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年表トップ > 足利義昭と織田信長の年表を比べる

ウェブサイト上の情報を調べて見出し情報をまとめた検索結果ページです。事実が正確に並べられた年表ではありませんのでご注意下さい。

足利義昭(あしかがよしあき)

 

織田信長(おだのぶなが)

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織田信長(おだのぶなが)に関する本・DVD

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足利義昭   織田信長
年月日 できごと   年月日 できごと
      1534/5/12 織田信長(おだ のぶなが:天文3年5月12日[情報源のサイトへ
      1534/5/28 尾張の戦国大名織田信秀の嫡男として生まれる。若い頃は型破りな服装でふらふら街を闊歩し「大うつけ」と周囲にいわれていたようだ情報源のサイトへ
      1535 古渡城主。情報源のサイトへ
      1536 愛知県の大名の織田信秀(おだ のぶひで)での子として生まれる。情報源のサイトへ
1537/11/13 第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。兄に嗣子である義輝がいたため、幼くして外祖父・近衛尚通の猶子となって仏門(興福寺の一乗院門跡)に入り、覚慶と名乗った情報源のサイトへ      
      1538 北ノ庄城落城の際に自害。37歳情報源のサイトへ
      1539 (6歳)那古野城(後の名古屋城)を与えられる。情報源のサイトへ
      1540 三河の安祥城奪取。情報源のサイトへ
      1541 伊勢神宮造営の費用を献じ「三河守」任官。1542「小豆坂の合戦」に勝利情報源のサイトへ
      1542 「小豆坂の合戦」に従軍。美濃国境との領主で、岩倉織田家に属す情報源のサイトへ
      1543 鉄砲が伝来したということで歴史的重要性をもつが、それだけでなく情報源のサイトへ
      1543/5 内裏修理費用4000貫を献じる。情報源のサイトへ
      1544 「美濃出兵」に従軍戦死。織田信友は息子情報源のサイトへ
      1544 朝倉と結び美濃乱入するが敗北。情報源のサイトへ
1546 (天文15)に管領・細川晴元(1514-1563)との戦いに敗れた12代将軍・足利義晴(在位1521-1546)は、13代将軍・足利義輝(在位1536-1565)に譲位して近江坂本に落ちますが、その後に晴元と和解して京都に帰還します。しかし情報源のサイトへ   1546 (天文15)に管領・細川晴元(1514-1563)との戦いに敗れた12代将軍・足利義晴(在位1521-1546)は、13代将軍・足利義輝(在位1536-1565)に譲位して近江坂本に落ちますが、その後に晴元と和解して京都に帰還します。しかし情報源のサイトへ
1546 足利義輝情報源のサイトへ      
      1547 吉良大浜初陣。情報源のサイトへ
      1547 再び斉藤秀龍に敗北(加納口の合戦)。情報源のサイトへ
      1547 美濃国出征中の織田信秀の虚をついて坂井大膳と挙兵、古渡城を攻囲するが、平手政秀の才覚により和睦。情報源のサイトへ
      1547/11/30 老臣・平手の才覚で、濃姫と嫡男・信長が婚姻。情報源のサイトへ
1548 結婚して尾張と美濃の同盟を実現していましたが情報源のサイトへ   1548 (15歳)情報源のサイトへ
      1548 平手政秀の才覚により斉藤秀龍娘婿となる。情報源のサイトへ
      1548 第2次「小豆坂の合戦」小豆坂七本槍のひとり。信長に協力し清洲城を奪取情報源のサイトへ
      1548/11/30 フランシスコ・ザビエルにより、初めてキリスト教が日本に伝来する。情報源のサイトへ
1549 織田信秀との人質交換によって松平広忠の子・竹千代(松平元康・徳川家康)を人質にしていました。甲駿相三国同盟(武田氏・今川氏・北条氏の同盟)を結んで後方の守備を固めた今川義元は、駿河・三河から更に信長の支配する尾張へと進出し始めることになり義元と信長の正面衝突の時が迫っていました情報源のサイトへ   1549 織田信秀との人質交換によって松平広忠の子・竹千代(松平元康・徳川家康)を人質にしていました。甲駿相三国同盟(武田氏・今川氏・北条氏の同盟)を結んで後方の守備を固めた今川義元は、駿河・三河から更に信長の支配する尾張へと進出し始めることになり義元と信長の正面衝突の時が迫っていました情報源のサイトへ
1549 (天文18)に、管領・細川晴元が家臣の三好長慶との戦いに江口の戦いで敗れたことで、足利義晴と義輝は近江朽木谷(くちきがたに)に亡命を余儀なくされました。情報源のサイトへ   1549 (天文18)に、管領・細川晴元が家臣の三好長慶との戦いに江口の戦いで敗れたことで、足利義晴と義輝は近江朽木谷(くちきがたに)に亡命を余儀なくされました。情報源のサイトへ
      1549 (異説では情報源のサイトへ
      1549 六角定頼が石寺新市に初めて下した楽市令に倣い城下町加納に楽市楽座令を施行する一方、妹の市姫(小谷ノ方)を浅井長政に嫁がせた他、この頃から「天下布武」の印章を使用し始めた。やがて正親町天皇の上洛要請を受諾した織田信長は情報源のサイトへ
1551 家督を継いだ織田信長を待っていたのは同母弟・織田信勝(織田信行,1536-1557)との家督争いでした。信勝との家督相続争いに勝利した信長の喫緊の課題は『尾張の統一』であり、周辺隣国である美濃や三河、駿河への勢力拡大でしたが、重臣の平手政秀が情報源のサイトへ   1551 家督を継いだ織田信長を待っていたのは同母弟・織田信勝(織田信行,1536-1557)との家督争いでした。信勝との家督相続争いに勝利した信長の喫緊の課題は『尾張の統一』であり、周辺隣国である美濃や三河、駿河への勢力拡大でしたが、重臣の平手政秀が情報源のサイトへ
1551 (天文20)情報源のサイトへ   1551 (天文20)情報源のサイトへ
1551/3/3 病死した時にも、父の葬儀の席に儀礼を無視した突飛なザンバラ髪(茶筅巻き)と袴をつけない格好をして現れ、位牌に向かって抹香(灰)を投げつけてそのまま帰ったという逸話が残っています。信長の祖先は『信秀→信定→良信』まで遡ることができますが、本貫(本拠地)は越前の織田荘(現福井県丹生郡織田町)であり織田剣神社(おたつるぎじんじゃ)の神官の出自ではないかと言われています情報源のサイトへ   1551/3/3 病死した時にも、父の葬儀の席に儀礼を無視した突飛なザンバラ髪(茶筅巻き)と袴をつけない格好をして現れ、位牌に向かって抹香(灰)を投げつけてそのまま帰ったという逸話が残っています。信長の祖先は『信秀→信定→良信』まで遡ることができますが、本貫(本拠地)は越前の織田荘(現福井県丹生郡織田町)であり織田剣神社(おたつるぎじんじゃ)の神官の出自ではないかと言われています情報源のサイトへ
      1552 松葉城攻略。織田信光小姓、赤瀬清六に切り負け退却情報源のサイトへ
      1552 北守護代織田家の家老・坂井大膳の襲撃を受け、取込められる。<犬山・織田信清の息・右衛門佐「木曽町史」と関連アリカ情報源のサイトへ
      1552 坂井大膳ら清洲衆の急襲にあい取込められる。<信長から離反したとも情報源のサイトへ
      1552 再び家老・坂井大膳と謀り、弾正忠派を攻撃する。情報源のサイトへ
      1552/10 家督を継承した信長から尾張中村の三郷を安堵される。情報源のサイトへ
1553 信長の奇行や無頼を批判して諫死します(政秀の自害の理由には諸説あります)。情報源のサイトへ   1553 (天文情報源のサイトへ
      1553 (20歳)情報源のサイトへ
      1553  尾張の大うつけ〜織田信長1553年情報源のサイトへ
      1553/1 朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前で地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の前波(桂田長俊)が一乗谷で攻め殺される。それに呼応する形で、甲斐の武田勝頼が東美濃に侵攻情報源のサイトへ
      1553/1 信長に誼を通じていた丹波の波多野秀治が叛旗を翻し、石山本願寺も再挙兵。情報源のサイトへ
      1553/1 信長率いる織田軍主力が美濃に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら美濃浪人衆が共謀し、足利義昭の御所である六条本国寺を攻撃(六条合戦)。信長は豪雪が降る中をわずか2日で援軍に駆けつけるという神速の速さを見せたと言われているが、到着前に浅井長政の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は敗退情報源のサイトへ
      1553/2 三河野田城を攻略。信玄の上洛に呼応する形で、将軍・足利義昭が三好義継・松永久秀らと協力して挙兵に及ぶ情報源のサイトへ
      1553/2 紀州雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣。情報源のサイトへ
      1553/3 雑賀衆の頭領・雑賀孫一を形式上降伏させ、紀伊から撤兵。柴田勝家を総大将とした3万を前軍、自らが率いる本隊1万8000人を後軍として出陣情報源のサイトへ
      1553/3/11 甲斐東部の田野において武田勝頼・信勝親子を討ち取り、武田氏は滅亡。情報源のサイトへ
      1553/3/13 上杉謙信が急死。謙信には実子がいなかったため、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継ぎ争いを始め、この間織田軍は上杉領の能登、加賀を攻略情報源のサイトへ
1553/4 織田信長と舅の斉藤道三との会見が聖徳寺で成立し、信長の才覚と胆力を見抜いた道三は『自分の子孫はたわけ(信長)の門外に馬をつなぐことになるだろう(降参して支配されるだろう)』と感想を述べており、道三と子の斎藤義龍(よしたつ,1527-1561)との対立が明らかになってくると美濃を信長に譲ることも考えていたようです。この時期の織田信長の最大の敵対勢力は、尾張と国境を接している駿河(するが)の戦国大名で飛ぶ鳥を落とす勢いを誇っていた今川義元(いまがわよしもと,1519-1560)でした情報源のサイトへ   1553/4 明智光秀や荒木村重、原田直政を大将とした3万の軍勢を大坂に派遣するが、葦原の戦いで大敗、原田直政をはじめ1000人以上が戦死。情報源のサイトへ
