あしたね年表 | 気になる人物や場所にまつわるできごとを調べてみよう!

気になる人物や場所にまつわるできごとを調べてみよう!

年表トップ > 直江兼続と真田幸村の年表を比べる

ウェブサイト上の情報を調べて見出し情報をまとめた検索結果ページです。事実が正確に並べられた年表ではありませんのでご注意下さい。

直江兼続(なおえかねつぐ)

 

真田幸村(さなだゆきむら)

/041.JPG
/sanada.jpg

直江兼続(なおえかねつぐ)と真田幸村(さなだゆきむら)に関する本・DVD

直江兼続   真田幸村
年月日 できごと   年月日 できごと
1560 越後・長尾家臣の樋口兼(樋口惣右衛門兼)の長男として生まれたとされ、幼名は与六と言った。母は信州・泉重蔵の娘(諸説有)で、名は藤と考えられる情報源のサイトへ      
1560 言えば、織田信長が桶狭間で今川義元を破った年であり、石田三成も1560年生まれとされている。情報源のサイトへ      
1560 越後の坂戸城下で生まれた。越後上杉謙信武田信玄信濃川中島の戦いを繰り返し、東海では桶狭間の戦いにより織田信長が畿内への勢力を拡大していたまさに激動の時代情報源のサイトへ      
1560 (1560)に坂戸城主・長尾政景の家臣・樋口兼の長男として生まれる。父は身分が低かったが、兼続自身は容姿端麗で非常に聡明であった情報源のサイトへ      
1560/6 )の台所まわりで働いていたとされる。(諸説有)情報源のサイトへ      
1564 上田長尾家当主の長尾政景が死去すると、上杉輝虎(謙信)の養子となった上杉景勝(当時の名乗りは長尾顕景)に従って春日山城に入り、そのまま景勝の小姓・近習として近侍したとされる。しかしながら、これを立証する信憑性のある史料は極めて少ない情報源のサイトへ      
1564 1564年 5歳情報源のサイトへ      
1564 坂戸城主・長尾政景が野尻湖にて琵琶嶋城主・宇佐美定満と共に溺れて死去する事件が起こる。この時、家督を継ぐべき長尾政景の子、長尾顕景(のちの上杉景勝)は、まだ9歳だったこともあったからだろう情報源のサイトへ      
1566 初陣を果たしているが、樋口兼続の元服や初陣など若かりし頃の行動は良くわかっていない。情報源のサイトへ      
1566/5 人形 着用兜(かぶと) 平飾り 着用 直江兼続兜 25号 ks-2460情報源のサイトへ      
      1567 真田昌幸(当時は武藤喜兵衛)の次男として生まれる。母は正室の山手殿情報源のサイトへ
      1567 織田信長、稲葉山城を攻略、これを岐阜と命名して居城にする武田義信、謀叛の罪で自刃する伊達政宗真田幸村上村頼孝武田義信筑紫惟門情報源のサイトへ
1570 北条氏康と和睦した際、小机衆を率いていた北条氏康の七男・北条三郎(北条氏秀)が、人質として上杉家に送られたが、その後、上杉謙信が養子にした。上杉謙信は美男だった北条三郎を大変気に入ったようで、上杉景虎の名を与えるなど、上杉家一門、そして後継候補として厚遇したようだ情報源のサイトへ   1570 一説に永禄13年情報源のサイトへ
1574 最上家の御家騒動に介入した伊達輝宗が最上義光と戦い、新宿二井宿)から上山盆地に入って楢下の地を奪い、高松の地を焼いた後、中山城へ引き揚げている。情報源のサイトへ      
1575 長尾顕景は名を上杉景勝に改めると共に、上杉謙信から弾正少弼の位を譲られた。情報源のサイトへ   1575 信繁が9歳の時、真田氏の主家で甲斐国・信濃国を治める武田勝頼が、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗北する。この際、父・昌幸の2人の兄も亡くなったため、真田家は昌幸が継ぐこととなり、信繁は父に付き従い古府中甲府市)を離れ上(岩櫃城)に移る情報源のサイトへ
1576 伊達政宗が大檀那となって大津美作守が熊野大社社殿を建立したという。蒲生氏の時代には武将間の争いで中山城主蒲生郷可が不仲の米沢城主蒲生郷安を攻めるため宮沢城を修理したという情報源のサイトへ      
