| 年月日 |
できごと |
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年月日 |
できごと |
| 1153 |
従五位上・下野守に任官。 |
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| 1155 |
源ノ義賢に従った祖父・河越( 秩父)重隆は悪源太・義平に討伐され、 秩父党 惣領の跡職を継承する。「 保元の乱」に活躍 |
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| 1156 |
<血縁衆(息子)> 1156年〜 |
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| 1156 |
父・通清は源氏の棟梁・為義に従う。保元(1156)・平治(1159)の乱を義朝とともに戦う |
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| 1157 |
新田義重の加冠で元服。 |
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| 1159 |
「 平治の乱」で討死。「 保元の乱」に活躍 |
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| 1159 |
」で敗れ飛騨に逃走。再び京に戻り、平ノ清盛の暗殺を計画するが捕縛される |
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| 1159 |
一手の将。 |
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| 1159 |
「 平治の乱」に活躍、義平に従う。義平17騎のひとりとして武名を残す |
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| 1159 |
「 平治の乱」に去就を定めない源ノ頼政陣に乱入、流矢(下河辺行義の矢)で深手を負い味方の 斎藤実 盛に介錯される。弟・経俊は |
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| 1176 |
富士野にて伊東祐親を攻撃し、子息・祐 泰を討つ。 |
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| 1180 |
源ノ頼朝の挙兵に、養子の後藤基清とともに従う。源ノ義経の帷幕にあり、 那須与一を推挙する |
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| 1180 |
頼朝の挙兵に平家方。< 鎌田家と縁戚 |
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| 1180 |
平氏[へいし]をたおす兵をあげ、 鎌倉を中心とした 南関東の武士政権をつくり、弟の 源義経[みなもとのよしつね]や源範頼[みなもとののりより]に平氏を都から追い出した 源義仲[みなもとのよしなか]や平氏を討たせます。その後の |
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| 1180 |
「 以仁王の乱」鎮圧に参陣。 北陸遠征に従軍 |
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| 1180 |
「 以仁王の挙兵」の鎮圧に活躍。のち 関東に下り、 伊豆での「頼朝挙兵」にも鎮圧に出動する |
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| 1180 |
子息以下300余騎とともに参陣し、頼朝に 鎌倉を拠点とすることを進言。 下総国の千田親政、常陸国の佐竹氏を討伐し地盤を固める |
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| 1180 |
平家方の上総介、兄・印東常茂を討ち、頼朝軍に合流する。 |
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| 1180 |
挙兵した兄・頼朝の元にいつ参戦したかは明示した史料はないが、最初は頼朝ではなく、出身の 遠江国を中心に甲斐源氏などと協力して活動していたと考えられる。そのためか甲斐源氏である武田とは関わりがあり、多くの戦を共にする |
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| 1180 |
頼朝の挙兵に参加し、伊豆の代官・山木兼隆を討ち取る。頼朝とともに 安房には渡らず甲斐に走る |
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| 1180 |
頼 朝挙兵以来従う。 |
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| 1180 |
武田信義に従い「富士川の合戦」に従軍。「 宇治川の合戦」範頼軍 |
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| 1180 |
頼朝軍に参軍するが |
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| 1180 |
「 以仁王」挙兵時に 京都大番役。頼朝挙兵に「 石橋山」に参陣するため500余騎を率いる |
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| 1180 |
頼朝挙兵以来従う。 |
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| 1180 |
以仁王の令旨に従い挙兵。信濃に平氏与党を討ち、駿河に進出して橘遠茂を撃破する |
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| 1181 |
頼朝の命で身辺警護担当(親衛隊)。 |
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| 1181 |
頼朝の命で下野国に出陣し足利俊綱を攻撃する。 |
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| 1181 |
上総広常の娘婿。 |
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| 1181 |
志田義広を破る。 |
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| 1181 |
志太義広・足利忠綱に攻撃されるが、源ノ範頼の救援にて是を撃退する。 |
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| 1181 |
頼朝に叛意。 常陸国で源ノ義範・八田四郎・小山朝政・小山宗政と激突 |
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| 1181/7 |
鶴岡 若宮宝殿上棟の際、頼朝は範頼と同じく異母弟にあたる義経に、大工頭に馬を賜るために御家人とともに馬引きをさせる。弟であっても御家人と同じく臣下であることを示すためと言われる |
