| 年月日 |
できごと |
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年月日 |
できごと |
| 1560 |
越後・長尾家臣の樋口兼 豊(樋口惣右衛門兼 豊)の長男として生まれたとされ、幼名は与六と言った。母は 信州・泉重蔵の娘(諸説有)で、名は藤と考えられる |
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1560 |
(永禄3年) |
| 1560 |
言えば、 織田信長が桶狭間で 今川義元を破った年であり、 石田三成も1560年生まれとされている。 |
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1560 |
(1歳) |
| 1560 |
越後の坂戸城下で生まれた。 越後の 上杉謙信が 武田信玄と 信濃で 川中島の戦いを繰り返し、 東海では 桶狭間の戦いにより 織田信長が畿内への勢力を拡大していたまさに激動の時代 |
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| 1560 |
(1560)に坂戸城主・長尾政景の家臣・樋口兼 豊の長男として生まれる。父は身分が低かったが、兼続自身は容姿端麗で非常に聡明であった |
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| 1560/6 |
町)の台所まわりで働いていたとされる。(諸説有) |
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| 1564 |
上田長尾家当主の長尾政景が死去すると、上杉輝虎(謙信)の養子となった上杉景勝(当時の名乗りは長尾顕景)に従って 春日山城に入り、そのまま景勝の小姓・近習として近侍したとされる。しかしながら、これを立証する信憑性のある史料は極めて少ない |
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| 1564 |
1564年 5歳 |
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| 1564 |
坂戸城主・長尾政景が野尻湖にて琵琶 嶋城主・宇佐美定満と共に溺れて死去する事件が起こる。この時、家督を継ぐべき長尾政景の子、長尾顕景(のちの上杉景勝)は、まだ9歳だったこともあったからだろう |
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| 1566 |
初陣を果たしているが、樋口兼続の元服や初陣など若かりし頃の行動は良くわかっていない。 |
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| 1566/5 |
人形 着用兜(かぶと) 平飾り 着用 直江兼続兜 25号 ks-2460 |
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| 1570 |
北条氏康と和睦した際、 小机衆を率いていた 北条氏康の七男・北条三郎(北条氏秀)が、人質として上杉家に送られたが、その後、 上杉謙信が養子にした。 上杉謙信は美男だった北条三郎を大変気に入ったようで、上杉景虎の名を与えるなど、上杉家一門、そして後継候補として厚遇したようだ |
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| 1574 |
最上家の御家騒動に介入した伊達輝宗が最上義光と戦い、 新宿( 二井宿)から上山盆地に入って 楢下の地を奪い、 高松の地を焼いた後、中山城へ引き揚げている。 |
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1574 |
( 天正2年) |
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1574 |
羽柴秀吉(のちの 豊臣秀吉)が 織田信長に仕えて 近江長浜城( 長浜市)主となった 天正2年 |
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1574 |
豊臣秀吉に見出され、石田三成が家臣になる。 |
| 1575 |
長尾顕景は名を上杉景勝に改めると共に、 上杉謙信から 弾正少弼の位を譲られた。 |
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| 1576 |
伊達政宗が大檀那となって 大津 美作守が熊野大社社殿を建立したという。 蒲生氏の時代には武将間の争いで中山城主 蒲生郷可が不仲の米沢城主 蒲生郷安を攻めるため宮沢城を修理したという |
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| 1576 |
越中を平定。 |
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| 1577 |
伊達政宗が開帳供養を行った。 |
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| 1577 |
織田勢が加賀に進軍。柴田勝家18000を先発させ、 織田信長自身も30000で出陣したが、迎え撃った 上杉謙信勢約20000と 手取川の戦いで激突 |
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| 1578 |
上杉謙信が亡くなると跡目争いが勃発。景勝は遺言により相続したと主張し、 春日山城本丸を押さえる |
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| 1578 |
遺領は景勝の命で大国実頼(直江兼続の弟、樋口与七)が継承する。<名臣の系統なので本当のところの死因はふせられてるんじゃないでしょうか |
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| 1578 |
上杉謙信が急死すると上杉景虎との跡目争いの 御館の乱に勝利し、上杉家の家督を継いだ。織田軍の侵攻により国力は衰退するも 本能寺の変の後、 豊臣秀吉に謁見し、上杉景勝は豊臣家の大名となり、五大老となった |
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| 1578 |
