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年表トップ > 空海と行基の年表を比べる

ウェブサイト上の情報を調べて見出し情報をまとめた検索結果ページです。事実が正確に並べられた年表ではありませんのでご注意下さい。

空海(くうかい)

 

行基(ぎょうき)

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空海(くうかい)と行基(ぎょうき)に関する本・DVD

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空海   行基
年月日 できごと   年月日 できごと
      668 (天智情報源のサイトへ
      672/6/22 大海人皇子が吉野から挙兵の使いを美濃の安八麿(あはちま)郡の湯沐令(ゆノうながし)・多品治(おおノほむじ)に遣わし、壬申の乱が勃発したのが行基5歳の時で情報源のサイトへ
      672/6/24 大海人皇子は妻子と共に吉野を発って東国へ向い、従う者は書根麻呂(ふみノねまろ)・書智徳ら極わずか情報源のサイトへ
      672/6/26 不破(岐阜県)山中で近江側の書薬(ふみノくすり)が吉野側に捕まり情報源のサイトへ
      672/7/23 近江側の大友皇子が山科(京都)の山中で自害し、この冬、大海人皇子が飛鳥の浄御原宮へ移って、第40代天武天皇に即位しました。情報源のサイトへ
      677/4 生まれたという説もある。父は百済系渡来人氏族の末裔西文氏(かわちのあやし)一族の高志才智とされる情報源のサイトへ
      681 出家、官大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。情報源のサイトへ
      682 (天武11)15歳で出家し(飛鳥寺の道昭を師としたと考えられる),瑜伽論(ゆがろん),唯識論(ゆいしきろん)の教義をすぐ理解した。道昭は情報源のサイトへ
      682 (天武情報源のサイトへ
      686 (朱鳥元年)情報源のサイトへ
      686/9 天武天皇が崩御して情報源のサイトへ
      701/6/1 道君首名が僧尼令を大官大寺に講じて情報源のサイトへ
      701/7/30 藤原宮子が首皇子(後の聖武天皇)を生み、また、橘三千代が安宿媛(あすかべひめ、後の光明皇后)を生みました。情報源のサイトへ
      701/8/3 大宝律令が成立し情報源のサイトへ
      702 (大宝2)大宝律令施行によって天皇と貴族が庶民を支配する体制が確立し,庶民は課税軽減,生産向上,宗教的救済を切望した。行基は情報源のサイトへ
      704 この頃から僧の( 行基 )が社会事業で活躍。朝廷はこれを弾圧情報源のサイトへ
      704 行基37歳は、生家を掃き清めて「家原寺」とし、行基建立初めての寺院で、行基は後に四十九の寺院を建立したが、それらには加えられず、特別な扱いになっている寺院で情報源のサイトへ
      704 (慶雲1)生家を寺に改め(家原寺(えばらでら)。大阪府堺市),その後都鄙に伝道と社会事業を展開した情報源のサイトへ
      706 行基39歳の時、蜂田寺大鳥郡蜂田里)を建立しました。情報源のサイトへ
      709 春の宵、行基は、千葉県市原郡山倉村堂谷の森の中で、闇夜に光を放つ枯木を見つけ、その枯木で「薬師如来像」を彫り、天台宗医王山「円薬寺」の本尊としましたが、その後も行基は勅命によって、関東を巡錫したので、房総半島には行基に関する寺院が多く、湿津村の「寿福寺」にしばらく滞在し、松ヶ浦に錫を掛け、出津の祇園山「神光寺」に立ち寄り、市原市五井の「光明寺(現在の守寺)」も行基の開基とされ、市原村寺山「光善寺」薬師堂の薬師如来、姉崎町豊成の「不動院」の不動明王も行基の作で、戸田村風戸の「日光寺」の聖観音像も楠でもって行基が彫ったとされています。情報源のサイトへ
      710 710年情報源のサイトへ
      710/3/10 都が藤原京から平城京へ遷都され、行基43歳は、薬師寺、大安寺(大官大寺)等の南都の諸大寺の建に貢献したが情報源のサイトへ
      711/9/4 諸国の役民が造に労し奔亡(ほんぼう)多く、詔(みことのり)が出されて、兵庫に軍営が建てられ情報源のサイトへ
      712/16 諸国の役民で帰郷の時に飢える者が多く、国司らが賑恤(しんじゅつ)し情報源のサイトへ
