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畠山重忠(はたけやましげただ)

 

源義仲(みなもとのよしなか)

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畠山重忠(はたけやましげただ)に関する本・DVD

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畠山重忠   源義仲
年月日 できごと   年月日 できごと
1180 源頼朝挙兵に際し、石橋山に一族を遣わしたが敗戦の報を聞いて引き返した。途中、鎌倉で畠山重忠軍と戦い破ったが、加勢を得た重忠軍に衣笠城を攻められ、一族の脱出後に討死情報源のサイトへ   1180 以仁王(高倉宮・三条宮)が全国に令旨を発し、叔父・源行家が全国で挙兵を呼びかける。源頼政の養子となっていた兄の八条院蔵人・源仲家は情報源のサイトへ
1180 河越重頼、畠山重忠とともに三浦一族を攻撃。のち頼朝に臣従情報源のサイトへ   1180 頼朝が挙兵するとその軍に加わり、代官として兄範頼とともに東国武士を率いて上洛、源義仲や平家一門を追討した。地域住民に対する徹底した軍事動員と、当時の合戦の作法を度外視した戦法によって連戦連勝した情報源のサイトへ
      1180/5 以仁王の挙兵に参戦し、頼政と共に宇治で討死している。情報源のサイトへ
1180/8/17 義朝の三男・頼朝が以仁王の令旨を奉じて挙兵。この時、父重能が大番役で京に上っていたため領地にあった17歳の重忠が一族を率いることになり、平家方として頼朝討伐に向かった情報源のサイトへ      
1180/8/23 頼朝は石橋山の戦いで大庭景親に大敗を喫して潰走。相模国まで来ていた畠山勢は鎌倉の由比ヶ浜で頼朝と合流できずに引き返してきた三浦勢と遭遇情報源のサイトへ      
1180/9 頼朝は安房国で再挙し、千葉常胤上総広常らを加えて2万騎以上の大軍に膨れ上がって房総半島を進軍し、武蔵国に入った。情報源のサイトへ   1180/9 源義仲(木曾義仲)が木曾で挙兵情報源のサイトへ
      1180/9/7 義仲は兵を率いて北信の源氏方救援に向かい(市原合戦)、そのまま父の旧領である多胡郡のある上野へと向かう。2ヵ月後に信濃国に戻り、佐久郡依田城にて挙兵する(上野から信濃に戻ったのは、頼朝と衝突することを避けるためと言われている)情報源のサイトへ
1180/10 重忠は河越重頼、江戸重長とともに長井渡しで頼朝に帰伏した。『源平盛衰記』によると重忠は先祖が八幡太郎義家(源義家)より賜った白旗を持って帰参し、頼朝を喜ばせたという情報源のサイトへ      
1181 重忠は御家人に列し、頼朝の大倉館への移転や鶴岡八幡宮の参詣の警護などの『吾妻鏡』の記事に重忠の名が見える。また、養和元年情報源のサイトへ   1181 高倉院の死によって院政を再開し、平家都落ちの後、源義仲の襲撃を受けたものの情報源のサイトへ
      1181 (1181)6/14、横田河原の合戦で源義仲軍に敗戦、越後会津へ敗走、4,50人で越後へ。情報源のサイトへ
      1181/6 小県郡の白鳥河原に木曾衆・佐久衆・衆など3千騎を集結、越後から攻め込んできた城助職を千曲川横田河原の戦いで破り、そのまま越後から北陸道へと進んだ。情報源のサイトへ
1181/7/20 鶴岡若宮宝殿上棟式典で、頼朝は義経に大工に賜る馬を引くよう命じた。義経は「ちょうど下手を引く者がいないから(自分の身分に釣り合う者がいない)」と言って断ると、頼朝は「畠山重忠や佐貫広綱がいる情報源のサイトへ      
      1181/10 北陸道の情勢が不穏になると、教は兄弟の頼、経とともに洛中の守りを担当した。嫡男の通は越前守で北国の守りを担当しており、源義仲の軍と合戦を繰り返していた情報源のサイトへ
      1182 北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示し、また、頼朝と結んで南信濃に進出した武田信光ら甲斐源氏との衝突を避けるために頼朝・信光の勢力が浸透していない北陸に勢力を広める。情報源のサイトへ
      1183 同族の源義仲が平氏を追い落として京都に入ったが、頼朝は後白河上皇に接近し、義仲を出し抜いて東国の支配権を認めさせた。このため義仲と対立情報源のサイトへ
      1183 加賀国篠原で源義仲軍と戦い、このとき白髪を黒く染めて奮戦し、討死をとげたという。『源平盛衰記』は享年七十三歳とする情報源のサイトへ
      1183 (1183)11/17、源義仲追討で法住寺に兵を集めるが敗戦。後白河法皇の鎌倉への勅使情報源のサイトへ
