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年表トップ > 正岡子規と夏目漱石の年表を比べる

ウェブサイト上の情報を調べて見出し情報をまとめた検索結果ページです。事実が正確に並べられた年表ではありませんのでご注意下さい。

正岡子規(まさおかしき)

 

夏目漱石(なつめそうせき)

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正岡子規(まさおかしき)と夏目漱石(なつめそうせき)に関する本・DVD

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正岡子規   夏目漱石
年月日 できごと   年月日 できごと
      1867/1/5 夏目 漱石(なつめ そうせき、慶応3年1月5日情報源のサイトへ
      1867/1/5 夏目漱石(1867年1月5日〜情報源のサイトへ
      1867/1/5 生まれる 金之助と名付けられる 情報源のサイトへ
      1867/2/9 生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があった)だったので、厄除けの意味で「金」の文字が入れられた。また3歳頃に罹った疱瘡により傷痕は目立つほどに残ることとなった情報源のサイトへ
      1867/2/9 江戸の牛込馬場下で数代前から続く町方名主、夏目小兵衛直克の末子(五男)として出生。母は子沢山の上に高齢で出産した事から「面目ない」と恥じたといい、漱石は望まれない子として生まれたといえる情報源のサイトへ
1867/9/17 正岡子規(1867年9月17日〜情報源のサイトへ      
      1868 塩原昌之助の養子になる。情報源のサイトへ
      1868/8/25 山田美妙(1868年8月25日〜情報源のサイトへ
      1868/11 内藤新宿の名主、塩原昌之助(当時29歳)の養子となる。情報源のサイトへ
      1870 この頃種痘から疱瘡にかかり、薄く痘の痕が顔に残る。[2]「一つ夏目の鬼瓦」という数え歌につくられるほど、痘痕は目立ったらしい情報源のサイトへ
      1870/7/4 巌谷小波(1870年7月4日〜情報源のサイトへ
1872/1/24 明治天皇が初めて牛肉を召上ります。情報源のサイトへ      
1872/4 父・常尚が死去情報源のサイトへ      
      1872/5/22 生〜情報源のサイトへ
      1872/12/3 武島羽衣(1872年12月3日〜情報源のサイトへ
      1874 公立戸田学校下等小学第八級に入学。情報源のサイトへ
      1874/12 公立の浅草寿町戸田小学校下等小学校第八級に入学する。情報源のサイトへ
1875/1 勝山学校(現・松山市立番町小)へ転校情報源のサイトへ      
1875/4/11 正岡子規の祖父・大原観山が永眠しました。(享年58歳)情報源のサイトへ      
      1875/9/25 益田太郎冠者(1875年9月25日〜情報源のサイトへ
      1876/3/15 蒲原有明(1876年3月15日〜情報源のサイトへ
      1876/5 市ケ谷柳町の市ケ谷小学校に転校する。                                情報源のサイトへ
      1878/4 市ケ谷小学校上等小学第八級を卒業。 神田猿楽町錦華学校小学尋常科二級後期を卒業し、一ツ橋中学(東京府立一中)に入学情報源のサイトへ
      1878/4 市谷学校上等小学第八級を卒業。情報源のサイトへ
      1878/10 錦華小学校・小学尋常科二級後期卒業。情報源のサイトへ
      1879/8/24 瀧廉太郎(1879年8月24日〜情報源のサイトへ
      1881 実母死去。第一中学退学情報源のサイトへ
      1881/1/21 母千枝没。情報源のサイトへ
      1881/5/17 乙骨三郎(1881年5月17日〜情報源のサイトへ
1881/10 「国会開設の詔」が発せられ情報源のサイトへ      
1881/10/29 板垣退助を総裁とする自由党が結成されます。情報源のサイトへ      
      1881/11/30 小林愛雄(1881年11月30日〜情報源のサイトへ
1882/9 高知の立志社、徳島の自助社から自由党員が松山で演説会を開きます。情報源のサイトへ      
1883 改称)を退学し, 東京の共立学校(開成高校の前身。同期                 に正岡子規)に転学情報源のサイトへ   1883 神田駿河台の成立学舎に入学。情報源のサイトへ
