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桓武天皇(かんむてんのう)

 

空海(くうかい)

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桓武天皇(かんむてんのう)と空海(くうかい)に関する本・DVD

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桓武天皇   空海
年月日 できごと   年月日 できごと
737 桓武天皇は白壁王(のちの光仁天皇)の第一皇子として天平9年情報源のサイトへ      
737 産まれた。母の高野新笠は、百済の武寧王を祖先とする百済王族の末裔と続本紀に記されている情報源のサイトへ      
773 父の白壁王の即位後も母の高野新笠が身分の低い帰化氏族和氏出身であったため、立太子は望まれておらず、当初は官僚としての出世を目指しており、侍従・大学頭・中務卿などを歴任していた。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争によって異母弟である前皇太子他戸親王とその母であった皇后井上内親王が突如廃されて宝亀4年情報源のサイトへ      
773/1/2 立太子。情報源のサイトへ      
      774 讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれた。父は郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀氏、幼名は真魚[1]情報源のサイトへ
      774/6/15 するが、これは中国密教の大成者である不空三蔵の入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承によるもので、正確な誕生日は不明である[2]。情報源のサイトへ
781/4/15 即位。平城京における奈良仏教各寺の影響力の肥大化を厭い、山城国への遷都を行った情報源のサイトへ      
781/4/30 在位期間:781年4月30日 -情報源のサイトへ      
784 長岡京を造営するが情報源のサイトへ      
785 流罪とし配所で死なしめたという暗い面も持ち合わせた。怨霊を恐れ情報源のサイトへ      
      789 15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章等を学んだ。情報源のサイトへ
      792 18歳で京の大学寮に入った。大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書等を学んだと伝えられる情報源のサイトへ
      793 大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。御蔵洞高知県室戸市)で修行をしている時、口に明星が飛び込んできて悟りを開いたといわれている情報源のサイトへ
      793 20歳にして勤操を師とし槇尾山寺で出家した、という説、あるいは25歳出家説が古くからとなえられていたが、現在では情報源のサイトへ
      793 空海の得度に関しては、延暦12年情報源のサイトへ
794 改めて平安京を造営した。また東北地方を侵略し蝦夷を服属させるため、坂上田村麻呂を征夷大将軍とする軍を送った情報源のサイトへ      
      797 『三教指帰』の初稿本に当るもので、2巻存し、入唐前、延暦16年情報源のサイトへ
      797 24歳頃の書といわれる。書はやや硬いが筆力があり、後の風信帖に見られる書風とは異なる情報源のサイトへ
800/7/19 早良親王を崇道天皇と追号し、井上内親王の墓を山陵と追称し、皇后の位を復した。情報源のサイトへ      
      804 入唐直前31歳の年に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されている。また空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではない情報源のサイトへ
      804 正規の遣唐使の留学僧(留学期間情報源のサイトへ
      804/8/10 長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる情報源のサイトへ
      804/11/3 長安入りを許され情報源のサイトへ
      804/12/23 長安に入った。情報源のサイトへ
      805/2 西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。情報源のサイトへ
      805/5 なると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。情報源のサイトへ
      805/6/13 大悲胎蔵の学法灌頂情報源のサイトへ
      805/7 金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている情報源のサイトへ
      805/8 中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。また恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた情報源のサイトへ
      805/8/10 伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇する真言として唱えられるようになる情報源のサイトへ
      805/12/15 恵果和尚が60歳で入滅。情報源のサイトへ
806 カテゴリ: 日本の天皇 | 飛鳥・奈良時代の皇族 | 平安・鎌倉時代の皇族 | 大和国の人物 | 山城国の人物 | 京都府の歴史 | 京都市の歴史 | 737年生 | 806年没情報源のサイトへ      
      806/1/17 空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。情報源のサイトへ
      806/3 長安を出発し情報源のサイトへ
      806/3 桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していた。情報源のサイトへ
806/3/17 崩御。情報源のサイトへ      
806/3/30 〉)は、日本の第50代の天皇である。名は山部(やまべ)情報源のサイトへ      
      806/4 に到り4か月滞在した。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典等を収集した情報源のサイトへ
      806/8 を出航して、帰国の途についた。情報源のサイトへ
      806/10 帰国後は、入京の許しを待って数年間太宰府に滞在することを余儀なくされた。情報源のサイトへ
