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足利義昭(あしかがよしあき)

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年月日 できごと 写真
1537/11/13 第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。兄に嗣子である義輝がいたため、幼くして外祖父・近衛尚通の猶子となって仏門(興福寺の一乗院門跡)に入り、覚慶と名乗った 情報源のサイトへ /n9015.jpg
1546 (天文15)に管領・細川晴元(1514-1563)との戦いに敗れた12代将軍・足利義晴(在位1521-1546)は、13代将軍・足利義輝(在位1536-1565)に譲位して近江坂本に落ちますが、その後に晴元と和解して京都に帰還します。しかし 情報源のサイトへ /ashikaga_yoshiteru.jpg /yositeru.jpg
1546 足利義輝 情報源のサイトへ /ashikaga_yoshiteru.jpg /yositeru.jpg
1548 結婚して尾張と美濃の同盟を実現していましたが 情報源のサイトへ
1549 織田信秀との人質交換によって松平広忠の子・竹千代(松平元康・徳川家康)を人質にしていました。甲駿相三国同盟(武田氏・今川氏・北条氏の同盟)を結んで後方の守備を固めた今川義元は、駿河・三河から更に信長の支配する尾張へと進出し始めることになり義元と信長の正面衝突の時が迫っていました 情報源のサイトへ
1549 (天文18)に、管領・細川晴元が家臣の三好長慶との戦いに江口の戦いで敗れたことで、足利義晴と義輝は近江朽木谷(くちきがたに)に亡命を余儀なくされました。 情報源のサイトへ /cap312.jpg /eguchi.jpg
1551 家督を継いだ織田信長を待っていたのは同母弟・織田信勝(織田信行,1536-1557)との家督争いでした。信勝との家督相続争いに勝利した信長の喫緊の課題は『尾張の統一』であり、周辺隣国である美濃や三河、駿河への勢力拡大でしたが、重臣の平手政秀が 情報源のサイトへ /chizu.jpg /obain.jpg
1551 (天文20) 情報源のサイトへ /chizu.jpg /obain.jpg
1551/3/3 病死した時にも、父の葬儀の席に儀礼を無視した突飛なザンバラ髪(茶筅巻き)と袴をつけない格好をして現れ、位牌に向かって抹香(灰)を投げつけてそのまま帰ったという逸話が残っています。信長の祖先は『信秀→信定→良信』まで遡ることができますが、本貫(本拠地)は越前の織田荘(現福井県丹生郡織田町)であり織田剣神社(おたつるぎじんじゃ)の神官の出自ではないかと言われています 情報源のサイトへ
1553 信長の奇行や無頼を批判して諫死します(政秀の自害の理由には諸説あります)。 情報源のサイトへ
1553/4 織田信長と舅の斉藤道三との会見が聖徳寺で成立し、信長の才覚と胆力を見抜いた道三は『自分の子孫はたわけ(信長)の門外に馬をつなぐことになるだろう(降参して支配されるだろう)』と感想を述べており、道三と子の斎藤義龍(よしたつ,1527-1561)との対立が明らかになってくると美濃を信長に譲ることも考えていたようです。この時期の織田信長の最大の敵対勢力は、尾張と国境を接している駿河(するが)の戦国大名で飛ぶ鳥を落とす勢いを誇っていた今川義元(いまがわよしもと,1519-1560)でした 情報源のサイトへ /seishu.jpg /P10002161.jpg
1556/4 義龍と戦って討死しますが、道三の死後には今川義元の侵略の気運が強まり、尾張国内でも信長を追い落とそうとする織田信行・柴田勝家・林通勝・林美作守(林通勝の弟)のクーデターが起こります。信長は信行派(信勝派)のクーデターを鎮圧して尾張の統一を成し遂げますが、弟の織田信行を裏切って信長に密告して手助けした柴田勝家(しばたかついえ,1522-1583)と林通勝(はやしみちかつ,生年不詳-1580)は『返り忠(かえりちゅう)』によって謀反の罪を許され、『信長の家臣団』の結束と忠誠がより強固に固められました 情報源のサイトへ /KUTU1.JPG