1576 越中を平定。情報源のサイトへ      
1577 伊達政宗が開帳供養を行った。情報源のサイトへ      
1577 織田勢が加賀に進軍。柴田勝家18000を先発させ、織田信長自身も30000で出陣したが、迎え撃った上杉謙信勢約20000と手取川の戦いで激突情報源のサイトへ      
1578 上杉謙信が亡くなると跡目争いが勃発。景勝は遺言により相続したと主張し、春日山城本丸を押さえる情報源のサイトへ      
1578 遺領は景勝の命で大国実頼(直江兼続の弟、樋口与七)が継承する。<名臣の系統なので本当のところの死因はふせられてるんじゃないでしょうか情報源のサイトへ      
1578 上杉謙信が急死すると上杉景虎との跡目争いの御館の乱に勝利し、上杉家の家督を継いだ。織田軍の侵攻により国力は衰退するも本能寺の変の後、豊臣秀吉に謁見し、上杉景勝は豊臣家の大名となり、五大老となった情報源のサイトへ      
1578 謙信の死で景勝と景虎の家督相続争いが始まり、御館の乱が勃発。戦いは景勝が勝利し景虎とその妻(桃院の娘)は自害した情報源のサイトへ      
1578 後には伊達氏や上杉氏に厚く信仰され、天正六年情報源のサイトへ      
1578/3 関東遠征と考えられる侵攻準備のさなか情報源のサイトへ      
1578/11/30 大坂夏の陣で徳川方として活躍した。情報源のサイトへ      
1578/12 武田信玄の娘・菊姫を上杉景勝の正室に嫁がせ上杉景勝と武田勝頼が同盟するなど、上杉景虎を孤立させた。情報源のサイトへ      
1579/2/1 御館の上杉景虎はついに逃亡。正室だった上杉景勝の姉は降伏勧告を拒んで自害(享年24歳?)情報源のサイトへ      
1580/8 から、景勝への取次役など側近としての活動が資料で確認できる。情報源のサイトへ      
1580/8/15 奉行職として佐藤左衛門、皆川式部丞に上杉景勝からの知行書を出すと言う重要な役割をしているのが確認できている。情報源のサイトへ      
1581 新発田重家が織田信長に内通して謀反を起こす。情報源のサイトへ      
1581 御館の乱の恩賞問題により対立状態にあった北越後新発田重家が織田家と結び、北から越後に侵入し、西から織田勢の柴田勝家が攻め、上杉勢は挟み撃ちにあう。この頃、織田勢は各地で攻勢に出ており武田勝頼も情報源のサイトへ      
1582 小国重頼の養子となり、後に命により大国姓に改めた。情報源のサイトへ      
1582 同盟者の武田勝頼が織田に滅ぼされ、ついに柴田勝家率いる織田軍が上杉を滅ぼさんと攻め込んできた。情報源のサイトへ      
1582 武田家滅亡で、上杉景勝に仕える。専ら直江兼続のもとで活躍し、兼続の絶大な信頼を受け「直江被官の棟梁」と呼ばれた情報源のサイトへ      
1582 最前線の越中魚津城は織田軍の猛攻により全滅の憂き目を見る。しかし魚津落城情報源のサイトへ      
1582/2/30 前田利家、佐々成政らが上杉勢の魚津城を攻撃。篭城していた山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊・中条景泰・竹俣慶綱といった13名が自刃し情報源のサイトへ      
1582/3 自決。情報源のサイトへ      
      1582/3/11 織田・徳川・北条連合軍の甲斐侵攻で武田氏が滅亡すると、真田氏は織田信長に恭順した。情報源のサイトへ
1582/6/1 このように上杉氏はあと少しで滅亡と言う危機に陥ったが、魚津城が落城した1日前の情報源のサイトへ      
1582/6/2 織田信長本能寺の変で倒れていた。本能寺の変が届くと織田勢は混乱し撤退情報源のサイトへ   1582/6/2 信長が本能寺の変で家臣の明智光秀に討たれると、織田家の関東管領であった滝川一益は、神流川の戦いで北条氏に敗れて伊勢に引き上げてしまう。信長という後援が無くなった真田氏は、所領を守るために上杉・北条・徳川など周辺の諸大名の傘下を渡り歩くことになる情報源のサイトへ
