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細川忠興(ほそかわただおき)

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年月日 できごと 写真
1563/11/13 将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。義輝の命により一族・奥州家の細川輝経の養子となるが、この養子縁組は系譜上のものであり、その後も実父・藤孝と行動をともにし、領国も継承した 情報源のサイトへ /hyakusaiji2.jpg /IMG_89261.jpg
1573 (11歳) 情報源のサイトへ
1577 15歳で紀伊国の紀州征伐に加わり初陣を飾る。さらに信長から離反した松永久秀信貴山城の戦い)の武将・森秀光が立て籠もる大和片岡城を父やその僚友・明智光秀と共に落とし、信長直々の感状を受けた 情報源のサイトへ /1-50.jpg /img051rannjyae.jpg /kori02.JPG /shigi01.JPG
1579 信長の命を受けて、父や光秀と共に丹後国守護だった建部山城城主・一色義道を滅ぼした。 情報源のサイトへ
1579 信長の仲介を受けて、光秀の三女・玉子(細川ガラシャ)と結婚する。この時、信長の命により九曜を定紋とし、これが細川家の家紋となった 情報源のサイトへ
1579 (17歳) 情報源のサイトへ
1580 改易となり、隼人はキリシタン大名蒲生氏郷を頼って会津若松に赴いた。氏郷の死後、丹波の領主細川忠興に仕えた 情報源のサイトへ
1580 父・藤孝は功により丹後一国12万石の領主となる。(一色義定領は除く) 情報源のサイトへ
1580 (18歳) 情報源のサイトへ
1582 父光秀が本能寺の乱を起こし、その結果間もなく殺害されると、ガラシアも、反逆者の娘として死罪を免れないものと思われた。彼女は、夫と離別、この地に隠遁の生活を送った 情報源のサイトへ /PICT44951.jpg /P1090802.JPG
1582 (20歳) 情報源のサイトへ
1582/6 岳父・明智光秀が本能寺の変を起こし藤孝・忠興父子を味方に誘ったが、織田信澄とは異なり父子は誘いを拒否したうえ、玉子を丹後の味土野(現在の丹後弥栄町須川付近)に幽閉した。幽閉されていた屋敷跡に「女城跡(御殿屋敷)」が現在も建っている 情報源のサイトへ /PICT44951.jpg /P1090802.JPG /20070807-00000030-jijp-soci-view-000.jpg /hon-title2.png
1583 (21歳) 情報源のサイトへ
1584 小牧・長久手の戦いに参加し、翌 情報源のサイトへ /kosenjoukouen.jpg /nagakute.jpg
1585 従四位下、侍従に叙任し、秀吉から羽柴姓を与えられた(大坂夏の陣終了後まで羽柴姓を継続)。その後も 情報源のサイトへ
1590 小田原征伐 情報源のサイトへ
1592 からの文禄の役では九番隊に属して上陸し、慶尚道のなどの制圧を担当した。 情報源のサイトへ /bunroku.jpg /pht01.jpg
1592/10 長谷川秀一などと第一次晋州城攻防戦に参加し、前哨戦で慶州左兵使の柳崇仁を討ち取ったが、攻城戦で晋州城を落とすことは出来なかった。 情報源のサイトへ
1595 (33歳) 情報源のサイトへ
1598 (36歳) 情報源のサイトへ
1599 加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、池田輝政黒田長政らと共に、三成襲撃に加わった。 情報源のサイトへ /honmati-photo.jpg /omura7.jpg
1599 (37歳) 情報源のサイトへ
1600 関ヶ原の戦いでは東軍に与した。このとき、豊臣恩顧の有力大名であるうえ、父と正室が在京していたため、その去就が注目されたが、東軍に入ることをいち早く表明したため、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われている 情報源のサイトへ /20071122_02.jpg /nakasen58c.jpg
1600 (38歳) 情報源のサイトへ
1600/9/15 関ヶ原本戦で石田三成隊と激闘を演じた功績から、戦後の 情報源のサイトへ /sekigahara-s.jpg /PICT65471.jpg
1602 (40歳) 情報源のサイトへ
1609 (47歳) 情報源のサイトへ
1610 (48歳) 情報源のサイトへ
1614 徳川禁教令が出され、主君の細川忠興は度々隼人に棄教を迫った。「時勢に順じては・・・」という忠興のことばは彼を説得することはなかった 情報源のサイトへ
1615 (53歳) 情報源のサイトへ
1620 (58歳) 情報源のサイトへ
1632 忠利が肥後熊本藩54万石の領主として熊本城に封されると熊本の南の八代城に入り北の丸を隠居所とした。このとき忠興に従って八代郡高田郷った上野喜蔵と長男の忠兵衛によって高田焼が創始された 情報源のサイトへ
1632 (70歳) 情報源のサイトへ
1645 忠興の父親で友人の細川藤孝(1534〜 情報源のサイトへ /%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA.bmp /hon-hieizan.jpg /ichijima3.jpg /p_ichijima02.jpg
1645/5 孝は若くして没し、忠興も 情報源のサイトへ
1645/12/2 没した。享年83 情報源のサイトへ
1645/12/2 細川忠興、織田信長豊臣秀吉徳川家康に仕えた大名(* 情報源のサイトへ /img992tadaokie.jpg /takitoutorii.jpg /taktoukanban.jpg
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1646/8/1 細川忠隆、細川忠興の長男(* 情報源のサイトへ
1646/12 (享年84歳) 情報源のサイトへ

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