1558 13代将軍・足利義輝京都に帰還することになります。近江六角氏の六角承禎(六角義賢)は将軍・足利義輝を支援して戦いましたが 情報源のサイトへ /yositeru3.jpg
1559/2 織田信長上洛し 情報源のサイトへ /rekishi0321.jpg /20060110.jpg
1559/2 織田信長が80人程度の伴を連れて初の京都上洛を果たし、奇抜な装束と豪胆な振る舞いによって京童(きょうわらわ)の耳目を驚かせたといいます。 情報源のサイトへ /rekishi0321.jpg /20060110.jpg
1559/4 越後の上杉政虎(上杉謙信)が上洛して義輝に忠誠を誓い『上杉輝虎(てるとら)』と改名しています。 情報源のサイトへ /4.jpg /20061124224839.jpg
1560 で衝突することになります。義元の攻撃の知らせを聞いた信長は、いつも好んで舞っていた幸若舞(こうわかまい)の『敦盛(あつもり)』を舞って、『人間 情報源のサイトへ
1560 浅井久政の嫡男・浅井長政の攻撃を受けて領土を減らし 情報源のサイトへ /yatakajouheiji-034.jpg /yatakajouheiji-033.jpg
1560 三好長慶は御相伴衆(ごしょうばんしゅう)と修理大夫(しゅりだいふ)に任命されて管領・細川晴元に次ぐ幕政ナンバー2の公的地位を手に入れますが 情報源のサイトへ /sandou.jpg
1560/5 松平氏の三河を掌握した今川義元は4万5000の大軍を組織して尾張への進撃を開始しますが、この進軍の目的は上洛(京都入部)にあったとも尾張国の支配にあったとも言われています。尾張方の鳴海城主・山口が信長を裏切りますが、教は逆に今川義元から切腹させられ、織田信長今川義元桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい, 情報源のサイトへ /oke1.jpg /C2E7C0BBBBFB.jpg /poster.jpg
1561 以降は次々と三好一族の重要人物や嫡子が死去することとなり、長慶の心身は極度に荒廃してその権勢を弱めていきます。三好長慶情報源のサイトへ /kazumasa.jpg
1561 (永禄4)に弟の十河一存 情報源のサイトへ
1561/5 斉藤義龍が病死して嫡子の斉藤龍興(たつおき,1548-1573)が後を継ぎました。当主が龍興に代わってから信長の美濃侵攻が始まりますが、龍興は行状が悪く人望の乏しい人物だったので美濃の内部対立は深まっていましたが、信長の勢力拡大に対する他の戦国大名の警戒心が強く大国美濃(岐阜県)の支配にはかなりの年月を費やすことになります 情報源のサイトへ
1562 (永禄5)に弟の三好義賢 情報源のサイトへ
1562 信長と同盟関係を結びます。三河一向一揆を鎮静化することに成功した松平元康は 情報源のサイトへ /oke1.jpg /poster.jpg
1562 南都一乗院門跡となる。 情報源のサイトへ
1563 新加納の戦いでは龍興に破れるものの 情報源のサイトへ /gifujo320b.jpg
1563 (永禄6)に嫡男の三好義興を相次いで亡くし……最後に追い討ちを掛けるように家宰・松永久秀の讒言と策略にはまってしまい 情報源のサイトへ /24shinngannji.jpg
1564 龍興に不満を抱いた美濃三人衆の一人・安藤守就(あんどうもりなり,重治の舅)と竹中重治(たけなかしげはる)によって居城の稲葉山城を占拠されてしまいます。 情報源のサイトへ
1564/4 今川方の吉田城を落として三河統一をほぼ完成し 情報源のサイトへ
1564/5 忠実な弟であった安宅冬康を自らの命令で誅殺してしまいました。精神的に荒廃して政治的な活力を完全に失っていた長慶は 情報源のサイトへ
1564/7/4 河内飯盛山城下の屋敷においてひっそりと淋しく病死し、幼年の三好義継(よしつぐ,1551-1573・十河一存の子)が家督を継ぎました。 情報源のサイトへ
