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空海(くうかい)
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| 年月日 | できごと | 写真 |
|---|---|---|
| 774 |
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| 774/6/15 |
するが、これは |
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| 789 |
15歳で |
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| 792 |
18歳で京の大学寮に入った。大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書等を学んだと伝えられる
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| 793 |
大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。 |
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| 793 |
20歳にして勤操を師とし |
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| 793 |
空海の得度に関しては、延暦12年
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| 797 |
『三教指帰』の初稿本に当るもので、2巻存し、入唐前、延暦16年
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| 797 |
24歳頃の書といわれる。書はやや硬いが筆力があり、後の風信帖に見られる書風とは異なる
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| 804 |
入唐直前31歳の年に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されている。また空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではない
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| 804 |
正規の遣唐使の留学僧(留学期間
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| 804/8/10 |
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| 804/11/3 |
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| 804/12/23 |
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| 805/2 |
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| 805/5 |
なると空海は、密教の第七祖である唐 |
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| 805/6/13 |
大悲胎蔵の学法灌頂
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| 805/7 |
金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている
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| 805/8 |
中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。また恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた
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| 805/8/10 |
伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇する真言として唱えられるようになる
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| 805/12/15 |
恵果和尚が60歳で入滅。
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| 806/1/17 |
空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。
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| 806/3 |
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| 806/3 |
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| 806/4 |
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| 806/8 |
明 |
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| 806/10 |
帰国後は、入京の許しを待って数年間太宰府に滞在することを余儀なくされた。
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| 806/10/22 |
付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論等216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物等々膨大なものである
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| 809 |
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| 809/7 |
太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の |
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| 810 |
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| 812 |
かけて |
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| 812 |
頃とされている。第1通目は
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| 812 |
年号は不明であるが、 |
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| 812/6/15 |
」とするのは、頼瑜
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| 812/9/13 |
付で「忽披枉書」の書き出し。書風は精気があり、また情緒もある
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| 812/12/14 |
胎蔵灌頂を開壇。入壇者は |
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| 813 |
かけて、空海が高雄山寺で金剛・胎蔵両界の灌頂を授けた時の人名を記録した手記である。処々書き直しているが、筆力、結構ともに流露している
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| 815 |
春、 |
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| 816 |
初頭頃には訣別するに至る。なお二人の訣別に関しては、古くから |
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| 816 |
しかし、法華一乗を掲げる |
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| 816/6/19 |
修禅の道場として高野山の下賜を請い
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| 816/7/8 |
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| 817 |
泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の |
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| 818/11 |
空海自身が勅許後はじめて高野山に登り
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| 819 |
春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。
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| 819/10/30 |
まで滞在した。
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| 821 |
満濃池(まんのういけ、現在の |
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| 821/11/30 |
平城上皇に潅頂を授けた。
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| 822 |
太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。
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| 823 |
正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。後に天 |
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| 824/2 |
勅により |
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| 824/3 |
少僧都に任命され、僧綱入り
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| 827 |
大僧都)。
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| 827/6 |
造東寺別当。
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| 827/9 |
高雄山寺が定額寺となり、真言僧14名を置き、毎年年分度者一名が許可となった。
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| 828 |
『綜藝種智院式并序』を著すとともに、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設。当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であった
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| 830 |
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| 831 |
病を得た以降の空海は、文字通りみずからの命をかけて真言密教の基盤を磐石化するとともに、その存続のために尽力した。とくに
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| 831/5 |
末、病(悪瘡といわれている)を得て
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| 831/6 |
大僧都を辞する旨上表するが、天皇に慰留された。
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| 832/8/22 |
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| 834/2 |
東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じた。
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| 834/12 |
から入滅までの3ヶ月間は、後
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| 834/12/7 |
御修法が申請から10日間で許可されその
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| 834/12/10 |
修法、また年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とするなど、密度の濃い活動を行った。すべてをやり終えた後に入定、即ち永遠の禅定に入ったとされている
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| 834/12/19 |
毎年正月宮中において真言の修法(後
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| 834/12/24 |
太政官符では東寺に三綱を置くことが許されている。
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| 835 |
没 | 弘法大師伝説
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| 835/1/7 |
御修法を修す。宮中での御修法はこれより明治になるまで続き、明治以後は東寺に場所を移して今も行われている
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| 835/1/8 |
より宮中で後
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| 835/1/22 |
真言宗の年分度者3人を申請して許可されている。
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| 835/2/30 |
金剛峯寺が定額寺となった。
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| 835/3/15 |
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| 835/3/21 |
入滅した。享年62(満60歳没)
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| 835/4/22 |
〈新暦〉)
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