内閣総辞職する。 情報源のサイトへ
1939/8/23 ソ不可侵条約が締結されると、防共を目的としたドイツとの同盟を模索していた平沼は衝撃を受け、「欧州の天地は複雑怪奇」という迷言を残して内閣総辞職した。その一週間後にはドイツポーランドに侵攻、これを受けてイギリスフランスドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦が始る 情報源のサイトへ /047_1.jpg
1940 (臨時代理) 情報源のサイトへ
1940 (mp3ファイル) 情報源のサイトへ
1940/1 他に日記(昭和十五年一月と 情報源のサイトへ
1940/5/26 木戸幸一や有馬頼寧と共に、「新党樹立に関する覚書」を作成。再度、ソ連共産党やナチ党をモデルにした独裁政党の結成を目指した 情報源のサイトへ
1940/6/24 「新体制声明」を発表している。 情報源のサイトへ
1940/7/17 二度目の組閣の大命を拝命後、華族会館で記者団と会見する近衞。各方面から期待されていた再登板だけに100人以上記者が集まった(1940年7月17日)。 情報源のサイトへ
1940/7/19 荻窪の私邸・荻外荘でいわゆる「荻窪会談」を行い、入閣することになっていた松岡洋右(外相)、吉田善吾(海相)、東條英機(陸相)と「東亜新秩序」の建設邁進で合意している。 情報源のサイトへ /Matsuoka_Yosuke.jpg /084_04_01.jpg
1940/7/26 「基本国策要綱」を閣議決定し、「皇道の大精神に則りまづ日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立をはかる」(松岡外相の談話)構想を発表。新体制運動を展開し、全政党を自主的に解散させ 情報源のサイトへ /kinrouhoushi.jpg /img4974bd5adfdaa.jpg
1940/8 父が総理に返り咲いて間もなく、温子は腹膜炎をこじらせて小石川の細川邸で死去した。享年23、夫と父に看取られての最期だった 情報源のサイトへ
1940/8/15 民政党の解散をもって、日本に政党が存在しなくなり、議会制民主主義は死を迎えた。 情報源のサイトへ
1940/10/12 大政翼賛会の発足式で「綱領も宣言も不要」と新体制運動を投げ出した。 情報源のサイトへ /20090124004_DAT_20090124205837001.jpg /01670606.jpg
1940/12 平沼騏一郎の入閣で、経済新体制確立要綱を骨抜きにさせて決着を図り、平沼らは更に経済新体制確立要綱の原案作成者たちを共産主義者として逮捕させ、岸信介も辞職した。この間、新体制推進派は閣僚を辞職し、平沼は大政翼賛会を公事結社と規定し、大政翼賛会の新体制推進派を辞職させた 情報源のサイトへ /kinrouhoushi.jpg /img4974bd5adfdaa.jpg
1941 制定された国民学校令は、ナチス率いる当時のドイツのフォルクスシューレを模倣した教育制度である。 情報源のサイトへ
1941 (兼任) 情報源のサイトへ
1941/4/13 ソ中立条約を締結。近衞らは諒解案による交渉を目指すも、この内容が三国同盟を骨抜きにする点に松岡洋右は反発し、松岡による修正案がアメリカに送られたが、アメリカは修正案を黙殺した 情報源のサイトへ /Matsuoka_Yosuke.jpg /p-158s2.jpg
1941/5 松平恒雄 - 佐藤尚武 - 河井彌八 - 松野鶴平 - 重宗雄三 - 河野謙三 - 安井謙 - 徳永正利 - 木村睦男 - 藤田正明 - 土屋義彦 - 長田裕二 - 原文兵衛 - 斎藤十朗 - 井上裕 - 倉田寛之 - 扇千景 - 江田五月 情報源のサイトへ
1941/6/22 ソ戦が勃発、ドイツイタリアと三国同盟を結んでいた日本は、ソ戦争にどう対応するか、御前会議にかける新たな国策が直ちに求められた。陸軍はソ戦争を、仮想敵国ソビエトに対し軍事行動をとる千載一遇のチャンスととらえた 情報源のサイトへ /img760DSWarHolocaust.jpg /IVCF-2017.jpg