1565 永禄の変で、第13代将軍であった兄・義輝と母・慶寿院が松永久秀や三好三人衆らによって惨殺され、弟で鹿苑院院主であった足利周嵩も誘殺された。このとき、覚慶も松永久秀らによって捕縛され、興福寺に幽閉された(久秀らは覚慶が将軍の弟で、なおかつ将来は興福寺別当(興福寺は大和の守護大名でもあった)の職を約束されていたことから、覚慶を殺すことで興福寺を敵に回すことを恐れて、幽閉にとどめたとされる) 情報源のサイトへ /61.jpg /9112b.jpg /kenshin_09.jpg /todaiji320a.jpg
1565 (永禄8) 情報源のサイトへ
1565 松永久秀らに実兄の将軍義輝を殺害され、義昭自身も幽閉されるが、細川藤孝らの手引きで近江・和田惟政の下に逃れ、さらに越前・朝倉義景を頼る。 情報源のサイトへ /ashikaga_yoshiteru.jpg /61.jpg /todaiji320a.jpg /080_01.jpg
1565 足利義昭を本拠一乗谷に迎えるが、上洛に難色を示したため織田家へ移られる。 情報源のサイトへ
1565/4/21 従五位下、左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官。なお、叙任時期については疑問視する意見があるが、山科言の『言卿記』によれば 情報源のサイトへ
1565/5/1 13代将軍・足利義輝から『義』の字を偏諱されて『義重』と改名し義輝の奏請で左京大夫へと昇進するのですが、松永久秀と三好三人衆の傀儡であった三好義重(義継)は松永久通(ひさみち,1543-1577)と共に将軍・義輝の居館を襲撃します。 情報源のサイトへ /ashikaga_yoshiteru.jpg /61.jpg /todaiji320a.jpg /05.jpg
1565/5/19 昼間に、三好義継と松永久通は約1万の軍勢で将軍・足利義輝の居る二条御所を包囲して襲撃し、義輝は奮闘も虚しく殺害されました。足利義輝は上泉信綱(かみいずみのぶつな,1508-1577)に剣術の指導を受け、塚原卜伝(つかはらぼくでん,1489-1571)に奥義の伝授を受けた将軍であり、『剣豪』『剣聖将軍』と呼ばれることもあります 情報源のサイトへ /ashikaga_yoshiteru.jpg /05.jpg
1565/7/28 室町幕府の再興を図ることになります。 情報源のサイトへ /9112b.jpg /kenshin_09.jpg
1565/12 三好三人衆と松永久秀の抗争に翻弄された義栄は、三好三人衆の推挙で 情報源のサイトへ /61.jpg /todaiji320a.jpg
1566 一夜にして墨俣城(すのまたじょう)の築城に成功したというものがあります。尾張と美濃を支配領域に組み込んだ織田信長京都上洛への野心を持ち始めますが、この時期の京都で幕府の実権を掌握していたのは足利将軍家ではなく、細川晴元の重臣・三好長慶(みよしながよし,1522-1564)や長慶の家臣である松永久秀(まつながひさひで,1510-1577)らでした 情報源のサイトへ /DSCN43151.jpg /mecha_b2.jpg /yamanaka.jpg /20060913_238706.jpg /20051119_kyoto-jukohin.JPG
1566 正統な血筋による将軍家を再興するため、永禄9年 情報源のサイトへ
1566 以降、上洛を伺う信長との戦いに敗れ、将軍・義昭が京都から追放されて反信長の戦いを挑み始める 情報源のサイトへ /082_05.jpg /081_04.jpg
1566 従五位下に叙し、左馬頭に任官。(叙位任官時期については疑問視もある) 情報源のサイトへ
1566 従五位三河守に任命され名前を松平元康から徳川家康(とくがわいえやす,1543-1616)に改めました。三河の徳川氏と結んで背後の憂いを断った織田信長は、舅の斉藤道三亡き後の美濃統一に乗り出しますが 情報源のサイトへ /mecha_b2.jpg /yamanaka.jpg /nec_1566.jpg /1_hiki_s.jpg
1566/2 覚慶は還俗して名前を足利義秋(よしあき)に改めますが、幕府復興の軍事勢力として最も強い期待を寄せる上杉謙信武田信玄以外にも、薩摩の島津貴久・義久父子や織田信長、斉藤龍興にも助力を依頼しました。 情報源のサイトへ /mecha_b2.jpg /yamanaka.jpg /maki_hori.jpg /sougouhaku.jpg /minowa_jo2.jpg