      712/10/29 帰郷の役夫と運脚夫の困難を救う為、郡稻を便地に貯えて交易せられたが、見るに見かねた行基45歳は、貧困に苦しむ民衆に飯を与えて泊める為の施設、「布施屋」を摂津に3つ、和泉、河内、山城にそれぞれ2つ建て、また、生駒山の東側(生駒谷)に僧庵「草野仙房(かやのせんぼう)」を営み、そこで布教活動をしましたが、寺院外でも布教の禁止を破って行ったため情報源のサイトへ
      717 717年情報源のサイトへ
      717 (養老1)政府が行基の伝道を《僧尼令(そうにりよう)》違反として禁圧したのは,彼への社会的信望を忌避したためとも,政府が隋の文帝や唐の高宗による三階教(教団は王権から独立すべきものだと主張)弾圧から刺激されたためともいう。しかし政府は行基の土木技術や,庶民を動員する力量を利用するため,三世一身法や墾田永年私財法発布の過程で情報源のサイトへ
      717/4 百姓の違法の出家を禁じ、行基の活動を禁圧する。情報源のサイトへ
      717/4/23 行基の民間伝道が僧尼令違反として弾圧されたが、それでも、女帝で第44代元正天皇の御代情報源のサイトへ
      717/4/23 詔をもって糾弾されて弾圧を受けた。だが、行基の指導による墾田開発や社会事業の進展や地方豪族や民衆らを中心とした教団の拡大を抑えきれなかったこと、行基の活動が政府が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないことから情報源のサイトへ
      721 行基54歳は、平城京右京三条三坊に寺史乙丸より宅を寄進され、そこの地名を取って菅原寺(現在の喜光寺)と称し、それまでの和泉、河内を中心とする活動から、菅原寺を中心に活発な布教活動を行うと、境内に入りきれない難民が溢れました。情報源のサイトへ
      726 聖武天皇の勅願で、行基が南房総最古の寺、関東天台の雄、長安東光院「石堂寺」の堂宇を建立し、当寺は創建当時、水晶で造られた宝塔が納められていたので、石塔寺と呼ばれ、近江の阿育王の白雲と共に日本三石塔寺の1つです。なお、行基は全国を行脚するために我国初の日本地図である「行基図」を作り、後々まで日本地図の原図として用いられ、原図は現存しないけど、江戸時代の中期に「長久保赤水」や「伊能忠敬」が現われる以情報源のサイトへ
      729 729年情報源のサイトへ
      729 行基62歳は、聖武天皇の勅願で、岩船寺を情報源のサイトへ
      729/11/30 また天皇の勅願で、瀬戸内海の生口島(広島県瀬戸田町)に光明三昧院(こうみょうさんまいいん)を創建し情報源のサイトへ
      731 年明けに行基を慕って春日野に数千から1万にも及ぶ群衆が犇き情報源のサイトへ
      731/11/30 河内の狭山下池の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用した。情報源のサイトへ
      733 地震が続き、疱瘡がまん延しました。情報源のサイトへ
      734 聖武天皇の夢枕に薬師如来が立ち、孝謙皇女永年の病を平癒されたので、勅命によって行基が、富雄川の右岸矢田丘陵の中腹に伽藍を建立することになり情報源のサイトへ
      736 736年情報源のサイトへ
      736/8 菩提遷那(ぼだいせんな)33歳、哲、道?35歳らが難波に着き、行基69歳ら僧侶99人、治部(じぶ)や玄蕃(げんば)の役人達が雅楽で盛大に出迎え、暗峠奈良街道を通って、奈良へ向う途中で、行基が建立中の伽藍に立寄り、菩提遷那がここは天竺(印度)の「霊鷲山」に似ていると云い、寺号を「霊山寺」と命名しました。情報源のサイトへ
      737 光明皇后の勅願で、行基が千葉県市原市引田「橘禅寺」を創建し、また、千葉県里見村中で黄金に光る古木を見つけ、それを掘り出して薬師三尊を刻み安置する草堂を建てたのが、岩問延命院「東漸寺」の奥の院「岩問薬師堂」です。また、行基は全国各地の温泉も掘り出し、草津温泉、野沢温泉代温泉、中温泉、有馬温泉など、行基開湯の伝説が数多く残っています情報源のサイトへ
      738 行基の布教活動を朝廷が認め、彼を「行基大徳」と呼び、その業績を大いに讃え、行基の布教活動を許しましたが、行基は宗教活動の他、社会事業にも精進し、摂津から河内への直道や、橋(摂津に4、山城に2)、大阪狭山狭山池、岸和田の久米田池、伊丹行基町の昆陽池などの溜池(和泉に8、摂津に6,河内に1)、船溜まり(和泉摂津にそれぞれ1)造り、摂津から播磨にかけて、河尻泊(尼崎神崎町)、大輪田泊(神戸兵庫区)、魚住泊(明石魚住町)、韓泊(姫路的形町)、室生泊(たつの御津町室津)の5つを整備し、行基が海上の安全を祈祷したら、畳2枚ほどの大きなエイが現れたのが明石の江井島(えいがしま)漁港で、堀(摂津河内にそれぞれ1)、溝(摂津に3、和泉に2,河内に1)、樋(河内に3)などを各地に造り、その他、行基は「興福寺」、「元興寺」および総国分寺「東大寺」の建立に尽力し、生涯に48ケの大寺院を始め、全国津々浦々に寺院道場を約1400も建立したのに、「元興寺」の智光は行基の悪口を云ったので、地獄へ落ちたが、その後蘇生して行基に謝ったと云われ、「元興寺」の屋根は、日本最古の瓦を使用し、行基葺と呼ばれています。情報源のサイトへ
