あしたね年表 | 気になる人物や場所にまつわるできごとを調べてみよう!

気になる人物や場所にまつわるできごとを調べてみよう!

年表トップ > 作家 > 石川啄木

ウェブサイト上の情報を調べて見出し情報をまとめた検索結果ページです。事実が正確に並べられた年表ではありませんのでご注意下さい。

石川啄木(いしかわたくぼく)

/01_003.jpg

石川啄木(いしかわたくぼく)に関する本・DVD

Ads by Google

年月日 できごと 写真
1888/12/20 2歳妹光子生まれる。 情報源のサイトへ
1895 9歳尋常小学校卒業。盛岡市立高等小学校(いまの下橋中)に入学 情報源のサイトへ
1902 16歳同中学を退学。試験でカンニングし、処分されたのが直接の動機といわれる 情報源のサイトへ
1902/10/27 中学校を退学し、文学で身を立てる決意をもって上京し、正則英語学校(現在の正則学園高等学校)に通う。 情報源のサイトへ
1902/11/10 与謝野夫妻を訪ねる。滞在は続き作歌もするが出版社への就職がうまく行かず、結核の発病もあり、翌 情報源のサイトへ
1904/1/8 盛岡にて恋愛が続いていた堀合節子と将来の話をし 情報源のサイトへ
1906/2/25 長姉田村サダが結婚先の秋田県鹿角郡にて肺結核で亡くなる。 情報源のサイトへ
1906/4/21 徴兵検査で筋骨薄弱にて徴集が免除される。 情報源のサイトへ
1906/12 評論「林中書」を脱稿。 情報源のサイトへ
1907/6 弥生尋常小学校の代用教員となり、そこで片想いの女性・橘智恵子と知り合う。 情報源のサイトへ
1907/8 函館新聞」遊軍記者も兼ねたが、函館大火があり、函館を離れる。 情報源のサイトへ
1908/1/4 小樽市内の「社会主義演説会」で当時の社会主義者、西川光次郎の講演を聞き、西川と面識を得る。家族を小樽に残し、旧釧路新聞社(現釧路新聞社と社名が同一であるが、全くの別会社 情報源のサイトへ
1909/3 刊行されている。 情報源のサイトへ
1909/3/1 東京朝日新聞』の校正係となる。 情報源のサイトへ
1910/3 下旬、『二葉亭全集』の校正を終え、引き続き刊行事務全般を受け持つ。 情報源のサイトへ
1910/10/4 長男真一が誕生したが 情報源のサイトへ
1910/10/27 病死している。 情報源のサイトへ
1911/1 友人の平出修弁護士と会い、幸徳秋水の弁護士宛「意見書」を借用する。啄木は、「大逆事件」の拘引以前から社会主義思想にひかれていたが、幸徳の「陳弁書」を読み、より深く社会主義を研究し始める 情報源のサイトへ /070430bozensai.jpg /76.jpg
1911/1/10 アメリカで秘密出版され、日本国内に送付されたクロポトキン著の小冊子『青年に訴ふ』(大杉栄訳か?)を歌人谷静湖より寄贈され、愛読する。 情報源のサイトへ
1911/1/13 土岐哀果と会い、雑誌『樹木と果実』の刊行計画を相談したが、結局実現はしなかった。 情報源のサイトへ
1911/2 慢性腹膜炎で入院、次第に衰弱。 情報源のサイトへ
1911/8/7 病気回復のために環境が少し良い小石川久堅へ移る(現・文京区小石川 情報源のサイトへ
1912 カテゴリ: 歌人 | 日本の詩人 | 日本の文芸評論家 | 岩手県出身の人物 | 朝日新聞社の人物 | 1886年生 | 1912年没 情報源のサイトへ
1912/3/7 母カツ死去。 情報源のサイトへ
1912/4/15 浅草等光寺で葬儀、夏目漱石も参列する。土岐が生まれた寺であり、彼が葬儀の世話をした 情報源のサイトへ /PICT16521.jpg
1912/6/14 節子が次女を出産。房州(千葉県)で生まれたため房江と名付ける 情報源のサイトへ
1912/6/20 第二歌集『悲しき玩具』刊行、土岐がタイトルをつける。 情報源のサイトへ

あしたね年表について

このページのトップに戻る