謙信の死で景勝と景虎の家督相続争いが始まり、 御館の乱が勃発。戦いは景勝が勝利し景虎とその妻( 仙桃院の娘)は自害した |
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| 1578 |
後には伊達氏や上杉氏に厚く信仰され、 天正六年 |
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| 1578/3 |
関東遠征と考えられる侵攻準備のさなか |
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| 1578/11/30 |
大坂夏の陣で徳川方として活躍した。 |
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| 1578/12 |
武田信玄の娘・菊姫を上杉景勝の正室に嫁がせ上杉景勝と武田勝頼が同盟するなど、上杉景虎を孤立させた。 |
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| 1579/2/1 |
御館の上杉景虎はついに逃亡。正室だった上杉景勝の姉は降伏勧告を拒んで自害(享年24歳?) |
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| 1580/8 |
から、景勝への取次役など側近としての活動が資料で確認できる。 |
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| 1580/8/15 |
奉行職として佐藤 庄左衛門、皆川式部丞に上杉景勝からの知行書を出すと言う重要な役割をしているのが確認できている。 |
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| 1581 |
新発田重家が 織田信長に内通して謀反を起こす。 |
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| 1581 |
御館の乱の恩賞問題により対立状態にあった北 越後の 新発田重家が織田家と結び、北から 越後に侵入し、西から織田勢の柴田勝家が攻め、上杉勢は挟み撃ちにあう。この頃、織田勢は各地で攻勢に出ており武田勝頼も |
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| 1582 |
小国重頼の養子となり、後に命により大国姓に改めた。 |
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| 1582 |
同盟者の武田勝頼が織田に滅ぼされ、ついに柴田勝家率いる織田軍が上杉を滅ぼさんと攻め込んできた。 |
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| 1582 |
武田家滅亡で、上杉景勝に仕える。専ら直江兼続のもとで活躍し、兼続の絶大な信頼を受け「直江被官の棟梁」と呼ばれた |
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| 1582 |
最前線の 越中 魚津城は織田軍の猛攻により全滅の憂き目を見る。しかし 魚津落城の |
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| 1582/2/30 |
前田利家、佐々成政らが上杉勢の 魚津城を攻撃。篭城していた山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・ 亀田長乗・藤丸勝俊・中条景泰・竹俣慶綱といった13名が自刃し |
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| 1582/3 |
自決。 |
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1582/6 |
信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が台頭すると、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。 |
| 1582/6/1 |
このように上杉氏はあと少しで滅亡と言う危機に陥ったが、 魚津城が落城した1日前の |
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| 1582/6/2 |
織田信長が 本能寺の変で倒れていた。 本能寺の変が届くと織田勢は混乱し撤退 |
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| 1582/6/3 |
魚津城は陥落し 織田勢は 越中を完全に制圧。中条景 泰らは「焼けて誰の首だかわからないと見苦しい」と、自分の名を書いた札に針金を結い、それぞれ耳に通してから自害したと言い、この光景を見た 織田勢の将兵は「上杉恐るべし」の感を強くしたと言う |
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| 1583 |
新発田重家の乱では重要な戦略地 新潟を巡り激しい攻防が続いていたが、 天正11年 |
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1583 |
(24歳) |
| 1583 |
柴田勝家は 豊臣秀吉に敗れて滅亡し、このように上杉氏は危うく難を逃れたが、 羽柴秀吉から依頼されていた柴田勝家攻めに出兵するだけの余力もなく、 信濃で北条氏との対立もあり、 新発田重家の攻略は苦慮しており、旧領を回復もならず国力は衰退していた。ちなみに |
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1583 |
本能寺の変で 織田信長(おだのぶなが)が討たれる。 |
| 1583 |
豊臣秀吉は大阪城を 築城開始している。 |
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| 1584 |
徳川家康と小牧・ 長久手の戦いになり、 織田信雄が 羽柴秀吉と和議を結び、 徳川家康が2男を 羽柴秀吉の養子にと 大阪へ送り |
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1584 |
( 天正12年) |
| 1584 |
1584年 25歳 |