      1883/3/13 高村光太郎(1883年3月13日〜情報源のサイトへ
      1884 大学予備門情報源のサイトへ
1884/9 東京大学予備門(のち第一高等中学校 )へ入学。夏目漱石、山田美妙、尾崎紅葉、寺石正路などが同級情報源のサイトへ   1884/9 大学予備門予科に入学。同級に中村是公、芳賀矢一がいた情報源のサイトへ
      1884/11/4 楠山正雄(1884年11月04日〜情報源のサイトへ
      1885/4/4 本居長世(1885年4月4日〜情報源のサイトへ
      1885/5/13 長田秀雄(1885年5月13日〜情報源のサイトへ
      1886 大学予備門は第一高等中学校に改称。情報源のサイトへ
      1886/3/24 大和田愛羅(1886年3月24日〜情報源のサイトへ
      1886/4 大学予備門が第一高等中学校と改称される。情報源のサイトへ
1886/4/14 「七変人」の一人、清水則遠が脚気衝心で急死してしまいます。情報源のサイトへ      
      1886/6/9 山田耕筰(1886年6月9日〜情報源のサイトへ
      1886/7/8 中田章(1886年7月8日〜情報源のサイトへ
      1886/7/15 佐々紅華(1886年7月15日〜情報源のサイトへ
      1886/10/8 吉井勇(1886年10月8日〜情報源のサイトへ
      1887 先立つ明治20年情報源のサイトへ
      1887/3 長兄・大助と死別。情報源のサイトへ
      1887/3/1 長田幹彦(1887年3月1日〜情報源のサイトへ
      1887/6 次兄・栄之助と死別。さらに直後の情報源のサイトへ
      1887/6/21 次兄栄之助没(享年28)情報源のサイトへ
      1887/7 下旬急性トラホームを患い、江東義塾を辞め自宅から通学する           情報源のサイトへ
1887/10 開通した。ひところをおもうと、信じられぬほどの便利さであった情報源のサイトへ      
      1887/12/1 伊庭孝(1887年12月1日〜情報源のサイトへ
1888 旧制伊予尋常中学に入学し、1歳年上の河東碧梧桐(俳人・学生時代、虚子と共に子規から俳句を教わる。俳句界で新傾向俳句などを推し進めた人物)と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わり情報源のサイトへ      
1888/7 第一高等中学校予科卒業情報源のサイトへ   1888/7 第一高等中学校予科を卒業する。情報源のサイトへ
      1888/7/9 川路柳虹(1888年7月9日〜情報源のサイトへ
      1888/9 同校本科英文科に入学する。情報源のサイトへ
1889 子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、明治22年情報源のサイトへ      
1889 喀血してやめるまでやっていた。ポジションは捕手であった情報源のサイトへ      
1889/5 喀血。初めて「子規」と号す情報源のサイトへ      
1889/5/9 夜、正岡子規は常盤会寄宿舎で血を吐きます。情報源のサイトへ      
1890 である。つまり、「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬庚であるが、読み方は異なるが「野球」という表記を最初に行い、さらに「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」と日本語に訳したのは正岡子規である情報源のサイトへ   1890 創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学。この頃から厭世主義、神経衰弱に陥り始めたともいわれる情報源のサイトへ
1890 正岡子規と五百木瓢亭との共同作業で収拾した、江戸時代以前の古書から富士山に関する記述を抜粋し書き写したものです。情報源のサイトへ   1890 帝国大学(後の東京帝国大学)文科大学英文科入学。『方丈記』を英訳する情報源のサイトへ
1890 『富士のよせ書』とは、1890年情報源のサイトへ      
1890/7 正岡子規とともに第一高等中学校第一部本科を卒業。情報源のサイトへ   1890/7 第一高等中学校本科卒業。                          情報源のサイトへ
      1890/9 東京帝国大学文科大学英文科に入学する。文部省貸費生となる情報源のサイトへ