1582/6/3 魚津城は陥落し織田勢は越中を完全に制圧。中条景らは「焼けて誰の首だかわからないと見苦しい」と、自分の名を書いた札に針金を結い、それぞれ耳に通してから自害したと言い、この光景を見た織田勢の将兵は「上杉恐るべし」の感を強くしたと言う情報源のサイトへ      
1583 新発田重家の乱では重要な戦略地新潟を巡り激しい攻防が続いていたが、天正11年情報源のサイトへ   1583 賤ヶ岳合戦に豊臣方として、真田信幸と真田幸村の兄弟が参陣している。その時真田信幸に従い参陣していた情報源のサイトへ
1583 柴田勝家は豊臣秀吉に敗れて滅亡し、このように上杉氏は危うく難を逃れたが、羽柴秀吉から依頼されていた柴田勝家攻めに出兵するだけの余力もなく、信濃で北条氏との対立もあり、新発田重家の攻略は苦慮しており、旧領を回復もならず国力は衰退していた。ちなみに情報源のサイトへ      
1583 豊臣秀吉は大阪城を築城開始している。情報源のサイトへ      
1584 徳川家康と小牧・長久手の戦いになり、織田信雄羽柴秀吉と和議を結び、徳川家康が2男を羽柴秀吉の養子にと大阪へ送り情報源のサイトへ      
1584 1584年 25歳情報源のサイトへ      
1584/11/24 直峰城主に命じられている。情報源のサイトへ      
1585 水城で景勝・兼続主従と秀吉・石田三成主従が面会した(水の会)。この時、直江兼続と石田三成が親交を結んだため、後に会津征伐と三成の挙兵に際しては二人が示し合わせたのだとも言われる情報源のサイトへ      
1585 1585年 26歳情報源のサイトへ      
1585/7 関白の位を受けて羽柴秀吉豊臣秀吉と改名し、着々と豊臣秀吉の天下が形成されつつあった。情報源のサイトへ      
1585/8 豊臣秀吉は佐々成政の富山城を10万の大軍で包囲し佐々成政を降伏させた。情報源のサイトへ      
1586 (1586)、景勝と兼続は秀吉に会うため上洛すると、景勝が従四位下・左近衛少将に、兼続が従五位下にそれぞれ任じられた。その後、佐渡征伐、小田原征伐、朝鮮出兵などで景勝に従い、参謀として活躍を見せる情報源のサイトへ      
1587 九州征伐。情報源のサイトへ      
1587 夏、豊臣秀吉の支援を受けて1万余の大軍にて新発田包囲。長年敵対していた新発田重家を討伐し、直江兼続・藤田信吉らが五十公野城を陥落するなど直江兼続も武功を挙げた情報源のサイトへ      
1587 ようやく新発田重家を滅ぼして領内を安定させた。情報源のサイトへ      
1588 伊達政宗と最上義光が中山で対陣し、一触即発の危機に陥った際、政宗の母で義光の妹である義姫が両軍の間に居座って戦いを断念させたという話もある。情報源のサイトへ      
1588 天正16年)情報源のサイトへ      
1588 1588年 29歳情報源のサイトへ      
1588/5 再び上杉景勝と直江兼続は共に上洛し、上杉景勝は従三位参議に昇進。直江兼続自身も、関白・豊臣秀吉から情報源のサイトへ      
1589 佐渡征伐に景勝と共に従軍。その功により、平定後に佐渡の支配を命じられた情報源のサイトへ      
1589 佐渡を平定。出羽庄内では上杉の武将である本荘繁長が最上義光を撃退し、越後佐渡出羽庄内にわたる広大な領国を形成する情報源のサイトへ      
1590 小田原征伐でも景勝に従い、松山城を守備していた城代の山田直安以下金子家基・難波田憲次・若林氏らを降ろし、先兵として八王子城を攻略させるなどし関東諸城を攻略。情報源のサイトへ      
1590 豊臣秀吉小田原征伐。その際、上杉勢は北国軍として前田利家真田昌幸らの軍勢15000で松井田城、鉢形城を落とし、そして、八王子城も攻めた情報源のサイトへ      
1591 前田利家を騙して水風呂に入れて前田家を出奔し、京都で暮らしていた。「録高は問わない情報源のサイトへ      
