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年表トップ > 細川忠興と黒田長政の年表を比べる

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細川忠興(ほそかわただおき)

 

黒田長政(くろだながまさ)

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細川忠興(ほそかわただおき)に関する本・DVD

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細川忠興   黒田長政
年月日 できごと   年月日 できごと
1563/11/13 将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。義輝の命により一族・奥州家の細川輝経の養子となるが、この養子縁組は系譜上のものであり、その後も実父・藤孝と行動をともにし、領国も継承した情報源のサイトへ      
      1568/2 織田軍により北伊勢平定                              黒田長政・誕生情報源のサイトへ
1573 (11歳)情報源のサイトへ      
1577 15歳で紀伊国の紀州征伐に加わり初陣を飾る。さらに信長から離反した松永久秀信貴山城の戦い)の武将・森秀光が立て籠もる大和片岡城を父やその僚友・明智光秀と共に落とし、信長直々の感状を受けた情報源のサイトへ   1577 (9歳)情報源のサイトへ
      1578 信長に一度降伏した荒木村重が信長に反旗を翻したとき(有岡城の戦い)、父の孝高は村重を説得する為に伊丹城に乗り込んで拘束された。この時、信長は孝高がいつまでたっても戻ってこない為、村重方に寝返ったと考えて長政を処刑しようとしたが、竹中半兵衛の機転により、一命を助けられている情報源のサイトへ
      1578 (10歳)情報源のサイトへ
1579 信長の命を受けて、父や光秀と共に丹後国守護だった建部山城城主・一色義道を滅ぼした。情報源のサイトへ      
1579 信長の仲介を受けて、光秀の三女・玉子(細川ガラシャ)と結婚する。この時、信長の命により九曜を定紋とし、これが細川家の家紋となった情報源のサイトへ      
1579 (17歳)情報源のサイトへ      
1580 改易となり、隼人はキリシタン大名蒲生氏郷を頼って会津若松に赴いた。氏郷の死後、丹波の領主細川忠興に仕えた情報源のサイトへ      
1580 父・藤孝は功により丹後一国12万石の領主となる。(一色義定領は除く)情報源のサイトへ      
1580 (18歳)情報源のサイトへ      
1582 父光秀が本能寺の乱を起こし、その結果間もなく殺害されると、ガラシアも、反逆者の娘として死罪を免れないものと思われた。彼女は、夫と離別、この地に隠遁の生活を送った情報源のサイトへ   1582 (14歳)情報源のサイトへ
1582 (20歳)情報源のサイトへ      
1582/6 岳父・明智光秀が本能寺の変を起こし藤孝・忠興父子を味方に誘ったが、織田信澄とは異なり父子は誘いを拒否したうえ、玉子を丹後の味土野(現在の丹後弥栄町須川付近)に幽閉した。幽閉されていた屋敷跡に「女城跡(御殿屋敷)」が現在も建っている情報源のサイトへ   1582/6 本能寺の変で信長が死去すると、父と共に秀吉の家臣となる。情報源のサイトへ
1583 (21歳)情報源のサイトへ   1583 賤ケ岳の戦いでも功を挙げて、河内国に450石を与えられる。情報源のサイトへ
      1583 (15歳)情報源のサイトへ
1584 小牧・長久手の戦いに参加し、翌情報源のサイトへ   1584 小牧・長久手の戦いでは父と共に大坂城の留守居を務めた。その功績により、2000石を与えられる情報源のサイトへ
1585 従四位下、侍従に叙任し、秀吉から羽柴姓を与えられた(大坂夏の陣終了後まで羽柴姓を継続)。その後も情報源のサイトへ      
      1586 九州の役では、秀吉の使者として西下し、宣教師を援助した。また、小早川秀包、黒田長政たちを洗礼に導いた情報源のサイトへ
      1587/3/4 黒田長政・福島正則・浅野幸長らと石田三成殺害を企図するも情報源のサイトへ
      1589 (21歳)情報源のサイトへ
1590 小田原征伐情報源のサイトへ      
1592 からの文禄の役では九番隊に属して上陸し、慶尚道のなどの制圧を担当した。情報源のサイトへ   1592 (24歳)情報源のサイトへ
      1592 から行なわれた秀吉の朝鮮出兵である文禄・慶長の役にも渡海している。長政は五千人の軍役を課せられ、主将として三番隊を率いて一番隊の小西行長や二番隊の加藤清正等とは別の進路を取る先鋒となった情報源のサイトへ
      1592/5 初旬の漢城会議で黄海道を担当することとなった三番隊は平安道担当の一番隊と共に朝鮮王の宣祖を追って開城を攻略し、平壌まで進んだ。情報源のサイトへ
      1592/5/7 漢城へ到達した。情報源のサイトへ
      1592/7/7 を攻略した。情報源のサイトへ
      1592/8 初旬の漢城会議で明の援軍を警戒して戦線を縮小して主要街道を固めることとなり、黒田長政は李廷馣の守る延安城を攻撃を行ったが攻略することが出来ず、以後黄海道の広範な制圧から転換して北方からの攻勢に対応するために主要街道沿いにある白川城・江陰城を守ることとなった。同じく三番隊の大友吉統は鳳山城・黄州城を拠点とした情報源のサイトへ