1891 夏、正岡子規が木曽路を経て美濃伏見から舟で木曽川を下り、北方で下船、木曽川停車場から汽車に乗るつもりで駅前の茶店で休憩をします。この時の思いでを情報源のサイトへ      
      1891/5/9 鹿島鳴秋(1891年5月9日〜情報源のサイトへ
      1891/12 J.M.ディクソン教授に頼まれて「方丈記」を英訳する。情報源のサイトへ
1892 帝国大学を突如退学します。情報源のサイトへ   1892 兵役を逃れるために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。情報源のサイトへ
1892 正岡子規は1892年情報源のサイトへ      
1892 (1892)日本新聞社に入社、「日本」紙上を中心に文学活動を行い、俳句、短歌の革新運動を進め写生論を提唱した。日清戦争従軍後に喀血し病床生活を送るなか、『俳諧大要』(1895~連載、1899刊)を著し、俳誌「ホトトギス」を指導情報源のサイトへ      
      1892/1/15 西條八十(1892年1月15日〜情報源のサイトへ
      1892/3/1 芥川龍之介(1892年3月1日〜情報源のサイトへ
      1892/4 徴兵を避けるため分家届を出し、北海道後志国岩内郡吹上町17情報源のサイトへ
      1892/4 北海道後志国岩内郡吹上町に転籍し北海道平民になる。情報源のサイトへ
1892/5 で開園130周年を迎える東京・上野公園内に「正岡子規記念球場」が誕生する。俳人で歌人でもある正岡子規(1867-情報源のサイトへ   1892/5 東京専門学校(現在の早稲田大学)講師に就任。情報源のサイトへ
1892/7 正岡子規と京都から堺の旅。情報源のサイトへ      
      1892/7/8 京都に到着して二泊し情報源のサイトへ
      1892/7/10 神戸で子規と別れて情報源のサイトへ
      1892/7/11 岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1ヶ月あまり逗留する情報源のサイトへ
1892/8 松山に正岡子規を訪ね、高浜虚子に会った。情報源のサイトへ      
      1892/8/10 岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、後に漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う情報源のサイトへ
      1892/12 試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は情報源のサイトへ
      1893 大学卒業。高等師範学校(後の東京高等師範学校)に勤める情報源のサイトへ
      1893 帝国大学を卒業し、東京高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の情報源のサイトへ
      1893/7 英文科を卒業し、大学院に進学する。情報源のサイトへ
      1893/10 東京高等師範学校の英語嘱託となる。情報源のサイトへ
      1894 初期の肺結核と診断される。情報源のサイトへ
      1894/12/25 水谷まさる(1894年12月25日〜情報源のサイトへ
      1895 東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高等学校)に赴任する。ちなみに、松山は子規の故郷であり、2ヶ月あまり静養していた情報源のサイトへ
1895/19 子規は漱石とも別れて松山を発った。帰郷するつもりであったが、まっすぐにはもどらず上方のあちこちを見ようとおもった情報源のサイトへ      
1895/3/3 正岡子規は日清戦争の従軍記者として東京を出発します。情報源のサイトへ      
      1895/4 愛媛県尋常中学校(松山中学校)に英語科教師として赴任。情報源のサイトへ
      1895/4 菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常松山中学に赴任。情報源のサイトへ
1895/4/10 正岡子規は日清戦争従軍記者として御用船海城丸で宇品を出港します。情報源のサイトへ      
1895/5 帰国途上の船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院。須磨で保養した後松山に帰郷し、当時松山中学校に赴任していた親友夏目漱石の下宿で静養した情報源のサイトへ      