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1182/8/12 |
鎌倉 比企ヶ谷の能員の屋敷にて、 北条政子が頼朝の嫡男・万寿(のちの源頼家)を出産する。 |
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1182/10/17 |
頼朝の嫡子である源頼家が産所から邸宅に入る際の輿を担いでいる。 |
| 1183 |
「志田義広の挙兵」に小山朝政、弟・政義と共に撃破。 |
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| 1183 |
「倶梨伽羅峠の合戦」に戦死。><畿内の武者か?あるいは、1180年代の甲斐衆にいる河内義長の先祖か |
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| 1183/2 |
常陸の志田義広が三万余騎を率い 鎌倉に進軍。その進軍に下野の小山氏が迎撃し野木宮合戦となる |
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| 1184 |
伊賀国にて平氏の反抗にあい戦死。<後世、同じような立場であろう 足利尊氏の執事高ノ 師直・ 師 泰兄弟の父の 師重も畿内にて戦死したりしてるので歴史の不思議な縁というか、繰り返しを感じます |
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1184 |
播磨・美作の総追捕使に任じられるが、頼朝の死後、結城朝光を源頼家に讒言したことから有力御家人の弾劾を受けて失脚。 |
| 1184 |
「 宇治川の合戦」範頼軍の副将・6000余騎。天野遠景、工藤祐経、小山田有重に誅殺される |
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| 1184 |
「一ノ谷の合戦」範頼軍。 |
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| 1184 |
中国攻め範頼軍。頼朝の命で義経を襲撃するが返り討ちされる |
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| 1184 |
中国攻め範頼軍、範頼軍の軍奉行。 山陽道から 九州に上陸し、平家の背後を抑え退路を断つ |
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| 1184 |
逃亡先の 伊勢国にて波多野盛通、大井実春に討たれる。 <義 朝昵懇の他流源氏一門衆> |
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| 1184 |
平頼盛の送別の宴に出席。 |
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| 1184 |
祖父・ 千葉常胤とともに「西国遠征」に従軍。 |
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| 1184 |
源範頼の平氏追討軍に加わり、 壇ノ浦の戦いで戦功をあげた。 奥州合戦でも活躍し、頼朝の死後も宿老の一人として幕府を支えた |
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| 1184 |
弟の源範頼・同義経を派遣して 義仲を破った。 |
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| 1184/1 |
頼朝の代官として 源義仲追討の 大将軍となり、大軍を率いて上洛し、先に西上していた義経の軍勢と合流して宇治・ 瀬田の戦いに参戦。 尾張 墨俣 渡にて御家人らと先陣争いで乱闘になったのが頼朝の耳に届き、怒りを買っている |
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| 1184/1/20 |
範頼は大手軍を率いて 瀬田に向かい、義経は搦手軍を率いて宇治を強襲した。義経の独断による強襲とも言われているが、範頼軍は広く展開し、ゆっくりとした進軍をしている事から、戦上手の今井兼平率いる500余騎を範頼軍に引きつけるための作戦だったと思われる |
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| 1184/2 |
源範頼、義経、 一の谷の戦で平氏を破る |
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| 1184/2/5 |
始まった 一ノ谷の戦いでは、源範頼は大手軍を率いて進軍し( 宇治川の戦いで率いた3万の兵士を基幹としたと思われる)、また 源義経は1万の搦手軍を率いて進軍した。両軍の兵力差からみて、すでに敵主力を範頼軍に引き付ける作戦は決定していたと思われる |
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| 1184/2/7 |
終結し、平氏を海上に追いやって大勝する。義経の評価はいっそう高まった |
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| 1184/3 |
範頼は上洛の 際の乱闘騒ぎの咎で謹慎させられ、何度も嘆きわびてようやく許されている。 |
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| 1184/6 |
範頼は戦功により三河守に任じられる。この守は名義上のものではなく建久4 |
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| 1185 |
義経事件に連座し所領没収される。 |
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| 1185 |
九州渡海に先陣の四将、原田種直軍を破る。<頼朝の信頼厚く、検使として従軍か |
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| 1185 |
無許可で任官し頼朝から叱責。 |
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| 1185 |
土肥 実平とともに西国遠征。 中国総追捕使・土肥 実平の越権行為を頼朝に訴える |
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| 1185 |
(文治元)年に頼朝の推薦で後 白河院から信濃守を拝領。頼朝に厚遇され武田家から独立する |
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| 1185/1/26 |
豊後国豪族緒方惟栄の味方などを得て、範頼はようやく兵糧と兵船を調達し、侍所別当の和田義盛など勝手に 鎌倉へ帰ろうとする 関東武士たちを強引に押しとどめて 周防国より豊後国に渡ることに成功。 九州の平氏家人である原田種直を |
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| 1185/2 |
頼朝から出撃の命を受けた 義経が屋島の戦いで勝利する。範頼は頼朝に窮状を訴える手紙の中で、 四国担当の義経が引き入れた熊野水軍の湛増が 九州へ渡ってくるという噂を聞いて、 九州担当の自分の面子が立たないとの苦情も書いている |
