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秋山真之(あきやまさねゆき)

 

秋山好古(あきやまよしふる)

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秋山真之(あきやまさねゆき)と秋山好古(あきやまよしふる)に関する本・DVD

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秋山真之   秋山好古
年月日 できごと   年月日 できごと
      1859 伊予松山城下(現・愛媛県松山市歩行町)に松山藩士・秋山久敬、貞の三男として生まれる。秋山家は足軽よりも一階級上の位で家禄10石程の下級武士(徒士身分)だった情報源のサイトへ
      1859/1/7 秋山 好古(あきやま よしふる、安政6年1月7日情報源のサイトへ
1868/3/20 秋山 真之(あきやま さねゆき、慶応4年3月20日情報源のサイトへ      
1868/3/20 「秋山兄弟生誕地」において、「秋山真之生誕祭」を催しているようです。情報源のサイトへ      
1868/3/20 秋山真之生誕の日です。情報源のサイトへ      
1868/3/30 秋山真之、海軍軍人・日露戦争における第一艦隊参謀(後に先任参謀)(+情報源のサイトへ      
      1873/12 名古屋久屋町(現・久屋町1丁目)に「愛知県養成学校」を開校情報源のサイトへ
      1874/8 法華寺町(現・東桜2丁目)に移転情報源のサイトへ
      1875 大阪師範学校受験。情報源のサイトへ
      1876 大阪師範学校卒業。大阪府北河内(寝屋川市堀溝)58番小学校、名古屋師範学校附属小学校勤務情報源のサイトへ
      1876/7 で、そして情報源のサイトへ
      1876/8 「愛知県師範学校」と改称情報源のサイトへ
      1877 陸軍士官学校(旧制3期生)に入学し、卒業後は東京鎮台に配属される。情報源のサイトへ
      1877/2 本町1丁目(現・丸の内2丁目)に移転情報源のサイトへ
      1877/3 東京の陸軍士官学校に入校し名古屋を離れます。ということから秋山好古が赴任した「師範学校」は法華寺町(現・東桜2丁目)の地となります情報源のサイトへ
      1879 陸軍士官学校騎兵科を卒業し少尉となります。当時21歳です情報源のサイトへ
      1879 秋山好古の官歴を拝見しますと、好古は1879年情報源のサイトへ
      1879 陸軍士官学校卒業。任陸軍騎兵少尉情報源のサイトへ
1880 東郷平八郎山本権兵衛といった「日本海軍の三祖」の一人である加藤友三郎は、とても聡明な人で、1880年情報源のサイトへ      
1880 海軍兵学校を次席で卒業し、海軍大学校ではの首席(第一期)で卒業しています。情報源のサイトへ      
1883 将来の太政大臣を目指すために東京へ行き受験準備のために共立学校(現在の開成高校)などで受験英語を学び、大学予備門(のちの一高、現在の東京大学教養学部)に入学。情報源のサイトへ   1883 (25歳)情報源のサイトへ
1883 将来の太政大臣を目指すために東京へ行き受験準備のために共立学校(現在の開成高校)などで受験英語を学び、大学予備門(のちの一高、現在の東京大学教養過程)に入学。情報源のサイトへ   1883 任陸軍騎兵中尉。陸軍大学校(1期)へ進む情報源のサイトへ
1886 大学予備門では東京帝国大学進学を目指すが、秋山家の経済的苦境から真之は兄の好古に学費を頼っていたため、卒業後は文学を志して帝国大学文学部に進む子規らとは道を異にし、明治19年情報源のサイトへ   1886 親任とは、1886年情報源のサイトへ
1886 海軍兵学校に17期生として進学。情報源のサイトへ   1886 高等官官等棒給令に規定された勅任官のなかから、天皇の親任によって叙任されます。内閣総理大臣・各省大臣のほか、台湾総督と並び陸海軍大将は親任官となります情報源のサイトへ