      739 739年情報源のサイトへ
      739/2/26 光明皇后が病んで、大赦があり、病者・僧尼に賑給がなされ情報源のサイトへ
      739/5/23 郡司の数が多く、百姓を侵損するので、その定員が改正され、行基72歳は聖武天皇の勅願で「浄瑠璃寺」を創建し、なお、行基には蟹の恩返しで有名な「蟹満寺」の逸話(*下記注1)など色々多くの伝記があります。情報源のサイトへ
      740/2/7 聖武天皇光明皇后を伴って難波宮に行幸され、同情報源のサイトへ
      740/2/19 天皇らは平城京へ帰還されたが、この往還のいずれかで河内国大県郡柏原市)「智識寺」の盧舎那仏を拝し、自分も盧舎那仏を造りたいと考えられ、これが大仏造営の端緒になったと云われ、また情報源のサイトへ
      740/9/3 大宰少式藤原広嗣が上表して、時政の得失を指摘し、天地の災異を陳述の上、僧正玄昉と右衛士督吉備真備の罷免を求めて挙兵したので、大野東人(あづまびと)が大将軍に任命され、同情報源のサイトへ
      740/9/15 広嗣の乱」鎮圧を祈る為、諸国に観世音菩薩像と観音経を造写させ情報源のサイトへ
      740/10/29 聖武天皇伊勢に行幸し情報源のサイトへ
      740/11/1 広嗣が斬られ情報源のサイトへ
      740/12/15 天皇が山背国相楽郡の恭仁宮に行幸され情報源のサイトへ
      741 (天平13)までに河内,和泉,摂津,山背(城)国などに造った池15,溝7,堀4,誇3,道1,港2,布施屋(ふせや)(調庸運脚夫や役民(えきみん)を宿泊させ食料を与える)9などの農業・交通関係施設の位置と規模が〈情報源のサイトへ
      741 741年情報源のサイトへ
      741/3/17 行基74歳は、都府山城南部の賀世山の東で、恭仁の正面の木津川に泉橋を架けた時、聖武天皇が「泉橋院」にわざわざ行基を訪ね情報源のサイトへ
      741/4 行基は聖武天皇の勅願で、島根県出雲市下古志町「阿彌陀寺」を創建し、なお、出雲市東林本町に大寺(万福寺)を建立して、薬師如来を彫って安置し、また、出雲市塩冶町神門寺」も開基して、更に出雲市馬木町「光明寺」の「馬木不動尊」は行基が彫って、日本三大不動明王(東京目黒不動」、千葉成田不動」と共に)の一つです。情報源のサイトへ
      743 紫香楽(しがらき)での大仏造営詔発布のさい勧進(募財)役に起用し,情報源のサイトへ
      743/10/15 聖武天皇が盧舎那大仏造営の詔を発せられると、行基は勧進に起用され、弟子を率いて勧進し情報源のサイトへ
      744/11/13 紫香楽離宮の甲賀寺で、盧舎那大仏の体骨の柱が建てられましたが情報源のサイトへ
      745 行基が大僧正となる。筑紫観世音寺に左遷情報源のサイトへ
      745 ころまでに畿内に開いたいわゆる四十九院の寺の位置と建立年代が記され,これも庶民の信者の寄進や協力で造られた。四十九院は社会事業施設と結合しており,たとえば狭山池院(大阪府南河内郡狭山町)には狭山池,昆陽(こや)施院(昆陽情報源のサイトへ
      745 朝廷より日本最初の大僧正の位を贈られた。情報源のサイトへ
      745 大僧正に任じた。平城還都後,大仏造営は金鐘(こんしゆ)寺(のち東大寺)で再開されたが,行基は情報源のサイトへ
      745/21 行基78歳が聖武天皇から我国初の最高僧階「大僧正」に任じられ、度者400人を賜った後情報源のサイトへ
      745/4/11 紫香楽宮の東山で火事があり、連日滅(き)えず、都下の男女が競って物を川に埋め、聖武天皇は大丘野に難を避け情報源のサイトへ
      745/5/2 諸司の官人に何処を都とすべきかを問い、同情報源のサイトへ
      745/5/4 薬師寺に四大寺(興福寺・元興寺大安寺・薬師寺)の僧を集めとすべき地を問い、大仏造営を一時中止して、同情報源のサイトへ
      745/8/23 国中連公麻呂を造長官にして、山金里(やまがねノさと、現在の東大寺)で大造営が再開され情報源のサイトへ