      1553/4 織田信長と舅の斉藤道三との会見が聖徳寺で成立し、信長の才覚と胆力を見抜いた道三は『自分の子孫はたわけ(信長)の門外に馬をつなぐことになるだろう(降参して支配されるだろう)』と感想を述べており、道三と子の斎藤義龍(よしたつ,1527-1561)との対立が明らかになってくると美濃を信長に譲ることも考えていたようです。この時期の織田信長の最大の敵対勢力は、尾張と国境を接している駿河(するが)の戦国大名で飛ぶ鳥を落とす勢いを誇っていた今川義元(いまがわよしもと,1519-1560)でした情報源のサイトへ
      1553/4 武田勝頼は信玄の死後、武田氏を裏切って徳川家康の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5000の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せる。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る情報源のサイトへ
      1553/4 本願寺と正親町天皇の勅命のもと有利な条件で和睦し、大坂から退去させる。情報源のサイトへ
      1553/4 義父の斎藤道三が嫡男の斎藤義龍との戦いに敗れて死去。情報源のサイトへ
      1553/4 信長は度重なる上洛命令を無視する越前の朝倉義景を討伐するため、浅井との盟約を反故にし、盟友の徳川家康軍と共に越前へ進軍を開始。織田・徳川連合軍は朝倉方の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎へ進軍したところで、北近江の盟友であった浅井長政に、織田・徳川連合軍は背後を突かれる形となる情報源のサイトへ
      1553/5 足利将軍家の庶流である駿河の戦国大名・今川義元が2万とも4万とも号する大軍を率いて尾張へ侵攻。織田軍はこれに対して防戦するが、総兵力は5000人情報源のサイトへ
      1553/5/5 信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3000人ほど。しかし信長は情報源のサイトへ
      1553/5/7 早朝、その3000人の軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する石山勢1万5000人に攻め入った(天王寺砦の戦い)。信長自身も負傷する激戦となったが、信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は石山勢の撃破に成功情報源のサイトへ
      1553/5/17 三河の野田徳川家康軍8000と合流。情報源のサイトへ
      1553/5/19 深夜、幸若舞『敦盛』を舞った後、装具を身に付け出陣し、まず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で約4000人の軍勢を整えて出撃、今川軍の陣中に強襲をかけ、当時、最も天下に近い人間といわれていた今川義元を討ち取る(桶狭間の戦い情報源のサイトへ
      1553/5/21 織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。この戦いで、信長は鉄砲隊を3つに分け、鉄砲の弾込めによるタイムロスをなくす三段撃ち戦法を使ったとされ、武田軍に圧勝情報源のサイトへ
      1553/6 近江国姉川河原徳川家康軍と共に浅井・朝倉連合軍と戦う(姉川の戦い)。浅井方の先鋒・磯野員昌に15段の備えの内13段まで破られるなど苦戦するが、遂に浅井・朝倉連合軍を破る情報源のサイトへ
      1553/6/2 秀吉への援軍を命じていたはずの明智光秀軍が突然京に現れ、信長のいる本能寺を急襲。信長は燃え盛る炎の中で自害したといわれている(本能寺の変)情報源のサイトへ
      1553/7 叛旗を翻して二条城や槙島城に立て籠もっていた足利義昭を破って京都から追放し、室町時代を終らせる。情報源のサイトへ
      1553/7 信長は3万の大軍を率いて伊勢長島を水陸から完全に包囲、兵糧攻めに追い込む。情報源のサイトへ
      1553/7/30 までには尾張国内の支配権を確立。情報源のサイトへ
      1553/8 信長は細川藤孝に命じ、淀城に立て籠もっていた三好三人衆の一人・岩成友通を討伐。情報源のサイトへ
      1553/8 信長は3万の軍勢を率いて越前に行軍、刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉氏を攻略し、返す刀で小谷城を攻略して浅井久政・長政父子を討ち取り浅井氏に勝利。情報源のサイトへ
      1553/9 何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにする。情報源のサイトへ
      1553/9 信長は天下布武への大義名分として第15代将軍に足利義昭を奉戴し、上洛を開始。このとき信長は義昭から副将軍の地位を勧められたが、信長は既に将軍家を見切っており謝絶情報源のサイトへ
      1553/9/15 七尾城は落城し情報源のサイトへ
      1553/9/23 未明に急ぎ本隊を摂津から近江に戻すという神速とも言えるスピードで帰還。慌てた浅井長政朝倉義景らは比叡山に立て籠もって抵抗するが、これに対して信長は近江国志賀において浅井・朝倉連合軍と対峙(志賀の陣)情報源のサイトへ
      1553/9/24 信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、長島の一向一揆による抵抗も激しく、長期戦を嫌った信長は情報源のサイトへ
      1553/9/29 兵糧に欠乏した長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去することを信長に申し出る。信長は了承するが、一揆衆の退去する動きが遅いとして船で移動する門徒に一斉射撃を浴びせることで攻略情報源のサイトへ
      1553/10/25 撤退を開始。情報源のサイトへ
      1553/11 河内の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こし、信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内に送り込む。信長の実力を恐れた義継の三家老らによる裏切りで義継は情報源のサイトへ
      1553/11/7 右近衛大将に叙任する。情報源のサイトへ
      1553/11/16 自害、三好氏もここに滅亡。情報源のサイトへ
      1553/11/28 信長は嫡男・織田信忠に織田家の家督、並びに美濃・尾張などの領地を譲って建前上隠居。情報源のサイトへ
      1553/12/13 信長は正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、浅井・朝倉軍と和睦することに成功。情報源のサイトへ
      1554 斯波義統を殺害。清洲城主情報源のサイトへ
      1555 斯波義統の仇討ちに、柴田勝家に従軍。清洲城下で「安食の合戦(中市場合戦)」織田三位を討ち取る功名情報源のサイトへ
      1555 で計算してます(555=ファイズだw)。情報源のサイトへ
      1555 出奔した叔父・信次の跡の守山城主となる。家臣に謀反される情報源のサイトへ
      1555 清洲城下で柴田勝家と戦う。彼が戦死したため、家督は川尻秀隆が継承する情報源のサイトへ
      1555 斎藤道三と息子・義龍との争いに美濃侍・柴田角内がでてきますが在命、別人? 尾張清洲衆が美濃に流れるパターンがあるのかなあ・・・)。情報源のサイトへ
      1555 「安食の合戦」に斯波家家臣、由宇喜一に討たれる。<信長様に兵法を伝授した平田三位のことだったら、ドラマなんですけど情報源のサイトへ
      1555 (22歳)情報源のサイトへ
      1555 家臣・坂井孫八郎に暗殺される。<犬山に比べて比較的に弾正忠本家に忠実に活躍情報源のサイトへ
      1555 父の死後家督、尾張国小幡城主情報源のサイトへ
      1555/11/30 織田信長の実弟、『信行』を擁して柴田勝家・林秀貞らが兵を挙げて情報源のサイトへ
      1556 「稲生の合戦」に織田信長軍に敗北し降服。再び叛意を抱いた信勝に疑念を持ち兄・信長に謀反を密告する情報源のサイトへ
      1556 (23歳)情報源のサイトへ
      1556 織田信長の馬衆として、織田信勝を擁立する柴田・林軍に対して奮戦する。<何系の人なのでしょう、気になる情報源のサイトへ
      1556 息・織田信賢に追放される。美濃白金に隠居情報源のサイトへ
      1556 長良川の合戦」に義父・秀龍が義龍に討たれる。情報源のサイトへ
1556/4 義龍と戦って討死しますが、道三の死後には今川義元の侵略の気運が強まり、尾張国内でも信長を追い落とそうとする織田信行・柴田勝家・林通勝・林美作守(林通勝の弟)のクーデターが起こります。信長は信行派(信勝派)のクーデターを鎮圧して尾張の統一を成し遂げますが、弟の織田信行を裏切って信長に密告して手助けした柴田勝家(しばたかついえ,1522-1583)と林通勝(はやしみちかつ,生年不詳-1580)は『返り忠(かえりちゅう)』によって謀反の罪を許され、『信長の家臣団』の結束と忠誠がより強固に固められました情報源のサイトへ   1556/4 義龍と戦って討死しますが、道三の死後には今川義元の侵略の気運が強まり、尾張国内でも信長を追い落とそうとする織田信行・柴田勝家・林通勝・林美作守(林通勝の弟)のクーデターが起こります。信長は信行派(信勝派)のクーデターを鎮圧して尾張の統一を成し遂げますが、弟の織田信行を裏切って信長に密告して手助けした柴田勝家(しばたかついえ,1522-1583)と林通勝(はやしみちかつ,生年不詳-1580)は『返り忠(かえりちゅう)』によって謀反の罪を許され、『信長の家臣団』の結束と忠誠がより強固に固められました情報源のサイトへ
      1556/9/25 通勝・勝家を赦免する。【織田信長辞典】情報源のサイトへ
      1557 しかし、弘治3年情報源のサイトへ
      1557 清洲城中にて誅殺され家臣団解体。<信長の弟・信勝が「達成」と名乗っているのですが、一時的にでも守護代・達勝の養子となって、兄の信長よりも主筋として自覚することがあったりしてないでしょうか・・(妄想)情報源のサイトへ
      1557 林通勝(林秀貞)・林光春・柴田勝家らが織田信長の廃嫡と弟の織田信行の擁立を企てた。こうして発生した稲生合戦は織田信長の勝利に終り、許された織田信行は再度謀叛したため殺害された情報源のサイトへ
      1557 すれば信雄・信孝・信澄とも年齢は殆ど変らないわけで、それでも嫡男として、評価されている訳ですからキラリとした何かが備わっていたと推測されます。側室に稲葉氏(秀信の母)がいるとも情報源のサイトへ