      1886 任陸軍騎兵大尉。情報源のサイトへ
      1886 (28歳)情報源のサイトへ
      1886/8 「愛知県尋常師範学校」と改称、武平町に移転情報源のサイトへ
      1887 サン・シール陸軍士官学校に留学した久松定謨の補導役としてフランスへ渡り、騎兵戦術の習得に努める。情報源のサイトへ
1890 海軍兵学校を首席で卒業し、海軍軍人となる。卒業後は少尉候補生として海防艦「比叡(初代)」に乗艦して実地演習を重ね、座礁したトルコ軍艦の生存者送還(エルトゥールル号遭難事件)にも従事する情報源のサイトへ      
1890 秋山真之は海軍兵学校を卒業、少尉候補生となり、練習艦「比叡」に乗り込んで遠洋航海に出ることになりました。そこで、父・秋山平五郎は真之に、昔話の「桃太郎」の話をして、はじめて外国にゆく息子を激励したといいます情報源のサイトへ      
      1891 フランスに留学しましたので進級が其の分だけ見送られています。また、日露戦争の奮戦にもかかわらず昇進が見送られているのがわかります情報源のサイトへ
1892 (1892)少尉。砲艦筑紫の航海士として日清戦争に従軍情報源のサイトへ   1892 任陸軍騎兵少佐。情報源のサイトへ
      1892 (34歳)情報源のサイトへ
      1893 騎兵第1大隊長。佐久間多美子と結婚情報源のサイトへ
      1894 日清戦争に従軍。情報源のサイトへ
      1895 任陸軍騎兵中佐。情報源のサイトへ
      1895 (37歳)情報源のサイトへ
1896 日清戦争では通報艦「筑紫」に乗艦し、偵察など後援活動に参加。戦後には「和泉」分隊士、明治29年情報源のサイトへ      
1896/1 横須賀に転属し、日清戦争での水雷の活躍に注目して設置された海軍水雷術練習所(海軍水雷学校)の学生となり水雷術を学び、卒業後に横須賀水雷団第2水雷隊付となる。のちに報知艦「八重山」に乗艦し、海軍大尉となる情報源のサイトへ      
1896/11 軍令部諜報課員として中国東北部で活動する。情報源のサイトへ      
1897 秋山真之は米国留学を命ぜられます。真之は米国滞在中に世界的な海軍戦術の権威であるアルフレッド・セイヤー・マハンに講義を受けるべく面会を請います情報源のサイトへ   1897 (39歳)情報源のサイトへ
      1897 任陸軍騎兵大佐。情報源のサイトへ
      1897/4 東芳野町に移転、再び「愛知県師範学校」に改称情報源のサイトへ
1898 海軍の留学生派遣が再開されると派遣留学生に選ばれるが、公費留学の枠に入れずにはじめは私費留学であった。アメリカへ留学した真之は、ワシントンに滞在して海軍大学校校長、軍事思想家であるアルフレッド・セイヤー・マハンに師事し、主に大学校の図書館や海軍文庫での図書を利用しての兵術の理論研究に務める情報源のサイトへ      
1899/1 イギリス駐在となり視察を行い情報源のサイトへ      
      1899/4 「愛知県第一師範学校」と改称情報源のサイトへ
      1899/7/4 ビアホールがはじめて登場しました。情報源のサイトへ
1899/8 帰国。情報源のサイトへ      
1899/11/30 高校受験でした。そして本日、高校入試の合格発表があり、姪っ子は無事に「松山北高等学校」に合格しました情報源のサイトへ      
1900 秋、秋山真之は米・英海外留学帰朝後ほどなく胃腸を病み、長与病院に入院します。情報源のサイトへ      
1902 海軍大学校の教官となる。情報源のサイトへ   1902 (44歳)情報源のサイトへ
      1903 日露戦争の勝因については多々ございますが、1903年情報源のサイトへ
      1903 小笠原長生がロシアの艦長と対面した時に、艦長室にきれいな女の写真が飾ってあったので、艦長に向かって情報源のサイトへ