1591 奉納した古鐘があった。この古鐘は藤原正頼が情報源のサイトへ      
1591 亀岡文殊の鐘楼堂にはかつて伊達政宗天正十九年情報源のサイトへ      
1591/9/18 豊臣秀吉が死去する。豊臣秀吉の遺命により、陪臣ではただひとり、直江兼続は太刀を一振拝領している情報源のサイトへ      
1592 からの朝鮮出兵においても景勝と共に参陣して武功を挙げた。上杉領となった庄内地方においても大宝寺城の改修や、一揆の制圧などを取り仕切った情報源のサイトへ      
1592 1592年 33歳情報源のサイトへ      
1592 父色部長実が亡くなり、幼少ながら跡を継ぐ。直江兼続の妹を妻にした情報源のサイトへ      
1592 からの朝鮮出兵においては、上杉景勝は直江兼続らと肥前名護屋に約2ヶ月滞在したのち朝鮮に渡って従軍する。この戦は無益と直江兼続は、自軍に対し、財貨の略奪などを厳しく戒めたいたと言う情報源のサイトへ      
1593 1593年 34歳情報源のサイトへ   1593 いえば真田幸村に嫁いだ後であることや、大谷吉の妻の存在もあることなどから情報源のサイトへ
1594 頃、樋口兼の知行は809石1斗6升4合。同心衆として下平彦兵衛、登坂与総右衛門、北村監物、登坂弥太郎、滝沢孫兵衛、岡村源助、上村三郎右衛門、星次郎左衛門、香坂三郎右衛門、山田杢之助、吉田作右衛門、井田玄蕃、浅間縫殿、小市源左衛門の14人を抱えている情報源のサイトへ      
1594/10 上杉景勝は権知中納言に昇進。情報源のサイトへ      
      1594/11 従五位下左衛門佐に任官し豊臣姓を許される。情報源のサイトへ
1595 豊臣秀吉の人質となった上杉景勝の正室・菊姫に付き添う形で、直江兼続の正室・お船の方も京都伏見上杉邸に移る。情報源のサイトへ      
1595 40歳の若さで急死。茶人でもある氏郷が茶の席で政宗に毒を盛られたとも言われた情報源のサイトへ      
1595 1595年 36歳情報源のサイトへ      
1597/2/7 直江山城守兼続判」と閻魔大王への嘆願書を書いたという。義や温情に厚い兼続ではあったが、主筋に無体な要求を繰り返す家臣を捨て置くことは出来なかったエピソードである情報源のサイトへ      
1598 国替え「会津御在城分限帳」に登録される。情報源のサイトへ      
1598 上杉景勝の会津封で置賜は上杉領となり、中山城主には横田式部旨俊が配された。また武田旧臣で上杉家にった清水三河守康徳が中山城将に入った情報源のサイトへ      
1598 1598年 39歳情報源のサイトへ      
1598 上杉景勝が越後から移ると対最上の最前線として重臣泉沢久秀が城主となる。慶長出羽合戦においては長谷堂城の戦いから撤退した直江兼続が荒砥城に帰還している情報源のサイトへ      
1598 主家の会津転封に伴い、二本松城代(二本松市)となる。直江兼続の下で奉行を務め、大石綱元や岩井信能とともに会津三奉行と呼ばれた情報源のサイトへ      
1598 (1598)、秀吉が死去すると、徳川家康が天下取りの野望をあらわにし、次々と手を打っていく。これに石田三成は対抗するが、失脚情報源のサイトへ      
1598 上杉景勝の支配下になると宮沢城には信濃飯山城主尾崎三郎左衛門重誉が移ってくる。飯山の尾崎氏は泉氏とも称し、飯山城主泉弥七郎重歳の娘が直江兼続の母という関係で重誉は兼続の従兄弟の子という情報源のサイトへ      
1598/1 豊臣秀吉の命で上杉景勝が越後から会津120万石(会津仙北、田川遊佐、置賜、佐渡)に加増封されると、豊臣秀吉は直江兼続に出羽米沢6万石(諸説有・3万石とも)を与え、直江兼続は大名格になり、お船の方も伏見から米沢り、上杉家は絶頂期を迎える。情報源のサイトへ      
1598/8 秀吉死去。情報源のサイトへ      
1598/9/18 秀吉が死去すると、次の天下人として徳川家康が台頭するようになる。石田三成と懇意であった兼続は、家康との対立を決意する情報源のサイトへ      