1558 13代将軍・足利義輝京都に帰還することになります。近江六角氏の六角承禎(六角義賢)は将軍・足利義輝を支援して戦いましたが情報源のサイトへ   1558 浮野の合戦」に、橋本一巴と一騎打ち、負傷し佐脇良之に討たれる。<林(稲葉・一柳)家は武者奉行を務める家柄として、各地に勢力を植えつけていってたのでしょうか・・(妄想)情報源のサイトへ
      1558 浮野の合戦」に戦死。情報源のサイトへ
      1558 浮野の合戦」に従軍。情報源のサイトへ
      1558 暗殺された為、柴田勝家の元で養育される。越前一向一揆征伐に参陣情報源のサイトへ
      1558 13代将軍・足利義輝京都に帰還することになります。近江六角氏の六角承禎(六角義賢)は将軍・足利義輝を支援して戦いましたが情報源のサイトへ
      1558 美濃国斉藤義龍と謀り織田信長を攻撃。情報源のサイトへ
      1558/7 第二次「浮野の合戦」信賢勢(2000兵)、犬山信清の加勢を得た織田信長勢(3500兵)に敗れる。情報源のサイトへ
      1559 信長軍の攻勢により岩倉城から退去。情報源のサイトへ
      1559 落城し美濃へ落ち延びるという。情報源のサイトへ
1559/2 織田信長上洛し情報源のサイトへ   1559/2 織田信長が80人程度の伴を連れて初の京都上洛を果たし、奇抜な装束と豪胆な振る舞いによって京童(きょうわらわ)の耳目を驚かせたといいます。情報源のサイトへ
1559/2 織田信長が80人程度の伴を連れて初の京都上洛を果たし、奇抜な装束と豪胆な振る舞いによって京童(きょうわらわ)の耳目を驚かせたといいます。情報源のサイトへ   1559/2 織田信長上洛し情報源のサイトへ
1559/4 越後の上杉政虎(上杉謙信)が上洛して義輝に忠誠を誓い『上杉輝虎(てるとら)』と改名しています。情報源のサイトへ   1559/4 越後の上杉政虎(上杉謙信)が上洛して義輝に忠誠を誓い『上杉輝虎(てるとら)』と改名しています。情報源のサイトへ
1560 で衝突することになります。義元の攻撃の知らせを聞いた信長は、いつも好んで舞っていた幸若舞(こうわかまい)の『敦盛(あつもり)』を舞って、『人間情報源のサイトへ   1560 三好長慶は御相伴衆(ごしょうばんしゅう)と修理大夫(しゅりだいふ)に任命されて管領・細川晴元に次ぐ幕政ナンバー2の公的地位を手に入れますが情報源のサイトへ
1560 浅井久政の嫡男・浅井長政の攻撃を受けて領土を減らし情報源のサイトへ   1560 信長は静寂を保っていたが、永禄3年情報源のサイトへ
1560 三好長慶は御相伴衆(ごしょうばんしゅう)と修理大夫(しゅりだいふ)に任命されて管領・細川晴元に次ぐ幕政ナンバー2の公的地位を手に入れますが情報源のサイトへ   1560 「桶狭間戦」重の戦死後は五器所は佐久間与六郎・家勝が継承するようなのでこの人のことでは?>情報源のサイトへ
      1560 で衝突することになります。義元の攻撃の知らせを聞いた信長は、いつも好んで舞っていた幸若舞(こうわかまい)の『敦盛(あつもり)』を舞って、『人間情報源のサイトへ
      1560 浅井久政の嫡男・浅井長政の攻撃を受けて領土を減らし情報源のサイトへ
      1560 織田信長の馬衆として「桶狭間の合戦」に従軍。伊勢「大河内城攻囲」に尺限番衆情報源のサイトへ
      1560/4/30 三好長慶が、河内の国高屋城を攻め、紀州根来寺宗徒と戦いこれを打ち破る。情報源のサイトへ
1560/5 松平氏の三河を掌握した今川義元は4万5000の大軍を組織して尾張への進撃を開始しますが、この進軍の目的は上洛(京都入部)にあったとも尾張国の支配にあったとも言われています。尾張方の鳴海城主・山口が信長を裏切りますが、教は逆に今川義元から切腹させられ、織田信長今川義元桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい,情報源のサイトへ   1560/5 松平氏の三河を掌握した今川義元は4万5000の大軍を組織して尾張への進撃を開始しますが、この進軍の目的は上洛(京都入部)にあったとも尾張国の支配にあったとも言われています。尾張方の鳴海城主・山口が信長を裏切りますが、教は逆に今川義元から切腹させられ、織田信長と今川義元桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい,情報源のサイトへ
      1560/5/12 兵2万5千をもつて駿府を出発、翌情報源のサイトへ
      1560/5/13 遠江の掛川に着陣。その後、引馬、吉田、岡崎、知立を通り情報源のサイトへ
      1560/5/18 沓掛に本陣を設置した。情報源のサイトへ
      1560/5/19 今川勢は一斉攻撃に入るが、義元本隊は、沓掛を出て大高城(松平元康在陣、兵2千5百情報源のサイトへ
      1560/5/19 幸若舞『敦盛』を舞った後、装具を身に付け出陣し、まず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出撃情報源のサイトへ
      1560/11/30 甲斐の国武田晴信(信玄)と信濃の国川中島において合戦するが、弟武田信繁を戦死させる。( 川中島の合戦 )情報源のサイトへ
1561 以降は次々と三好一族の重要人物や嫡子が死去することとなり、長慶の心身は極度に荒廃してその権勢を弱めていきます。三好長慶情報源のサイトへ   1561 「森部合戦」に殊勲。情報源のサイトへ
1561 (永禄4)に弟の十河一存情報源のサイトへ   1561 桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年情報源のサイトへ
      1561 以降は次々と三好一族の重要人物や嫡子が死去することとなり、長慶の心身は極度に荒廃してその権勢を弱めていきます。三好長慶情報源のサイトへ
1561/5 斉藤義龍が病死して嫡子の斉藤龍興(たつおき,1548-1573)が後を継ぎました。当主が龍興に代わってから信長の美濃侵攻が始まりますが、龍興は行状が悪く人望の乏しい人物だったので美濃の内部対立は深まっていましたが、信長の勢力拡大に対する他の戦国大名の警戒心が強く大国美濃(岐阜県)の支配にはかなりの年月を費やすことになります情報源のサイトへ   1561/5 斉藤義龍が病死して嫡子の斉藤龍興(たつおき,1548-1573)が後を継ぎました。当主が龍興に代わってから信長の美濃侵攻が始まりますが、龍興は行状が悪く人望の乏しい人物だったので美濃の内部対立は深まっていましたが、信長の勢力拡大に対する他の戦国大名の警戒心が強く大国美濃(岐阜県)の支配にはかなりの年月を費やすことになります情報源のサイトへ
1562 (永禄5)に弟の三好義賢情報源のサイトへ   1562 以前〜*)犬山・左衛門佐。織田信清の息情報源のサイトへ
1562 信長と同盟関係を結びます。三河一向一揆を鎮静化することに成功した松平元康は情報源のサイトへ   1562 信長と同盟関係を結びます。三河一向一揆を鎮静化することに成功した松平元康は情報源のサイトへ
1562 南都一乗院門跡となる。情報源のサイトへ   1562 甲斐に出奔。安土城本丸留守居情報源のサイトへ
      1562 甲斐に出奔。犬山の中島・和田の両家老は信長直参となる情報源のサイトへ
1563 新加納の戦いでは龍興に破れるものの情報源のサイトへ   1563 (永禄6)に嫡男の三好義興を相次いで亡くし……最後に追い討ちを掛けるように家宰・松永久秀の讒言と策略にはまってしまい情報源のサイトへ
1563 (永禄6)に嫡男の三好義興を相次いで亡くし……最後に追い討ちを掛けるように家宰・松永久秀の讒言と策略にはまってしまい情報源のサイトへ   1563 新加納の戦いでは龍興に破れるものの情報源のサイトへ
      1563 (30歳)情報源のサイトへ
      1563/11/30 大阪に大火があり、石山本願寺など類焼する。織田信長は、近江の国浅井長政と通じ、信長の妹のお市の方を娶らせ、美濃の侵攻や越前朝倉の防備の備えとした情報源のサイトへ
1564 龍興に不満を抱いた美濃三人衆の一人・安藤守就(あんどうもりなり,重治の舅)と竹中重治(たけなかしげはる)によって居城の稲葉山城を占拠されてしまいます。情報源のサイトへ   1564 龍興に不満を抱いた美濃三人衆の一人・安藤守就(あんどうもりなり,重治の舅)と竹中重治(たけなかしげはる)によって居城の稲葉山城を占拠されてしまいます。情報源のサイトへ
      1564 北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた情報源のサイトへ
1564/4 今川方の吉田城を落として三河統一をほぼ完成し情報源のサイトへ   1564/4 今川方の吉田城を落として三河統一をほぼ完成し情報源のサイトへ
1564/5 忠実な弟であった安宅冬康を自らの命令で誅殺してしまいました。精神的に荒廃して政治的な活力を完全に失っていた長慶は情報源のサイトへ   1564/5 忠実な弟であった安宅冬康を自らの命令で誅殺してしまいました。精神的に荒廃して政治的な活力を完全に失っていた長慶は情報源のサイトへ
1564/7/4 河内飯盛山城下の屋敷においてひっそりと淋しく病死し、幼年の三好義継(よしつぐ,1551-1573・十河一存の子)が家督を継ぎました。情報源のサイトへ   1564/7/4 河内飯盛山城下の屋敷においてひっそりと淋しく病死し、幼年の三好義継(よしつぐ,1551-1573・十河一存の子)が家督を継ぎました。情報源のサイトへ
1565 永禄の変で、第13代将軍であった兄・義輝と母・慶寿院が松永久秀や三好三人衆らによって惨殺され、弟で鹿苑院院主であった足利周嵩も誘殺された。このとき、覚慶も松永久秀らによって捕縛され、興福寺に幽閉された(久秀らは覚慶が将軍の弟で、なおかつ将来は興福寺別当(興福寺は大和の守護大名でもあった)の職を約束されていたことから、覚慶を殺すことで興福寺を敵に回すことを恐れて、幽閉にとどめたとされる)情報源のサイトへ   1565 (永禄8)情報源のサイトへ
1565 (永禄8)情報源のサイトへ      
1565 松永久秀らに実兄の将軍義輝を殺害され、義昭自身も幽閉されるが、細川藤孝らの手引きで近江・和田惟政の下に逃れ、さらに越前・朝倉義景を頼る。情報源のサイトへ      
1565 足利義昭を本拠一乗谷に迎えるが、上洛に難色を示したため織田家へ移られる。情報源のサイトへ      
1565/4/21 従五位下、左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官。なお、叙任時期については疑問視する意見があるが、山科言の『言卿記』によれば情報源のサイトへ      