1895/7/23 正岡子規は神戸病院を退院して須磨保養院に移りました。情報源のサイトへ      
      1895/8 子規が松山に帰り、漱石の下宿に住む。俳句に熱中する情報源のサイトへ
1895/10/19 松山を発った正岡子規は情報源のサイトへ      
      1895/10/21 箕作秋吉(1895年10月21日〜情報源のサイトへ
1895/10/22 から新聞「日本」で俳句への修学課程を説いた『俳諧大要』の連載をはじめます。要するにちゃんと仕事もこなしていました情報源のサイトへ      
1895/10/26 から奈良を旅しこの句を読んだのにちなみ、現在は情報源のサイトへ      
1895/10/26 を「柿の日」と制定しているそうです。情報源のサイトへ      
1895/10/31 東京に戻るまでの約2週間、広島、須磨、大坂を経て奈良で遊ぶとなりますが情報源のサイトへ      
      1895/12 貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と婚約。情報源のサイトへ
1896 結核菌が脊椎を冒し脊椎カリエスを発症していると診断される。以後床に伏す日が多くなり、数度の手術も受けたが病状は好転せず、やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになった情報源のサイトへ   1896 熊本県第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任後、親族の勧めもあり貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と結婚をするが情報源のサイトへ
1896 俳句界」を連載しますが、その中で、露月を、河東碧梧桐、高浜虚子に続く異才であると書情報源のサイトへ      
      1896/4 熊本県の第五高等学校講師に就任。情報源のサイトへ
      1896/4 熊本県の第五高等学校講師として赴任する。情報源のサイトへ
      1896/4/19 大中寅二(1896年4月19日〜情報源のサイトへ
      1896/6 鏡子と結婚。情報源のサイトへ
      1896/7 五高教授となる。情報源のサイトへ
1897/1/15 正岡子規の故郷松山で俳句雑誌「ほとゝぎす」が創刊されました。情報源のサイトへ      
      1897/2/6 中村雨紅(1897年2月6日〜情報源のサイトへ
      1897/6 実父直克死去。情報源のサイトへ
      1897/7 妻鏡子流産。情報源のサイトへ
      1897/9 大江村401に転居。情報源のサイトへ
      1897/12/6 堀内敬三(1897年12月6日〜情報源のサイトへ
1898 『歌よみに与ふる書』(正岡子規 まさおか しき 情報源のサイトへ      
      1898/3 同市井川淵8に転居。鏡子のヒステリー激化情報源のサイトへ
      1898/6 寺田寅彦が初めて訪問する。情報源のサイトへ
      1898/7/1 清水かつら(1898年7月1日〜情報源のサイトへ
      1898/11/18 近衛秀麿(1898年11月18日〜情報源のサイトへ
1899 病床の子規には、大好きな庭を見るにしても、上野の山を望むにしても、いちいち障子を開けてもらわはなければならなかったが、1899年情報源のサイトへ      
1899/3/14 正岡子規は根岸の子規庵で歌会を催しました。子規はこの歌会を開くにあたり、出席を依頼する「はがき歌」を送っています情報源のサイトへ      
      1899/6 英語科主任となる。情報源のサイトへ
1899/7 子規が発表した小作品「旅」の中に記しています。情報源のサイトへ      
1899/7/7 月明に情報源のサイトへ      
1899/12/1 12月1日~情報源のサイトへ      
1899/12/3 まで名古屋古書会館で開催される古書即売会「名鯱会」に行ってきました。今回購入した古書は以下の三点です情報源のサイトへ      
1899/12/3 会/昭13刊)情報源のサイトへ      
1899/12/10 ごろ、この病床生活に一大変化が生じます。情報源のサイトへ      
1899/12/26 東京・上野公園にある「正岡子規記念球場」で、明治時代の野球を再現した「の・ボール」大会が開かれたようです。情報源のサイトへ      
1900 (明治33)正岡子規の門に入る。子規没後, 伊藤左千夫らと『馬酔木』を出し, 後に『アララギ』の同人となる情報源のサイトへ      
