| 年月日 |
できごと |
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年月日 |
できごと |
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574 |
干支は甲午(きのえうま)でいわゆる午年であるし、また古代 中国にも観音や神仙により受胎するというモチー フが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている)。 |
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576 |
(敏達 |
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581 |
北朝から 隋が誕生しました。 |
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584 |
, 百済から 鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒菩薩(みろくぼさつ)を持ってもどってきた。 蘇我馬子は仏殿を建ててそれを収めた |
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585 |
, 物部守屋(もりや−物部尾輿の子)は 敏達天皇に仏教が原因と訴えると天皇もこれに同意したため,守屋は仏像・仏殿を焼き払ってしまった。しかし,この後も疫病は続き,天皇までも病死してしまう |
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586 |
( 用 明元年)太子13歳が建立48ヶ寺の1つ、 比曽寺(世尊寺)を創建して、父 用 明天皇の為に東塔を、炊屋姫(かしきやひめ、父の妹、叔母、後の 推古天皇)が亡き夫の 敏達天皇の為に西塔を建立され、今はそれらの礎石が境内に散在し、また、本堂の裏に太子御手植えの「壇上桜」が毎年花を咲かせています。 |
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586 |
( 用 明天皇元年)太子13歳の父・橘豊 日命が磐余 池辺雙槻宮(いわれいけノべノなみつきノみや)で第31代 用 明天皇に即位しましたが |
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586/5 |
敏達天皇の遺骸を安置した殯宮(もがりノみや、 奈良県 北葛城郡 広陵町 廣瀬)に穴穂部皇子(あなほべノみこ、太子の父の異母弟)が押し入って、鎮魂の儀礼を行っていた 敏達天皇の皇后・炊屋姫(かしきやひめ、穴穂部皇子の異母姉、後の 推古天皇)を犯そうとしたけど、 敏達天皇の寵臣三輪君逆が警衛の隼人を大声で呼んで、殯宮の門を固く閉ざし、炊屋姫を守りました。 |
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587 |
 用 明天皇は崩御した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫( 敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした |
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587 |
(用明 |
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588 |
(崇峻元年) 蘇我馬子が渡来系豪族・衣縫樹葉(きぬぬいノここノは)の屋敷を壊して、 法興寺(飛鳥寺)の建立を始めると、太子15歳はその造営を助けました。 |
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589 |
隋が 中国を統一していました。この隋へ太子は使いを送ります |
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589/4 |
−聖徳太子が皇太子となり, 推古天皇の摂政となる。 |
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589/11 |
− 蘇我馬子は東 漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に 崇峻天皇を殺害させる。東 漢直駒が馬子に殺害される |
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589/12 |
− 推古天皇が豊浦宮(とゆらみや)で即位する。  |
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591 |
崇峻は任那(みまな)奪回のため、二万の軍を 九州の北部に集めます。しかしこの軍は海を渡ることはありませんでした |
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591 |
菩薩戒により総持菩薩となる)を「無礼である、二度と取り次がせるな」(「帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」)と大いに不快にさせた( 煬帝が立腹したのは俀國王が隋の皇帝と同位の立場である「天子」を名乗ったことについてであり、「 日出處」「 日沒處」との記述にではないとする説がある。「 日出處」「 日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「 日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語であるとする |
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591 |
^ 『日本書紀』には遣隋使、隋という文字はない。『隋書』によれば、遣使の国書は「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す(「聞海西菩薩天子重興佛法」「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」)」との文言があり、隋の 煬帝(開皇11年 |
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592 |
, 推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位し,甥(おい)の廐戸皇子(うまやどのみこ−「聖徳太子」)が皇太子となった。廐戸皇子は 推古天皇の摂政となり,政治を行った |
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592/11/30 |
いわゆる聖徳太子 |
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592/12 |
聖徳太子(父は 用 明天皇。 推古天皇の甥)が皇太子になりました |
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592/12 |
女帝である 推古天皇(父は 欽明天皇)が即位しました。時に39歳でした |
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593 |
甥(おい)であり、自分の娘の婿(むこ)でもある聖徳太子(しょうとくたいし)を摂政(せっしょう)に任命(にんめい)し、政治をゆだねました。 |
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593 |
( 推古天皇元年)に聖徳太子によって建立された 日本最初の官寺。中門,五重塔,金堂,講堂が一直線に並べ回廊が囲む 四天王寺式の伽藍配置が特徴 |
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593/12/8 |
敏達天皇の皇后だった豊御食炊屋姫39歳が豊浦宮で我が国初の女帝として大臣 蘇我馬子ら群臣百官を従え、第33代 推古天皇に即位され、飛鳥地方に 宮都が営まれ、 桜井市 池之内の磐余 池上陵(いわれノいけのへノみささぎ)に埋葬されていた太子の父・ 用 明天皇の御遺体を河内磯長陵に改葬しました。 |
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594 |
仏教興隆(ぶっきょうこうりゅう)の詔(みことのり)を出し、仏教を信仰することをすすめました。また、 高句麗から来日した僧の 慧慈(えじ)に師事(しじ)して仏教を学びました |
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594 |