1566/2/17 矢島御所において還俗し足利義秋と名乗った。矢島御所とは義秋が、御供衆でもあり六角氏とも深い関係にあった和田惟政(甲賀住人)と御相伴衆でもあり六角氏一族の仁木義政(伊賀住人)の斡旋により近江の六角義賢・義治親子の許可を得た上で、山奥の甲賀郡から都にほど近い野洲郡矢島村守山市矢島町)に進出し、在所(二町四方の規模で二重の水堀で囲まれていたとの記録が残る)としたものであった 情報源のサイトへ
1566/8 妹の婿である武田義統を頼り、若狭へ下った。 情報源のサイトへ
1566/8 三好三人衆の三好長逸に攻められた義秋は、越前一乗谷の朝倉義景を頼って更に上杉謙信に厳しく出兵を督促します。 情報源のサイトへ /minowa_jo2.jpg
1566/9 若狭から越前の朝倉義景(仁木義政の親族であるという)のもとへ移り、上洛への助力を要請した。義秋は朝廷に朝倉義景の母を従二位にすることを奏上して、実現したりしている 情報源のサイトへ /ounin01.jpg /story_08_img.gif
1566/11/30 号は就任年。足利義稙足利義材の再任 情報源のサイトへ
1567 (永禄10)には龍興方の重臣である美濃三人衆(稲葉通朝,いなばみちとも・氏家卜全,うじいえぼくぜん・安藤守就,あんどうもりなり)が信長に内応して謀反を起こします。内応に応じて進軍した織田信長軍は、美濃の重要拠点である稲葉山城井ノ口城)を陥落させ、城主の斉藤龍興は伊勢長島へと落ち延びて反信長の闘争に参加し続けることになります 情報源のサイトへ /0000002364_0000009297_000000063568.jpg /0000002364_0000009297_000000063569.jpg
1567/11 から、信長は禅僧の沢彦(たくげん)が選んだ『天下布武(てんかふぶ)』の四文字を自分の印章として用い始め、日本全土を武力によって制覇するという専制統治の理想に向かって前進することになります。 情報源のサイトへ
1568 全国の戦国大名に織田信長の圧倒的な存在感と強大な軍事力を見せ付けた年であり、信長が『天下布武の手段』として室町幕府の権威と政治機構を利用する足がかりが準備された年でもありました。この後、『御父織田弾正忠・武勇天下第一』と呼んで父親のように慕っていた信長と足利義昭の関係が急速に悪化していき、義昭は幕府・将軍の威令に服従しない信長を討伐するために全国の大名に信長包囲網の形成を命令する事態へと発展していきます 情報源のサイトへ /14.jpg /yakata.jpg
1568 尾張織田信長に担がれ上洛し、室町幕府15代将軍に就くが、傀儡に過ぎず、信長と不仲になる。御内書を濫発して反信長勢力の挙兵を再三行うが 情報源のサイトへ /14.jpg /yakata.jpg
1568 上洛すると、名茶器の『九十九髪茄子(つくもがみなす)』を差し出して信長に降伏して家臣になります。最終的には、上杉謙信毛利輝元、石山本願寺と呼応して信長に再度の反乱を企てたものの戦いに敗れることになり、爆死という奇天烈な方法によって自害を遂げます 情報源のサイトへ /yotugomon.jpg /kensindaira.jpg
1568 足利義昭を奉じた織田信長軍を『観音寺城の戦い(かんのんじじょう)』を戦って大敗し戦国大名としての六角氏は没落します。その後も六角承禎は、浅井長政や三好氏らと連帯したり15代将軍・義昭の信長包囲網に加わったりして『反信長の戦闘』を続けますが 情報源のサイトへ /jyoukouin.gif /ninja400ax.jpg /eisyoji640a.jpg /OOYORI.JPG
1568 上杉謙信武田信玄・北条氏政の三国同盟が成立して、いよいよ謙信が京都に上洛してくるのかと思われたのですが、越後一向一揆や国人の反乱によって謙信はなかなか京都への出兵を断行できませんでした。 情報源のサイトへ /yotugomon.jpg /kensindaira.jpg /RIMG0125shuusei.JPG /4894569515.jpg
1568 なお、朝倉家滞在中の永禄11年 情報源のサイトへ