1900/8 大量の喀血情報源のサイトへ      
1901/1/16 正岡子規は新聞「日本」に「墨汁一滴」の連載を開始します。情報源のサイトへ      
1901/2/28 子規門人である「根岸短歌会」の伊藤左千夫、香取秀真、岡麓らが子規庵を訪ねます。情報源のサイトへ      
      1901/5 池田菊苗が来て二ヵ月間同宿する。池田の影響を受けて「文学論」情報源のサイトへ
      1901/10/7 村野四郎(1901年10月7日〜情報源のサイトへ
1902 本日情報源のサイトへ   1902 以後子規との交流は、漱石がイギリス留学中の明治35年情報源のサイトへ
1902 カテゴリ: 歌人 | 俳人 | 明治時代の文学 | 新聞「日本」の人物 | 野球殿堂 | 野球に関連する人物 | 愛媛県の歴史 | 愛媛県出身の人物 | 1867年生 | 1902年没情報源のサイトへ   1902 子規が没するまで続く。情報源のサイトへ
1902 が大の野球好きだったのは有名な話。子規が亡くなるまで野球を楽しんだのが、上野公園だった情報源のサイトへ      
1902/7 月明に情報源のサイトへ      
      1902/1/29 勝承夫(1902年1月29日〜情報源のサイトへ
1902/3/8 「東京新聞」より)情報源のサイトへ      
1902/5 訪ねた大龍寺のことを思い出しながら読んでみました。情報源のサイトへ      
1902/6/6 続いて紹介されて読んだ本。明治人のお葬式情報源のサイトへ      
1902/6/7 より情報源のサイトへ      
1902/6/27 正岡子規は画帳に青梅を写生します。情報源のサイトへ      
1902/9/7 月明に”情報源のサイトへ      
1902/9/7 月明にと、虚子が口ずさんだのは、このときであった。即興だが、こしらえごとでなく、子規がその文学的生命をかけてやかましくいった写生を虚子はいまおこなったつもりだった情報源のサイトへ      
1902/9/19 を「糸瓜忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。情報源のサイトへ   1902/9/19 正岡子規没(享年36)。情報源のサイトへ
1902/9/19 (1867~1902)情報源のサイトへ      
1902/9/19 旧暦の十七夜にあたっていた。(中略)その板塀のあかるさのなかを、何物かが動いて流れてゆくような気が、一瞬した情報源のサイトへ      
1902/9/19 正岡子規の命日。情報源のサイトへ      
      1902/10 スコットランドを旅行。情報源のサイトへ
      1902/11/22 佐伯孝夫(1902年11月22日〜情報源のサイトへ
      1903/1/21 熊本に入る。情報源のサイトへ
      1903/3 東京市本郷区千駄木57(第二高等学校教授斎藤阿具の持ち家)に転居。情報源のサイトへ
      1903/4 第一高等学校講師(年俸700円)、ラフカディオ・ハーンの後任として東京帝国大学文科大学英文科講師(年俸800円)となる。               情報源のサイトへ
      1903/5/23 サトウハチロー 1903年5月23日〜情報源のサイトへ
      1903/6/4 文科大学学長に大学図書館の教職員閲覧室の隣室事務員が騒が        情報源のサイトへ
      1903/10 三女栄子誕生情報源のサイトへ
      1903/11/30 暮れ、虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる「吾輩は猫である」を執筆。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す情報源のサイトへ
      1904 明治大学の講師も務める。情報源のサイトへ
      1904/4 明治大学講師となる。情報源のサイトへ
      1904/9/14 橋本国彦(1904年9月14日〜情報源のサイトへ
      1905 東京帝国大学文学部に入学。大学時代に夏目漱石の門人となり、「木曜会」に参加情報源のサイトへ
      1905/1 「吾輩は猫である」(「ホトトギス」)                     情報源のサイトへ
      1905/1 『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この時から、作家として生きていくことを熱望し始め、その後「倫敦塔」「坊つちやん」と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく情報源のサイトへ
