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年表トップ > 桂太郎と井上馨の年表を比べる

ウェブサイト上の情報を調べて見出し情報をまとめた検索結果ページです。事実が正確に並べられた年表ではありませんのでご注意下さい。

桂太郎(かつらたろう)

 

井上馨(いのうえかおる)

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桂太郎(かつらたろう)に関する本・DVD

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桂太郎   井上馨
年月日 できごと   年月日 できごと
      1836/1/16 周防国湯田(現在の山口市湯田)で萩藩士の井上光亨の次男としてに生まれる。100石取りの家柄であったが実際に は情報源のサイトへ
1848/1/4 桂 太郎/桂 清澄(かつら たろう/かつら きよずみ、1848年1月4日情報源のサイトへ      
      1851 (16歳) 兄の幾太郎と共に藩校の明倫館に通学。に古屋を借り自炊生活をする(山口からまで直線距離で約25Kmある)情報源のサイトへ
      1855/1/24 藩士志道しじ慎平の養子となり文之輔と改め、惟精と名づく。志道家の娘との間に長女芳子の名が見られる情報源のサイトへ
      1855/9/2 藩主の参勤に従い初めて江戸に出る情報源のサイトへ
      1855/10/3 着)。毛利家の上屋敷である櫻田邸内の有備館に寄宿した情報源のサイトへ
      1855/10/6 位であった)情報源のサイトへ
      1855/10/20 程度、最急行では15情報源のサイトへ
      1856/2/19 藩主と共に帰国し情報源のサイトへ
      1856/3/18 萩に到る。情報源のサイトへ
      1857/10/5 江戸に到る。情報源のサイトへ
      1858 (23歳) 江戸において岩屋玄蔵に蘭学を学び、砲術修行のため江川太郎左衛門の塾に入門。剣術を齋藤弥九郎の塾に学んだ情報源のサイトへ
      1860 (25歳) 藩主より聞多の名を賜る。情報源のサイトへ
      1860/3/12 井上は海外の兵法を学ぶ為にもオランダ語を学びたいと申し出て藩政府より蘭学修業を許された。情報源のサイトへ
      1860/4/26 藩主敬親に従い帰国。情報源のサイトへ
      1861/9/19 藩主敬親の公武合体案を幕府に進言するための出府に従い情報源のサイトへ
      1861/11/13 江戸に到着。情報源のサイトへ
      1862/1/20 頃、上京していた佐久間象山を三条池田屋に訪れて意見を聞き、海軍興隆の意思を固めその学術研究の為に洋行の希望を抱くようになった。情報源のサイトへ
      1862/1/22 佐久間象山との邂逅で情熱をかきたてられ、藩主毛利敬親父子に許可を請うたところ、敬親は「かかる事柄は(ご禁制であるから)直接に請願すべきものでない」旨を諭したのみで、別に不同意の様子は見られなかった。そこで、藩政府幹部に懇請したところ、周布政之助、林主悦、毛利登人(1821-1864斬罪)、桂小五郎等も人を海外へ派遣することは予て考慮していた所であるので井上の希望を容れる事になった情報源のサイトへ
      1862/2/2 毛利定広の命により、脱藩していた高杉晋作を召還するため江戸に向かう。情報源のサイトへ
      1862/4/18 井上、山尾、野村の3名、藩主より洋行の内命を受ける。情報源のサイトへ
      1862/5/7 英国領事ガワーを訪ね洋行の志を述べ周旋を依頼する。ガワーからは船賃が700ドル(約400両)1年間の滞在費を含めると千両は必要と聞かされる情報源のサイトへ
      1862/5/10 長州藩は率先して攘夷を実行した日であった。即ち、関門海峡を通過しようとしたアメリカ汽船に対して外国船砲撃の第一発を放ち、ついで情報源のサイトへ
      1862/5/12 ガワー総領事の斡旋でジャーディン・マセソン社の船で横浜を出港し、上海に向かう。同行5名は年齢順に年長から、井上聞多(満27歳)、遠藤謹助(27歳)、山尾傭三(1837-1917 25歳)、伊藤俊輔、野村弥吉である情報源のサイトへ
      1862/5/18 頃 上海に到着。ジアーディン・マジソン社の支社長に面会した情報源のサイトへ
      1862/5/26 オランダ軍艦を砲撃した。情報源のサイトへ
      1862/6/6 藩主の入京に従い中山道を経て情報源のサイトへ