1568/2 行われた義昭の対抗馬である足利義栄への将軍宣下当日に宣下の使者であった言の屋敷に義昭の使者が現れて従四位下への昇進推薦の仲介を依頼しに来たために困惑した事が書かれており、この以前に叙任を受けていた事は明らかである。 情報源のサイトへ /hisahide.jpg
1568/2/8 14代将軍に就任しますが、背中に腫瘍(腫物)を患っており結局京都に入ることがないまま 情報源のサイトへ
1568/4 越前一乗谷で元服を終えた義秋が足利義昭(よしあき)と更に改名しました。 情報源のサイトへ
1568/4/15 「秋」の字は不吉であるとし、正式に元服して義昭と改名した。加冠役は朝倉義景が務めている(なお、義昭はこの時点まで正式な元服を行ったという文献史料は一切無く、当時としてはあまりに遅すぎる元服だったといえる) 情報源のサイトへ /080_01.jpg /spot10.jpg
1568/7 佐久間信盛(さくまのぶもり)・村井貞勝(むらいさだかつ)を使者として派遣し、義昭の身柄を拠点の岐阜へと移送します。信長は近江の六角承禎と同盟を結んで安全な通行路を確保することに失敗しますが 情報源のサイトへ
1568/9 沿道の美濃斎藤氏・北近江浅井氏・南近江六角氏などの支持も受けた上で、直接には織田信長率いる尾張軍と浅井長政率いる北近江軍に警護されて上洛した。途中、六角氏の有力支族である箕作氏の反乱もあったが退け、無事京都に到着した 情報源のサイトへ /14.jpg /yakata.jpg /jyoukouin.gif /OOYORI.JPG
1568/9 腫瘍を悪化させて死去しました。 情報源のサイトへ
1568/9 いう日時は、奇しくも上洛して天下布武の号令をかけようとする織田信長が15代将軍となる足利義昭を奉じて上洛した年でした。足利義輝には鹿苑寺院主の足利嵩(しゅうこう,生年不詳-1565)と奈良の一乗院門跡・足利覚慶(かくけい,1537-1597・足利義昭)がいましたが、嵩は永禄の変後に久秀に殺害され、後の足利義昭となる覚慶だけが生き残りました 情報源のサイトへ /9112b.jpg /kenshin_09.jpg /080_01.jpg /hisahide.jpg
1568/9/7 実力行使で上洛の道を進むことを決断し、尾張・美濃・伊勢・三河の領土から約4万の大軍勢を集めて岐阜から京都へ進軍を開始しました。圧倒的な軍事力で突き進んでくる信長を前にすると 情報源のサイトへ
1568/9/12 近江の六角承禎・義治親子は拠点の観音寺城を捨てて伊賀へと逃走し、織田信長と足利義昭は 情報源のサイトへ /14.jpg /yakata.jpg
1568/9/26 三好三人衆が逃げ出した後の京都に悠々と入京しました。 情報源のサイトへ
1568/10/14 足利義昭は京都の本圀寺(ほんこくじ)に入り 情報源のサイトへ /dorui.jpg /m0401480.jpg
1568/10/18 朝廷から将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。同時に従四位下、参議・左近衛権中将にも昇叙・任官された 情報源のサイトへ
1568/10/18 室町幕府の第15代征夷大将軍に任命されることになり、義昭の信長に対する感謝の念は並々ならぬものがありました。15代将軍・義昭は『幕府復興の最大の功労者』である織田信長に、近江・山城・和泉・摂津・河内といった畿内の最重要拠点や副将軍・管領の地位を恩賞として与えようとしますが、室町幕府の政治機構に従うつもりなど全くない信長はこれを拒否して岐阜へといったん帰国します 情報源のサイトへ /14.jpg /yakata.jpg
1569 しかし幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を狙っていた信長の思惑は違っていたために、両者の関係は悪化していくこととなる。信長は将軍権力を制約するために、永禄12年 情報源のサイトへ
1569 義昭は当初、本圀寺を仮御所としていたが、永禄12年 情報源のサイトへ
1569/1 織田信長の兵が領国の美濃・尾張に帰還すると三好三人衆の巻き返しに晒され、本圀寺を襲われた(本圀寺の変)。兄義輝と同様の運命になるかとも思われたが、この時は奉公衆および北近江浅井長政摂津の池田勝正・和田惟政らの奮戦により、これを撃退した 情報源のサイトへ /noda.gif