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| 1185/2 |
葦屋浦の戦いで打ち破り、長門国彦 島( 下関市)に最後の拠点を置く平氏の背後を遮断する。これにより実質、平氏の戦力は壊滅したのと同じであり、平氏は援助も隠れる場所すらも失った |
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| 1185/3/24 |
壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させる。 |
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| 1185/5 |
頼朝からの伝令では、従っている御家人達に問題があっても、自分で勝手に判断して処罰せず、頼朝を通すように注意がきている。その頃 鎌倉では、平氏追討の道中、頼朝の意に背かず何事も 千葉常胤や奉行として付けられた和田義盛に相談した範頼に対し、言いつけを守らず独自に行動する義経の専横や越権行為が頼朝の怒りを買っており、範頼が 九州の行政に当たっている間に、頼朝と義経は対立する |
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| 1185/9 |
頼朝に帰還の手紙を出し、海が荒れたため到着が遅れる旨を報告している。この範頼のこまめな報告ぶりも、頼朝に忠実であるとして評価され、逆に義経の独断専行ぶりを際だたせたという |
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| 1185/10 |
鎌倉へ帰還した範頼は、父義朝の供養のための勝長寿院落慶供養で源氏一門の列に並び出席している。 |
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| 1185/11 |
都を追われ、 奥州へ逃げ延びたのちの |
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| 1186 |
信濃国伴荘の地頭。「 承久の乱」に東山道 大将軍として上洛 |
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1187/7/10 |
源頼家が初めて鎧を着る儀式に加わる。 |
| 1189 |
「 奥州征伐」の軍功から陸奥国行方 郡地頭職。 < 上野国> |
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| 1189 |
「 奥州征伐」に従軍。 藤原泰衡を撃破 |
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| 1189/4/30 |
頼朝の命を受けた 藤原泰衡による討伐軍の襲撃を受け、自害した。 |
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| 1189/7 |
頼朝自ら出陣し、 奥州藤原氏を滅ぼした 奥州合戦においては、頼朝の 中軍に従い出征。多くの源平合戦に参加した範頼だが、これが最後の参戦となった |
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| 1190 |
頼朝の上洛に従い右 兵衛尉に任官、下野守護。のち常陸村田荘の地頭、播磨守護を拝領する |
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| 1190 |
頼朝上洛においても従い、頼朝任大納言の拝賀で前駆をつとめる。 |
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| 1190 |
左 兵衛尉に任官。上総国一宮を領する |
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| 1190 |
第二次奥州征伐東海道軍大将。 |
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| 1190 |
「 大河兼任の乱」に足利義兼らとともに出陣し鎮圧。 |
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| 1191 |
北陸道管領職。「 承久の乱」では執権・ 北条義時を補佐し 鎌倉に留まる |
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| 1192 |
永福寺工事に参加する。< 摂津源氏・源ノ頼政と累代の縁あり |
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1192 |
源頼朝 |
| 1193 |
自身養育した曽我祐成・時致の兄弟が工藤祐経を襲撃した事件では、頼朝に罪を許された。 |
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| 1193 |
カテゴリ: 平安時代の武士 | 鎌倉時代の武士 | 河内源氏 | 1193年没 |
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1193/5 |
富士の裾野で行われた巻狩りで、12歳の頼家が初めて鹿を射ると、頼朝は喜んで政子に報告の使いを送り、武士の子なら当たり前の事であるとたしなめられている。この巻狩りで曾我兄弟の仇討ちが起こり、叔父の源範頼が頼朝に謀反の疑いを受けて流罪となったのち誅殺されている |
| 1193/7/29 |
範頼軍の将達は頼朝から酒宴に招かれ、馬を賜る。この時代において馬は貴重品であり、また頼朝の秘蔵の馬(甲一領)を与えられた事から、遠征の重要性が理解できる |
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| 1193/8 |
範頼は 九州進軍の任を受ける。出陣の |
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| 1193/8 |
失脚に至るまで最高責任者として同国を支配した。現在も三河の地には範頼の名で建設された寺が存在し、政治においても高い能力を持っていたと思われる |
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| 1193/8/10 |
夜、範頼の家人である当麻太郎が、頼朝の寝所の下に潜む。気配を感じた頼朝は、結城朝光らに当麻を捕らえさせ、明朝に詰問を行うと当麻は「起請文の後に沙汰が無く、しきりに嘆き悲しむ参 州(範頼)の為に、形勢を伺うべく参った |
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| 1193/8/17 |
伊豆国修禅寺に幽閉される。『吾妻鏡』ではその後の範頼については不明だが、『保暦間記』『北條九代記』などによると誅殺されたという |
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| 1193/8/18 |
範頼の家人らが館に籠もって不審な動きを見せたとして結城朝光、梶原景時父子、仁田忠常らによって直ちに討伐され、また |
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| 1193/8/20 |