1565/5/1 13代将軍・足利義輝から『義』の字を偏諱されて『義重』と改名し義輝の奏請で左京大夫へと昇進するのですが、松永久秀と三好三人衆の傀儡であった三好義重(義継)は松永久通(ひさみち,1543-1577)と共に将軍・義輝の居館を襲撃します。情報源のサイトへ   1565/5/1 13代将軍・足利義輝から『義』の字を偏諱されて『義重』と改名し義輝の奏請で左京大夫へと昇進するのですが、松永久秀と三好三人衆の傀儡であった三好義重(義継)は松永久通(ひさみち,1543-1577)と共に将軍・義輝の居館を襲撃します。情報源のサイトへ
1565/5/19 昼間に、三好義継と松永久通は約1万の軍勢で将軍・足利義輝の居る二条御所を包囲して襲撃し、義輝は奮闘も虚しく殺害されました。足利義輝は上泉信綱(かみいずみのぶつな,1508-1577)に剣術の指導を受け、塚原卜伝(つかはらぼくでん,1489-1571)に奥義の伝授を受けた将軍であり、『剣豪』『剣聖将軍』と呼ばれることもあります情報源のサイトへ   1565/5/19 昼間に、三好義継と松永久通は約1万の軍勢で将軍・足利義輝の居る二条御所を包囲して襲撃し、義輝は奮闘も虚しく殺害されました。足利義輝は上泉信綱(かみいずみのぶつな,1508-1577)に剣術の指導を受け、塚原卜伝(つかはらぼくでん,1489-1571)に奥義の伝授を受けた将軍であり、『剣豪』『剣聖将軍』と呼ばれることもあります情報源のサイトへ
1565/7/28 室町幕府の再興を図ることになります。情報源のサイトへ   1565/7/28 室町幕府の再興を図ることになります。情報源のサイトへ
1565/12 三好三人衆と松永久秀の抗争に翻弄された義栄は、三好三人衆の推挙で情報源のサイトへ      
1566 一夜にして墨俣城(すのまたじょう)の築城に成功したというものがあります。尾張と美濃を支配領域に組み込んだ織田信長京都上洛への野心を持ち始めますが、この時期の京都で幕府の実権を掌握していたのは足利将軍家ではなく、細川晴元の重臣・三好長慶(みよしながよし,1522-1564)や長慶の家臣である松永久秀(まつながひさひで,1510-1577)らでした情報源のサイトへ   1566 徳川姓を名乗ることを禁裏より許可される。)情報源のサイトへ
1566 正統な血筋による将軍家を再興するため、永禄9年情報源のサイトへ   1566 (33歳)情報源のサイトへ
1566 以降、上洛を伺う信長との戦いに敗れ、将軍・義昭が京都から追放されて反信長の戦いを挑み始める情報源のサイトへ   1566 従五位三河守に任命され名前を松平元康から徳川家康(とくがわいえやす,1543-1616)に改めました。三河の徳川氏と結んで背後の憂いを断った織田信長は、舅の斉藤道三亡き後の美濃統一に乗り出しますが情報源のサイトへ
1566 従五位下に叙し、左馬頭に任官。(叙位任官時期については疑問視もある)情報源のサイトへ   1566 以降、上洛を伺う信長との戦いに敗れ、将軍・義昭が京都から追放されて反信長の戦いを挑み始める情報源のサイトへ
1566 従五位三河守に任命され名前を松平元康から徳川家康(とくがわいえやす,1543-1616)に改めました。三河の徳川氏と結んで背後の憂いを断った織田信長は、舅の斉藤道三亡き後の美濃統一に乗り出しますが情報源のサイトへ   1566 一夜にして墨俣城(すのまたじょう)の築城に成功したというものがあります。尾張と美濃を支配領域に組み込んだ織田信長は京都上洛への野心を持ち始めますが、この時期の京都で幕府の実権を掌握していたのは足利将軍家ではなく、細川晴元の重臣・三好長慶(みよしながよし,1522-1564)や長慶の家臣である松永久秀(まつながひさひで,1510-1577)らでした情報源のサイトへ
1566/2 覚慶は還俗して名前を足利義秋(よしあき)に改めますが、幕府復興の軍事勢力として最も強い期待を寄せる上杉謙信武田信玄以外にも、薩摩の島津貴久・義久父子や織田信長、斉藤龍興にも助力を依頼しました。情報源のサイトへ   1566/2 覚慶は還俗して名前を足利義秋(よしあき)に改めますが、幕府復興の軍事勢力として最も強い期待を寄せる上杉謙信武田信玄以外にも、薩摩の島津貴久・義久父子や織田信長、斉藤龍興にも助力を依頼しました。情報源のサイトへ
1566/2/17 矢島御所において還俗し足利義秋と名乗った。矢島御所とは義秋が、御供衆でもあり六角氏とも深い関係にあった和田惟政(甲賀住人)と御相伴衆でもあり六角氏一族の仁木義政(伊賀住人)の斡旋により近江の六角義賢・義治親子の許可を得た上で、山奥の甲賀郡から都にほど近い野洲郡矢島村守山市矢島町)に進出し、在所(二町四方の規模で二重の水堀で囲まれていたとの記録が残る)としたものであった情報源のサイトへ      
      1566/4/19 信長は、禁裏に参内し「勅命」を得情報源のサイトへ
      1566/4/20 家康とともに出陣。しかし、信長の妹お市の方が嫁していた近江の浅井長政の叛意の報がもたらされるに及んで情報源のサイトへ
      1566/5/9 岐阜に退陣する。情報源のサイトへ
      1566/6/28 織田・徳川連合軍が近江に出陣し、浅井・朝倉連合軍を近江の姉川において情報源のサイトへ
      1566/7/21 例の、京を追われた三好三人衆と三好康長が管領家嫡流の細川六郎を盟主として摂津の国野田・福島に出陣。これを機に、石山本願寺の法主顕如が三好軍と通じ、各国の門徒に対し激をとばし、挙兵させ情報源のサイトへ
1566/8 妹の婿である武田義統を頼り、若狭へ下った。情報源のサイトへ   1566/8 三好三人衆の三好長逸に攻められた義秋は、越前一乗谷の朝倉義景を頼って更に上杉謙信に厳しく出兵を督促します。情報源のサイトへ
1566/8 三好三人衆の三好長逸に攻められた義秋は、越前一乗谷の朝倉義景を頼って更に上杉謙信に厳しく出兵を督促します。情報源のサイトへ      
1566/9 若狭から越前の朝倉義景(仁木義政の親族であるという)のもとへ移り、上洛への助力を要請した。義秋は朝廷に朝倉義景の母を従二位にすることを奏上して、実現したりしている情報源のサイトへ      
      1566/9/12 同門徒が信長の陣を攻撃する。「石山の合戦」のはじまりである情報源のサイトへ
      1566/9/14 両日、本願寺勢は信長を激しく攻撃。本願寺方は鉄砲3000挺で信長を激しく攻めたという情報源のサイトへ
      1566/9/21 山科、醍醐まで進出。この報を情報源のサイトへ
      1566/9/24 信長は、浅井朝倉両軍との戦いに挑むが、浅井朝倉の両軍は決戦を避け比叡山に陣を張る。この結果、戦線は膠着し、将軍義昭の上意と天皇の綸旨が出されるに及んで情報源のサイトへ
1566/11/30 号は就任年。足利義稙足利義材の再任情報源のサイトへ      
      1566/12/14 両軍は和睦するに至る。(志賀の陣)情報源のサイトへ
1567 (永禄10)には龍興方の重臣である美濃三人衆(稲葉通朝,いなばみちとも・氏家卜全,うじいえぼくぜん・安藤守就,あんどうもりなり)が信長に内応して謀反を起こします。内応に応じて進軍した織田信長軍は、美濃の重要拠点である稲葉山城井ノ口城)を陥落させ、城主の斉藤龍興は伊勢長島へと落ち延びて反信長の闘争に参加し続けることになります情報源のサイトへ   1567 織田信長が美濃を完全に制圧した。稲葉山城を岐阜城と改めた織田信長は情報源のサイトへ
      1567 斎藤龍興を伊勢国・長島に敗走させ、美濃国を手に入れた。こうして尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になったとき、信長は33歳であった情報源のサイトへ
      1567 (1567)斎藤氏の本拠稲葉山城を陥れ、美濃を手に入れる。そして、この時に井の口を「岐阜」と改め、「天下布武」の朱印を使うようになり、天下統一を意識し始めたといわれる情報源のサイトへ
      1567 (永禄10)には龍興方の重臣である美濃三人衆(稲葉通朝,いなばみちとも・氏家卜全,うじいえぼくぜん・安藤守就,あんどうもりなり)が信長に内応して謀反を起こします。内応に応じて進軍した織田信長軍は、美濃の重要拠点である稲葉山城井ノ口城)を陥落させ、城主の斉藤龍興は伊勢長島へと落ち延びて反信長の闘争に参加し続けることになります情報源のサイトへ
      1567 21歳にて浅井長政に嫁ぐ。情報源のサイトへ
1567/11 から、信長は禅僧の沢彦(たくげん)が選んだ『天下布武(てんかふぶ)』の四文字を自分の印章として用い始め、日本全土を武力によって制覇するという専制統治の理想に向かって前進することになります。情報源のサイトへ   1567/11 から、信長は禅僧の沢彦(たくげん)が選んだ『天下布武(てんかふぶ)』の四文字を自分の印章として用い始め、日本全土を武力によって制覇するという専制統治の理想に向かって前進することになります。情報源のサイトへ
      1567/11/30 信長は、関所を廃止する。また、、本願寺等に家銭を課する情報源のサイトへ
1568 全国の戦国大名に織田信長の圧倒的な存在感と強大な軍事力を見せ付けた年であり、信長が『天下布武の手段』として室町幕府の権威と政治機構を利用する足がかりが準備された年でもありました。この後、『御父織田弾正忠・武勇天下第一』と呼んで父親のように慕っていた信長と足利義昭の関係が急速に悪化していき、義昭は幕府・将軍の威令に服従しない信長を討伐するために全国の大名に信長包囲網の形成を命令する事態へと発展していきます情報源のサイトへ   1568 全国の戦国大名に織田信長の圧倒的な存在感と強大な軍事力を見せ付けた年であり、信長が『天下布武の手段』として室町幕府の権威と政治機構を利用する足がかりが準備された年でもありました。この後、『御父織田弾正忠・武勇天下第一』と呼んで父親のように慕っていた信長と足利義昭の関係が急速に悪化していき、義昭は幕府・将軍の威令に服従しない信長を討伐するために全国の大名に信長包囲網の形成を命令する事態へと発展していきます情報源のサイトへ
1568 尾張織田信長に担がれ上洛し、室町幕府15代将軍に就くが、傀儡に過ぎず、信長と不仲になる。御内書を濫発して反信長勢力の挙兵を再三行うが情報源のサイトへ   1568 上洛すると、名茶器の『九十九髪茄子(つくもがみなす)』を差し出して信長に降伏して家臣になります。最終的には、上杉謙信毛利輝元、石山本願寺と呼応して信長に再度の反乱を企てたものの戦いに敗れることになり、爆死という奇天烈な方法によって自害を遂げます情報源のサイトへ
1568 上洛すると、名茶器の『九十九髪茄子(つくもがみなす)』を差し出して信長に降伏して家臣になります。最終的には、上杉謙信毛利輝元、石山本願寺と呼応して信長に再度の反乱を企てたものの戦いに敗れることになり、爆死という奇天烈な方法によって自害を遂げます情報源のサイトへ   1568 足利義昭を奉じた織田信長軍を『観音寺城の戦い(かんのんじじょう)』を戦って大敗し戦国大名としての六角氏は没落します。その後も六角承禎は、浅井長政や三好氏らと連帯したり15代将軍・義昭の信長包囲網に加わったりして『反信長の戦闘』を続けますが情報源のサイトへ