1941/7/2 御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定された。この国策の骨格は海軍が主張した南方進出と、松岡外相と陸軍が主張した対ソ戦の準備という二正面での作戦展開にあった 情報源のサイトへ /gozenkaigi.gif /a2.jpg
1941/7/7 いわゆる関東軍特種演習を発動し、演習名目で兵力を動員し、ソ戦争の推移次第ではソビエトに攻め込むという作戦であった。一方南方に対しては 情報源のサイトへ /img760DSWarHolocaust.jpg /IVCF-2017.jpg
1941/7/18 第3次近衛内閣を組織。これは、アメリカの要求を飲んだかのように見せかけたもので、実際はもう既に足枷でしかなかった松岡洋右を更迭しただけで、殆ど変わっていないのが実情であった 情報源のサイトへ /Matsuoka_Yosuke.jpg /p-158s2.jpg
1941/7/18 内閣総辞職した。 情報源のサイトへ
1941/7/23 すでにドイツに降伏していたフランスのヴィシー政権からインドシナの権益を奪い 情報源のサイトへ
1941/7/28 南部印への進駐を行なったが、これはアメリカによる経済制裁を招く結果となる。アメリカでのの経済活動がすべてアメリカ政府の管理下に置かれ、そしての南部印の進駐を確認した上で、石油の対輸出が全面禁止された 情報源のサイトへ
1941/8 麻生久を書記長とする社会大衆党を中心として、大日本党の結成を目指したが、時期尚早とみて中止した。これは、大政翼賛会へと至る独裁政党への第一歩である 情報源のサイトへ
1941/9 末に近衞から対戦に対する海軍の見通しを訊かれた連合艦隊司令長官の山本五十六が、「是非やれと言われれば初めの半年や 情報源のサイトへ /05.jpg
1941/9 辞任した。 情報源のサイトへ
1941/9/6 御前会議では、「帝国国策遂行要領」を決定。アメリカイギリスに対する最低限の要求内容を定め、交渉期限を 情報源のサイトへ /gozenkaigi.gif /a2.jpg
1941/9/6 夜、近衞はようやく首脳会談による解決を決意し駐アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘のうちに会談し、危機打開のため首脳会談の早期実現を強く訴えた。事態を重く見たグルーは、その夜、直ちに首脳会談の早期実現を要請する電報を本国に打ち、国務省では首脳会談の検討が直ちに始まった 情報源のサイトへ /gozenkaigi.gif /a2.jpg
1941/10 近衛内閣が総辞職すると、近衛文麿に替わって内閣総理大臣に就任しました(陸軍大臣、内務大臣を兼務)。東条内閣は、交渉を継続しつつ、戦争の準備を進め、ついに 情報源のサイトへ
1941/10 上旬に区切り、この時までに要求が受け入れられない場合、アメリカオランダイギリスに対する開戦方針が定められた。 情報源のサイトへ
1941/10/12 戦争の決断を迫られた近衞は豊田貞次郎外相、及川古志郎海相、東條英機陸相、鈴木貞一企画院総裁を荻外荘に呼び、対戦争への対応を協議した。いわゆる「荻外荘会談」である 情報源のサイトへ /kishi.jpg /1941-10-18.jpg /P52004671.jpg /2001tero.jpe
1941/10/15 するよう要求した。外交期限の迫った 情報源のサイトへ
1941/10/15 荻外荘会談」などの特別な協議はもとより、時には定例会合の五相会議までをも荻外荘で開いており、大戦前夜の重要な国策の多くがここで決定されている。 情報源のサイトへ
1941/10/16 内閣を投げ出し 情報源のサイトへ
1941/10/18 総辞職した。近衛と東條は、東久邇宮稔彦王を次期首相に推すことで一致した、しかし、東久邇宮内閣案は皇族に累が及ぶことを懸念する木戸幸一内大臣らの運動で実現せず、東條が次期首相となった 情報源のサイトへ
1941/12/8 太平洋戦争(大東亜戦争)開始後は、共に軍部から危険視されていた元外務次官・駐大使の吉田茂と接近するようになる。 情報源のサイトへ /hoheisentokyoren.jpg /03.jpg