      806/10/22 付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論等216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物等々膨大なものである情報源のサイトへ
      809 平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位した。空海は、まず和泉国槇尾山寺に滞在し情報源のサイトへ
      809/7 太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入った。情報源のサイトへ
      810 薬子の変が起こったため、鎮護国家のための大祈祷を行った。情報源のサイトへ
      812 かけて乙訓寺の別当を務めた。情報源のサイトへ
      812 頃とされている。第1通目は情報源のサイトへ
      812 年号は不明であるが、仁3年情報源のサイトへ
      812/6/15 」とするのは、頼瑜情報源のサイトへ
      812/9/13 付で「忽披枉書」の書き出し。書風は精気があり、また情緒もある情報源のサイトへ
      812/12/14 胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範の他190名にのぼった情報源のサイトへ
      813 かけて、空海が高雄山寺で金剛・胎蔵両界の灌頂を授けた時の人名を記録した手記である。処々書き直しているが、筆力、結構ともに流露している情報源のサイトへ
      815 春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩(基徳の誤記か?)などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼した。また時を同じくして西国筑紫へも勧進をおこなった情報源のサイトへ
      816 初頭頃には訣別するに至る。なお二人の訣別に関しては、古くから最澄からの理趣釈経(「理趣経」の注釈書)の借覧要請を空海が拒絶したことや、最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題があげられる情報源のサイトへ
      816 しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、仁7年情報源のサイトへ
      816/6/19 修禅の道場として高野山の下賜を請い情報源のサイトへ
      816/7/8 高野山を下賜する旨勅許を賜る。翌情報源のサイトへ
      817 泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の創に着手し情報源のサイトへ
      818/11 空海自身が勅許後はじめて高野山に登り情報源のサイトへ
      819 春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。情報源のサイトへ
      819/10/30 まで滞在した。情報源のサイトへ
      821 満濃池(まんのういけ、現在の香川県にある日本最大の農業用ため池)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた。情報源のサイトへ
      821/11/30 平城上皇に潅頂を授けた。情報源のサイトへ
      822 太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。情報源のサイトへ
      823 正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。後に天宗の密教を密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになる情報源のサイトへ
      824/2 勅により神泉苑で祈雨法を修した。情報源のサイトへ
      824/3 少僧都に任命され、僧綱入り情報源のサイトへ
      827 大僧都)。情報源のサイトへ
      827/6 造東寺別当。情報源のサイトへ
      827/9 高雄山寺が定額寺となり、真言僧14名を置き、毎年年分度者一名が許可となった。情報源のサイトへ
      828 『綜藝種智院式并序』を著すとともに、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設。当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であった情報源のサイトへ
      830 淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』十巻、『秘蔵宝鑰』三巻を著した。情報源のサイトへ
      831 病を得た以降の空海は、文字通りみずからの命をかけて真言密教の基盤を磐石化するとともに、その存続のために尽力した。とくに情報源のサイトへ
      831/5 末、病(悪瘡といわれている)を得て情報源のサイトへ
      831/6 大僧都を辞する旨上表するが、天皇に慰留された。情報源のサイトへ
      832/8/22 高野山において最初の万燈万華会が修された。空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と想いを表している情報源のサイトへ
      834/2 東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じた。情報源のサイトへ
      834/12 から入滅までの3ヶ月間は、後情報源のサイトへ
      834/12/7 御修法が申請から10日間で許可されその情報源のサイトへ
      834/12/10 修法、また年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とするなど、密度の濃い活動を行った。すべてをやり終えた後に入定、即ち永遠の禅定に入ったとされている情報源のサイトへ
      834/12/19 毎年正月宮中において真言の修法(後情報源のサイトへ
      834/12/24 太政官符では東寺に三綱を置くことが許されている。情報源のサイトへ
      835 没 | 弘法大師伝説情報源のサイトへ
      835/1/7 御修法を修す。宮中での御修法はこれより明治になるまで続き、明治以後は東寺に場所を移して今も行われている情報源のサイトへ
      835/1/8 より宮中で後情報源のサイトへ
      835/1/22 真言宗の年分度者3人を申請して許可されている。情報源のサイトへ
      835/2/30 金剛峯寺が定額寺となった。情報源のサイトへ
      835/3/15 高野山で弟子達に遺を与え情報源のサイトへ
      835/3/21 入滅した。享年62(満60歳没)情報源のサイトへ
      835/4/22 〈新暦〉)情報源のサイトへ

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