      746 行基は宿願があって春日神祠に参籠すると、春日明神の夢のお告げがあり、「ここから坤(ひつじさる、西南)の方向に霊地がある。すみやかに精舎を建て、人々を救え」と云われたので、当時密生していた椣(しで)の霊木を以て、一刀三礼(いっとうさんらい、一刀するごとに三度礼拝)しながら、高さ1mほどの本尊「薬師如来坐像」を彫り、聖武天皇の勅許を受け一大精舎を建立し、名付けて椣原山(しではらさん)「金勝寺」と称し、また、聖武天皇より賜った長谷試観世音菩薩像を携えて、これを安置する場所を求め、山陽道を下り、和田岬まで来た時、異光を放つ処があったので、不思議に思い近づくと、地中より薬師如来が出現し、その地を有縁の地と定めて伽藍を創建し、薬師如来と携えて来た観世音菩薩像を共に祀ったのが兵庫区今出在家の「薬仙寺」です情報源のサイトへ
      749 カテゴリ: 日本の僧 | 飛鳥時代の人物 | 奈良時代の人物 | 東大寺 | 668年生 | 749年没情報源のサイトへ
      749 行基は大僧正の号の上にさらに「大菩薩」の称号を与えられたが、彼は大仏開眼を見ることはなく情報源のサイトへ
      749 菅原寺(奈良市)で没。彼が大野寺(大阪府堺市)に造った土塔はインドのストゥーパ(仏塔)に源流をもつ情報源のサイトへ
      749/2/2 夜、菅原寺(喜光寺)で数千のお弟子達に看取られながら、82歳で入寂し情報源のサイトへ
      749/2/2 菅原寺で81歳で入滅し、生駒市の竹林寺に墓所がある。また、朝廷より菩薩の称号が下され、行基菩薩と言われる情報源のサイトへ
      749/4/3 「竹林寺」の奥ノ院・「往生院」で「行基忌」が行われ、何故か鎌倉時代の「新勅撰(しんちょくせん)和歌集」に次の、行基辞世の歌が載っています。情報源のサイトへ
      749/4/3 後、大蛇が彼女に妻になることを要求して来たので、女が行基菩薩に悩みを訴えると、行基菩薩が、「・法・僧の三宝を厚く信じなさい」と云われたので、約束の日に女が家に篭り、一心に三宝を敬いお祈りしていると、大蛇が屋根に穴を開けたのに、ドスンと落ちて来ました。よく見ると、大蛇に八匹の蟹が食いつき、八つ裂きにして、昔の恩返しをしました情報源のサイトへ
      749/4/8 遺言により生駒山東麓の「往生院」で火葬に付して、「生馬寺(今の竹林寺)」に埋葬され、毎年情報源のサイトへ
774 讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれた。父は郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀氏、幼名は真魚[1]情報源のサイトへ      
774/6/15 するが、これは中国密教の大成者である不空三蔵の入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承によるもので、正確な誕生日は不明である[2]。情報源のサイトへ      
789 15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章等を学んだ。情報源のサイトへ      
792 18歳で京の大学寮に入った。大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書等を学んだと伝えられる情報源のサイトへ      
793 大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。御蔵洞高知県室戸市)で修行をしている時、口に明星が飛び込んできて悟りを開いたといわれている情報源のサイトへ      
793 20歳にして勤操を師とし槇尾山寺で出家した、という説、あるいは25歳出家説が古くからとなえられていたが、現在では情報源のサイトへ      
793 空海の得度に関しては、延暦12年情報源のサイトへ      
797 『三教指帰』の初稿本に当るもので、2巻存し、入唐前、延暦16年情報源のサイトへ      
797 24歳頃の書といわれる。書はやや硬いが筆力があり、後の風信帖に見られる書風とは異なる情報源のサイトへ      
804 入唐直前31歳の年に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されている。また空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではない情報源のサイトへ      
804 正規の遣唐使の留学僧(留学期間情報源のサイトへ      
804/8/10 長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる情報源のサイトへ      
804/11/3 長安入りを許され情報源のサイトへ      
804/12/23 長安に入った。情報源のサイトへ      