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| 1584/11/24 |
直峰城主に命じられている。 |
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| 1585 |
越 中 越水城で景勝・兼続主従と秀吉・ 石田 三成主従が面会した( 越水の会)。この時、直江兼続と 石田 三成が親交を結んだため、後に 会津征伐と 三成の挙兵に際しては二人が示し合わせたのだとも言われる |
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1585 |
豊臣秀吉が関白(かんぱく)になる。 |
| 1585 |
1585年 26歳 |
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1585 |
( 天正13)、秀吉が関白に就任したころより持ち前の才覚で頭角を現す。 |
| 1585/7 |
関白の位を受けて 羽柴秀吉は 豊臣秀吉と改名し、着々と 豊臣秀吉の天下が形成されつつあった。 |
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| 1585/8 |
豊臣秀吉は佐々成政の 富山城を10万の大軍で包囲し佐々成政を降伏させた。 |
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1585/11/30 |
小西隆佐とともに 堺奉行となる。やがて浅野長政、 増田長 盛、 長束正家、 前田玄以らの豊臣氏直属吏僚の中でも随一の奉行と目されるようになった |
| 1586 |
(1586)、景勝と兼続は秀吉に会うため上洛すると、景勝が従四位下・左近衛少将に、兼続が従五位下にそれぞれ任じられた。その後、 佐渡征伐、 小田原征伐、 朝鮮出兵などで景勝に従い、参謀として活躍を見せる |
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1586 |
石田三成が 堺奉行(さかいぶぎょう)もかねる。 |
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1586 |
( 天正14年) |
| 1587 |
九州征伐。 |
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1587 |
(28歳) |
| 1587 |
夏、 豊臣秀吉の支援を受けて1万余の大軍にて 新発田城包囲。長年敵対していた 新発田重家を討伐し、直江兼続・藤田信吉らが五十公野城を陥落するなど直江兼続も武功を挙げた |
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1587 |
島津征伐では秀吉に従い 博多の復興を指揮し、 島井宗室・ 神屋宗湛ら豪商と親交を深めた。 |
| 1587 |
ようやく 新発田重家を滅ぼして領内を安定させた。 |
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| 1588 |
伊達政宗と最上義光が中山で対陣し、一触即発の危機に陥った際、政宗の母で義光の妹である義姫が両軍の間に居座って戦いを断念させたという話もある。 |
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1588 |
(29歳) |
| 1588 |
( 天正16年) |
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1588 |
薩摩の 島津義久の秀吉との謁見を斡旋する。 |
| 1588 |
1588年 29歳 |
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| 1588/5 |
再び上杉景勝と直江兼続は共に上洛し、上杉景勝は従三位参議に昇進。直江兼続自身も、関白・ 豊臣秀吉から |
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| 1589 |
佐渡征伐に景勝と共に従軍。その功により、平定後に 佐渡の支配を命じられた |
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1589 |
( 天正17年) |
| 1589 |
佐渡を平定。 出羽 庄内では上杉の武将である本荘繁長が最上義光を撃退し、 越後・ 佐渡・ 出羽 庄内にわたる広大な領国を形成する |
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1589 |
美濃国を検地する。 |
| 1590 |
小田原征伐でも景勝に従い、 松山城を守備していた城代の山田直安以下金子家基・難波田憲次・若林氏らを降ろし、先兵として 八王子城を攻略させるなどし 関東諸城を攻略。 |
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1590 |
1589〜1590年 |
| 1590 |
豊臣秀吉の 小田原征伐。その際、上杉勢は北国軍として 前田利家・ 真田昌幸らの軍勢15000で松井田城、 鉢形城を落とし、そして、 八王子城も攻めた |
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1590 |
( 天正18)の 小田原征討、 奥州平定ではみずから戦闘の指揮をとったが、 上野・ 館林と武蔵・忍(おし)の二つの城攻めに続けて失敗、戦さ下手を露呈した。 |
| 1591 |
前田利家を騙して水風呂に入れて前田家を出奔し、 京都で暮らしていた。「録高は問わない |
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| 1591 |
奉納した古鐘があった。この古鐘は藤原正頼が |
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| 1591 |
亀岡文殊の鐘楼堂にはかつて 伊達政宗が 天正十九年 |
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| 1591/9/18 |
豊臣秀吉が死去する。 豊臣秀吉の遺命により、陪臣ではただひとり、直江兼続は太刀を一振拝領している |
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| 1592 |
