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足利義昭(あしかがよしあき)
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| 年月日 | できごと | 写真 |
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| 1537/11/13 |
第12代将軍・ |
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| 1546 |
(天文15)に管領・細川晴元(1514-1563)との戦いに敗れた12代将軍・ |
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| 1546 |
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| 1548 |
結婚して |
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| 1549 |
織田信秀との人質交換によって松平広忠の子・竹千代(松平元康・ |
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| 1549 |
(天文18)に、管領・細川晴元が家臣の |
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| 1551 |
家督を継いだ |
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| 1551 |
(天文20)
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| 1551/3/3 |
病死した時にも、父の葬儀の席に儀礼を無視した突飛なザンバラ髪(茶筅巻き)と袴をつけない格好をして現れ、位牌に向かって抹香(灰)を投げつけてそのまま帰ったという逸話が残っています。信長の祖先は『信秀→信定→良信』まで遡ることができますが、本貫(本拠地)は越前の織田荘(現 |
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| 1553 |
信長の奇行や無頼を批判して諫死します(政秀の自害の理由には諸説あります)。
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| 1553/4 |
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| 1556/4 |
義龍と戦って討死しますが、 |
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| 1558 |
13代将軍・ |
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| 1559/2 |
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| 1559/2 |
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| 1559/4 |
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| 1560 |
で衝突することになります。義元の攻撃の知らせを聞いた信長は、いつも好んで舞っていた幸若舞(こうわかまい)の『敦盛(あつもり)』を舞って、『人間
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| 1560 |
浅井久政の嫡男・ |
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| 1560 |
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| 1560/5 |
松平氏の三河を掌握した |
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| 1561 |
以降は次々と三好一族の重要人物や嫡子が死去することとなり、長慶の心身は極度に荒廃してその権勢を弱めていきます。 |
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| 1561 |
(永禄4)に弟の十河一存
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| 1561/5 |
斉藤義龍が病死して嫡子の斉藤龍興(たつおき,1548-1573)が後を継ぎました。当主が龍興に代わってから信長の美濃侵攻が始まりますが、龍興は行状が悪く人望の乏しい人物だったので美濃の内部対立は深まっていましたが、信長の勢力拡大に対する他の戦国大名の警戒心が強く大国美濃( |
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| 1562 |
(永禄5)に弟の三好義賢
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| 1562 |
信長と同盟関係を結びます。 |
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| 1562 |
南都一乗院門跡となる。
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| 1563 |
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| 1563 |
(永禄6)に嫡男の三好義興を相次いで亡くし……最後に追い討ちを掛けるように家宰・ |
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| 1564 |
龍興に不満を抱いた美濃三人衆の一人・安藤守就(あんどうもりなり,重治の舅)と竹中重治(たけなかしげはる)によって居城の稲葉山城を占拠されてしまいます。
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| 1564/4 |
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| 1564/5 |
忠実な弟であった安宅冬康を自らの命令で誅殺してしまいました。精神的に荒廃して政治的な活力を完全に失っていた長慶は
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| 1564/7/4 |
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| 1565 |
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| 1565 |
(永禄8)
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| 1565 |
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| 1565 |
足利義昭を本拠一乗谷に迎えるが、上洛に難色を示したため織田家へ移られる。
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| 1565/4/21 |
従五位下、左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官。なお、叙任時期については疑問視する意見があるが、山科言 |
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| 1565/5/1 |
13代将軍・ |
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| 1565/5/19 |
昼間に、三好義継と松永久通は約1万の軍勢で将軍・ |
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| 1565/7/28 |
室町幕府の再興を図ることになります。
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| 1565/12 |
三好三人衆と |
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| 1566 |
一夜にして |
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| 1566 |
正統な血筋による将軍家を再興するため、永禄9年
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| 1566 |
以降、上洛を伺う信長との戦いに敗れ、将軍・義昭が |
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| 1566 |
従五位下に叙し、左馬頭に任官。(叙位任官時期については疑問視もある)
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| 1566 |
従五位 |
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| 1566/2 |
覚慶は還俗して名前を足利義秋(よしあき)に改めますが、幕府復興の軍事勢力として最も強い期待を寄せる |
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| 1566/2/17 |
矢島御所において還俗し足利義秋と名乗った。矢島御所とは義秋が、御供衆でもあり六角氏とも深い関係にあった和田惟政(甲賀住人)と御相伴衆でもあり六角氏一族の仁木義政(伊賀住人)の斡旋により近江の六角義賢・義治親子の許可を得た上で、山奥の |
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| 1566/8 |
妹の婿である武田義統を頼り、 |
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| 1566/8 |
三好三人衆の三好長逸に攻められた義秋は、越前一乗谷の |
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| 1566/9 |
若狭から越前の |
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| 1566/11/30 |
号は就任年。 |
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| 1567 |
(永禄10)には龍興方の重臣である |
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| 1567/11 |
から、信長は禅僧の沢彦(たくげん)が選んだ『天下布武(てんかふぶ)』の四文字を自分の印章として用い始め、 |
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| 1568 |
全国の戦国大名に |
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| 1568 |
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| 1568 |
上洛すると、名茶器の『九十九髪茄子( |
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| 1568 |
足利義昭を奉じた |
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| 1568 |
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| 1568 |
なお、朝倉家滞在中の永禄11年
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| 1568/2 |
行われた義昭の対抗馬である |
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| 1568/2/8 |