1599 1599年 40歳情報源のサイトへ      
1599/3/10 五奉行からの退隠を承諾した。情報源のサイトへ      
1600 慶長出羽合戦で最上義光の庄内侵攻によって羽黒山から追われて米沢に逃れていた。その後、清順は還俗して佐野玄を名乗り、兼続によって武士に取り立てられた情報源のサイトへ   1600 秀吉死後の慶長5年情報源のサイトへ
1600 直江兼続に従い、最上義光攻めに参加。しかし最上方の長谷堂城はなかなか落ちず、関ヶ原で西軍が敗れた知らせを受け、撤退する情報源のサイトへ   1600 五大老の徳川家康が同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすと従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)で、徳川方の東軍についた兄・信之と敵対する立場となった(この形は昌幸の策であり関ヶ原の戦いによりどちらが負けても必ず真田家が残るという昌幸の考えによるものだともいわれている)。情報源のサイトへ
1600 徳川家康会津征伐の際、石田三成が上方で挙兵したという報を受け、家康が上方に向ったが、それをほかの家臣が喜ぶ中、家康が戻れば三成は敗れ、上杉は孤立してしまうと冷静に見ていた。続いて直江兼続に従い、最上義光攻めに参加情報源のサイトへ      
1600 1600年 41歳情報源のサイトへ      
1600 (慶長5年)情報源のサイトへ      
1600 関ヶ原の戦いにともない、出羽の地では最上義光と上杉家臣直江兼続が激突した「慶長出羽合戦」が展開された。中山城からも横田旨俊と清水康徳に兼続直属の与板衆である本(穂)造酒丞親盛を加えて上山城に進撃することになった情報源のサイトへ      
1600 慶長出羽合戦において志駄義秀は兼続の命で庄内上杉軍を率いて最上川を遡り、最上義光を攻めた。しかし兼続本隊が長谷堂城を守る志村伊豆守光安と鮭延越前守秀綱を攻略できず半月が過ぎ、関ヶ原での西軍敗北の報が届くに及んで撤退することになる情報源のサイトへ      
1600 慶長年間、直江兼続は主君上杉景勝の祈祷師である明鏡院清順に命じて羽黒山より羽黒大権現を勧進して観音堂の裏に後神として祀った。明鏡院清順は元々、養蔵坊清順を名乗り上杉氏が庄内を支配した頃、羽黒山別当であったが、慶長五年情報源のサイトへ      
1600 出羽合戦において直江兼続率いる上杉軍二万の猛攻を真っ先に受け、兵五百で守ったが二日で畑谷城は落城し、自刃した。最近になって情報源のサイトへ      
1600 関ヶ原の戦いでは叔父楯岡光直とともに長谷堂城山形市)を救援し、直江兼続率いる上杉軍と戦っている。義親は若い頃、豊臣秀頼に仕え、大坂方に通じていたとも一栗兵部とつながっていたともいう情報源のサイトへ      
1600/4 上杉景勝に使者を出し上洛を促し、更に徳川家康の親近の僧である豊光寺の承兌から直江兼続に書状を送り、上杉景勝の上洛を催促した。情報源のサイトへ      
1600/6/18 伏見から会津に向けて出兵。徳川軍約5万が情報源のサイトへ      
1600/6/25 伊達政宗白石城主甘糟景の不在を突いて上杉家の白石城を攻略している。その後は動きがなく情報源のサイトへ      
1600/8 入ると会津征伐のため山形に集まっていた奥羽諸将も帰り、事実上上杉を牽制する役割は伊達政宗と最上義光に委ねられた。情報源のサイトへ      
1600/8/4 徳川家康は結城秀康を見殺し覚悟で上杉勢の抑えに残して5万の兵を西に方向転換させた。情報源のサイトへ      
1600/8/4 直江兼続の策略で一揆が勃発し三条城を攻撃します!!情報源のサイトへ      
1600/9 関ヶ原の戦い。情報源のサイトへ      
1600/9 最上義光の山形へ侵攻。3万(2万5千とも、4万とも)を直江兼続が率いて出陣した情報源のサイトへ      