      1905/1 『帝国文学』/情報源のサイトへ
      1905/1 吾輩は猫である(1905年1月 -情報源のサイトへ
      1905/3/8 岩佐東一郎(1905年3月8日〜情報源のサイトへ
      1905/4 「幻影の盾」(「ホトトギス」)情報源のサイトへ
      1905/5 「琴のそら音」(「七人」)                          情報源のサイトへ
      1905/7 『七人』/『漾虚集』収録)情報源のサイトへ
      1905/9 「一夜」(「中央公論」)                           情報源のサイトへ
      1905/9 『中央公論』/『漾虚集』収録)情報源のサイトへ
      1905/11 「薤露行」(「中央公論」)情報源のサイトへ
      1906 漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木三重吉が毎週の面会日をと定めた。これが後の「木曜会」の起こりである情報源のサイトへ
      1906/1 「趣味の遺伝」(「帝国文学」)                        情報源のサイトへ
      1906/8 『ホトトギス』/情報源のサイトへ
      1906/10 10月 「情報源のサイトへ
      1906/10/10 」(「中央公論」)情報源のサイトへ
      1906/12 本郷区西片町10のろの7号(現・文京区西片1丁目)に転居。情報源のサイトへ
      1906/12/18 高田三九三(1906年12月18日〜情報源のサイトへ
      1907 朝日新聞社入社。職業作家としての道を歩みはじめる情報源のサイトへ
      1907/2 一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社。本格的に職業作家としての道を歩み始める情報源のサイトへ
      1907/4 かけて京都・大阪を旅行する。情報源のサイトへ
      1907/5 大倉書店・服部書店)情報源のサイトへ
      1907/5/4 「文芸の哲学的基礎」第1回〜第27回(〜6/4まで)情報源のサイトへ
      1907/7/8 平尾貴四男(1907年7月8日〜情報源のサイトへ
      1907/12/22 長谷川良夫(1907年12月22日〜情報源のサイトへ
      1908/1 春陽堂)情報源のサイトへ
      1908/1 坑夫(1908年1月 -情報源のサイトへ
      1908/3/6 大久保徳二郎(1908年3月6日〜情報源のサイトへ
      1908/4 『朝日新聞』/『草合』収録)情報源のサイトへ
      1908/7 夢十夜(1908年7月 -情報源のサイトへ
      1908/8/13 井田誠一(1908年8月13日〜情報源のサイトへ
      1908/9 「三四郎」(〜情報源のサイトへ
      1908/12 次男伸六誕生情報源のサイトへ
      1909 親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される情報源のサイトへ
      1909/1 「永日小品」(〜情報源のサイトへ
      1909/1 永日小品(1909年1月 -情報源のサイトへ
      1909/5 春陽堂)情報源のサイトへ
      1909/10 中村是公の招待で満州(当時)と朝鮮(当時)を旅行する。情報源のサイトへ
      1909/10 『朝日新聞』/情報源のサイトへ
      1909/10 「満韓ところ\/」(〜情報源のサイトへ
      1909/12 『朝日新聞』/『四篇』収録)情報源のサイトへ
      1910 「夏目漱石は1910年情報源のサイトへ
      1910 春陽堂刊『四篇』収録)情報源のサイトへ
      1910/1 春陽堂)情報源のサイトへ
      1910/3 「門」(〜情報源のサイトへ
      1910/8 療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血をおこし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る情報源のサイトへ
      1910/10 容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる情報源のサイトへ