1568 足利義昭を奉じた織田信長軍を『観音寺城の戦い(かんのんじじょう)』を戦って大敗し戦国大名としての六角氏は没落します。その後も六角承禎は、浅井長政や三好氏らと連帯したり15代将軍・義昭の信長包囲網に加わったりして『反信長の戦闘』を続けますが情報源のサイトへ   1568 神戸を降伏させ、三男の織田信孝を神戸氏の養子として送り込んだ。翌情報源のサイトへ
1568 上杉謙信武田信玄・北条氏政の三国同盟が成立して、いよいよ謙信が京都に上洛してくるのかと思われたのですが、越後一向一揆や国人の反乱によって謙信はなかなか京都への出兵を断行できませんでした。情報源のサイトへ   1568 伊勢の豪族・長野家の養子。信包を補佐し、伊賀を攻略する情報源のサイトへ
1568 なお、朝倉家滞在中の永禄11年情報源のサイトへ   1568 上杉謙信武田信玄・北条氏政の三国同盟が成立して、いよいよ謙信が京都に上洛してくるのかと思われたのですが、越後一向一揆や国人の反乱によって謙信はなかなか京都への出兵を断行できませんでした。情報源のサイトへ
      1568 大和国の寺社に対して奉行。<織田家庶流の道は厳しいです情報源のサイトへ
      1568 (1568)には、信長は第13代将軍義輝の弟足利義昭を担ぎ、上洛を開始する。抵抗する南近江の六角氏を撃破し、上洛を難なく果たす情報源のサイトへ
      1568 足利義昭(あしかが よしあき)とともに京都に入り、足利義昭を室町幕府情報源のサイトへ
      1568 足利義輝の弟の足利義秋(後に足利義昭と改名)を奉じて上洛し、これを将軍職に就けて三好政権を駆逐した。なお、松永久秀は織田信長に帰順した情報源のサイトへ
      1568 (35歳)情報源のサイトへ
1568/2 行われた義昭の対抗馬である足利義栄への将軍宣下当日に宣下の使者であった言の屋敷に義昭の使者が現れて従四位下への昇進推薦の仲介を依頼しに来たために困惑した事が書かれており、この以前に叙任を受けていた事は明らかである。情報源のサイトへ      
1568/2/8 14代将軍に就任しますが、背中に腫瘍(腫物)を患っており結局京都に入ることがないまま情報源のサイトへ   1568/2/8 14代将軍に就任しますが、背中に腫瘍(腫物)を患っており結局京都に入ることがないまま情報源のサイトへ
1568/4 越前一乗谷で元服を終えた義秋が足利義昭(よしあき)と更に改名しました。情報源のサイトへ   1568/4 越前一乗谷で元服を終えた義秋が足利義昭(よしあき)と更に改名しました。情報源のサイトへ
1568/4/15 「秋」の字は不吉であるとし、正式に元服して義昭と改名した。加冠役は朝倉義景が務めている(なお、義昭はこの時点まで正式な元服を行ったという文献史料は一切無く、当時としてはあまりに遅すぎる元服だったといえる)情報源のサイトへ      
1568/7 佐久間信盛(さくまのぶもり)・村井貞勝(むらいさだかつ)を使者として派遣し、義昭の身柄を拠点の岐阜へと移送します。信長は近江の六角承禎と同盟を結んで安全な通行路を確保することに失敗しますが情報源のサイトへ   1568/7 佐久間信盛(さくまのぶもり)・村井貞勝(むらいさだかつ)を使者として派遣し、義昭の身柄を拠点の岐阜へと移送します。信長は近江の六角承禎と同盟を結んで安全な通行路を確保することに失敗しますが情報源のサイトへ
1568/9 沿道の美濃斎藤氏・北近江浅井氏・南近江六角氏などの支持も受けた上で、直接には織田信長率いる尾張軍と浅井長政率いる北近江軍に警護されて上洛した。途中、六角氏の有力支族である箕作氏の反乱もあったが退け、無事京都に到着した情報源のサイトへ   1568/9 腫瘍を悪化させて死去しました。情報源のサイトへ
1568/9 腫瘍を悪化させて死去しました。情報源のサイトへ   1568/9 いう日時は、奇しくも上洛して天下布武の号令をかけようとする織田信長が15代将軍となる足利義昭を奉じて上洛した年でした。足利義輝には鹿苑寺院主の足利嵩(しゅうこう,生年不詳-1565)と奈良の一乗院門跡・足利覚慶(かくけい,1537-1597・足利義昭)がいましたが、嵩は永禄の変後に久秀に殺害され、後の足利義昭となる覚慶だけが生き残りました情報源のサイトへ
1568/9 いう日時は、奇しくも上洛して天下布武の号令をかけようとする織田信長が15代将軍となる足利義昭を奉じて上洛した年でした。足利義輝には鹿苑寺院主の足利嵩(しゅうこう,生年不詳-1565)と奈良の一乗院門跡・足利覚慶(かくけい,1537-1597・足利義昭)がいましたが、嵩は永禄の変後に久秀に殺害され、後の足利義昭となる覚慶だけが生き残りました情報源のサイトへ      
1568/9/7 実力行使で上洛の道を進むことを決断し、尾張・美濃・伊勢・三河の領土から約4万の大軍勢を集めて岐阜から京都へ進軍を開始しました。圧倒的な軍事力で突き進んでくる信長を前にすると情報源のサイトへ   1568/9/7 実力行使で上洛の道を進むことを決断し、尾張・美濃・伊勢・三河の領土から約4万の大軍勢を集めて岐阜から京都へ進軍を開始しました。圧倒的な軍事力で突き進んでくる信長を前にすると情報源のサイトへ
1568/9/12 近江の六角承禎・義治親子は拠点の観音寺城を捨てて伊賀へと逃走し、織田信長と足利義昭は情報源のサイトへ   1568/9/12 近江の六角承禎・義治親子は拠点の観音寺城を捨てて伊賀へと逃走し、織田信長と足利義昭情報源のサイトへ
1568/9/26 三好三人衆が逃げ出した後の京都に悠々と入京しました。情報源のサイトへ   1568/9/26 三好三人衆が逃げ出した後の京都に悠々と入京しました。情報源のサイトへ
1568/10/14 足利義昭は京都の本圀寺(ほんこくじ)に入り情報源のサイトへ   1568/10/14 足利義昭京都の本圀寺(ほんこくじ)に入り情報源のサイトへ
1568/10/18 朝廷から将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。同時に従四位下、参議・左近衛権中将にも昇叙・任官された情報源のサイトへ   1568/10/18 室町幕府の第15代征夷大将軍に任命されることになり、義昭の信長に対する感謝の念は並々ならぬものがありました。15代将軍・義昭は『幕府復興の最大の功労者』である織田信長に、近江・山城・和泉・摂津・河内といった畿内の最重要拠点や副将軍・管領の地位を恩賞として与えようとしますが、室町幕府の政治機構に従うつもりなど全くない信長はこれを拒否して岐阜へといったん帰国します情報源のサイトへ
1568/10/18 室町幕府の第15代征夷大将軍に任命されることになり、義昭の信長に対する感謝の念は並々ならぬものがありました。15代将軍・義昭は『幕府復興の最大の功労者』である織田信長に、近江・山城・和泉・摂津・河内といった畿内の最重要拠点や副将軍・管領の地位を恩賞として与えようとしますが、室町幕府の政治機構に従うつもりなど全くない信長はこれを拒否して岐阜へといったん帰国します情報源のサイトへ      
      1568/11/30 末ちかく、信長は、南伊勢北畠家を攻め、二男信雄(北畠信雄)を養子にすることを条件に講和する。情報源のサイトへ
1569 しかし幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を狙っていた信長の思惑は違っていたために、両者の関係は悪化していくこととなる。信長は将軍権力を制約するために、永禄12年情報源のサイトへ   1569 信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、「殿中御掟」9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。しかし、これによって義昭と信長の対立は決定的なものになる情報源のサイトへ
1569 義昭は当初、本圀寺を仮御所としていたが、永禄12年情報源のサイトへ   1569 信長上洛後の、摂津国池田城攻略に戦没。情報源のサイトへ
      1569 ポルトガルの宣教師(せんきょうし)フロイスとあい、キリスト教を広めることをゆるす。情報源のサイトへ
      1569 森正成とともに北畠信雄の守役。情報源のサイトへ
      1569 (36歳)情報源のサイトへ
1569/1 織田信長の兵が領国の美濃・尾張に帰還すると三好三人衆の巻き返しに晒され、本圀寺を襲われた(本圀寺の変)。兄義輝と同様の運命になるかとも思われたが、この時は奉公衆および北近江浅井長政摂津の池田勝正・和田惟政らの奮戦により、これを撃退した情報源のサイトへ      
1569/1 『殿中御掟』という9箇条[1]の掟書を義昭に承認させた。これにより、将軍の行動は大きく制限された情報源のサイトへ      
      1569/1/10 三好軍と共同して決起した高槻の入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず、処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津を守護・池田勝正を筆頭とし伊丹氏と惟政の3人に統治させた(摂津三守護)情報源のサイトへ
1569/6/22 従三位に昇叙し、権大納言に栄進。情報源のサイトへ      
1569/10/24 信長に対して宛てた感状で、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛て名して以後の幕府への協力も求めた。情報源のサイトへ      
1570 義昭を擁した信長が義景へ上洛命令を発するとこれを無視、織田勢の攻撃を受ける。しかし浅井氏の味方を得て撃退し、以後浅井氏とともに足利義昭・武田信玄と結んで信長と争った情報源のサイトへ   1570 姉川の合戦」に徳川家康とともに浅井長政軍に対する。情報源のサイトへ
1570 信長の家臣・柴田勝家に敗れて監禁され情報源のサイトへ   1570 近江国山城攻略に参陣。情報源のサイトへ
      1570 近江で討死した信長舎弟・九郎信治の系統カ>情報源のサイトへ
      1570 朝倉義景戦である金ヶ崎城の戦いにて背後から縁戚の浅井長政に攻められたものの木下秀吉と松永久秀の活躍により窮地を脱し情報源のサイトへ
      1570 信長の家臣・柴田勝家に敗れて監禁され情報源のサイトへ
      1570 (37歳)情報源のサイトへ
      1570 比叡山攻囲」。美濃岩村城城番情報源のサイトへ
1570/1 5箇条が追加され、信長による将軍の傀儡化が一層進むことになった。情報源のサイトへ      
      1570/6 近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙する。浅井軍の先鋒・磯野員昌に15段の備えのうち13段まで破られるなど[8]苦戦しつつも、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)情報源のサイトへ