      1183/2 頼朝と敵対し敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた行家が義仲を頼って身を寄せ、この2人を庇護した事で頼朝と義仲の関係は悪化する。また『平家物語』『源平盛衰記』では、武田信光が娘を義仲の嫡男義高に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したとしている情報源のサイトへ
      1183/3 嫡子義高を人質として鎌倉に送る事で頼朝との対立は一応の決着がつく。情報源のサイトへ
      1183/4 源義仲追討軍。情報源のサイトへ
      1183/5 かけて、維盛を総大将とする北陸遠征軍が源義仲に敗れて壊滅。嫡男の通盛も敗走してへ逃げ帰った情報源のサイトへ
      1183/5/11 越中国砺波山倶利伽羅峠の戦い富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で10万とも言われる平維盛率いる平氏の北陸追討軍を破り、続く篠原の戦いにも勝利して勝ちに乗った義仲軍は沿道の武士たちを糾合し、怒濤の勢いで京都を目指して進軍する。情報源のサイトへ
      1183/6 末に都への最後の関門である延暦寺との交渉を始める。右筆の大夫房覚明に書かせた諜状(通告文書)の内容は「平氏に味方するのか、源氏に味方するのか、もし悪徒平氏に助力するのであれば我々は大衆と合戦する事になる情報源のサイトへ
      1183/6/13 近江国へ入り情報源のサイトへ
      1183/7/22 義仲が東塔惣持院に城郭を構えたことが明らかとなり情報源のサイトへ
      1183/7/25 平氏は安徳天皇とその異母弟守貞親王(皇太子に擬された)を擁して都を落ち、西国へ逃れた。なお平氏は後白河法皇も伴うつもりであったが、危機を察した後白河比叡山に登って身を隠し、都落ちをやりすごした情報源のサイトへ
      1183/7/27 白河法皇は義仲の軍勢に属する山本義経の子、錦部冠者義高に守護されて都に戻る。『平家物語』では、「この20余年見られなかった源氏の白旗が、今日はじめて都に入る」とその感慨を書いている情報源のサイトへ
      1183/7/28 入京、行家と共に蓮華王院に参上し、平氏追討を命じられる。2人は相並んで前後せず、序列を争っていた[1]情報源のサイトへ
      1183/7/30 条)。情報源のサイトへ
      1183/7/30 開かれた公卿議定において、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになった(『玉葉』情報源のサイトへ
      1183/7/30 条)。同時に京中の狼藉の取り締まりが義仲に委ねられることになる情報源のサイトへ
      1183/8/10 勧賞の除目が行われ、義仲は従五位下左馬頭・越後守、行家は従五位下備後守に任ぜられる(『百錬抄』同日条、『玉葉』情報源のサイトへ
      1183/8/12 条)。やむを得ず、都に残っている高倉上皇の二人の皇子、三之宮(後の惟明親王)か四之宮(後の後鳥羽天皇)のいずれかを擁立することに決める情報源のサイトへ
      1183/8/14 条)と言うように、一介の武士が皇位継承問題に介入してくること自体、後白河にすれば不快に感じたと思われる。朝廷では義仲を制するため御占が数度行なわれた結果情報源のサイトへ
      1183/8/16 なると、義仲伊予守、行家は備前守に遷った。『平家物語』ではここで義仲が朝日の将軍という称号を得て、義仲と行家が任国を嫌ったので義仲が源氏総領家にゆかりのある伊予守に、行家が備前守に遷ったとしているが、義仲と差があるとして不満を示したのは行家のみで、義仲が忌避した記録は見られない(『玉葉』情報源のサイトへ
      1183/9 なると「凡そ近日の天下武士の外情報源のサイトへ
      1183/9 ことではないかと推測される。情報源のサイトへ
      1183/9/1 存命の計略無し。仍つて上下多く片山田舎等に逃げ去ると云々情報源のサイトへ
      1183/9/3 条)という有様で、治安は悪化の一途を辿った。中守護軍は義仲子飼いの部下ではなく、源行家や安田義定、近江源氏・美濃源氏・摂津源氏などの混成軍であり、その中で義仲がもっとも有力だっただけで全体の統制が出来る状態になかった情報源のサイトへ
      1183/9/21 条)と責めた。立場の悪化を自覚した義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上し、後白河は自ら剣を与え出陣させた情報源のサイトへ