805/2 西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。情報源のサイトへ      
805/5 なると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。情報源のサイトへ      
805/6/13 大悲胎蔵の学法灌頂情報源のサイトへ      
805/7 金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている情報源のサイトへ      
805/8 中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。また恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた情報源のサイトへ      
805/8/10 伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇する真言として唱えられるようになる情報源のサイトへ      
805/12/15 恵果和尚が60歳で入滅。情報源のサイトへ      
806/1/17 空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。情報源のサイトへ      
806/3 長安を出発し情報源のサイトへ      
806/3 桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していた。情報源のサイトへ      
806/4 に到り4か月滞在した。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典等を収集した情報源のサイトへ      
806/8 を出航して、帰国の途についた。情報源のサイトへ      
806/10 帰国後は、入京の許しを待って数年間太宰府に滞在することを余儀なくされた。情報源のサイトへ      
806/10/22 付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論等216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物等々膨大なものである情報源のサイトへ      
809 平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位した。空海は、まず和泉国槇尾山寺に滞在し情報源のサイトへ      
809/7 太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入った。情報源のサイトへ      
810 薬子の変が起こったため、鎮護国家のための大祈祷を行った。情報源のサイトへ      
812 かけて乙訓寺の別当を務めた。情報源のサイトへ      
812 頃とされている。第1通目は情報源のサイトへ      
812 年号は不明であるが、仁3年情報源のサイトへ      
812/6/15 」とするのは、頼瑜情報源のサイトへ      
812/9/13 付で「忽披枉書」の書き出し。書風は精気があり、また情緒もある情報源のサイトへ      
812/12/14 胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範の他190名にのぼった情報源のサイトへ      
813 かけて、空海が高雄山寺で金剛・胎蔵両界の灌頂を授けた時の人名を記録した手記である。処々書き直しているが、筆力、結構ともに流露している情報源のサイトへ      
815 春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩(基徳の誤記か?)などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼した。また時を同じくして西国筑紫へも勧進をおこなった情報源のサイトへ      
816 初頭頃には訣別するに至る。なお二人の訣別に関しては、古くから最澄からの理趣釈経(「理趣経」の注釈書)の借覧要請を空海が拒絶したことや、最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題があげられる情報源のサイトへ      
816 しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、仁7年情報源のサイトへ      
816/6/19 修禅の道場として高野山の下賜を請い情報源のサイトへ      