      1903/1 も早く自分の帰ることを首を長くして待っている。だから戦争などということはおれは嫌いだ情報源のサイトへ
1903/8 結婚。翌情報源のサイトへ      
1904 海軍少佐・第1艦隊参謀(後に先任参謀)。朝鮮半島を巡り日本とロシアとの関係が険悪化し情報源のサイトへ   1904 日露戦争において騎兵第1旅団長[1]として出征し、第二軍に属して、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦う。また秋山支隊からロシア軍の後方攪乱のために派遣された永沼挺身隊の活躍は、小説『敵中横断三百里』によって有名となっている情報源のサイトへ
1904/1/1 遅れでやっと今届いた。情報源のサイトへ      
1904/1/21 よれば、下記のとおりとなります。情報源のサイトへ      
1904/8/8 ――これは皇帝の意思である。という、極東総督アレクセフからの電報をうけとった情報源のサイトへ      
1904/8/9 その準備についやした。『坂の上の雲』(黄塵)より情報源のサイトへ      
1904/8/10 旅順を脱出してウラジオストクの艦隊と合同しようとするロシア太平洋艦隊に対し、東郷平八郎大将の日本連合艦隊主力がこれを阻止します。(黄海海戦)情報源のサイトへ      
      1905 より情報源のサイトへ
      1905/1/25 まだ暗いころである。午前三時には、最前線の黒林台に出してある前哨(約二個中隊)が、敵の大きな兵力の夜襲をうけて退却のやむなきに至った旨の電話をきいたときから、好古は、(これは想像以上の事態がおこりそうだ)と、直感した情報源のサイトへ
      1905/1/25 ロシア軍は本格的な反攻作戦に転じ、日本軍最左翼に布陣する秋山好古支隊に襲いかかります。世に云う、黒溝台の戦いの始まりです情報源のサイトへ
1905/2 ニ十日で、その解散式は翌日旗艦においておこなわれた。旗艦はこの時期、敷島から朝日になっていた情報源のサイトへ      
1905/12/20 連合艦隊はその編制を解かれ、新たに第一艦隊、第二艦隊、南清艦隊及び練習艦隊が編制されました。当時連合艦隊旗艦朝日は横須賀軍港にあり、東郷平八郎司令長官は、上京中であったため、発令は翌日の情報源のサイトへ      
1905/12/21 連合艦隊の解散式が旗艦朝日で挙行されました。情報源のサイトへ      
      1907 時に森山慶三郎が秋山好古に何かの話から情報源のサイトへ
1907/10/31 初めてハワイのセントルイス野球団が来日し、早稲田、慶應野球部とそれぞれ対戦することになりました。情報源のサイトへ      
      1909 任陸軍中将。情報源のサイトへ
      1909 (51歳)情報源のサイトへ
1911 辛亥革命で清朝が打倒され、中華民国が成立情報源のサイトへ      
1914 (1914)海軍省軍務局長情報源のサイトへ      
1914 軍艦建造を巡る疑獄事件であるシーメンス事件が起こる。事件は政府批判に発展し、また、事件に際しては秘密裁判主義に基づいているとして改正が検討されていた陸海軍治罪法の問題が再燃し、衆議院議員の花井卓蔵が賛同者を集め、軍法会議の公開などを要求情報源のサイトへ      
1914 海軍未曾有の大疑獄、シーメンス事件がおきた。海軍の高官がシーメンス社から機密費として賄賂をとっていたということで、時の山本内閣は責任をとって総辞職した情報源のサイトへ      
1914/1/23 世にいう、日本海軍の汚職事件「シーメンス事件」が発覚しました。情報源のサイトへ      
1914/3 山本権兵衛が退陣し、大隈重信内閣が発足すると、海軍大臣には八代六郎が任命され、秋山は海軍省軍務局長として八代を補佐することとなった。秋山は軍艦建造のための臨時会議召集をはたらきかけ、予算成立に尽力する情報源のサイトへ      