      1183/10 宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河に激烈な抗議をした(『玉葉』同日条)。義仲は、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給(『玉葉』閏情報源のサイトへ
      1183/10 宣旨を下して、東海東山両道諸国の事実上の支配権を与える(『百錬抄』)。情報源のサイトへ
      1183/10 左馬頭辞任。情報源のサイトへ
      1183/10/1 水島の戦いでは平氏軍に惨敗し、有力武将の矢田義清を失う。戦線が膠着状態となる中で義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報だった(『玉葉』閏情報源のサイトへ
      1183/10/2 条)と朝廷を大いに喜ばせるものであった。情報源のサイトへ
      1183/10/9 白河は頼朝を本位に復して赦免情報源のサイトへ
      1183/10/15 少数の軍勢で帰京する。情報源のサイトへ
      1183/10/17 条))[2]。驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて情報源のサイトへ
      1183/10/19 源氏一族の会合では後白河を奉じて関東に出陣するという案を出し(『玉葉』閏情報源のサイトへ
      1183/10/20 義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に情報源のサイトへ
      1183/10/26 興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下した(『玉葉』閏情報源のサイトへ
      1183/10/26 条)。しかし、前者は行家、源光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった情報源のサイトへ
      1183/11/4 源義経の軍が布和の関(不破の関)にまで達したことで、義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟を固める。一方、頼朝軍入京間近の報に力を得た後白河は、義仲京都から放逐するため、義仲軍と対抗できる戦力の増強を図るようになる情報源のサイトへ
      1183/11/8 条)、圧倒的優位に立ったと判断した後白河は義仲に対して最後通牒をう。その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ情報源のサイトへ
      1183/11/16 条)、後白河は延暦寺や園城寺の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ法住寺殿の武装化を計った。さらに義仲陣営の近江源氏・摂津源氏・美濃源氏などを味方に引き入れて、数の上では義仲軍を凌いだ情報源のサイトへ
      1183/11/17 条、『吉記』『百錬抄』情報源のサイトへ
      1183/11/18 条)。情報源のサイトへ
      1183/11/18 条)。義仲の返答に後白河がどう対応したのかは定かでないが情報源のサイトへ
      1183/11/18 鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主・明雲が御所に入っており、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる。情報源のサイトへ
      1183/11/19 追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃する。院側は源光長・光経父子が奮戦したが、義仲軍の決死の猛攻の前に大敗した情報源のサイトへ
      1183/11/21 義仲は松殿基房(前関白)と連携して「世間の事松殿に申し合はせ、毎事沙汰を致すべし」(『玉葉』同日条)と命じ情報源のサイトへ
      1183/11/21 する)。情報源のサイトへ
      1183/11/22 基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。『平家物語』は義仲が基房の娘・藤原子を強引に自分の妻にしたとするが、実際には復権を目論む基房が義仲と手を結び、娘を嫁がせたと見られる情報源のサイトへ
      1183/11/22 条)と慨嘆している。義仲は天台宗の最高の地位にある僧の明雲の首を「そんな者が何だ」と川に投げ捨てたという(『愚管抄』)情報源のサイトへ
