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正岡子規(まさおかしき)
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| 年月日 | できごと | 写真 |
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| 1867/9/17 |
正岡子規(1867年9月17日〜
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| 1872/1/24 |
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| 1872/4 |
父・常尚が死去
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| 1875/1 |
勝山学校(現・松山市立番町小)へ転校
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| 1875/4/11 |
正岡子規の祖父・大原観山が永眠しました。(享年58歳)
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| 1881/10 |
「国会開設の詔」が発せられ
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| 1881/10/29 |
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| 1882/9 |
高知の立志社、徳島の自助社から自由党員が松山で演説会を開きます。
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| 1883 |
改称)を退学し, 東京の共立学校(開成高校の前身。同期 に正岡子規)に転学
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| 1884/9 |
東京大学予備門(のち第一高等中学校 )へ入学。 |
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| 1886/4/14 |
「七変人」の一人、清水則遠が脚気衝心で急死してしまいます。
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| 1887/10 |
開通した。ひところをおもうと、信じられぬほどの便利さであった
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| 1888 |
旧制伊予尋常中学に入学し、1歳年上の河東碧梧桐(俳人・学生時代、虚子と共に子規から俳句を教わる。俳句界で新傾向俳句などを推し進めた人物)と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わり
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| 1888/7 |
第一高等中学校予科卒業
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| 1889 |
子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、明治22年
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| 1889 |
喀血してやめるまでやっていた。ポジションは捕手であった
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| 1889/5 |
喀血。初めて「子規」と号す
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| 1889/5/9 |
夜、正岡子規は常盤会寄宿舎で血を吐きます。
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| 1890 |
である。つまり、「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬庚であるが、読み方は異なるが「野球」という表記を最初に行い、さらに「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」と日本語に訳したのは正岡子規である
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| 1890 |
正岡子規と五百木瓢亭との共同作業で収拾した、江戸時代以前の古書から富士山に関する記述を抜粋し書き写したものです。
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| 1890 |
『富士のよせ書』とは、1890年
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| 1890/7 |
正岡子規とともに第一高等中学校第一部本科を卒業。
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| 1891 |
夏、正岡子規が木曽路を経て美濃伏見から舟で木曽川を下り、北方で下船、木曽川停車場から汽車に乗るつもりで駅前の茶店で休憩をします。この時の思いでを
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| 1892 |
帝国大学を突如退学します。
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| 1892 |
正岡子規は1892年
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| 1892 |
(1892)日本新聞社に入社、「日本」紙上を中心に文学活動を行い、俳句、短歌の |
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| 1892/5 |
で開園130周年を迎える東京・上野公園内に「正岡子規記念球場」 |
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| 1892/7 |
正岡子規と京都から堺の旅。
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| 1892/8 |
松山に正岡子規を訪ね、高浜虚子に会った。
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| 1895/19 |
子規は漱石とも別れて松山を発った。帰郷するつもりであったが、まっすぐにはもどらず上方のあちこちを見ようとおもった
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| 1895/3/3 |
正岡子規は |
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| 1895/4/10 |
正岡子規は |
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| 1895/5 |
帰国途上の船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院。須磨で保養した後松山に帰郷し、当時松山中学校に赴任していた親友 |
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| 1895/7/23 |
正岡子規は神戸病院を退院して須磨保養院に移りました。
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| 1895/10/19 |
松山を発った正岡子規は
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| 1895/10/22 |
から新聞「日本」で俳句への修学課程を説いた『俳諧大要』の連載をはじめます。要するにちゃんと仕事もこなしていました
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| 1895/10/26 |
から奈良を旅しこの句を読んだのにちなみ、現在は
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| 1895/10/26 |
を「柿の日」と制定しているそうです。
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| 1895/10/31 |
東京に戻るまでの約2週間、広島、須磨、大坂を経て奈良で遊ぶとなりますが
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| 1896 |
結核菌が脊椎を冒し脊椎カリエスを発症していると診断される。以後床に伏す日が多くなり、数度の手術も受けたが病状は好転せず、やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになった
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| 1896 |
俳句界」を連載しますが、その中で、露月を、河東碧梧桐、高浜虚子に続く異才であると書
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| 1897/1/15 |
正岡子規の故郷松山で俳句雑誌「ほとゝぎす」が創刊されました。
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| 1898 |
『歌よみに与ふる書』(正岡子規 まさおか しき
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| 1899 |
病床の子規には、大好きな庭を見るにしても、上野の山を望むにしても、いちいち障子を開けてもらわはなければならなかったが、1899年
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| 1899/3/14 |
正岡子規は根岸の子規庵で歌会を催しました。子規はこの歌会を開くにあたり、出席を依頼する「はがき歌」を送っています
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| 1899/7 |
子規が発表した小作品「旅」の中に記しています。
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| 1899/7/7 |
月明に
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| 1899/12/1 |
12月1日~
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| 1899/12/3 |
まで名古屋古書会館で開催される古書即売会「名鯱会」に行ってきました。今回購入した古書は以下の三点です
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| 1899/12/3 |
会/昭13刊)
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| 1899/12/10 |
ごろ、この病床生活に一大変化が生じます。
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| 1899/12/26 |
東京・上野公園にある「正岡子規記念球場」で、明治時代の野球を再現した「の・ボール」大会が開かれたようです。
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| 1900 |
(明治33)正岡子規の門に入る。子規没後, 伊藤左千夫らと『馬酔木』を出し, 後に『アララギ』の同人となる
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| 1900/8 |
大量の喀血
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| 1901/1/16 |
正岡子規は新聞「日本」に「墨汁一滴」の連載を開始します。
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| 1901/2/28 |
子規門人である「根岸短歌会」の伊藤左千夫、香取秀真、岡麓らが子規庵を訪ねます。
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| 1902 |
本日
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| 1902 |
カテゴリ: 歌人 | 俳人 | 明治時代の文学 | 新聞「日本」の人物 | 野球殿堂 | 野球に関連する人物 | 愛媛県の歴史 | 愛媛県出身の人物 | 1867年生 | 1902年没
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| 1902 |
が大の野球好きだったのは有名な話。子規が亡くなるまで野球を楽しんだのが、上野公園だった
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| 1902/7 |
月明に
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| 1902/3/8 |
「東京新聞」より)
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| 1902/5 |
訪ねた大龍寺のことを思い出しながら読んでみました。
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| 1902/6/6 |
続いて紹介されて読んだ本。明治人のお葬式
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| 1902/6/7 |
より
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| 1902/6/27 |
正岡子規は画帳に青梅を写生します。
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| 1902/9/7 |
月明に”
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| 1902/9/7 |
月明にと、虚子が口ずさんだのは、このときであった。即興だが、こしらえごとでなく、子規がその文学的生命をかけてやかましくいった写生を虚子はいまおこなったつもりだった
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| 1902/9/19 |
を「糸瓜忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。
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| 1902/9/19 |
(1867~1902)
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| 1902/9/19 |
旧暦の十七夜にあたっていた。(中略)その板塀のあかるさのなかを、何物かが動いて流れてゆくような気が、一瞬した
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| 1902/9/19 |
正岡子規の命日。
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