1600/9 なると兼続は山形城の最上義光を攻略すべく動き始める。最上領のために庄内は上杉領の中でも孤立していたし、最上義光はかつて庄内を巡って上杉家臣本荘繁長と激しく争った仇敵である情報源のサイトへ      
1600/9/8 直江兼続は二万四千の軍を指揮して最上領への侵攻を開始。兼続率いる本隊には春日右衛門元忠、色部修理介光長、水原常陸介親憲、篠井弥七郎信、上泉主水正綱、前田慶次郎利益らの武将が従い、萩野(白鷹町)から狐越といわれる白鷹山北側の高原地帯の道を抜けて畑谷城山辺町)・長谷堂城山形市)を経て山形城に向かい、倉賀野綱元率いる別働隊が小滝(南陽市)から山元(上山市)の小白府街道沿いに長谷堂城へと向かった情報源のサイトへ      
1600/9/11 色部修理亮光長を先陣に上杉軍の攻撃が始まるが、江口は川をせき止めて城の周りを沼地にして抵抗を続け、上杉方は百名の死傷者を出す。兼続は堰を決壊させて対処し情報源のサイトへ      
1600/9/13 ついに全滅して畑谷城は陥落し、義光が出した援軍の将飯田播磨も戦死して最上方は五百余名が討ち死にした。情報源のサイトへ      
1600/9/13 総攻撃をかけた。有名な前田慶次もこの時武功を挙げたという情報源のサイトへ      
1600/9/15 関ヶ原の戦いとなり、西軍が敗れた事が奥州に伝わると、勢いに乗った最上勢には、伊達政宗が味方し、留守政景を大将にした援軍を送り、上杉勢は一気に不利な情勢となった。情報源のサイトへ   1600/9/15 秀忠軍ぬきの徳川方に敗北を喫する。昌幸と信繁は、本来なら敗軍の将として切腹を命じられるところだったが、信之の取り成しで紀伊国九度山に配流を命じられるのみにとどまった(本来なら高野山配流であったが、信繁が竹林院を伴っていたため、女人禁制のかどで九度山に変わったと言われている)情報源のサイトへ
1600/9/15 上杉軍の水原親憲率いる鉄砲隊が谷柏を経て清水義親、楯岡光直ら須川の最上軍を攻撃して最上軍は三百名が戦死。義光は嫡男の最上義康を伊達政宗に遣わし救援を求めた情報源のサイトへ      
1600/9/15 関ヶ原の戦いで石田三成が敗れたという情報が伊達から最上へもたらされたともいい無駄な戦闘を避けたのかも知れない。情報源のサイトへ      
1600/9/16 兼続は長谷堂城に力攻めを仕掛けるが志村光安はこれを防ぎきる。逆に家臣の横尾勘解由・大風右衛門らに二百余名の決死隊を預けて上杉軍の寄せ手で兼続の部将春日元忠に夜襲をかけて上杉軍を大混乱させる情報源のサイトへ      
1600/9/17 本村親と清水康徳が率いる隊は中山から現在の前川ダムを経て赤坂の地へ抜ける間道を利用して上山方面に攻め入った。ところが里見民部は藤吾でこれを迎撃し、山間路で隊列が伸びているところを背後から伏兵に襲われてしまい乱戦の中、本村親は討死情報源のサイトへ      
1600/9/17 兼続は春日に命じて長谷堂城に猛攻を仕掛けるも撃退され、さらに青田刈りして挑発するが城方はその手に乗らなかった。逆に副将の鮭延秀綱が虚を突いて攻撃し、上杉本陣を脅かす戦いぶりを見せたという情報源のサイトへ      
1600/9/22 伊達軍は山形城東方の東沢に着陣するが様子を見て動かなかった。一説にはこの時情報源のサイトへ      
1600/9/29 上杉軍の将で新陰流剣豪でもある上泉主水正綱が最上軍に攻めかかるが討死した。上泉の討死した場所には「主水塚」が残る情報源のサイトへ      
1600/10/1 兼続が撤退を開始すると最上義光は追撃を開始し、富神山麓で兼続に襲いかかる。だが水原親憲率いる上杉鉄砲隊の射撃を受け、義光は側近が戦死した上に自らも兜に銃弾を受けて追撃を断念情報源のサイトへ      
1600/10/1 6キロ撤退するのに10時間要し、その間28回も戦闘があったとされる。この状況にさすがの直江兼続も絶望し、ついに自決を覚悟したと言う情報源のサイトへ      
1600/10/4 も)米沢に帰着する。情報源のサイトへ      
1600/10/6 直江兼続も鉄砲800挺で最上勢を迎撃。これら上杉勢の殿(しんがり)諸将の奮戦もあり、なんとか撤退し10月6日情報源のサイトへ      