1569/1 『殿中御掟』という9箇条[1]の掟書を義昭に承認させた。これにより、将軍の行動は大きく制限された 情報源のサイトへ
1569/6/22 従三位に昇叙し、権大納言に栄進。 情報源のサイトへ
1569/10/24 信長に対して宛てた感状で、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛て名して以後の幕府への協力も求めた。 情報源のサイトへ
1570 義昭を擁した信長が義景へ上洛命令を発するとこれを無視、織田勢の攻撃を受ける。しかし浅井氏の味方を得て撃退し、以後浅井氏とともに足利義昭・武田信玄と結んで信長と争った 情報源のサイトへ /akazonae-2005-07-10T15:44:22-1.jpg /imgp2878_.jpg
1570 信長の家臣・柴田勝家に敗れて監禁され 情報源のサイトへ
1570/1 5箇条が追加され、信長による将軍の傀儡化が一層進むことになった。 情報源のサイトへ
1571 頃から関東管領の上杉輝虎(謙信)や右馬頭の毛利輝元、本願寺顕如や武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめた。これは一般に信長包囲網と呼ばれている 情報源のサイトへ /nishikubo_chobo.jpg /busetsusct.jpg
1572/10 信長は義昭に対して17条の意見状を送付した。この意見書で信長は義昭が勝手な行動をしていることを批判し、さらに義昭が民衆に『悪御所』と呼ばれているとしている 情報源のサイトへ
1572/12/22 三方ヶ原の戦いで信長の同盟者である徳川家康の軍勢を破るなど、信長は窮地に陥った。翌 情報源のサイトへ /01s.jpg /hi.jpg
1573 正月、信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたが、義昭はこれを一蹴した。義昭は近江の今堅田城と石山城に自分の兵を入れ、はっきりと反信長の旗を揚げた 情報源のサイトへ
1573 改元) 情報源のサイトへ
1573 越前の朝倉義景と共に信長軍と戦い戦死することになりました。美濃の小牧山城から稲葉山城に拠点を移した信長は、中国の古代王朝であるの文王が岐山(きざん)から起こったという故事に基づいて井ノ口の地名を『岐阜(ぎふ)』に改め、天下統一への野心を更に強固にしました 情報源のサイトへ /n9016.jpg /10.jpg /nagasima-p.jpg /nagasima-p.jpg
1573 足利義昭と通じて再び敵対。淀城に籠ったが、織田方の細川藤孝らに攻められて戦死した 情報源のサイトへ
1573 中には京都・畿内における影響力を完全に失いました。大和奈良)の信貴山城(しぎさんじょう)を拠点とする商人出身の松永久秀は『乱世の梟雄』としてその権謀術数の怜悧さを恐れられましたが、織田信長情報源のサイトへ /1018fukui113.jpg /c0114.jpg
1573 信長に京都を逐われ、後に安芸・毛利氏に身を寄せてからも、反信長勢力の決起を謀り続けた。豊臣秀吉による天下統一後は、山城・槇島城に1万石を得た 情報源のサイトへ /P10004081.jpg /P1100818.JPG
1573/4 本国への撤退を始める。信玄は 情報源のサイトへ
1573/4/12 死去した。 情報源のサイトへ
1573/7 足利義昭が織田信長京都を追放された時点で事実上室町幕府は終ったと言われてます!正直間違いないと思いますが…将軍が京都を追放された時点で幕府滅亡であれば…足利義昭の数代前の将軍の時点で室町幕府は既に滅亡してた事になるんですよ…元々応仁の乱以降有名無実だった幕府の滅亡は「足利義昭の将軍職辞任」の時点とまるこは思っています!!あくまで個人的意見ですが… 情報源のサイトへ /utsu_bakuf.jpg /inamuragasaki.JPG /1018fukui113.jpg /c0114.jpg
1573/7/3 義昭が講和を破棄。烏丸中御門第を三淵藤英・伊勢貞興や公家奉公衆に預けたうえで、南山城槇島城に御座所を移し挙兵した 情報源のサイトへ
