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できごと |
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年月日 |
できごと |
| 706 |
移動: ナビゲーション, 検索 藤原 仲麻呂( ふじわら の なかまろ、慶雲3年 |
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733 |
看病禅師として内道場に出仕し、天平宝字5年 |
| 734 |
従五位下に進む。 |
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| 734 |
年少にして大納言・安倍宿奈麻呂に算術を学び、すぐれた学才を示した。大学少允に最初に任官し、天平6年 |
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| 735 |
これが孝謙上皇を激怒させ、上皇は出家して尼になるとともに天皇から大事・賞罰の大権を奪うことを宣言するが、この実現については研究者のあいだでも理解が分かれる。孝謙上皇の 道鏡への寵愛は更に深まり、天平宝字7年 |
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| 736 |
孝謙上皇・ 道鏡と 淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まり、危機感を抱いた仲麻呂は天平宝字8年 |
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| 737 |
天然痘の流行により父の武智麻呂を含む藤原四兄弟が相次いで死去し、藤原氏の勢力は大きく後退した。代わって橘諸兄が台頭して国政を担うようになった |
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| 741 |
民部卿。 |
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| 743 |
参議となる。 |
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| 744/3/1 |
安積親王の恭仁 京での急死は、仲麻呂による毒殺説があるが疑問も出されている。 |
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| 746 |
式部卿に転じる。仲麻呂は叔母にあたる 光明皇后の信任が厚く、また皇太子阿倍内親王ともこの時は良好な関係にあったとされる |
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| 749 |
聖武天皇が譲位して阿倍内親王が即位( 孝謙天皇)すると、仲麻呂は大納言に昇進。次いで、 光明皇后のために設けられた紫微 中台の令(長官)を兼ねた |
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| 755 |
諸兄が朝廷を誹謗したとの密告があり、諸兄は恥じて官を辞職し |
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| 756 |
聖武太上天皇が崩御し、遺言により 道祖王が立太子された。だが |
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| 757/3 |
道祖王は喪中の不徳な行動が問題視されて廃太子された。代わって、仲麻呂の早世した長男真従の未亡人(粟田諸姉)を妃とする 大炊王が立太子される |
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| 757/5 |
祖父の不 比等が着手した養老律令を施行。 |
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| 757/5 |
仲麻呂は紫微内相(大臣に准じる)に進む。 |
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| 757/6 |
上道斐太都らの密告により露見。 奈良麻呂の一味は捕らえられ、443人が処罰される 大事件となった |
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| 758 |
孝謙天皇が譲位して 大炊王が即位( 淳仁天皇)した。 淳仁天皇を擁立した仲麻呂は独自な政治を行うようになり、中男・正丁の年齢繰上げや雑徭の半減、問民苦使・平準署の創設など徳治政策を進めるとともに、官名を唐風に改称させるなど唐風政策を推進した(太政官→乾政官、太政大臣→大師など |
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| 758 |
唐で 安禄山の乱が起きたとの報が 日本にもたらされ、仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。 |
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| 758/8/25 |
官職の唐風改称を参照)。仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、同年8月25日 |
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| 758/10/5 |
恵美押勝の名を与えられる。 |
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| 759 |
新羅が 日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられた |
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| 760 |
仲麻呂は皇族以外で初めて太師(太政大臣)に任ぜられる。 |
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| 760 |
光明皇太后が逝去した。皇太后の信任厚かった仲麻呂にとっては大きな打撃となる |
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| 761 |
淳仁天皇と孝謙上皇を 近江国の 保良宮に行幸させる。唐の制度にならって 保良宮を「 北宮」、 難波宮を「 西宮」とする |
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761 |
保良宮において 孝謙天皇(後の 称徳天皇)の病気を治して以後重んじられた。 藤原仲麻呂の乱の後 |
| 762 |
仲麻呂は3人の息子の真先、訓儒麻呂、朝狩を参議につけた。 |
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| 763 |
少僧都とした。 |
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763 |
少僧都に任じられ |
| 764 |
都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、さらなる軍事力の掌握を企てるが、謀反との密告もあり、 淳仁天皇の保持する御璽・駅鈴を奪われるなど孝謙上皇に先手を打たれて、仲麻呂は 平城京を脱出する。子の辛加知が国司の 越前国に入り再起を図るが官軍に阻まれて失敗 |
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| 764 |
カテゴリ: 藤原南家 | 奈良時代の人物 | 奈良県の歴史 | 滋賀県の歴史 | 706年生 | 764年没 |
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| 764/10/21 |
奈良時代の公卿。父は 藤原武智麻呂 |
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765 |
太政大臣禅師 |
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765/11/30 |
法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進した。 |
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770 |
称徳天皇が病死するが、葬礼の後も僥倖を頼み 称徳天皇の御陵を守っていたが |
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770/8/21 |
造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没し庶人の待遇で葬られた。道鏡死去の報は |
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772 |
カテゴリ: 奈良時代の人物 | 日本の僧 | 河内国の人物 | 栃木県の歴史 | 弓削氏 | 772年没 |
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772/5/13 |
下野国から 光仁天皇に言上された。道鏡は長年の功労により刑罰を科されることは無かったが、親族(弓削浄人とその息子広方、広田、広津)4名が捕えられて 土佐国に流されている |
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772/5/13 |
奈良時代の法相宗の僧。物部氏の一族の弓削氏の出自で、弓削櫛麻呂の子[1] |