      1570/8 信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、石山本願寺の援軍などもあって苦戦する(野田城・福島城の戦い)。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井長政朝倉義景・延暦寺などの連合軍3万が近江国・坂本に侵攻する情報源のサイトへ
      1570/9 近江宇佐山にて森可とともに戦死。26歳情報源のサイトへ
      1570/11 浅井・朝倉の攻勢により手薄となった状況で、伊勢一向一揆に居城を攻略され自害。<本願寺一揆おそるべし情報源のサイトへ
1571 頃から関東管領の上杉輝虎(謙信)や右馬頭の毛利輝元、本願寺顕如や武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめた。これは一般に信長包囲網と呼ばれている情報源のサイトへ   1571 比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)を焼きうちし、数千人の僧を殺す。情報源のサイトへ
      1571 父の死後家督。信長弟・長野信包の家老情報源のサイトへ
      1571 北畠具教四女と婚姻。伊賀を攻略する情報源のサイトへ
      1571 佐和山城主犬上郡を支配する情報源のサイトへ
      1571 浅井・朝倉軍の一部を隠匿した比叡山延暦寺の焼討を敢行した。一方情報源のサイトへ
      1572 信長と同盟を結んだが、信玄が病死し、さらに信長の度重なる宗教勢力との抗争に激怒した。情報源のサイトへ
1572/10 信長は義昭に対して17条の意見状を送付した。この意見書で信長は義昭が勝手な行動をしていることを批判し、さらに義昭が民衆に『悪御所』と呼ばれているとしている情報源のサイトへ   1572/10 足利義昭の出兵要請に呼応した甲斐国の武田信玄は、遂に上洛の軍を起こした。武田軍の総兵力は3万人情報源のサイトへ
1572/12/22 三方ヶ原の戦いで信長の同盟者である徳川家康の軍勢を破るなど、信長は窮地に陥った。翌情報源のサイトへ      
1573 正月、信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたが、義昭はこれを一蹴した。義昭は近江の今堅田城と石山城に自分の兵を入れ、はっきりと反信長の旗を揚げた情報源のサイトへ   1573 山城国「槙島城攻囲」に従軍。近江に従軍し情報源のサイトへ
1573 改元)情報源のサイトへ   1573 任命された越前三奉行のひとり。のち信忠の奉行衆情報源のサイトへ
1573 越前の朝倉義景と共に信長軍と戦い戦死することになりました。美濃の小牧山城から稲葉山城に拠点を移した信長は、中国の古代王朝であるの文王が岐山(きざん)から起こったという故事に基づいて井ノ口の地名を『岐阜(ぎふ)』に改め、天下統一への野心を更に強固にしました情報源のサイトへ   1573 善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の極度に悪い竹製の鋸(のこぎり)で首をひかせ、長期間激痛を与え続ける拷問を科し、なぶり殺しにした情報源のサイトへ
1573 足利義昭と通じて再び敵対。淀城に籠ったが、織田方の細川藤孝らに攻められて戦死した情報源のサイトへ   1573 足利義昭との和睦交渉を成立させる。1574(天正2)年「伊勢長島」に戦死情報源のサイトへ
1573 中には京都・畿内における影響力を完全に失いました。大和奈良)の信貴山城(しぎさんじょう)を拠点とする商人出身の松永久秀は『乱世の梟雄』としてその権謀術数の怜悧さを恐れられましたが、織田信長情報源のサイトへ   1573 これを追放した。武田氏、朝倉氏、延暦寺、石山本願寺などから成る信長包囲網が結成されるが情報源のサイトへ
1573 信長に京都を逐われ、後に安芸・毛利氏に身を寄せてからも、反信長勢力の決起を謀り続けた。豊臣秀吉による天下統一後は、山城・槇島城に1万石を得た情報源のサイトへ   1573 小谷落城後は、弟・織田信包の元に居住する。情報源のサイトへ
      1573 中には京都・畿内における影響力を完全に失いました。大和奈良)の信貴山城(しぎさんじょう)を拠点とする商人出身の松永久秀は『乱世の梟雄』としてその権謀術数の怜悧さを恐れられましたが、織田信長が情報源のサイトへ
      1573 入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し情報源のサイトへ
      1573 越前の朝倉義景と共に信長軍と戦い戦死することになりました。美濃の小牧山城から稲葉山城に拠点を移した信長は、中国の古代王朝であるの文王が岐山(きざん)から起こったという故事に基づいて井ノ口の地名を『岐阜(ぎふ)』に改め、天下統一への野心を更に強固にしました情報源のサイトへ
      1573/2 三河国・野田城を攻略する(野田城の戦い)。しかも信玄の上洛に呼応するかたちで、将軍・足利義昭が三好義継・松永久秀らと共謀して挙兵情報源のサイトへ
1573/4 本国への撤退を始める。信玄は情報源のサイトへ      
1573/4/12 死去した。情報源のサイトへ   1573/4/12 病死している。 情報源のサイトへ
1573/7 足利義昭が織田信長京都を追放された時点で事実上室町幕府は終ったと言われてます!正直間違いないと思いますが…将軍が京都を追放された時点で幕府滅亡であれば…足利義昭の数代前の将軍の時点で室町幕府は既に滅亡してた事になるんですよ…元々応仁の乱以降有名無実だった幕府の滅亡は「足利義昭の将軍職辞任」の時点とまるこは思っています!!あくまで個人的意見ですが…情報源のサイトへ      
1573/7/3 義昭が講和を破棄。烏丸中御門第を三淵藤英・伊勢貞興や公家奉公衆に預けたうえで、南山城槇島城に御座所を移し挙兵した情報源のサイトへ      
1573/7/18 織田軍が攻撃を開始すると槇島城の施設はほとんど破壊され情報源のサイトへ   1573/7/18 槙島城に逃れた義昭は、信長と再度和睦しから追放される。ここについに、室町幕府は滅亡することになる情報源のサイトへ
1573/7/18 うちに義昭は息子の義尋を人質として差し出し、降伏を申し入れた。情報源のサイトへ      
1573/7/18 足利義昭が京都を追放されます!!情報源のサイトへ      
      1573/7/28 元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた。情報源のサイトへ
1573/8 織田軍が朝倉軍を追撃して越前に乱入すると、なお遁れようとする主義景を見限って自害に追い込む。その後本領を安堵され、姓を土橋と名乗って信長配下となるが情報源のサイトへ   1573/8 細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。信長は情報源のサイトへ
1573/8 朝倉氏情報源のサイトへ      
      1573/8/20 越前朝倉義景を攻撃し、義景は賢松寺に自殺。さらに、返す刀で近江の浅井長政を攻め、ついに情報源のサイトへ
      1573/8/30 三好勢を滅ぼし、松永久秀を降伏させたのである。これにより、織田家に対する包囲網は崩れ、信長は窮地を脱している情報源のサイトへ
1573/9 浅井氏も滅亡し、信長包囲網は完全に瓦解した。情報源のサイトへ   1573/9 浅井長政をそれぞれ滅ぼし、さらに情報源のサイトへ
      1573/9/1 一本ずつ切り落とした上で殺害した。なお、長政に嫁いでいた妹・お市の方らは落城前に落ち延びて信長が引き取った情報源のサイトへ
      1573/9/24 信長は尾張国美濃国伊勢国の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢国・長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、長島の一向一揆による抵抗も激しく、長期戦を嫌った信長は情報源のサイトへ
      1573/9/24 信長は、再度伊勢長島に出陣。一向宗徒の篭る門徒末寺を攻め滅ぼす情報源のサイトへ
      1573/11 入京し妙覚寺に宿。情報源のサイトへ
      1573/11/16 自害し、三好氏もここに滅亡した。情報源のサイトへ
      1573/12 信長より譲位の申し入れがあり、天皇もこれを喜んで受諾した。しかし、年が押し迫っていたため譲位は行われず、結局信長の死まで譲位は行われなかった情報源のサイトへ
1574 紀伊国の興国寺に移り、ついで泊城に移った。紀伊は畠山氏の勢力がまだ残る国であり、特に畠山高政の重臣で、幕府奉公衆でもあった湯川氏の勢力は強大で、よく義昭を守った情報源のサイトへ   1574 伊勢一揆攻略」に、弟・千代とともに戦死。子息、正信は織田信忠に従い「甲州乱入」情報源のサイトへ
1574 京都より追放される。備後鞆の浦に亡命政府(鞆幕府)樹立情報源のサイトへ   1574 討死。母は織田信秀娘情報源のサイトへ
1574 脱走して消息が不明となりました。13代将軍・義輝が京都に戻った情報源のサイトへ   1574 信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は情報源のサイトへ
      1574 伊勢一揆討伐戦」に主とともに討死。<柴田勝家にさかんにヘッドハンティングされていたらしいです情報源のサイトへ
      1574 (1574)、伊勢長島一向一揆も多大な犠牲を出しながらも鎮圧。一揆勢は織田軍に女子供まで討ち取られ、2万人以上の犠牲を出したといわれている情報源のサイトへ
      1574 参議に任官して以降わずか情報源のサイトへ
      1574 脱走して消息が不明となりました。13代将軍・義輝が京都に戻った情報源のサイトへ
      1574/4/2 本願寺顕如再び石山本願寺に挙兵し、信長に対抗する。三好康長らがこれに応じ河内の高屋城に挙兵したため、信長は陣を張る情報源のサイトへ
      1574/7 信長は3万人の大軍を率いて、伊勢国・長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めに追い込んだ。一揆軍も巧みな戦術を見せて、信長の庶兄・織田信広など多くの織田氏一族の将が討ち取られた情報源のサイトへ
      1574/7 伊勢長島」に戦死。<信長にやたら重用されている割に一向一揆の為に甥・信広とともに討死情報源のサイトへ
      1574/7/13 伊勢長島一向一揆討伐のため再び出陣し、各拠点を制覇しつつ願証寺に迫る。7万の大軍という情報源のサイトへ
      1574/8 入ると兵糧不足に陥り、さらに織田軍の猛攻により大鳥居城が落城して一揆勢1,000人余が討ち取られるなど、次第に戦況は織田軍有利に傾く。情報源のサイトへ
      1574/9/29 ついに一揆勢が和を願い降伏する。情報源のサイトへ
