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細川勝元(ほそかわかつもと)

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年月日 できごと 写真
1430 細川持之の嫡男として生まれる。幼名は聡明丸 情報源のサイトへ
1442/8 父の持之が死去したため、13歳で家督を継承した。このとき第7代将軍・足利義勝から偏諱を受けて勝元と名乗り、叔父の細川持賢に後見されて摂津国丹波国讃岐国土佐国の守護職となった 情報源のサイトへ /s_014.jpg
1442/8 細川宗家当主となる。将軍足利義勝の名を一字賜り、勝元と名乗る 情報源のサイトへ /s_014.jpg
1445 畠山持国(徳本)に代わって16歳で管領職に就任すると、以後3度に渡って通算23年間も管領職を歴任し、幕政に影響力を及ぼし続けた。勝元が管領に就任していたのは 情報源のサイトへ
1445/3/29 幕府の管領に就任。 情報源のサイトへ
1447 同じく熙貴の娘を幕府管領の細川勝元に嫁がせて、大内氏や細川氏と縁戚関係を結ぶ。 情報源のサイトへ
1449/10/5 管領を辞任。 情報源のサイトへ
1452/11/26 幕府の管領に再度就任。 情報源のサイトへ
1454 持富派の被官(家臣)が義就の家督相続に反対して叛逆を起こし、持富の子・畠山弥三郎(やさぶろう)が跡目を継ぐことになります。弥三郎の後見には、細川勝元が立っていました 情報源のサイトへ
1454 持国派は弥三郎を京から追い落とすことに成功しました。しかし、弥三郎を擁する持派は、細川勝元らの支援(しえん)を受けて反撃に出ます 情報源のサイトへ
1459/5 義就が紀伊の根来寺の僧兵に敗北すると、細川勝元が政所執事・伊勢貞親(いせさだちか)と将軍・義政に働きかけて畠山氏の家督を義就から政長へと更迭させました。畠山政長(まさなが,1442-1493)に家督と守護職を奪われた義就は河内に落ち延びて、天然の要害を抱える嶽山城(岳山城,だけやまじょう)に篭城して幕府軍・政長軍に激しく抵抗を続けます 情報源のサイトへ
1466 さらに勝元は勘合貿易の問題から大内教弘、河野通春らと敵対していたが、宗全はこれを支援するなどしたことから、細川と山名の対立構造が生じ始めた。また、はじめ継嗣がいなかった勝元は、宗全の子・山名豊久を養子にしていたが、文正元年 情報源のサイトへ
1466 実子細川政元の誕生後、豊久を廃嫡して仏門に入れるなど、関係の悪化は明白となった。 情報源のサイトへ
1466 足利義政に実子の足利義尚が誕生して足利将軍家でも将軍後継者をめぐって争いが始まる。このとき、義政の側近・伊勢貞親は義政が当初後継者に指名していた足利義視の廃嫡と、義尚の将軍後継を義政に提言した 情報源のサイトへ
1466 』といいます。応仁の乱の一因には義政の将軍としての責任感や指導力の欠如があり、家督相続問題で対立する諸侯に対して八方美人的な態度をとって是非・賞罰を明らかにしなかったことがあります 情報源のサイトへ /ounin01.jpg /story_08_img.gif
1466/12 追放されていた畠山義就を上洛させ、義政に仲介して赦免の許しを出させた。さらに宗全は 情報源のサイトへ
1467 正月に、将軍義政が畠山義就を室町第に招聘して、旧領の河内・紀伊越中を義就に回復したことで、政長の立場は弱くなり管領を罷免されて山名党の斯波義廉が管領の職に就くことになります。畠山義就を利用した山名宗全の謀略にはまった細川勝元(政長の後見)は義政のいる室町第に押し掛けようとしますが、時既に遅し、政長の管領・守護の職を取り戻すことは出来ませんでした 情報源のサイトへ /1A1A1A1A1A_1A1A00.JPG /kyoto001.jpg
1467/1 義政に強請して勝元が支援する畠山政長持国養子で弥三郎の弟)の管領職を取り上げて出仕停止処分に処し、代わりに宗全が支援する斯波義廉を管領に任命させたのである。ここに至って、勝元と宗全の武力衝突は避けられないものとなった 情報源のサイトへ /1A1A1A1A1A_1A1A00.JPG /kyoto001.jpg