1600/11/30 また兼続は亡くなる前年の情報源のサイトへ      
1601 志駄修理義秀が城代となる。江戸時代は鮎貝城同様、御役屋が置かれて御役屋将が在番した情報源のサイトへ      
1601 逆に上杉領の庄内を攻略した。こうして五十七万石の大大名となったが、義光は最上家安泰のため、徳川家に仕えたことのある次男家親を後継者にしようと画策し情報源のサイトへ      
1601 1601年 42歳情報源のサイトへ      
1601/17 現在の前川ダム付近の間道を抜けて赤坂の地に出るが、里見民部率いる上山勢と草刈の伏兵に挟撃されて討ち死にした。横田式部と清水三河守は街道沿いの掛入石から川口の地に出て村々に放火するが上山勢の激しい抵抗で撃退された(物見山の戦い)情報源のサイトへ      
1601/4/24 志駄義秀が東禅寺城を明け渡して完全に最上義光の支配下に入り、上杉最上の戦いは収束した。情報源のサイトへ      
1601/7 上洛。情報源のサイトへ      
1602 亀岡文殊で直江兼続が開いた歌会に安田能元、春日元忠、岩井信能、大国実頼らと参加している。利大はただの変人ではなく、当時の風俗がわかる『前田慶次道中日記』も書き残している情報源のサイトへ      
1602/9/12 没。情報源のサイトへ      
1603 酒田港に巨大亀が上陸すると志村光安はこれを義光に報告した。義光はこれを吉兆と喜んで東禅寺城を亀ヶ崎城と改称させた情報源のサイトへ      
1604 上杉景勝に唯一の子・上杉定勝が誕生するが、上杉定勝の生母である桂岩院が情報源のサイトへ   1604 もされている。父真田幸村とともに大阪城に入る情報源のサイトへ
1604 本多正信の次男政重を娘婿として迎え、直江勝吉を名乗らせている。これは西軍に与して徳川から睨まれた上杉家を守るためのものとも言われる情報源のサイトへ      
1604 米沢藩の直江兼続が米沢大町札辻を起点に藩内の主要街道につくらせた一里塚の一つで、かつては道の東側にもあったという。情報源のサイトへ      
1604 直江兼続が近江国友村から鉄砲師を集め、森林と温泉があって鉄砲造りに必要な木炭と硫黄が調達でき、なおかつ山奥で密かに製造できる白布温泉に鉄砲工場をつくった。こうして整備された上杉鉄砲隊は「大坂冬の陣」の「鴫野の戦い」で活躍している情報源のサイトへ      
1604 江戸時代になり米沢藩では1604年情報源のサイトへ      
1604 上杉景勝に仕え、直江兼続の娘を娶り直江勝吉を称した。しかし情報源のサイトへ      
1604/8 死去するなどした事により、直江夫妻が上杉定勝の養育を引き受けた。情報源のサイトへ      
1605/7/30 (新婚僅か情報源のサイトへ      
1607 『文選』の「直江版」を著すなど特に漢学への造詣が深かったという。情報源のサイトへ      
1608/2/19 直江重光と改名した。情報源のサイトへ      
1609 本多正信の取り成しで10万石分の役儀が免除された他、ようやく米沢城下町の整備も整ったこともあり、直江兼続は生来病弱で両眼を病んでいた長男・直江景明や上杉家などの為に五色温泉に湯壷を開き、浴舎や小屋を設け、大名並みの足軽60名に警護させて、長男・直江景明は長期間湯治を行ったとされ、現在も秘湯感漂う一軒宿が残る。情報源のサイトへ      
1609 兼続が五色温泉に湯壷を開き湯治させたともいう。情報源のサイトへ      
1611 上杉家を離れて前田家に移る。情報源のサイトへ   1611 蟄居中の慶長16年情報源のサイトへ
      1611 父・昌幸は死去。情報源のサイトへ
1612 前田家に帰参し3万石を拝領。一説には本多正信の意を受けて、諸大名を内偵したのではとも言われているが、その後も親交は続いていたようだ情報源のサイトへ   1612 信繁は出家、伝心月叟と名乗った。情報源のサイトへ