      1575 長篠合戦では、『信長公記[しんちょうこうき]』の記述の信憑性などの観点から数は不明であるものの多くの鉄砲を用いた織田信長と徳川家康が勝利した。織田信長は翌情報源のサイトへ
      1575 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし) → 中国地方情報源のサイトへ
      1575 (1575)、信長は頻繁に徳川領や美濃を侵していた武田勝頼と激突することとなる。武田軍が長篠城攻略に手間取っている間に、織田・徳川連合軍は後詰として長篠城救援に兵を差し向け、主力は設楽原に陣を敷く情報源のサイトへ
      1575 長篠の戦いで武田勝頼に大勝。以後、天下布武を推し進め、楽市楽座、検地などの政策を用いた(織田政権)情報源のサイトへ
      1575 信長から家督を譲渡される。摂津豪族、塩川長満の娘と婚姻(相婿に池田元助)情報源のサイトへ
      1575/1 桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国とした。そして顕如の命令で守護代として下間頼照が派遣されたが、この下間頼照が前の領主である桂田長俊以上の悪政を敷いたために、一揆の内部分裂が進んでいた情報源のサイトへ
      1575/4 武田勝頼は武田信玄の死後、武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る情報源のサイトへ
      1575/4/21 武田勝頼が徳川家康の家中大須賀弥四郎の内通により出陣し、三河の国長篠城を攻める。家康家中の鳥居勝商(忠実な武将としてその武勇伝は、有名情報源のサイトへ
      1575/5 長篠城を包囲する。織田信長は徳川軍情報源のサイトへ
      1575/5/21 織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。この戦いで、信長は1,000丁余りの火縄銃を用いた一斉射撃(『信長公記』による)を行わせ、武田軍に圧勝する[10]情報源のサイトへ
      1575/5/21 信長、家康は長篠城を攻めこれを打ち破る。( 長篠の戦い )情報源のサイトへ
      1575/8 越前国に行軍した。情報源のサイトへ
      1575/8 信長は、越前、加賀の一揆を平定する。3万とも4万ともいわれる一揆勢が誅されたという情報源のサイトへ
      1575/8 越前一向一揆を掃討。情報源のサイトへ
      1575/11/4 信長は、大納言・右大将の位を受ける。情報源のサイトへ
      1575/11/28 信長は嫡男・織田信忠に 織田氏の家督ならびに美濃国尾張国などの領地を譲って建前上隠居した。しかし、信長は織田氏の政治・軍事を執行する立場にあった情報源のサイトへ
1576 義昭は備後の鞆に移り、毛利輝元の庇護を受けるようになった。鞆はかつて足利尊氏が光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受けたという、足利家にとっての由緒がある場所であった情報源のサイトへ   1576 (43歳)情報源のサイトへ
      1576 この頃、越後国の戦国大名・上杉謙信と信長との関係は悪化し[13]、謙信は天正4年情報源のサイトへ
      1576 織田信長が築城。外に琵琶湖に映えるよう金箔が施され、内に狩野永徳の障壁画を有した「天主閣」は5層7重情報源のサイトへ
      1576/1 信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める情報源のサイトへ
      1576/1/30 内部分裂していた情報源のサイトへ
      1576/2/23 丹羽長秀の造営によるあの有名な近江の国情報源のサイトへ
      1576/2/28 攻め落とす。情報源のサイトへ
      1576/3/21 信長は、安土に帰る。情報源のサイトへ
      1576/4/14 本願寺顕如が、足利義昭毛利輝元らと語らい再度、摂津の国石山本願寺に兵をあげ信長に対抗。明智光秀、荒木村重らがこれを攻撃する情報源のサイトへ
      1576/5/7 摂津の国四天王寺付近にて激戦となるがこれを破り石山本願寺に肉薄する。この時の雑賀衆の激しい攻撃で信長は、足を負傷したという情報源のサイトへ
      1576/5/7 早朝、その3,000人の軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入った。信長自身も負傷する激戦となったが、信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、本願寺軍を撃破した(天王寺砦の戦い)情報源のサイトへ
      1576/7/13 毛利輝元の命により、部将児玉就英情報源のサイトへ
      1576/7/13 石山本願寺の援軍に現れた毛利水軍800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧弾薬が運び込まれた(第一次木津川口の戦い)。情報源のサイトへ
      1576/10/10 例の、松永久秀親子情報源のサイトへ
      1576/10/23 羽柴秀吉中国攻めのため京を出陣する。情報源のサイトへ
      1577 (44歳)情報源のサイトへ
      1577 これに対し信長は、天正5年情報源のサイトへ
      1577 信貴山城にて再び謀叛し、織田信長の嫡男織田信忠に攻められて名物『平蜘蛛茶釜』と共に爆死した。一方、武田信玄の遺言を無視した武田勝頼が徳川家康の家臣奥平忠昌が拠る三河国長篠城を攻撃したことに端を発する情報源のサイトへ
      1577 備前国美作国播磨国の国境付近で毛利氏への見せしめに、女・子供200人以上を子供は串刺しに、女は磔にして処刑した行為情報源のサイトへ
      1577/2 紀伊「雑賀攻略」に従軍。戦後、佐野城城主情報源のサイトへ
      1577/2 紀州雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の能登国侵攻などもあったため情報源のサイトへ
      1577/2/13 信長は、紀伊の畠山貞政が雑賀衆、根来衆と呼応して挙兵したことを契機に、容易に落城しない石山本願寺の外堀を埋めるべく、嫡男信忠情報源のサイトへ
      1577/3/15 全軍出動の命下る。情報源のサイトへ
      1577/4/4 織田信忠、石山本願寺を攻撃。雑賀衆をはじめとする本願寺方はこれを防ぐが、形勢は次第に不利となる情報源のサイトへ
      1577/6/26 雑賀水軍と交戦してこれを破る。情報源のサイトへ
      1577/10 謀反を起こした信貴山城松永久秀を討つ。情報源のサイトへ
1577/10/10 1577年10月10日)。情報源のサイトへ   1577/10/10 1577年10月10日)。情報源のサイトへ
      1577/10/30 上杉謙信、山中鹿之介没。情報源のサイトへ
      1577/11 荒木村重が信長に謀反する。情報源のサイトへ
      1577/11/6 毛利の援軍と木津川口にて再び交戦、九鬼水軍の鉄甲船6隻とも7隻ともいわれる艦隊が、毛利の西国船600隻余りと戦闘するが九鬼水軍の大勝に終わる。(第2次木津川口海戦 ) これにより、石山本願寺は毛利の支援の望みを絶たれる情報源のサイトへ
      1577/11/30 正月、織田信長は摂津の国石山本願寺攻めを布告。情報源のサイトへ
      1577/12/5 羽柴秀吉書状)、武田信玄上杉謙信等の敵を奴隷として売却すること(ルイ・ソテロ等、当時の伝道師の日記)や敵方の女性を競売にかけたり(小田井原の戦い)といった行為等もことさら珍しいことではなかった。このように当時の状況や道徳の違いを考慮してその行動を評価する必要がある情報源のサイトへ
1578 手取川の戦い」で織田軍を打ち破った上杉謙信天正6年情報源のサイトへ   1578 近江国高島郡の領主。明智光秀の娘婿に迎えられる情報源のサイトへ
1578 死去し情報源のサイトへ      
      1578/3 上杉謙信死去。情報源のサイトへ
      1578/3 播磨国の別所長治の謀反(三木合戦)が起こり、また、毛利軍は激しく抵抗し情報源のサイトへ
      1578/3/13 上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めることなく急死したため、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継ぎ争いを始めた(御館の乱)情報源のサイトへ
      1578/7 上月城毛利軍の手に落ちて山中鹿之介ら尼子氏再興軍という味方を失う(上月城の戦い)。情報源のサイトへ
      1578/10 摂津の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し、本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の与力であり東摂津を領する中川清秀、高山右近は信長に降伏した情報源のサイトへ
      1578/10 荒木村重が叛旗を翻す。情報源のサイトへ
      1578/11/6 信長は鉄甲船を考案、6隻を建造し毛利水軍を撃破(第二次木津川口の戦い)。これにより石山本願寺と荒木村重は毛利軍の援助を受けられず孤立し、このころから織田軍は優位に立つ情報源のサイトへ
      1578/12/13 尼ヶ崎近くの七松で荒木村重の一族郎党の婦女子122人を磔にし、鉄砲で次々と撃ち、槍・長刀で刺し殺した。さらに女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した情報源のサイトへ
      1579 (46歳)情報源のサイトへ
      1579 伊勢国の出城構築を伊賀国の国人に妨害されて立腹した織田信雄は、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責するとともに、伊賀国人への敵意をも募らせた(第一次天正伊賀の乱)情報源のサイトへ
      1579 (1579)に完成させている。5重7階の天主を有する華麗な外観を呈し、内部は絵画で色とりどりの間取りを構える豪華絢爛さを誇り、当時の信長の権威を示すものであった情報源のサイトへ
      1579 安土宗論奉行。情報源のサイトへ
      1579 五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天守内部は吹き抜けとなっていたといわれている情報源のサイトへ
      1579/8/30 信長は、キリスト教宣教師オルガンチノに、安土においてキリスト教寺院建立を認める。軍師竹中半兵衛没情報源のサイトへ