1467/1/2 義政は正月の管領となっていた将軍の管領邸への訪問を中止し、細川勝元や畠山政長に断ることなく、室町第に義就を招き、その罪を許したといいます。 情報源のサイトへ /1A1A1A1A1A_1A1A00.JPG /kyoto001.jpg
1467/1/17 鞍馬口の上御霊社(かみごりょうしゃ)に軍を布陣して細川勝元に援軍を要請しますが、義政が畠山氏の私戦への介入を禁じていたので勝元は政長に援軍を出しませんでした。 情報源のサイトへ /1A1A1A1A1A_1A1A00.JPG /kyoto001.jpg
1467/1/25 細川党による京都の一色義直の屋敷に対する襲撃事件でした。一色義直の屋敷は室町第(花の御所)の裏築地四足門前という軍事上の重要な場所(一色邸と幕府が一直線でつながる場所)にあり、一色義直の屋敷を制圧した細川勝元は室町幕府をのっとることに成功します 情報源のサイトへ /ounin01.jpg /story_08_img.gif
1467/3/3 細川勝元、京極持清らは上巳の節句に御所に参賀出仕せず密かに兵を集め、諸国に呼びかける。 情報源のサイトへ
1467/5/20 山名宗全畠山義就らが挙兵して細川勝元らを討伐すべく出陣する。 情報源のサイトへ /1A1A1A1A1A_1A1A00.JPG /kyoto001.jpg
1467/5/25 天皇を擁した宗全に対して、勝元は幕府を占領して将軍を擁立し 情報源のサイトへ
1467/5/26 山名方に戦いを挑んだ(応仁の乱)。細川勝元は東軍、山名宗全は西軍である 情報源のサイトへ /ounin01.jpg /story_08_img.gif
1467/6/1 将軍義政は弟義視に牙旗( 将軍御座所の旗、錦の御旗 )を与えて山名宗全討伐の命を下す。将軍義政は何故か細川勝元にお味方する 情報源のサイトへ
1467/9 頃には京都から東軍の戦力の大半を追い出しました。戦況が悪化してきた細川勝元は、将軍義政に牙旗(錦の御旗)を要求し、第102代・後花園上皇(在位1428-1464)には治罰の綸旨(山名党を賊軍として討伐するための命令)を求めますが、後花園上皇は細川党と山名党の私的紛争には綸旨は出せないと拒絶しました 情報源のサイトへ /1A1A1A1A1A_1A1A00.JPG /kyoto001.jpg /ogatasadakobook.jpg /ph_naya.jpg
1468/2 から死去する 情報源のサイトへ
1468/10 義政が伊勢貞親を復職させると、勝元は義尚を、宗全が義視を支持する立場に変わるなど、戦況も変わってゆく。このような中で 情報源のサイトへ
1472 宗全に和平交渉を試みるが、決裂する。 情報源のサイトへ
1472 山名宗全は細川勝元に停戦し和睦することを提案したが、勝元に拒否される。 情報源のサイトへ
1473 カテゴリ: 細川氏 | 守護大名 | 室町時代の人物 | 1430年生 | 1473年没 情報源のサイトへ
1473/3 宿敵である宗全が死去して優位に立ったのも束の間、自身も後を追うように 情報源のサイトへ
1473/3 山名宗全が死去し 情報源のサイトへ /ounin01.jpg /story_08_img.gif
1473/5 続いて細川勝元が死ぬと、急速に諸侯の間に厭戦気分が広がっていきました。応仁の乱の終結に反対するのは、将軍候補者で義尚に対抗している足利義視と政長との家督争いに敗れて『分国(領土)・官職』を与えられていない畠山義就などごく僅かな面々を残すだけとなり、西軍の総帥となった山名政豊(宗全の孫)は 情報源のサイトへ /ounin01.jpg /story_08_img.gif
1473/5/11 死去した。享年44 情報源のサイトへ
1473/5/11 細川勝元44歳であったという。どのような戦国の雄でも、「天命には勝てず」、歴史から学ぶべきことは実に多い 情報源のサイトへ

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