1914/11 治罪法改正委員会が設置されると、花井卓蔵らと論争を行う。情報源のサイトへ      
1915 袁世凱が皇帝に推戴されると、中国各地で反対運動が起こり、日本政府など諸外国も抗議。またこの頃、川島浪速ら大陸浪人と参謀本部田中義一参謀次長らが主導した第二次満蒙独立運動に外務省政務局長となった小池とともに加わっている情報源のサイトへ   1915 発行された、それはそれはとても分厚い日露戦争の写真集です。情報源のサイトへ
      1915 刊)を入手情報源のサイトへ
      1915 近衛師団長。情報源のサイトへ
      1915 刊)を入手”情報源のサイトへ
      1916 任陸軍大将。情報源のサイトへ
      1916 (58歳)情報源のサイトへ
1916/2 軍令部に転出となったため、委員は鈴木貫太郎に引き継がれる。情報源のサイトへ      
1916/3 第一次世界大戦を視察するためにヨーロッパへ渡る。朝鮮半島からシベリア鉄道へロシア、フィンランドなど東欧などを視察情報源のサイトへ      
1916/5 イギリスへ渡り、日本海海戦を観戦したペケナム中将、イギリス艦隊司令長官のジェリコ提督らに歓迎される。フランス、イタリアに滞在したのち、翌情報源のサイトへ      
      1916/11/16 秋山好古は陸軍大将となります。ついに軍令部における最高指揮官となりました情報源のサイトへ
1917 中将に昇進。情報源のサイトへ      
1917/7 名誉職としての海軍将官会議議員となる。情報源のサイトへ      
1917/9 アメリカへ渡り情報源のサイトへ      
1917/10 帰国。帰国後には第2艦隊の水雷司令官となるが、病状悪化もあり直ぐに辞職情報源のサイトへ      
1918 死去する直前には般若心経を唱えていたという。情報源のサイトへ      
1918 1918年)情報源のサイトへ      
1918 写真の書は、秋山真之が1918年情報源のサイトへ      
1918 亡くなる直前に書かれた本人の直筆の書となります。情報源のサイトへ      
1918 カテゴリ: 日本の海軍軍人 | 日露戦争 | 愛媛県出身の人物 | 伊予国の人物 | 1868年生 | 1918年没情報源のサイトへ      
1918/2/4 大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍中将情報源のサイトへ      
1918/2/4 秋山真之(海軍軍人)[1918年2月4日没]情報源のサイトへ      
1918/2/4 秋山真之が死の直前に詠んだ辞世の句です。情報源のサイトへ      
1918/2/4 (1868~1918)情報源のサイトへ      
1918/2/7 青山斎場に於て、秋山真之の葬儀が営まれました。情報源のサイトへ      
1918/4/4 に、四国地方のみで放送されました情報源のサイトへ      
      1920 陸軍教育総監となり、陸軍の最高幹部の一人となる。情報源のサイトへ
      1923 予備役に編入(元帥位へ推薦の話もあったが本人が固辞した)。情報源のサイトへ
      1924 北予中学校(現在の松山北高校)校長就任。退役陸軍大将の仕事としては全くの異例(格下)であったが、本人の強い希望だったと言われる情報源のサイトへ
      1930 校長辞任。糖尿病による心筋梗塞により東京の陸軍軍医学校で永眠情報源のサイトへ
      1930 没隠しカテゴリ: 人物関連のスタブ項目情報源のサイトへ
      1930/11/4 午後7時10分、秋山好古は息をひきとりました。(享年72歳)情報源のサイトへ
      1930/11/4 日本の陸軍軍人。陸軍大将従二位勲一等功二級情報源のサイトへ

あしたね年表について

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