1573/7/18 織田軍が攻撃を開始すると槇島城の施設はほとんど破壊され 情報源のサイトへ
1573/7/18 うちに義昭は息子の義尋を人質として差し出し、降伏を申し入れた。 情報源のサイトへ
1573/7/18 足利義昭が京都を追放されます!! 情報源のサイトへ
1573/8 織田軍が朝倉軍を追撃して越前に乱入すると、なお遁れようとする主義景を見限って自害に追い込む。その後本領を安堵され、姓を土橋と名乗って信長配下となるが 情報源のサイトへ
1573/8 朝倉氏 情報源のサイトへ
1573/9 浅井氏も滅亡し、信長包囲網は完全に瓦解した。 情報源のサイトへ
1574 紀伊国の興国寺に移り、ついで泊城に移った。紀伊は畠山氏の勢力がまだ残る国であり、特に畠山高政の重臣で、幕府奉公衆でもあった湯川氏の勢力は強大で、よく義昭を守った 情報源のサイトへ
1574 京都より追放される。備後鞆の浦に亡命政府(鞆幕府)樹立 情報源のサイトへ
1574 脱走して消息が不明となりました。13代将軍・義輝が京都に戻った 情報源のサイトへ
1576 義昭は備後の鞆に移り、毛利輝元の庇護を受けるようになった。鞆はかつて足利尊氏が光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受けたという、足利家にとっての由緒がある場所であった 情報源のサイトへ /maru_r1.jpg
1577/10/10 1577年10月10日)。 情報源のサイトへ
1578 手取川の戦い」で織田軍を打ち破った上杉謙信天正6年 情報源のサイトへ /siro_matutou_zu.jpg /uesugi_kenshin.jpg /t17.jpg /kenshin.jpg
1578 死去し 情報源のサイトへ
1580 石山本願寺も信長に降伏した。しかし、義昭がまだ備後鞆に滞在中であった 情報源のサイトへ
1582 信長と嫡子の信忠は本能寺の変で明智光秀に討たれた。光秀の家臣団には伊勢貞興や蜷川貞といった義昭の家臣が多く存在している 情報源のサイトへ /%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA.bmp /PICT44951.jpg /hon-hieizan.jpg /P1090802.JPG
1583 毛利輝元羽柴秀吉に臣従し 情報源のサイトへ /clip_image00219.jpg /hasiba.jpg
1586 羽柴秀吉が関白太政大臣となる。しかしその後も、関白秀吉、将軍義昭という時代が約3年間続いた 情報源のサイトへ
1588 1588年))。 情報源のサイトへ
1588 薩摩島津義弘が秀吉の軍門に下ると義昭はついに征夷大将軍を辞して出家し、昌と号した。朝廷からは准三后の待遇を受けている 情報源のサイトへ
1588/1/13 京都に帰還。征夷大将軍を辞して出家 情報源のサイトへ
1588/1/13 また京都五山の住持任命権も足利将軍家に存在したため、その任命による礼金収入は存在していた。 『公卿補任』では、関白豊臣秀吉と共に御所へ参内し、准三后となり正式に征夷大将軍位を辞する天正16年1月13日 情報源のサイトへ /mikuruma1.jpg /b12-87a.jpg
1588/2/9 まで征夷大将軍と正式に記録している。 情報源のサイトへ
1588/2/9 足利義昭が征夷大将軍職を辞任します! 情報源のサイトへ
1588/11/5 和泉国に移った。に移ると信長の元から羽柴秀吉と朝山日乗が使者として訪れ、義昭の帰京を要請した 情報源のサイトへ /jyurakudai.jpg
1597 大坂で死去。享年61 情報源のサイトへ
1597 カテゴリ: 質問があるページ | 足利氏 | 征夷大将軍 | 還俗した人物 | 織政権の大名 | 1537年生 | 1597年没 情報源のサイトへ
1597/4/23 改元を実行している。 情報源のサイトへ
1597/8/28 卒去。法号は霊陽院昌山道休 情報源のサイトへ
1597/8/28 足利義昭が享年61歳で死去します… 情報源のサイトへ

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