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足利義輝(あしかがよしてる)

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年月日 できごと 写真
1546 足利義輝、室町幕府十三代将軍に就任する北条氏康、上杉憲政・上杉定・足利晴氏連合軍を川越に夜襲して大勝武田勝頼  情報源のサイトへ /spc_blue.jpg /middle_1195819632.jpg
1546 (天文15)に管領・細川晴元(1514-1563)との戦いに敗れた12代将軍・足利義晴(在位1521-1546)は、13代将軍・足利義輝(在位1536-1565)に譲位して近江坂本に落ちますが、その後に晴元と和解して京都に帰還します。しかし 情報源のサイトへ /yositeru.jpg
1546/11 奈良天皇(六角定頼 ・義賢父子)足利義輝晴元、六角定頼  情報源のサイトへ /7d39080b3b120f139.jpg /fuku_2.jpg
1546/12 義輝はわずか11歳にして、父から将軍職を譲られる。このときの将軍就任式は亡命先の近江坂本で行なわれ、元服時の烏帽子親は六角定頼が務めた(初名・義藤) 情報源のサイトへ
1548 義晴は細川晴元と和睦してに戻った。このとき晴元も義輝の将軍就任を承諾している 情報源のサイトへ
1549/6 奈良天皇三好長慶(足利義輝)(細川氏綱)義輝と晴元は近江情報源のサイトへ /spot20_01.jpg /p06.jpg /p07.jpg /zyunkei.jpg
1550 このため、足利義晴・義輝父子は細川晴元とともに京都を再び追われて近江に逃亡した。そしてその最中の天文19年 情報源のサイトへ
1551/3 近江国朽木 (滋賀県高島郡朽木村) にいた足利義輝は三好長慶遊佐長教に刺客を送ります。 情報源のサイトへ
1552 細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶と和睦し、京に戻った。 情報源のサイトへ
1552/1 奈良天皇三好長慶足利義輝細川氏綱義輝京都へ帰る 情報源のサイトへ
1552/1 義輝と和睦し、将軍御供衆となる。 情報源のサイトへ
1552/10 足利義輝は霊山城 (京都府上京区) を造りそちらへ移動。 情報源のサイトへ
1553 長慶が将軍足利義輝を追放し京都を掌握してからは家宰として台頭。 情報源のサイトへ
1553/7 足利義輝は翻意し細川晴元軍と組み三好長慶軍団と洛中で睨み合い。 情報源のサイトへ
1554 大友氏から鉄砲と火薬の秘伝書(『鉄放薬方并調合次第』)を手に入れたり 情報源のサイトへ
1557/10 正親町天皇三好長慶(足利義輝)細川氏綱正親町帝践祚 情報源のサイトへ /121.jpg /2_5.jpg
1558 長慶と和睦してに戻る。ところがその直後、再び長慶と戦う 情報源のサイトへ
1558 13代将軍・足利義輝が京都に帰還することになります。近江六角氏の六角承禎(六角義賢)は将軍・足利義輝を支援して戦いましたが 情報源のサイトへ /yositeru3.jpg
1558/5 足利義輝が六角義賢の援助の下、朽木から坂本 (滋賀県大津市) へ移動し、京を伺う。 情報源のサイトへ
1558/6 北白川、如意岳 (京都府左京区鹿ケ谷) での戦い。 情報源のサイトへ
1558/6 京都勝軍山に城を築き足利義輝の入洛を阻止した為 情報源のサイトへ
1558/11 足利義輝も三好長慶と和睦。5年ぶりに足利義輝幕府の再興 情報源のサイトへ /yositeru3.jpg
1558/11/30 岩倉城の織田信安を追放し尾張をほぼ手中に 情報源のサイトへ
1558/12 正親町天皇三好長慶足利義輝細川氏綱義輝京都へ帰る 情報源のサイトへ /yositeru3.jpg
1560 ガスパル・ヴィレラにキリスト教の布教を許すなど、新しい物に目敏かったようだ。ただし、これも直前に三好氏がその領国内においてキリスト教の布教の自由を認めていた事に留意すべきである 情報源のサイトへ
1560 などの戦国大名どうしの抗争の調停を頻繁に行なって、諸大名に将軍の存在を知らしめたのである。 情報源のサイトへ
1561/3 三好長慶は足利義輝将軍を自邸に招き、饗応する。 情報源のサイトへ /kazumasa.jpg
1562/3 和泉国久米田 (大阪府岸和田市) の戦いで三好義賢が敗死。足利義輝は男山京都府八幡市) に避難 情報源のサイトへ
1562/6 足利義輝は帰京。 情報源のサイトへ
1564 長慶自身が病死したことをうけ政敵が消滅した義輝は、いよいよ幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。 情報源のサイトへ
1564/3 足利義輝は相の和を企図。 *相の和は後国の上杉氏と相模国の北条氏との同盟(アライアンス) 情報源のサイトへ
1564/11/30 将軍 足利義輝が京都室町進邸にて松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)に殺害さ 情報源のサイトへ /sandou.jpg /ishidan.jpg /senkoji4.jpg /takeda_haka.jpg
1565 正親町天皇は京都からイエズス会を追放するよう命令したが、義輝はこの命令を無視した[1]。 情報源のサイトへ
1565/5 雨は か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで 情報源のサイトへ
1565/5/1 13代将軍・足利義輝から『義』の字を偏諱されて『義重』と改名し義輝の奏請で左京大夫へと昇進するのですが、松永久秀と三好三人衆の傀儡であった三好義重(義継)は松永久通(ひさみち,1543-1577)と共に将軍・義輝の居館を襲撃します。 情報源のサイトへ /61.jpg /todaiji320a.jpg
1565/5/19 昼間に、三好義継と松永久通は約1万の軍勢で将軍・足利義輝の居る二条御所を包囲して襲撃し、義輝は奮闘も虚しく殺害されました。足利義輝は上泉信綱(かみいずみのぶつな,1508-1577)に剣術の指導を受け、塚原卜伝(つかはらぼくでん,1489-1571)に奥義の伝授を受けた将軍であり、『剣豪』『剣聖将軍』と呼ばれることもあります 情報源のサイトへ

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