14代将軍に就任しますが、背中に腫瘍(腫物)を患っており結局 |
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| 1568/4 |
越前一乗谷で元服を終えた義秋が足利義昭(よしあき)と更に改名しました。
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| 1568/4/15 |
「秋」の字は不吉であるとし、正式に元服して義昭と改名した。加冠役は |
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| 1568/7 |
佐久間信盛(さくまのぶもり)・村井貞勝(むらいさだかつ)を使者として派遣し、義昭の身柄を拠点の |
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| 1568/9 |
沿道の美濃斎藤氏・北 |
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| 1568/9 |
腫瘍を悪化させて死去しました。
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| 1568/9 |
いう日時は、奇しくも上洛して天下布武の号令をかけようとする |
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| 1568/9/7 |
実力行使で上洛の道を進むことを決断し、 |
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| 1568/9/12 |
近江の六角承禎・義治親子は拠点の |
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| 1568/9/26 |
三好三人衆が逃げ出した後の |
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| 1568/10/14 |
足利義昭は |
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| 1568/10/18 |
朝廷から将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。同時に従四位下、参議・左近衛権中将にも昇叙・任官された
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| 1568/10/18 |
室町幕府の第15代征夷大将軍に任命されることになり、義昭の信長に対する感謝の念は並々ならぬものがありました。15代将軍・義昭は『幕府復興の最大の功労者』である |
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| 1569 |
しかし幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を狙っていた信長の思惑は違っていたために、両者の関係は悪化していくこととなる。信長は将軍権力を制約するために、永禄12年
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| 1569 |
義昭は当初、本圀寺を仮御所としていたが、永禄12年
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| 1569/1 |
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| 1569/1 |
『殿中御掟』という9箇条[1]の掟書を義昭に承認させた。これにより、将軍の行動は大きく制限された
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| 1569/6/22 |
従三位に昇叙し、権大納言に栄進。
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| 1569/10/24 |
信長に対して宛てた感状で、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛て名して以後の幕府への協力も求めた。
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| 1570 |
義昭を擁した信長が義景へ上洛命令を発するとこれを無視、織田勢の攻撃を受ける。しかし浅井氏の味方を得て撃退し、以後浅井氏とともに足利義昭・ |
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| 1570 |
信長の家臣・柴田勝家に敗れて監禁され
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| 1570/1 |
5箇条が追加され、信長による将軍の傀儡化が一層進むことになった。
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| 1571 |
頃から |
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| 1572/10 |
信長は義昭に対して17条の意見状を送付した。この意見書で信長は義昭が勝手な行動をしていることを批判し、さらに義昭が民衆に『悪御所』と呼ばれているとしている
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| 1572/12/22 |
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| 1573 |
正月、信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたが、義昭はこれを一蹴した。義昭は近江の |
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| 1573 |
改元)
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| 1573 |
越前の |
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| 1573 |
足利義昭と通じて再び敵対。淀城に籠ったが、織田方の |
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| 1573 |
中には |
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| 1573 |
信長に |
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| 1573/4 |
本国への撤退を始める。信玄は
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| 1573/4/12 |
死去した。
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| 1573/7 |
足利義昭が |
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| 1573/7/3 |
義昭が講和を破棄。烏丸中御門第を三淵藤英・伊勢貞興や公家奉公衆に預けたうえで、 |
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| 1573/7/18 |
織田軍が攻撃を開始すると |
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| 1573/7/18 |
うちに義昭は息子の義尋を人質として差し出し、降伏を申し入れた。
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| 1573/7/18 |
足利義昭が |
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| 1573/8 |
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| 1573/8 |
朝倉氏
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| 1573/9 |
浅井氏も滅亡し、信長包囲網は完全に瓦解した。
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| 1574 |
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| 1574 |
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| 1574 |
脱走して消息が不明となりました。13代将軍・義輝が |
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| 1576 |
義昭は |
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| 1577/10/10 |
1577年10月10日)。
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| 1578 |
「 |
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| 1578 |
死去し
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| 1580 |
石山本願寺も信長に降伏した。しかし、義昭がまだ |
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| 1582 |
信長と嫡子の信忠は |
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| 1583 |
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| 1586 |
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| 1588 |
1588年))。
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| 1588 |
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| 1588/1/13 |
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| 1588/1/13 |
また |
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| 1588/2/9 |
まで征夷大将軍と正式に記録している。
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| 1588/2/9 |
足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!
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| 1588/11/5 |
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| 1597 |
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| 1597 |
カテゴリ: 質問があるページ | 足利氏 | 征夷大将軍 | 還俗した人物 | 織 |
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| 1597/4/23 |
改元を実行している。
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| 1597/8/28 |
卒去。法号は霊陽院昌山道休
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| 1597/8/28 |
足利義昭が享年61歳で死去します…
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