      1183/11/28 新摂政・師家が下文を出し、前摂政・基通の家領八十余所を義仲に与えることが決まり、中納言・藤原朝方以下43人が解官された(『吉記』『百錬抄』同日条、『玉葉』情報源のサイトへ
      1183/12/1 義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて軍事の全権を掌握する(『吉記』同日条)[3]。情報源のサイトへ
      1183/12/10 源頼朝追討の院庁下文を発給させ、形式的には官軍の体裁を整えた(『百錬抄』『吉記』同日条)。情報源のサイトへ
1184 正月、鎌倉軍と義仲軍が宇治川勢多で衝突。『平家物語』『源平盛衰記』には、義経の搦手[1]に属していた重忠が丹党500騎を率い、馬筏[2]を組んで真っ先に宇治川を押し渡ったが、馬を射られて徒歩になってしまい、同じく馬を流された大串重親がつかまってきたため大力の重忠は重親を掴まえて対岸に放り投げ、重親は徒歩立ちの一番乗りの名乗りを上げたという話がある情報源のサイトへ   1184 備前備中備後諸国の総追捕使に任じられ、占領地の軍政にもあたった。情報源のサイトへ
      1184 征夷大将軍源義仲、近江で敗死する。256ページ情報源のサイトへ
      1184 源義仲(31) 情報源のサイトへ
      1184 カテゴリ: 平安時代の武士 | 征夷大将軍 | 清和源氏 | 河内源氏 | 木曾氏 | 武蔵国の人物 | 信濃国の人物 | 1154年生 | 1184年没情報源のサイトへ
      1184/1/2 従四位下に昇叙。昇殿を許される情報源のサイトへ
      1184/1/6 鎌倉軍が墨俣を越えて美濃へ入ったという噂を聞いて、義仲は大いに畏怖する。情報源のサイトへ
      1184/1/10 征夷大将軍就任)。播磨国の平氏との和睦工作を続け、後白河を伴って北国や近江への下向を図るが断念情報源のサイトへ
      1184/1/10 征夷大将軍宣下)。情報源のサイトへ
      1184/1/15 自らを征東大将軍に任命させた(同時代の日記『玉葉』『三槐荒涼抜書要』〔『山槐記』の抄出〕による。後世の編纂史料『吾妻鏡』『百錬抄』では情報源のサイトへ
      1184/1/20 近江国粟津(滋賀県大津市)で討ち死にした(粟津の戦い)。兼実は「義仲天下を執る後情報源のサイトへ
      1184/3/10 源頼朝が送った源義経の軍勢によって近江国粟津で討たれた。情報源のサイトへ
1185/2/14 畠山重忠を先陣に鎌倉を発した。今回の上洛は東大寺供養への参列が目的であった情報源のサイトへ      
1185/8/9 阿津志山の戦いでは、「葛西三郎清重」は「三浦平六義、工藤小次郎行光、工藤三郎祐光、狩野五郎親光、藤澤次郎清近、河千鶴丸」の六騎とともに、夜陰に紛れて先陣の畠山重忠を追い越し、終夜峰阿津志山を越えて、藤原国衡(衡の異母兄)の陣所の木戸口に馳せ寄せた。工藤行光が先頭を切って攻め懸けると、衡の郎従で奥六第一の剛の者と知られた部伴籐八ら強兵たちが応戦し、狩野親光が討死を遂げた情報源のサイトへ      
1185/8/10 頼朝勢全軍が阿津賀志山を越えて木戸口に攻め近づき、畠山重忠・小山朝政・結城朝光・葛西清重らの活躍により、国衡の軍勢は退却した。情報源のサイトへ      
1193 武蔵国の丹党(南西部)と児玉党(北西部)の両武士団の間に確執が生じ、合戦になる直前にまでおちいった際には、それを聞きつけ、仲裁に入り、和平をさせ、国内の開戦を防いだ(この時、児玉党の本宗家は庄太郎家長と考えられる)。情報源のサイトへ      
1194 頼朝主催の北条泰時元服式に列席。畠山重忠、北条時房は娘婿情報源のサイトへ      
1199 正月、頼朝の死去に際し、重忠は子孫を守護するように遺言を受けたという。情報源のサイトへ      
1199/10 結城朝光が「忠臣は二君に仕えず」と発言したのを梶原景時が頼家を誹謗したと讒言。これを知った三浦義、和田義盛らが怒り、諸将66名による景時弾劾の連判状が作られ、重忠もこれに名を連ねている情報源のサイトへ      
1200 景時は鎌倉を追放され、翌正治2年情報源のサイトへ      
1200 追討を受けて滅びた(梶原景時の変)。情報源のサイトへ      
1205 カテゴリ: 畠山氏 (平姓) | 平安時代の武士 | 鎌倉時代の武士 | 1164年生 | 1205年没情報源のサイトへ      
1205 子息・足利義純が畠山重忠の妻と婚姻し畠山家を再興。情報源のサイトへ      
1205 畠山重忠・重保親子を討伐し祖父の仇を報じる。情報源のサイトへ      

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