からの 朝鮮出兵においても景勝と共に参陣して武功を挙げた。上杉領となった 庄内地方においても 大宝寺城の改修や、一揆の制圧などを取り仕切った |
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1592 |
(文禄元) 朝鮮出兵が開始されると舟奉行として 佐賀・ 名護屋に駐留し、秀吉の 朝鮮渡海が 徳川家康、 前田利家らの諌止によって中止されると、代官として 増田長 盛、 大谷吉 継などとともに渡海。前線の諸軍を監察して戦況を見定めると、 小西行長が進めていた講和論を支持し |
| 1592 |
1592年 33歳 |
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1592 |
(33歳) |
| 1592 |
父色部長実が亡くなり、幼少ながら跡を継ぐ。直江兼続の妹を妻にした |
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1592 |
石田三成が 朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)の船奉行(ふなぶぎょう)になる。 |
| 1592 |
からの 朝鮮出兵においては、上杉景勝は直江兼続らと 肥前 名護屋に約2ヶ月滞在したのち 朝鮮に渡って従軍する。この戦は無益と直江兼続は、自軍に対し、財貨の略奪などを厳しく戒めたいたと言う |
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| 1593 |
1593年 34歳 |
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1593 |
(文禄2)明の講和使を伴って帰還した。しかし、 朝鮮での行動は 加藤清正ら武闘派諸将の反感を高めた |
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1593 |
(34歳) |
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1593/8 |
また、豊臣秀頼が 豊臣秀吉の実子ではなく 三成が淀殿と密通して生ませた子であるという説があるが、淀殿不行跡の史料的根拠である『 萩藩閥閲録』において、その風聞があったのは秀吉の死後で、かつ相手も大野治長と記載があること及びこの話の出典が 江戸中期以降ということから、現在では 三成や淀殿を貶めるために幕府の御用学者が捏造したとの説が有力である[要出典]。秀頼は文禄2年8月 |
| 1594 |
頃、樋口兼 豊の知行は809石1斗6升4合。同心衆として下平彦 兵衛、登坂与総右衛門、北村監物、登坂弥太郎、滝沢孫 兵衛、岡村 源助、上村三郎右衛門、星次郎左衛門、香坂三郎右衛門、山田杢之助、吉田作右衛門、井田 玄蕃、浅間縫殿、小市源左衛門の14人を抱えている |
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1594 |
石田三成が 関東や 九州の太閤検地(たいこうけんち)を行う。 |
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1594 |
(35歳) |
| 1594/10 |
上杉景勝は権知中納言に昇進。 |
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| 1595 |
豊臣秀吉の人質となった 上杉景勝の正室・菊姫に付き添う形で、直江兼続の正室・お船の方も 京都 伏見の 上杉邸に移る。 |
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1595 |
(36歳) |
| 1595 |
40歳の若さで急死。茶人でもある氏郷が茶の席で政宗に毒を盛られたとも言われた |
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1595 |
石田三成が近江佐和山城(おうみさわやまじょう)の城主になる。 |
| 1595 |
1595年 36歳 |
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1595/3/3 |
家康と互角の勢力を持っていた大老・ 前田利家が病死する。その直後、 三成と対立関係にあった武断派の 加藤清正、福島正則、 黒田長政、 細川忠興、浅野幸長、 池田輝政、 加藤嘉明の7将(史料によっては蜂須賀家政や 藤堂高虎の名もある)が、 三成の大坂屋敷を襲撃した |
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1595/9 |
家康が重陽の節句による祝意を秀頼に述べるため大坂に赴いたとき、 三成の屋敷を宿所としたと言われている。 |
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1596 |
(37歳) |
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1597 |
(慶長2年) |
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1597 |
1597年 38歳 |
| 1597/2/7 |
直江山城守兼続判」と閻魔大王への嘆願書を書いたという。義や温情に厚い兼続ではあったが、主筋に無体な要求を繰り返す家臣を捨て置くことは出来なかったエピソードである |
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| 1598 |
国替え「会津御在城分限帳」に登録される。 |
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1598 |
豊臣秀吉が 伏見城(ふしみじょう)で病死する。 |
| 1598 |
上杉景勝の 会津 移封で置賜は上杉領となり、中山城主には横田式部旨俊が配された。また武田旧臣で上杉家に 移った清水三河守康徳が中山城将に入った |
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1598 |
(39歳) |
| 1598 |
1598年 39歳 |
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1598 |
(慶長3)秀吉が死ぬとその確執が表面化していく。 |