1592/10 長谷川秀一などと第一次晋州城攻防戦に参加し、前哨戦で慶州左兵使の柳崇仁を討ち取ったが、攻城戦で晋州城を落とすことは出来なかった。情報源のサイトへ      
      1593 正月に中央から派遣された李如松率いる明の大軍が小西行長等の守る平壌城を急襲し、落城寸前の状態から撤退してきた小西軍を長政白川城に収用した。 以後、明の攻勢を警戒して漢城へ集中した日本軍は碧蹄館の戦いで明軍を撃破し戦意を失った明軍と補給不足に悩む日本軍の戦いは停滞する中で、長政州山城の戦いにも出陣した情報源のサイトへ
      1593/4 漢城を放棄して朝鮮半島南部へ布陣を行った。情報源のサイトへ
1595 (33歳)情報源のサイトへ      
      1596/9 日明和平交渉は大詰めを迎え、秀吉による明使謁見で双方の外交担当者による欺瞞が発覚して交渉が破綻すると秀吉は諸将に再出兵を命じた。情報源のサイトへ
      1597 (29歳)情報源のサイトへ
      1597/7 元均率いる朝鮮水軍による攻勢があり、反撃により漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅に追い込んだ日本軍は情報源のサイトへ
      1597/8/30 教訓から明軍は不活発であり小競り合いに終わり(第二次蔚山城の戦い)、そのまま撤退を迎えた。情報源のサイトへ
      1597/12 末から経理楊鎬・提督麻貴率いる明軍が完成間近の蔚山倭城へ攻勢をかけ(第一次蔚山城の戦い)、加藤清正が苦戦すると西部に布陣していた日本軍は蔚山救援軍を編成して明軍を撃破した。長政はこの救援軍に六百人を派遣しており、後にその不活発さが秀吉から叱責されることとなる情報源のサイトへ
1598 (36歳)情報源のサイトへ      
      1598/8 秀吉が死去すると、三成ら文治派との対立路線から五大老の徳川家康に接近し、家康の養女(保科正直の娘)を正室に迎えた。情報源のサイトへ
1599 加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、池田輝政黒田長政らと共に、三成襲撃に加わった。情報源のサイトへ   1599 (1599)利家が病死した事により、歯止めがなくなり、清正は福島正則、黒田長政、浅野幸長ら六将とともに大坂の石田邸を襲撃したのである。この襲撃は事前に察知した三成が徳川家康を頼った事により失敗することとなる情報源のサイトへ
1599 (37歳)情報源のサイトへ      
1600 関ヶ原の戦いでは東軍に与した。このとき、豊臣恩顧の有力大名であるうえ、父と正室が在京していたため、その去就が注目されたが、東軍に入ることをいち早く表明したため、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われている情報源のサイトへ   1600 家康が会津の上杉景勝討伐の兵を起すと家康に従って出陣し、出兵中に三成らが大坂で西軍を率いて挙兵すると、東軍武将として関ヶ原の戦いにおいて戦う。三成に対する恨みからか、本戦における黒田隊の活躍は凄まじかった情報源のサイトへ
1600 (38歳)情報源のサイトへ   1600 (32歳)情報源のサイトへ
1600/9/15 関ヶ原本戦で石田三成隊と激闘を演じた功績から、戦後の情報源のサイトへ      
1602 (40歳)情報源のサイトへ      
1609 (47歳)情報源のサイトへ      
1610 (48歳)情報源のサイトへ      
1614 徳川禁教令が出され、主君の細川忠興は度々隼人に棄教を迫った。「時勢に順じては・・・」という忠興のことばは彼を説得することはなかった情報源のサイトへ   1614 (46歳)情報源のサイトへ
1615 (53歳)情報源のサイトへ   1615 (47歳)情報源のサイトへ
1620 (58歳)情報源のサイトへ      
      1623/8 (享年55歳)情報源のサイトへ
1632 忠利が肥後熊本藩54万石の領主として熊本城に封されると熊本の南の八代城に入り北の丸を隠居所とした。このとき忠興に従って八代郡高田郷った上野喜蔵と長男の忠兵衛によって高田焼が創始された情報源のサイトへ      
1632 (70歳)情報源のサイトへ      
1645 忠興の父親で友人の細川藤孝(1534〜情報源のサイトへ      
1645/5 孝は若くして没し、忠興も情報源のサイトへ      
1645/12/2 没した。享年83情報源のサイトへ      
1645/12/2 細川忠興、織田信長豊臣秀吉徳川家康に仕えた大名(*情報源のサイトへ      
1646 カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 戦国武将 | 戦国大名 | 織政権の大名 | 江戸の大名 | 外様大名 | 山城国の人物 | 京都府の歴史 | 福岡県の歴史 | 熊本県の歴史 | 茶人 | 細川氏 | 1563年生 | 1646年没情報源のサイトへ      
1646/8/1 細川忠隆、細川忠興の長男(*情報源のサイトへ      
1646/12 (享年84歳)情報源のサイトへ      

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