      1579/9 荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族の大半が処刑された。次いで情報源のサイトへ
      1579/9/2 荒木村重が尼崎に逃亡する。情報源のサイトへ
      1579/10 それまで毛利方であった備前国の宇喜多直家が信長に服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。情報源のサイトへ
1580 石山本願寺も信長に降伏した。しかし、義昭がまだ備後鞆に滞在中であった情報源のサイトへ   1580 播磨国、但馬国をも攻略。情報源のサイトへ
      1580 10年間戦い続けた大阪の石山本願寺(いしやまほんがんじ)となかなおりする。情報源のサイトへ
      1580 石山本願寺と和睦ののち摂津国石山城主。三好信孝の与力として四国に出陣予定情報源のサイトへ
      1580 信長は林秀貞を昔の謀反の罪で追放したが、同じ罪にあった柴田勝家には罪を問わなかった。そのうえ、信長は存命中、勝家に対し越前875万石という織田家臣団随一の領国と、織田家筆頭家老の地位を与えていた情報源のサイトへ
      1580 から信長直参の馬衆となる。情報源のサイトへ
      1580 石山本願寺を退去し、ここに石山戦争は終結した。織田信長は情報源のサイトへ
      1580/3 かかると言われた距離を2日で(しかも豪雪の中を)踏破し、摂津に対陣している間に浅井・朝倉連合軍が京都に近づいた際にも、急いで帰還して京都を守り抜いている。情報源のサイトへ
      1580/3 信長と本願寺顕如が和睦し情報源のサイトへ
      1580/3/5 権中納言勧修寺晴豊らが、勅命による本願寺と織田信長との和睦の交渉に奔走し、本願寺顕如が石山本願寺を退城することを約定して和睦が成る。( 石山合戦の終結 )情報源のサイトへ
      1580/4 正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。情報源のサイトへ
      1580/4/9 本願寺顕如は、長男である本願寺教如に石山本願寺を譲り紀州の鷺森に退去する。情報源のサイトへ
      1580/8 信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間正勝に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦さに係る不手際を理由に追放処分とした。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した情報源のサイトへ
      1580/8/2 新門跡情報源のサイトへ
      1580/11/17 織田家部将柴田勝家が加賀の国の一向一揆を鎮圧。ここに織田信長の最大の敵であった一向一揆が事実上消滅する情報源のサイトへ
      1581 鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、さらには岩屋城を落として淡路国を攻略した。情報源のサイトへ
      1581 京都馬揃えに参加。沓掛城主情報源のサイトへ
      1581 勝頼から送り返され情報源のサイトへ
      1581 京都馬揃えに参加。息に織田信弐、織田長将情報源のサイトへ
      1581 信雄を総大将とする6万人の軍勢で伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった(第二次天正伊賀の乱)情報源のサイトへ
      1581 京都馬揃えに参加。<サジ・ツゲ・マキをみたら織田関係者と思え、という感じです情報源のサイトへ
      1581 荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、高野山が信長と敵対する動きを見せた。対して使者10数人を差し向け、穏便に事を収めようとする信長であったが、高野山側は使者を全て殺害情報源のサイトへ
      1581/2/28 織田信長は明智光秀に命じ、京都において御馬揃を行い、正親町天皇をはじめ、摂家、公卿等々が観覧する。情報源のサイトへ
      1581/2/28 京の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる京都御馬揃えであるが、これには信長はじめ織田氏一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった[15]情報源のサイトへ
      1581/3/23 高天神城を奪回し、武田氏を追いつめた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた情報源のサイトへ
      1581/3/24 譲位が一旦決定して「めでたいめでたい」とまで記載されたにも関わらず、『兼卿記』情報源のサイトへ
      1581/5 越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中国に行軍し、同地の大部分を支配下に置いた。情報源のサイトへ
      1581/8/30 織田信長は高野山を攻め、高野聖千人余りを処刑する。情報源のサイトへ
1582 信長と嫡子の信忠は本能寺の変で明智光秀に討たれた。光秀の家臣団には伊勢貞興や蜷川貞といった義昭の家臣が多く存在している情報源のサイトへ   1582 信忠付で甲州征伐にも参陣する。本能寺の変に際し織田信忠とともに二条城にいたが、京都から脱出する情報源のサイトへ
      1582 甲州乱入」に従軍し、織田長益とともに鳥居峠の守備。46歳情報源のサイトへ
      1582 カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 編集半保護中の記事 | 移動保護中の記事 | 織田氏 | 織田信長 | 戦国大名 | 織政権の大名 | 中部地方の歴史 | 尾張国の人物 | 衆道 | 1534年生 | 1582年没情報源のサイトへ
      1582 徳川家康と共に天目山の戦いにて武田勝頼・武田信勝らを自害させ、これを平定した。織田信長の天下統一は正しく目前と言えたが、石山戦争に絡む佐久間信盛・佐久間信勝の追放情報源のサイトへ
      1582 (1582)情報源のサイトへ
      1582 四国方面軍の将として義父・三好康長とともに阿波讃岐攻略に向かう摂津の陣中にて、本能寺の変が発生。情報源のサイトへ
      1582 徳川・穴山の接待係り。15万石情報源のサイトへ
      1582 甲州征伐の際には兄・信忠軍の一手の将として甲州に乱入する。尾張犬山城主情報源のサイトへ
      1582/1 蜂屋頼隆の四国渡海に備え和泉岸和田城主。変後、信雄に仕える情報源のサイトへ
      1582/3/11 甲斐国東部の田野において武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した。武田氏滅亡後に信長は、「武田に属していた者はたとえ恭順の意思を示そうとも容赦無く一族まとめて根絶やしにせよ」とする、いわゆる「武田狩り」を命じたといわれる [16] [17] [18]情報源のサイトへ
      1582/4/30 下天のうちを比ぶれば  夢幻の如くなり情報源のサイトへ
      1582/5 武家伝奏勧修寺晴豊と京都所司代村井貞勝の間で信長の任官について話し合いが持たれた。この際、信長が征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することがどちらからか申し出された情報源のサイトへ
      1582/5/15 から情報源のサイトへ
      1582/5/15 駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる情報源のサイトへ
      1582/5/29 織田信長は、信忠、森蘭丸ら数名の近臣を引き連れて京都本能寺にに入る。情報源のサイトへ
      1582/5/29 中国遠征の出兵準備のために上洛し、その後は本能寺(在京)に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京に進軍し情報源のサイトへ
      1582/6 (享年49歳)情報源のサイトへ
      1582/6/1 明智光秀は兵1万3千を引きつれ亀山城を出陣。兵は亀山城から京都に向け老ノ坂を通り沓掛に至り小休止情報源のサイトへ
      1582/6/2 本能寺を襲撃する。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたといわれる情報源のサイトへ
      1582/6/21 戦国時代から安土桃山時代の武将・大名。天下布武を推し進め、楽市楽座、検地などの政策を採用情報源のサイトへ
      1582/10/15 以降はグレゴリオ暦。日付は宣明暦長暦情報源のサイトへ
1583 毛利輝元羽柴秀吉に臣従し情報源のサイトへ      
1586 羽柴秀吉が関白太政大臣となる。しかしその後も、関白秀吉、将軍義昭という時代が約3年間続いた情報源のサイトへ      
1588 1588年))。情報源のサイトへ      
1588 薩摩島津義弘が秀吉の軍門に下ると義昭はついに征夷大将軍を辞して出家し、昌と号した。朝廷からは准三后の待遇を受けている情報源のサイトへ      
1588/1/13 京都に帰還。征夷大将軍を辞して出家情報源のサイトへ      
1588/1/13 また京都五山の住持任命権も足利将軍家に存在したため、その任命による礼金収入は存在していた。 『公卿補任』では、関白豊臣秀吉と共に御所へ参内し、准三后となり正式に征夷大将軍位を辞する天正16年1月13日情報源のサイトへ      
1588/2/9 まで征夷大将軍と正式に記録している。情報源のサイトへ      
1588/2/9 足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!情報源のサイトへ      
1588/11/5 和泉国に移った。に移ると信長の元から羽柴秀吉と朝山日乗が使者として訪れ、義昭の帰京を要請した情報源のサイトへ      
1597 大坂で死去。享年61情報源のサイトへ      
1597 カテゴリ: 質問があるページ | 足利氏 | 征夷大将軍 | 還俗した人物 | 織政権の大名 | 1537年生 | 1597年没情報源のサイトへ      
1597/4/23 改元を実行している。情報源のサイトへ      
1597/8/28 卒去。法号は霊陽院昌山道休情報源のサイトへ      
1597/8/28 足利義昭が享年61歳で死去します…情報源のサイトへ      

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