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梶原景季(かじわらかげすえ)

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年月日 できごと 写真
1180 源頼朝は挙兵するが、石橋山の戦いで大敗を喫した。平家方で参戦していた父の景時は頼朝の命を救い、後に頼朝が再挙して鎌倉に入り、関東を制圧すると景時は頼朝に臣従して御家人に列し、重用された 情報源のサイトへ /photo151351.jpg /yoritomo.jpg /isibasiyama1.jpg /011_ishibashiyama_war_small.jpg
1181 景季は弓箭に達する者として、北条義時、和田義茂、葛西清重、三浦義連ら有力御家人の子弟とともに頼朝の寝所を警護する武士に任じられる。 情報源のサイトへ
1182 懐妊した御台所北条政子の産所への移転に供奉し、若公(頼家)を無事出産すると護刀を父景時とともに献上した。政子の妊娠中に頼朝がひそかに愛妾・亀の前のもとへ通っていたことが発覚し、激怒した政子が牧宗親に命じて亀の前の屋敷を打ち壊し、激怒した頼朝は牧宗親を罰するが、これを怒った政子の父の北条時政が伊豆国へ引き揚げてしまう事件が起きた 情報源のサイトへ /080410-3.jpg /UNI_04881.jpg
1184 (1184)正月 木曾義仲との戦いにおいて、土肥次郎実平とともに軍監に任じられた。 子息梶原景季の武勇伝 情報源のサイトへ
1184 正月、平家を打ち破って京を支配していた源義仲と頼朝が対立し、頼朝は弟の範頼と義経を近江国へ派遣。景時・景季父子はこれに従った 情報源のサイトへ /09.jpg /takayoshishinnou020504c.jpg
1184/2/5 一の谷合戦 大手の範頼軍の軍監として参戦。 生田の森に取り残された子息梶原景季を救出するために 二度にわたって敵陣に切り込んだ (梶原が二度の懸カケ『平家物語』巻九) 情報源のサイトへ
1185/3 平家を滅ぼした。『平家物語』『源平盛衰記』などによれば、この際に景時は逆櫓論争や先陣争いで義経とことごとく対立して深く遺恨を持ったとされる 情報源のサイトへ
1185/8 中旬には時忠・時実を除く7名が配地に下るが、時忠・時実は義経の庇護を受けて都に残留していた。義経の動きに不信感を抱いた頼朝は、梶原景季を派遣して時忠・時実がいまだに在京していることを咎め、朝廷には配流の速やかな執行を言上した(『吾妻鏡』 情報源のサイトへ
1185/9 景季は義勝房尋とともに頼朝の遣いとして上洛した。目的は勝長寿院供養の道具を求め、併せて平家残党の配流を朝廷に促すためだが、同時に義経へ叔父の行家を追討するよう頼朝の命を伝えることになっていた 情報源のサイトへ
1189 その後、義経と行家は挙兵するが失敗し、義経は奥州藤原氏のもとへ逃れるが、文治5年 情報源のサイトへ
1189 平泉で自害した。 情報源のサイトへ
1189/7 頼朝は奥州藤原氏討伐のため大軍を率いて鎌倉を進発。景季は父や弟たち一族とともに従軍した 情報源のサイトへ
1190 頼朝が上洛すると景季もこれに供奉している。 情報源のサイトへ
1193 甲斐源氏の安田義定の子の義資が上皇の女房へ艶書を投げ込む事件が起きた。女房所は後難を恐れてこれを秘匿していたが、景季の妾の龍樹の前がこれを語り、景季が景時へ伝えた 情報源のサイトへ
1199 正月に頼朝が死去すると梶原一族の運命は暗転。 情報源のサイトへ
1199/11 景時は三浦義、和田義盛ら御家人66人の連名の弾劾を受けて、鎌倉から追放され、所領の相模国一ノ宮へ退いた。 情報源のサイトへ
1200 カテゴリ: 平安時代の武士 | 鎌倉時代の武士 | 梶原氏 | 1162年生 | 1200年没 情報源のサイトへ
1200 正月、景時、景季は一族とともに相模国一ノ宮を出て上洛を企てた。途中、駿河国清見関で在地の武士と諍いになり、弟たちは次々と討ち死にしてしまった 情報源のサイトへ

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