聖徳太子(21歳)は、仏教興隆の詔を出しました。 |
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594/5 |
− 高句麗の僧恵慈(えじ)が渡来して聖徳太子の師(仏教を教えた)となった。特に隋のことは詳しく伝え聞いたとされる |
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598 |
, 朝鮮半島の 高句麗が隋に侵入してきたため,逆に 高句麗を攻め滅ぼした。これは 朝鮮半島の他の国や倭国にとって脅威(きょうい)となった |
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598 |
隋は、 朝鮮北部の 高句麗に出兵しました。その結果、 東アジアの情勢に大きな影響を与えました |
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598/2 |
−聖徳太子,斑鳩宮を建造する。 |
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600 |
『隋書』に、俀國の「俀王姓阿毎 字 多利思北孤 號阿輩雞彌」から初めて遣隋使がきた記事がある。なお『日本書紀』には同記事はない |
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602 |
来日した百済の観勒(かんろく)が伝えた暦法(れきほう)を採用しました。暦法というのは「こよみ」のことです |
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602 |
聖徳太子は実弟の来目(くめ)皇子を新羅攻撃の将軍に任命し、二万五千の軍を与えます。そしていよいよこの軍が 九州北部から海をこえて 朝鮮半島へ渡ろうとしたときに、突然の不幸がおそいます |
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603 |
冠位十二階(かんいじゅうにかい)の制度を定めます。冠位とは個人の能力や功績(こうせき)に応じて与えられる位のことで、姓とはまったく意味がちがいます |
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603/12/5 |
いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制によらず才能によって人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる |
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604/4 |
丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法[4]を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している(津田左右吉などはこれを「後世における偽作である」としている) |
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604/9 |
改朝礼 因以詔之曰 凡出入宮門 以両手押地 両脚跪之 越梱則 立 行」とある。日本書紀は、十七条憲法と共に、役人は宮門を出る時、宮門に入る時は土下座、四つんばいになるように命じられたとしている |
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607 |
ことでした。 |
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607 |
造られた。 |
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607/2/22 |
,聖徳太子が斑鳩宮で没する。 |
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607/11/30 |
,裴世清(はいせいせい)を使者として送った。隋は倭国を国家として認めた |
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607/11/30 |
■さて話が脱線してしまったので、元にもどして、「無礼な」国書を差し出した 小野妹子らは、翌年の |
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608 |
小野妹子は高向玄理(たかむこのくろまろ)・ 南淵請安(みなぶちのしょうあん)・僧の 旻(みん)など、多くの 留学生や 留学僧をともなって再び隋へとおもむきます。玄理らは、長期間、 中国の進んだ制度や文化などを学んで |
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608 |
隋からの使いである裴世清(はいせいせい)とともに帰国します。 煬帝は激怒しながらも、 高句麗遠征のために 日本との外交関係を継続(けいぞく)をさせたんですね |
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612 |
隋の皇帝である 煬帝は、 高句麗に遠征しました。 |
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613 |
(推古 |
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613 |
皇太子が片岡( 片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない |
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614 |
犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らが隋へ派遣されています。 |
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615/11 |
− 法興寺(飛鳥寺)が完成する。 |
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618 |
その 隋が滅亡したため、倭は再び自力で 南朝鮮( 加耶<かや>地方)からの貢納 |
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620 |
聖徳太子は 蘇我馬子と協力して、「天皇記(てんのうき=すめらみことのふみ)」「国記(こっき=くにつふみ」などの歴史書を編修(へんしゅう)しました。これらは天皇家の系譜(けいふ)を中心に、天皇家が 日本を支配することが正しいと主張するのが目的だったと考えられています |
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620 |
聖徳太子は、天皇の権威・国家の威信を高めるために、『天皇記』・『国記』の編纂を開始しました。 |
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622 |
カテゴリ: 飛鳥・ 奈良時代の皇族 | 聖徳太子 | 伝説の人物 | 紙幣の人物 | 奈良県出身の人物 | 日本の仏教 | 574年生 | 622年没 |
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622 |
聖徳太子が亡くなりました。時に49歳でした |
| 774 |
讃岐国 多度郡 屏風浦(現: 香川県 善通寺市)で生まれた。父は郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀氏、幼名は真魚[1] |
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| 774/6/15 |
するが、これは 中国密教の大成者である不空三蔵の入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承によるもので、正確な誕生日は不明である[2]。 |
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| 789 |
15歳で 桓武天皇の皇子 伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章等を学んだ。 |
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| 792 |
18歳で京の大学寮に入った。大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書等を学んだと伝えられる |