| 1598 |
上杉景勝が 越後から移ると対最上の最前線として重臣泉沢久秀が城主となる。慶長 出羽合戦においては 長谷堂城の戦いから撤退した直江兼続が荒砥城に帰還している |
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1598 |
豊臣秀吉が没し政治の実権を握っていく。秀頼を擁立する石田三成らと対立する |
| 1598 |
主家の 会津転封に伴い、二本松城代( 二本松市)となる。直江兼続の下で奉行を務め、大石綱元や岩井信能とともに 会津三奉行と呼ばれた |
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| 1598 |
(1598)、秀吉が死去すると、 徳川家康が天下取りの野望をあらわにし、次々と手を打っていく。これに 石田三成は対抗するが、失脚 |
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| 1598 |
上杉景勝の支配下になると宮沢城には信濃飯山城主尾崎三郎左衛門重誉が移ってくる。飯山の尾崎氏は泉氏とも称し、飯山城主泉弥七郎重歳の娘が直江兼続の母という関係で重誉は兼続の従兄弟の子という |
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| 1598/1 |
豊臣秀吉の命で上杉景勝が 越後から 会津120万石( 会津四 郡、 仙北八 郡、田川遊佐、置賜、 佐渡)に加増 移封されると、 豊臣秀吉は直江兼続に 出羽 米沢6万石(諸説有・3万石とも)を与え、直江兼続は大名格になり、お船の方も 伏見から 米沢に 移り、上杉家は絶頂期を迎える。 |
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| 1598/8 |
秀吉死去。 |
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1598/8/19 |
家康を暗殺しようとしている。家康は覇権奪取のため、三成と対立関係にあった 福島正則や 加藤清正、 黒田長政らと、豊臣氏に無断で次々と縁戚関係を結んでゆく |
| 1598/9/18 |
秀吉が死去すると、次の天下人として 徳川家康が台頭するようになる。 石田三成と懇意であった兼続は、家康との対立を決意する |
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| 1599 |
1599年 40歳 |
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1599 |
(40歳) |
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1599 |
(慶長4)これを糾弾した。しかし 加藤清正・ 黒田長政ら7将に襲撃されて佐和山城への閉居を余儀なくされる |
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1599/1 |
三成は家康の無断婚姻を「秀吉が生前の |
| 1599/3/10 |
五奉行からの退隠を承諾した。 |
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1599/3/10 |
五奉行からの退隠を承諾した。 |
| 1600 |
慶長 出羽合戦で最上義光の 庄内侵攻によって羽黒山から追われて米沢に逃れていた。その後、清順は還俗して佐野玄 誉を名乗り、兼続によって武士に取り立てられた |
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1600 |
カテゴリ: 中立的観点に議論ある項目 | 出典を必要とする記事 | 石田氏 | 戦国武将 | 織 豊政権の大名 | 滋賀県の歴史 | 近江国の人物 | 1560年生 | 1600年没 |
| 1600 |
直江兼続に従い、最上義光攻めに参加。しかし最上方の 長谷堂城はなかなか落ちず、 関ヶ原で西軍が敗れた知らせを受け、撤退する |
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1600 |
秀吉の武将たち(4) 石田三成(1560~1600年) ・・・・・・77 |
| 1600 |
徳川家康の 会津征伐の際、 石田三成が上方で挙兵したという報を受け、家康が上方に向ったが、それをほかの家臣が喜ぶ中、家康が戻れば三成は敗れ、上杉は孤立してしまうと冷静に見ていた。続いて直江兼続に従い、最上義光攻めに参加 |
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1600 |
(慶長5)挙兵。天下を二分した戦いは |
| 1600 |
1600年 41歳 |
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1600 |
関ヶ原(せきがはら)の戦いがおこる。 |
| 1600 |
(慶長5年) |
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| 1600 |
関ヶ原の戦いにともない、 出羽の地では最上義光と上杉家臣 直江兼続が激突した「慶長 出羽合戦」が展開された。中山城からも横田旨俊と清水康徳に兼続直属の与板衆である本 村(穂 村)造酒丞親盛を加えて 上山城に進撃することになった |
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| 1600 |
慶長 出羽合戦において志駄義秀は兼続の命で 庄内の 上杉軍を率いて最上川を遡り、最上義光を攻めた。しかし兼続本隊が 長谷堂城を守る志村伊豆守光安と鮭延越前守秀綱を攻略できず半月が過ぎ、 関ヶ原での西軍敗北の報が届くに及んで撤退することになる |
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| 1600 |
慶長年間、直江兼続は主君上杉景勝の祈祷師である明鏡院清順に命じて羽黒山より羽黒大権現を勧進して 観音堂の裏に後神として祀った。明鏡院清順は元々、養蔵坊清順を名乗り上杉氏が庄内を支配した頃、羽黒山別当であったが、慶長五年 |
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| 1600 |
出羽合戦において直江兼続率いる上杉軍二万の猛攻を真っ先に受け、兵五百で守ったが二日で 畑谷城は落城し、自刃した。最近になって |