816/7/8 高野山を下賜する旨勅許を賜る。翌情報源のサイトへ      
817 泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の創に着手し情報源のサイトへ      
818/11 空海自身が勅許後はじめて高野山に登り情報源のサイトへ      
819 春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。情報源のサイトへ      
819/10/30 まで滞在した。情報源のサイトへ      
821 満濃池(まんのういけ、現在の香川県にある日本最大の農業用ため池)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた。情報源のサイトへ      
821/11/30 平城上皇に潅頂を授けた。情報源のサイトへ      
822 太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。情報源のサイトへ      
823 正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。後に天宗の密教を密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになる情報源のサイトへ      
824/2 勅により神泉苑で祈雨法を修した。情報源のサイトへ      
824/3 少僧都に任命され、僧綱入り情報源のサイトへ      
827 大僧都)。情報源のサイトへ      
827/6 造東寺別当。情報源のサイトへ      
827/9 高雄山寺が定額寺となり、真言僧14名を置き、毎年年分度者一名が許可となった。情報源のサイトへ      
828 『綜藝種智院式并序』を著すとともに、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設。当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であった情報源のサイトへ      
830 淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』十巻、『秘蔵宝鑰』三巻を著した。情報源のサイトへ      
831 病を得た以降の空海は、文字通りみずからの命をかけて真言密教の基盤を磐石化するとともに、その存続のために尽力した。とくに情報源のサイトへ      
831/5 末、病(悪瘡といわれている)を得て情報源のサイトへ      
831/6 大僧都を辞する旨上表するが、天皇に慰留された。情報源のサイトへ      
832/8/22 高野山において最初の万燈万華会が修された。空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と想いを表している情報源のサイトへ      
834/2 東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じた。情報源のサイトへ      
834/12 から入滅までの3ヶ月間は、後情報源のサイトへ      
834/12/7 御修法が申請から10日間で許可されその情報源のサイトへ      
834/12/10 修法、また年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とするなど、密度の濃い活動を行った。すべてをやり終えた後に入定、即ち永遠の禅定に入ったとされている情報源のサイトへ      
834/12/19 毎年正月宮中において真言の修法(後情報源のサイトへ      
834/12/24 太政官符では東寺に三綱を置くことが許されている。情報源のサイトへ      
835 没 | 弘法大師伝説情報源のサイトへ      
835/1/7 御修法を修す。宮中での御修法はこれより明治になるまで続き、明治以後は東寺に場所を移して今も行われている情報源のサイトへ      
835/1/8 より宮中で後情報源のサイトへ      
835/1/22 真言宗の年分度者3人を申請して許可されている。情報源のサイトへ      
835/2/30 金剛峯寺が定額寺となった。情報源のサイトへ      
835/3/15 高野山で弟子達に遺を与え情報源のサイトへ      
835/3/21 入滅した。享年62(満60歳没)情報源のサイトへ      
835/4/22 〈新暦〉)情報源のサイトへ      

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