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西行(さいぎょう)

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西行(さいぎょう)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1118 西行(さいぎょう、1118年 情報源のサイトへ
1135 18歳で兵衛尉に任ぜられ、同 情報源のサイトへ
1137 鳥羽院の北面の武士として奉仕していたことが記録に残る。同 情報源のサイトへ
1140 23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。その動機には、友人の急死にあって無常を感じたという説が主流だが、失恋説もあり、これは『源平盛衰記』に、高貴な上臈女房と逢瀬をもったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとある 情報源のサイトへ
1144 ごろ奥羽地方へはじめての旅行。 情報源のサイトへ
1149 前後に高野に入り 情報源のサイトへ
1168 四国への旅を行った。このとき善通寺でしばらく庵を結んだらしい 情報源のサイトへ
1177 伊勢二見浦に移った。 情報源のサイトへ
1177 後高野山に戻るが、治承元年 情報源のサイトへ
1186 東大寺勧進のため二度目の奥州下りを行い、伊勢に数年住ったあと河内弘川寺(大阪府河南町)に庵居。 情報源のサイトへ
1187 自歌合『御裳濯河歌合』を成して俊成の判を請い、またさらに自歌合『宮河歌合』を作って当時いまだ一介の新進歌人に過ぎなかった藤原定家に判を請うたことは特筆に価する(この二つの歌合はそれぞれ伊勢神宮の内宮と外宮に奉納された)。しばしば西行は「歌壇の外にあっていかなる流派にも属さず、しきたりや伝統から離れて、みずからの個性を貫いた歌人」として見られがちであるが、これはあきらかに誤った西行観であることは強調されねばならない 情報源のサイトへ
1187 和歌に関する若年時の事跡はほとんど伝わらないが、崇徳院歌壇にあって藤原俊成と交を結び、一方で俊恵が主催する歌林苑からの影響をも受けたであろうことはほぼ間違いないと思われる。出家後は山居や旅行のために歌壇とは一定の距離があったようだが、文治3年 情報源のサイトへ
1187/2/16 釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。享年73 情報源のサイトへ
1187/5 書房、1978 情報源のサイトへ
1190 この地で入寂した。かつて「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家や僧慈円の感動と共感を呼び当時名声を博した 情報源のサイトへ
1190 カテゴリ: 平安時代の歌人 | 鎌倉時代の歌人 | 日本の僧 | 秀郷流 | 1118年生 | 1190年没 情報源のサイトへ
1190/2/16 院政期から鎌倉時代初期にかけての僧侶・歌人。 父左衛門尉佐藤康清、母源清経女 情報源のサイトへ

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