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| 793 |
大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。 御蔵洞( 高知県 室戸市)で修行をしている時、口に明星が飛び込んできて悟りを開いたといわれている |
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| 793 |
20歳にして勤操を師とし 槇尾山寺で出家した、という説、あるいは25歳出家説が古くからとなえられていたが、現在では |
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| 793 |
空海の得度に関しては、延暦12年 |
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| 797 |
『三教指帰』の初稿本に当るもので、2巻存し、入唐前、延暦16年 |
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| 797 |
24歳頃の書といわれる。書はやや硬いが筆力があり、後の風信帖に見られる書風とは異なる |
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| 804 |
入唐直前31歳の年に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されている。また空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではない |
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| 804 |
正規の遣唐使の留学僧(留学期間 |
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| 804/8/10 |
福 州長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる |
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| 804/11/3 |
長安入りを許され |
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| 804/12/23 |
長安に入った。 |
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| 805/2 |
西明寺に入り滞在し、空海の 長安での住居となった。 |
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| 805/5 |
なると空海は、密教の第七祖である唐 長安 青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。 |
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| 805/6/13 |
大悲胎蔵の学法灌頂 |
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| 805/7 |
金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている |
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| 805/8 |
中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。また恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた |
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| 805/8/10 |
伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇する真言として唱えられるようになる |
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| 805/12/15 |
恵果和尚が60歳で入滅。 |
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| 806/1/17 |
空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。 |
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| 806/3 |
長安を出発し |
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| 806/3 |
桓武天皇が崩御し、 平城天皇が即位していた。 |
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| 806/4 |
越 州に到り4か月滞在した。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典等を収集した |
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| 806/8 |
明 州を出航して、帰国の途についた。 |
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| 806/10 |
帰国後は、入京の許しを待って数年間太宰府に滞在することを余儀なくされた。 |
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| 806/10/22 |
付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論等216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物等々膨大なものである |
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| 809 |
平城天皇が退位し、 嵯峨天皇が即位した。空海は、まず 和泉国 槇尾山寺に滞在し |
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| 809/7 |
太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の 神護寺)に入った。 |
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| 810 |
薬子の変が起こったため、鎮護国家のための大祈祷を行った。 |
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| 812 |
かけて 乙訓寺の別当を務めた。 |
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| 812 |
頃とされている。第1通目は |
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| 812 |
年号は不明であるが、 弘仁3年 |
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| 812/6/15 |
」とするのは、頼瑜 |
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| 812/9/13 |
付で「忽披枉書」の書き出し。書風は精気があり、また情緒もある |
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| 812/12/14 |
胎蔵灌頂を開壇。入壇者は 最澄やその弟子円澄、光定、泰範の他190名にのぼった |
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| 813 |
かけて、空海が高雄山寺で金剛・胎蔵両界の灌頂を授けた時の人名を記録した手記である。処々書き直しているが、筆力、結構ともに流露している |
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| 815 |
春、 会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩(基徳の誤記か?)などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼した。また時を同じくして西国 筑紫へも勧進をおこなった |
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| 816 |