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| 1600 |
関ヶ原の戦いでは叔父 楯岡光直とともに 長谷堂城( 山形市)を救援し、直江兼続率いる上杉軍と戦っている。義親は若い頃、豊臣秀頼に仕え、大坂方に通じていたとも一栗 兵部とつながっていたともいう |
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| 1600/4 |
上杉景勝に使者を出し上洛を促し、更に 徳川家康の親近の僧である豊光寺の承兌から直江兼続に書状を送り、上杉景勝の上洛を催促した。 |
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| 1600/6/18 |
伏見から 会津に向けて出兵。徳川軍約5万が |
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| 1600/6/25 |
伊達政宗は 白石城主甘糟景 継の不在を突いて上杉家の 白石城を攻略している。その後は動きがなく |
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1600/7 |
三成は家康を排除すべく、上杉景勝・ 直江兼続らと密かに挙兵の計画を図る(この密約は無かったという説もある)[1]。 その後、上杉勢が公然と家康に対して叛旗を翻し、家康は諸大名を従えて 会津征伐に赴いた |
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1600/7/12 |
兄・正澄を奉行として近江 愛知 川に関所を設置し、家康に従って 会津征伐に向かう後発の西国大名、鍋島勝茂や前田茂勝らの 東下を阻止し(ただし、鍋島勝茂は父・直茂より 大阪の屋敷にとどまるよう命令されており、勝茂もこれをいぶかしんだものの、直茂は自分を 三成に助勢させようという意図があるのだろうとして従ったとする説もある)、強引に自陣営(西軍)に与させた。 |
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1600/7/19 |
石田三成率いる西軍の 宇喜多秀家、 小早川秀秋、 島津義弘、毛利秀元らの4万の軍勢が |
| 1600/8 |
入ると 会津征伐のため 山形に集まっていた 奥羽諸将も帰り、事実上上杉を牽制する役割は 伊達政宗と最上義光に委ねられた。 |
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| 1600/8/4 |
徳川家康は結城秀康を見殺し覚悟で上杉勢の抑えに残して5万の兵を西に方向転換させた。 |
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| 1600/8/4 |
直江兼続の策略で一揆が勃発し 三条城を攻撃します!! |
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| 1600/9 |
関ヶ原の戦い。 |
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| 1600/9 |
最上義光の 山形へ侵攻。3万(2万5千とも、4万とも)を直江兼続が率いて出陣した |
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| 1600/9 |
なると兼続は 山形城の最上義光を攻略すべく動き始める。最上領のために 庄内は上杉領の中でも孤立していたし、最上義光はかつて 庄内を巡って上杉家臣本荘繁長と激しく争った仇敵である |
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| 1600/9/8 |
直江兼続は二万四千の軍を指揮して最上領への侵攻を開始。兼続率いる本隊には 春日右衛門元忠、色部修理介光長、水原常陸介親憲、篠井弥 七郎 泰信、上泉主水正 泰綱、前田慶次郎利益らの武将が従い、萩野( 白鷹町)から狐越といわれる白鷹山北側の高原地帯の道を抜けて 畑谷城( 山辺町)・ 長谷堂城( 山形市)を経て 山形城に向かい、 倉賀野綱元率いる別働隊が小滝( 南陽市)から山元( 上山市)の 小白府街道沿いに 長谷堂城へと向かった |
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| 1600/9/11 |
色部修理亮光長を先陣に 上杉軍の攻撃が始まるが、江口は川をせき止めて城の周りを沼地にして抵抗を続け、 上杉方は百名の死傷者を出す。兼続は堰を決壊させて対処し |
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| 1600/9/13 |
ついに全滅して 畑谷城は陥落し、義光が出した援軍の将飯田播磨も戦死して最上方は五百余名が討ち死にした。 |
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| 1600/9/13 |
総攻撃をかけた。有名な前田慶次もこの時武功を挙げたという |
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| 1600/9/15 |
関ヶ原の戦いとなり、西軍が敗れた事が 奥州に伝わると、勢いに乗った最上勢には、 伊達政宗が味方し、留守政景を大将にした援軍を送り、上杉勢は一気に不利な情勢となった。 |
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1600/9/15 |
東軍と西軍による天下分け 目の戦いである 関ヶ原の戦いが始まった。当初は西軍優勢であり、石田隊は6900人であったが、 細川忠興・ 黒田長政・ 加藤嘉明・ 田中吉政ら兵力では倍以上の敵に攻められたものの、島左近・蒲生郷舎・舞 兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた |
| 1600/9/15 |
上杉軍の水原親憲率いる鉄砲隊が 谷柏を経て清水義親、 楯岡光直ら 須川の最上軍を攻撃して最上軍は三百名が戦死。義光は嫡男の最上義康を 伊達政宗に遣わし救援を求めた |
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1600/9/15 |
徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍、双方合わせて15万人を超える大軍が天下の覇権を |
| 1600/9/15 |
関ヶ原の戦いで 石田三成が敗れたという情報が伊達から最上へもたらされたともいい無駄な戦闘を避けたのかも知れない。 |
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| 1600/9/16 |
兼続は 長谷堂城に力攻めを仕掛けるが志村光安はこれを防ぎきる。逆に家臣の横尾勘解由・大風右衛門らに二百余名の決死隊を預けて上杉軍の寄せ手で兼続の部将春日元忠に夜襲をかけて上杉軍を大混乱させる |
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| 1600/9/17 |
本村親 盛と清水康徳が率いる隊は中山から現在の前川ダムを経て 赤坂の地へ抜ける間道を利用して上山方面に攻め入った。ところが 里見民部は 藤吾でこれを迎撃し、山間路で隊列が伸びているところを背後から伏兵に襲われてしまい乱戦の中、本村親 盛は討死 |
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| 1600/9/17 |
兼続は春日に命じて 長谷堂城に猛攻を仕掛けるも撃退され、さらに青田刈りして挑発するが城方はその手に乗らなかった。逆に副将の鮭延秀綱が虚を突いて攻撃し、上杉本陣を脅かす戦いぶりを見せたという |
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1600/9/18 |
東軍の攻撃を受けて 三成の居城・ 佐和山城は落城し、 三成の父・正 継をはじめとする石田一族の多くは討死した。 |
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1600/9/21 |
家康の命令を受けて 三成を捜索していた 田中吉政の追捕隊に捕縛された。 |
| 1600/9/22 |
伊達軍は 山形城東方の東沢に着陣するが様子を見て動かなかった。一説にはこの時 |
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| 1600/9/29 |
上杉軍の将で新陰流剣豪でもある上泉主水正 泰綱が最上軍に攻めかかるが討死した。上泉の討死した場所には「主水塚」が残る |
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| 1600/10/1 |
兼続が撤退を開始すると最上義光は追撃を開始し、富神山麓で兼続に襲いかかる。だが水原親憲率いる上杉鉄砲隊の射撃を受け、義光は側近が戦死した上に自らも兜に銃弾を受けて追撃を断念 |
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1600/10/1 |
京都六条河原で処刑された。 |
| 1600/10/1 |
6キロ撤退するのに10時間要し、その間28回も戦闘があったとされる。この状況にさすがの直江兼続も絶望し、ついに自決を覚悟したと言う |
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| 1600/10/4 |
も) 米沢に帰着する。 |
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| 1600/10/6 |
直江兼続も鉄砲800挺で最上勢を迎撃。これら 上杉勢の殿(しんがり)諸将の奮戦もあり、なんとか撤退し10月6日 |
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| 1600/11/30 |
また兼続は亡くなる前年の |
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| 1601 |
志駄修理義秀が城代となる。 江戸時代は 鮎貝城同様、御役屋が置かれて御役屋将が在番した |
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| 1601 |
逆に上杉領の 庄内を攻略した。こうして五十七万石の大大名となったが、義光は最上家安泰のため、徳川家に仕えたことのある次男家親を後継者にしようと画策し |
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| 1601 |
1601年 42歳 |
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| 1601/17 |
現在の前川ダム付近の間道を抜けて 赤坂の地に出るが、里見民部率いる 上山勢と草刈の伏兵に挟撃されて討ち死にした。横田式部と清水三河守は街道沿いの 掛入石から 川口の地に出て村々に放火するが 上山勢の激しい抵抗で撃退された( 物見山の戦い) |
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| 1601/4/24 |
志駄義秀が 東禅寺城を明け渡して完全に最上義光の支配下に入り、 上杉と 最上の戦いは収束した。 |
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| 1601/7 |
上洛。 |
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| 1602 |
亀岡文殊で直江兼続が開いた歌会に安田能元、春日元忠、岩井信能、大国実頼らと参加している。利大はただの変人ではなく、当時の風俗がわかる『前田慶次道中日記』も書き残している |
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| 1602/9/12 |
没。 |
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| 1603 |
酒田港に巨大亀が上陸すると志村光安はこれを義光に報告した。義光はこれを吉兆と喜んで 東禅寺城を亀ヶ崎城と改称させた |
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| 1604 |
上杉景勝に唯一の子・ 上杉定勝が誕生するが、上杉定勝の生母である桂岩院が |
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| 1604 |