      1910/10 帰京し、長与胃腸病院に入院する。「思い出す事など」(〜情報源のサイトへ
      1910/12/5 清水保雄(1910年12月5日〜情報源のサイトへ
      1911 養父塩原に金を無心される。情報源のサイトへ
      1911 和歌山県会議事堂/情報源のサイトへ
      1911/1 春陽堂)情報源のサイトへ
      1911/2 文学博士号辞退。情報源のサイトへ
      1911/2/21 文学博士号辞退。退院情報源のサイトへ
      1911/2/26 伊藤翁介(1911年2月26日〜情報源のサイトへ
      1911/6 長野へ夫人同行で講演旅行。                         情報源のサイトへ
      1911/8 関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院情報源のサイトへ
      1911/8 関西での講演後、胃潰瘍が再発し、大阪で入院。情報源のサイトへ
      1911/11/1 池辺三山、朝日文芸欄の廃止によって辞表を提出するが慰留される。情報源のサイトへ
      1911/11/29 雛子突然死(死因が不明であり、その時の後悔が後年漱石の遺体解剖に繋がる)。情報源のサイトへ
      1912/1 彼岸過迄(1912年1月 -情報源のサイトへ
      1912/2/1 渡辺茂(1912年2月1日〜情報源のサイトへ
      1912/4 『朝日新聞』/情報源のサイトへ
      1912/9 春陽堂)情報源のサイトへ
      1912/9/13 明治天皇の大喪の礼の日)[1]情報源のサイトへ
      1912/10/3 米山正夫(1912年10月3日〜情報源のサイトへ
      1912/12 行人(1912年12月 -情報源のサイトへ
      1912/12 「行人」も病気のため初めて執筆を中絶する。情報源のサイトへ
      1913 強度の神経衰弱に悩まされる。北海道から東京に転籍し東京府平民に戻る情報源のサイトへ
      1913/3 末 胃潰瘍のため病臥。情報源のサイトへ
      1913/9 「行人」の続編「塵労」を発表情報源のサイトへ
      1913/10/30 北海道から移籍して、東京府平民に戻る。情報源のサイトへ
      1913/11 『朝日新聞』/情報源のサイトへ
      1914/1 大倉書店)情報源のサイトへ
      1914/8 『朝日新聞』/情報源のサイトへ
      1914/8/31 ち「こゝろ」と改題)情報源のサイトへ
      1914/9 4度目の胃潰瘍で病臥。作品は人間の利己を追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく情報源のサイトへ
      1914/9 岩波書店)情報源のサイトへ
      1914/11 講演「私の個人主義」(学習院大学)情報源のサイトへ
      1915/1/13 「硝子戸の中」(〜情報源のサイトへ
      1915/2 『朝日新聞』/情報源のサイトへ
      1915/3 岩波書店)情報源のサイトへ
      1915/3 末 京都旅行。5度目の胃潰瘍で病臥情報源のサイトへ
      1915/9 『朝日新聞』/情報源のサイトへ
      1916 糖尿病にも悩まされる。情報源のサイトへ
      1916 カテゴリ: 夏目漱石 | 日本の小説家 | 日本の文芸評論家 | イギリス文学者 | 俳人 | 日本の漢詩人 | 明治時代の人物 | 紙幣の人物 | 朝日新聞社の人物 | 東京都出身の人物 | 1867年生 | 1916年没情報源のサイトへ
      1916/4 糖尿病の診断下る。真鍋嘉一郎の治療を受ける情報源のサイトへ
      1916/5/26 「明暗」(〜情報源のサイトへ
      1916/12 『朝日新聞』/情報源のサイトへ
      1916/12/9 日本の小説家、評論家、英文学者。本名、金之助情報源のサイトへ
      1916/12/9 死去 『明暗』は未完に終わる情報源のサイトへ
      1916/12/9 胃潰瘍の悪化により、「明暗」執筆途中に死去。情報源のサイトへ
      1916/12/14 「明暗」の連載が終了する。情報源のサイトへ
      1916/12/28 雑司ヶ谷墓地で埋骨式。情報源のサイトへ

あしたね年表について

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