初頭頃には訣別するに至る。なお二人の訣別に関しては、古くから 最澄からの理趣釈経(「理趣経」の注釈書)の借覧要請を空海が拒絶したことや、 最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題があげられる |
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| 816 |
しかし、法華一乗を掲げる 最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、 弘仁7年 |
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| 816/6/19 |
修禅の道場として高野山の下賜を請い |
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| 816/7/8 |
高野山を下賜する旨勅許を賜る。翌 |
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| 817 |
泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の 開創に着手し |
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| 818/11 |
空海自身が勅許後はじめて高野山に登り |
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| 819 |
春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。 |
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| 819/10/30 |
まで滞在した。 |
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| 821 |
満濃池(まんのういけ、現在の 香川県にある 日本最大の農業用ため池)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた。 |
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| 821/11/30 |
平城上皇に潅頂を授けた。 |
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| 822 |
太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。 |
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| 823 |
正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。後に天 台宗の密教を 台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになる |
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| 824/2 |
勅により 神泉苑で祈雨法を修した。 |
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| 824/3 |
少僧都に任命され、僧綱入り |
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| 827 |
大僧都)。 |
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| 827/6 |
造東寺別当。 |
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| 827/9 |
高雄山寺が定額寺となり、真言僧14名を置き、毎年年分度者一名が許可となった。 |
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| 828 |
『綜藝種智院式并序』を著すとともに、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設。当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であった |
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| 830 |
淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』十巻、『秘蔵宝鑰』三巻を著した。 |
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| 831 |
病を得た以降の空海は、文字通りみずからの命をかけて真言密教の基盤を磐石化するとともに、その存続のために尽力した。とくに |
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| 831/5 |
末、病(悪瘡といわれている)を得て |
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| 831/6 |
大僧都を辞する旨上表するが、天皇に慰留された。 |
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| 832/8/22 |
高野山において最初の万燈万華会が修された。空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と想いを表している |
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| 834/2 |
東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じた。 |
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| 834/12 |
から入滅までの3ヶ月間は、後 |
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| 834/12/7 |
御修法が申請から10日間で許可されその |
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| 834/12/10 |
修法、また年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とするなど、密度の濃い活動を行った。すべてをやり終えた後に入定、即ち永遠の禅定に入ったとされている |
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| 834/12/19 |
毎年正月宮中において真言の修法(後 |
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| 834/12/24 |
太政官符では東寺に三綱を置くことが許されている。 |
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| 835 |
没 | 弘法大師伝説 |
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| 835/1/7 |
御修法を修す。宮中での御修法はこれより明治になるまで続き、明治以後は東寺に場所を移して今も行われている |
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| 835/1/8 |
より宮中で後 |
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| 835/1/22 |
真言宗の年分度者3人を申請して許可されている。 |
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| 835/2/30 |
金剛峯寺が定額寺となった。 |
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| 835/3/15 |
高野山で弟子達に遺 告を与え |
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| 835/3/21 |
入滅した。享年62(満60歳没) |
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| 835/4/22 |
〈新暦〉) |
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