本多正信の次男政重を娘婿として迎え、直江勝吉を名乗らせている。これは西軍に与して徳川から睨まれた上杉家を守るためのものとも言われる |
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| 1604 |
米沢藩の直江兼続が 米沢大町札辻を起点に藩内の主要街道につくらせた一里塚の一つで、かつては道の東側にもあったという。 |
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| 1604 |
直江兼続が近江 国友村や 堺から鉄砲師を集め、森林と温泉があって鉄砲造りに必要な木炭と硫黄が調達でき、なおかつ山奥で密かに製造できる白布温泉に鉄砲工場をつくった。こうして整備された上杉鉄砲隊は「大坂冬の陣」の「 鴫野の戦い」で活躍している |
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| 1604 |
江戸時代になり 米沢藩では1604年 |
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| 1604 |
上杉景勝に仕え、直江兼続の娘を娶り直江勝吉を称した。しかし |
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| 1604/8 |
死去するなどした事により、直江夫妻が上杉定勝の養育を引き受けた。 |
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| 1605/7/30 |
(新婚僅か |
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| 1607 |
『文選』の「 直江版」を著すなど特に漢学への造詣が深かったという。 |
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| 1608/2/19 |
直江重光と改名した。 |
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| 1609 |
本多正信の取り成しで10 万石分の役儀が免除された他、ようやく米沢城下町の整備も整ったこともあり、直江兼続は生来病弱で両眼を病んでいた長男・直江景明や 上杉家などの為に五色温泉に湯壷を開き、浴舎や小屋を設け、大名並みの足軽60名に警護させて、長男・直江景明は長期間湯治を行ったとされ、現在も秘湯感漂う一軒宿が残る。 |
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| 1609 |
兼続が五色温泉に湯壷を開き湯治させたともいう。 |
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| 1611 |
上杉家を離れて前田家に移る。 |
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| 1612 |
前田家に帰参し3万石を拝領。一説には本多正信の意を受けて、諸大名を内偵したのではとも言われているが、その後も親交は続いていたようだ |
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| 1614 |
(慶長19年) |
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| 1614 |
大坂の陣にも出陣し、真田丸に拠る名将真田幸村と戦ったが敗北した。 上杉家を去った後も直江兼続を義父として敬ったという |
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| 1614 |
最上義光が死ぬと次男で跡を継いだ親徳川の最上家親に親豊臣の三男の清水義親が反乱する。志村光安の跡を継いだ志村光清は清水の意を受けた一栗 兵部高春の謀反により 下吉忠とともに鶴岡城内で暗殺された |
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| 1614 |
1614年 55歳 |
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| 1614 |
からの大坂の陣において、上杉勢は 鴫野口の合戦で後藤基次(後藤又兵衛)に勝利。直江兼続は徳川勢として長男・直江景明と共に殿軍を務め、武功を挙げ、 徳川秀忠から感状と太刀一腰および小袖を与えられた |
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| 1614/8 |
なると 上杉家を 米沢三十万石に 移封する沙汰が下る。石高が四分の一に激減するも 上杉家ではほとんど家臣を解雇しなかったため、五千もの家臣団が 米沢に 移住した |
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| 1614/11/30 |
嫡男の平八景明が死去する。 |
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| 1615 |
息子重長を自分の代わりに大坂の陣に出陣させた。 |
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| 1615 |
若くして亡くなっており断絶した。 |
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| 1615 |
早世していた。 |
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| 1615/7/12 |
長男・直江景明が看病の甲斐も無く早世。享年22 |
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| 1618 |
直江兼続が足利学校で学んだ僧九山に開基させた禅林寺に始まる。兼続はしばしば禅林寺に参禅に訪れ、自らの蔵書や出版物を納め「禅林文庫」として米沢藩士の教育を図った |
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| 1619/10 |
直江兼続は病となり |
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| 1620 |
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