曾我祐成の同母兄弟、京の小次郎という人物が範頼の縁座として誅殺されている(『吾妻鏡』)。 |
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| 1193/12 |
かけて兵糧の欠乏、馬の不足、武士たちの不和など窮状を訴える手紙を 鎌倉に次々と送る。それに対して頼朝は食料と船を送る旨と、地元の武士などに恨まれない事、安徳天皇・二位尼・神器を無事に迎える事、 関東武士たちを大切にする事など、細心の注意を書いた返書を送っている |
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1195/2 |
頼朝は政子と頼家・大姫を伴って上洛する。頼家は |
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1195/6/24 |
参内し、都で頼朝の後継者としての披露が行われた。 |
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1197 |
16歳で従五位上右近衛権少将に叙任される。生まれながらの『鎌倉殿』である頼家は、古今に例を見ないほど武芸の達人として成長した |
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1199 |
落馬して死去した。後継者の源頼家は、御家人である工藤行光が誇る屈強な家来を自分の直属にしようとして断られる程度の人物であったため、有力御家人の 北条時政・ 北条義時・和田義盛・梶原景時・ 比企能員[ひきよしかず]・三浦義澄、官僚の大江広元・三善康信・中原親能、それに安達盛長・足立遠元・八田知家・藤原行政(二階堂行政)らは将軍独裁体制を廃止し、自分たち十三人の合議制で幕政を執ることを決定した |
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1199 |
源頼朝死す。第2代将軍・源頼家、家督相続 |
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1200/2 |
条)。しかし景時に反発する御家人たちにより、御家人66名による景時糾弾の連署が頼家に提出された |
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1200/1/20 |
失意の景時は一族を率いて 京都へ上る道中で在地の御家人達から襲撃を受け、一族もろとも滅亡した(『吾妻鏡』)。 京都の人々は景時を死なせた事は頼家の大失策であると評した( 梶原景時の変) |
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1200/9/2 |
将軍源頼家の前で水中に潜って鮫三匹を生け捕りにし、さらに兄常盛と相撲を取るなど 鎌倉武士のなかでも無双の大力で知られた人物でありました。そして 鎌倉から六浦への通路である朝比奈切り通しは朝比奈義秀が一夜にして切り開いたとの伝説があります「本当は |
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1202 |
征夷大将軍宣下される。 |
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1202/7/22 |
従二位に昇叙し、征夷大将軍宣下。左衛門督如元 |
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1203 |
比企能員の乱を起こした。しかしこの乱も鎮圧され、 比企能員と、源頼家の長男の一幡丸は共に殺された |
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1203/5 |
頼家は実朝の乳母・ 阿波局の夫で頼朝の弟である阿野全成を謀反人の咎で逮捕、殺害した。さらに 阿波局を逮捕しようとしたが、政子が引き渡しを拒否する |
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1203/7 |
半ば過ぎから頼家は急病にかかり |
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1203/8 |
末に危篤状態に陥った。まだ頼家が存命しているにも関わらず、 鎌倉から「 |
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1203/8/27 |
条)。「病床の頼家と能員による北条氏討伐の密議を障子の影で立ち聞きしていた政子が時政に報告し、先手を打った時政は自邸に能員を呼び出して殺害、一幡の屋敷を攻め、 比企一族を滅ぼし一幡も焼死した」 |
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1203/9/2 |
条)としている。 |
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1203/9/7 |
鎌倉殿の地位を追われ、実朝がこれに代わった。これによって時政は幕府の実権を握る事になる |
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1203/9/7 |
早朝に都に届き、実朝の征夷大将軍任命が要請された事が、 藤原定家の日記『明月記』の他、複数の 京都側の記録で確認されている。使者が 鎌倉を発った前後と思われる |
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1203/11 |
なって一幡は捕らえられ、北条氏の郎党に刺し殺されたという。 |
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1204 |
頼家は 伊豆国に護送され、翌年の |
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1204 |
カテゴリ: 鎌倉時代の武士 | 征夷大将軍 | 清和源氏 | 河内源氏 | 鎌倉市 | 相模国の人物 | 暗殺された人物 | 1182年生 | 1204年没 |
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1204 |
源頼家、 伊豆 修善寺で執権・ 北条時政により暗殺される |
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1204/3 |
であり、頼家の政治能力の欠如によるものとは考えにくい。頼家排斥は北条氏の陰謀のみではなく、 幕府成立の起動力となった東国武士達の、将軍独裁への鬱積した不満が背景にあったと思われる |
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1204/7 |
頼家公祭りが行われている。 |
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1204/7/18 |
北条氏の手兵によって殺害された。享年23(満21歳没) |
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1204/7/19 |
条)。殺害当日の日付の『愚管抄』によると、入浴中を襲撃され、激しく抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、急所を押さえてようやく刺し殺したという |