1942 シンガポール占領とミッドウェー海戦の大敗を好期と見た吉田は、近衞をスイスに派遣し、との交渉を行うことを持ちかけ、近衞も乗り気になったため、この案を木戸幸一に伝えるが、木戸が握り潰してしまった。近衞に注意すべきとの東條の意向に従ったものとされる 情報源のサイトへ
1943 から、近衞とそのグループは、やがて「近衛上奏文」につながる軍部赤化論や共産革命脅威論を唱え始める。発端は皇道派軍人の真崎甚三郎や小畑敏四郎たちであった 情報源のサイトへ
1943/6/24 近衛文麿は、枢密院議長を辞任し、新体制運動推進の決意を表明しました。 情報源のサイトへ /kinrouhoushi.jpg /img4974bd5adfdaa.jpg
1943/7/19 近衛文麿は、松岡洋右・東条英機・吉田善吾の首相・外相・陸相・海相候補と会合し、国策を協議しました。これを荻窪会談といいます 情報源のサイトへ
1943/10/12 大政翼賛会の発会式が行われ、総裁に近衛文麿首相が就任されました。 情報源のサイトへ
1944/6 終戦」のシナリオ』(毎日ワンズ  情報源のサイトへ
1944/7/9 サイパン島陥落に伴い、東條内閣に対する退陣要求が強まったが、その際には「このまま東條に政権を担当させておくほうが良い。戦局は、誰に代わっても好転することはないのだから、最後まで全責任を負わせるようにしたらよい」と述べ、敗戦を見越したうえで、天皇に戦争責任が及びにくくする様に考えていた 情報源のサイトへ
1945 没 | 自殺した人物 情報源のサイトへ /28g81.jpg /15summit3.jpg
1945/2/14 近衞は昭和天皇に対して、国体護持のための早期和平を主張する「近衛上奏文」を奏上した。そして、その目的のために軍部の粛清を求めたが昭和天皇に却下された 情報源のサイトへ /a2.jpg /mai20050815_04.jpg
1945/8/15 ことだった。 情報源のサイトへ
1945/8/15 太平洋戦争が終結すると東久邇宮内閣で近衞は国務大臣を務めた。 情報源のサイトへ /hoheisentokyoren.jpg /03.jpg
1945/8/17 二列目最右に国務相として入閣した近衞、その左に米内海相(1945年8月17日) 情報源のサイトへ
1945/10/4 近衞は連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーを訪ね、持論の軍部赤化論を説いて、開戦時には天皇を中心とした封建勢力や財閥はブレーキの役割を果たした、と主張し、皇室と財閥を除けば日本はたちまち赤化すると説いた。マッカーサー、サザーランド参謀長およびアチソンGHQ政治顧問はこれに肯き、近衞に憲法改定を託した[要出典] 情報源のサイトへ /Douglas_MacArthur.jpg /0830-01.jpg /20050407105250.jpg
1945/11/1 近衞の憲法改定にはGHQは関与しないとして、近衞を切り捨てた[要出典]。また近衞の責任追及も行われるようになり、砲艦に呼び出され軍部と政府の関係について質問があった 情報源のサイトへ
1945/12/6 GHQからの逮捕命令を聞いて、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることを知った。巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限情報源のサイトへ /4198620229.jpg
1945/12/15 次男の近衛通隆に遺書を口述筆記させ、「自分は多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る」と言い残した[7]。 情報源のサイトへ
1945/12/16 日本の政治家。第5代貴族院議長 情報源のサイトへ
1945/12/16 荻外荘で青酸カリを服毒して自殺した。昭和天皇に戦争責任が及ばないようにという、皇室の藩籬として、そして五摂家筆頭としての自覚[6]が促した、苦渋の選択だったという[要出典] 情報源のサイトへ /a2.jpg /mai20050815_04.jpg
1945/12/21 行なわれた。 墓は京都市の大徳寺にある 情報源のサイトへ

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