1614 (慶長19年)情報源のサイトへ   1614 始まる大坂冬の陣で信繁は、当初籠城に反対し、京を抑え、宇治瀬田宇治川の瀬田橋付近)で積極的に迎え撃つよう主張した(知将である父・昌幸の策とも言われる)。しかし籠城の策と決すると、信繁は大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し先方隊に大打撃をあたえた情報源のサイトへ
1614 大坂の陣にも出陣し、真田丸に拠る名将真田幸村と戦ったが敗北した。上杉家を去った後も直江兼続を義父として敬ったという情報源のサイトへ   1614 方広寺事件」をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化、大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣し、黄金200枚、銀30貫を贈った。信繁は国元にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助幸昌とともに大坂城に入城した情報源のサイトへ
1614 最上義光が死ぬと次男で跡を継いだ親徳川の最上家親に親豊臣の三男の清水義親が反乱する。志村光安の跡を継いだ志村光清は清水の意を受けた一栗兵部高春の謀反により下吉忠とともに鶴岡城内で暗殺された情報源のサイトへ      
1614 1614年 55歳情報源のサイトへ      
1614 からの大坂の陣において、上杉勢は鴫野口の合戦で後藤基次(後藤又兵衛)に勝利。直江兼続は徳川勢として長男・直江景明と共に殿軍を務め、武功を挙げ、徳川秀忠から感状と太刀一腰および小袖を与えられた情報源のサイトへ      
1614/8 なると上杉家を米沢三十万石に封する沙汰が下る。石高が四分の一に激減するも上杉家ではほとんど家臣を解雇しなかったため、五千もの家臣団が米沢住した情報源のサイトへ      
      1614/10/9 冬の陣に先立ち九度山を引き払ったとされるが、真田幸村とともに情報源のサイトへ
1614/11/30 嫡男の平八景明が死去する。情報源のサイトへ      
1615 息子重長を自分の代わりに大坂の陣に出陣させた。情報源のサイトへ   1615 主膳、高階主膳。真田幸村の妻采女の父情報源のサイトへ
1615 若くして亡くなっており断絶した。情報源のサイトへ   1615 徳川家康、大坂夏の陣にて豊臣家を滅亡させる 小笠原秀政奥平信昌片桐且元片倉景綱木村重成後藤基次真田幸村薄田兼相高山右近長宗我部豊臣国松丸豊臣秀頼直江兼続団右衛門本多忠田長三好政康情報源のサイトへ
1615 早世していた。情報源のサイトへ   1615 カテゴリ: 戦国武将 | 真田氏 | 豊臣氏 | 1567年生 | 1615年没情報源のサイトへ
      1615/2 使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し「信濃の中で一万石を与える」事を条件に寝返るよう説得している。しかし信繁はこれを断った情報源のサイトへ
      1615/2 叔父にあてた手紙や、兄・姉にあてた手紙にも信繁の名がある。情報源のサイトへ
      1615/5/7 茶臼山の戦いでは前線に赴いており、父真田幸村とともに討死することを望んだが情報源のサイトへ
1615/7/12 長男・直江景明が看病の甲斐も無く早世。享年22情報源のサイトへ      
1618 直江兼続が足利学校で学んだ僧九山に開基させた禅林寺に始まる。兼続はしばしば禅林寺に参禅に訪れ、自らの蔵書や出版物を納め「禅林文庫」として米沢藩士の教育を図った情報源のサイトへ      
1619/10 直江兼続は病となり情報源のサイトへ      
1620 カテゴリ: 戦国武将 | 織政権の大名 | 直江氏 | 樋口氏 | 臣氏 | 上杉氏 | 越後国の人物 | 羽前国の人物 | 新潟県の歴史 | 山形県の歴史 | 1560年生 | 1620年没情報源のサイトへ      

あしたね年表について

このページのトップに戻る