      1862/7/25 藩主敬親の養嗣定広(1839-1896)の小姓役を命ぜられ情報源のサイトへ
      1862/8/19 より江戸在勤となる。攘夷には強力な海軍力が必要と訴え、海軍研究の為、長嶺内蔵太、大和弥八郎と共に、英語修業を命ぜられる情報源のサイトへ
      1862/9/2 長州藩は英国の汽船を購入。壬戌丸と名付けられた情報源のサイトへ
      1862/9/23 井上ら5名はロンドンに到着。情報源のサイトへ
      1862/11 襲撃計画に関与した者は7日間の遠慮(軽い謹慎刑)に処せられた。情報源のサイトへ
      1862/11/11 高杉晋作、久坂玄瑞ら同志と金澤(金澤八景)での外国公使刺殺を図った。しかし久坂が土佐市半平太に話したことから、これが無謀であるとして山内容堂を通して毛利定広に伝わり実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる情報源のサイトへ
      1862/12/12 高杉、井上、伊藤ら御楯組の12名は品川御殿山英国公使館焼討ちを決行。犯人は発覚しなかった情報源のサイトへ
      1862/12/25 井上は襲撃の後患を恐れ京都に向かう。情報源のサイトへ
      1863 志道家を離れて井上姓に復し,伊藤博文らとイギリスへ留学したが,4国艦隊下関砲撃計画を知って帰国。砲撃事件後,和議成立に尽力し,また藩政権を握っていた恭順派を破り藩情報源のサイトへ
      1865 (1865) 正月 山口鴻城軍総督に。情報源のサイトへ
      1865 坂本龍馬の仲介で薩摩藩と同盟し(薩長同盟)、第2次長州征伐で幕府軍に勝利した。情報源のサイトへ
      1865/1/2 高杉晋作、奇兵隊を率いて下関新地会所(藩の出先施設)を襲う。井上は奇兵隊の山口鴻城軍総督になる情報源のサイトへ
      1865/2/22 長州藩の藩是は一本化し藩主父子による祖先の黄檗宗東光寺墓参をもって新たな時代が始まった。情報源のサイトへ
      1865/4 中旬 井上は楊井謙蔵と共に外国人応接を命ぜられる。下関開港に尽力していた井上、伊藤、高杉らを暗殺する謀議があり別府に逃げる情報源のサイトへ
      1865/5 上旬 この時期、坂本龍馬(変名才谷梅太郎)、中岡慎太郎(1838-1867 変名石川清之助)が薩摩長州を結びつける為に、大宰府で5人の公卿等に面談。その折長州藩の小田村素太郎、時田少輔に会い、彼等が下関で桂小五郎、井上、伊藤らに伝えた情報源のサイトへ
      1865/5/1 下関に行き、桂は藩主毛利敬親の指示で山口から下関に戻り情報源のサイトへ
      1865/7 薩長両藩の融和を謀り、また軍艦購入の為に長崎に赴いた時、薩藩士として)情報源のサイトへ
      1865/7/16 井上と伊藤は薩摩藩の名を借りて汽船と小銃購入の為長崎に行く。情報源のサイトへ
      1865/7/17 大宰府着情報源のサイトへ
      1865/7/18 三条ら公卿(京都を落延びた5廷臣三条実美、東久世通禧、西三条季知、四条隆謌、)に会う。情報源のサイトへ
      1865/7/28 薩摩藩士小松帯刀(1835-1870)に同伴し鹿児島着。井上は薩船に乗り情報源のサイトへ
      1865/8/26 長崎で小銃を積込み情報源のサイトへ
      1865/8/27 三田尻に到着。情報源のサイトへ
      1865/12 この別称は藩主の許可を受けた別名)、奈良屋文七(土方人足として別府潜伏時)情報源のサイトへ
      1866/4 坂本龍馬ら一行が大阪に到着。薩摩藩邸に滞在し小松帯刀、大久保一蔵、西郷吉之助、村田新八らと懇談を重ねる情報源のサイトへ
      1866/3/13 高杉は機を見て海外に渡航したいと願い、実際は長崎で留まっていたが、上海で伊藤を待つという設定で、井上が桂に相談して藩費での渡航費を捻出する許可を得たが、高杉は幕府軍が迫るという報道を得て急遽中止にした。情報源のサイトへ
      1866/4/18 荷御用となり、下関伊崎・竹崎農兵管轄を命ぜられる。情報源のサイトへ
      1866/6/17 阿武郡参謀に任ぜられ、戦地石見益田(石口方面)に赴く。情報源のサイトへ
      1866/7/6 安芸亀尾川口参謀兼任を命ぜられる。情報源のサイトへ
      1866/7/28 折敷畑にて幕軍を破る。情報源のサイトへ
      1866/9/2 井上は広沢兵助(1834-1871暗殺)、太田市之進(1841-1871)、長松文輔らと共に嚴島の大願寺に着き、幕使勝安房と会見し、講和をさぐる。勝は「慶喜は列侯を京都に会し衆議公論の帰する所に拠って大政を更新し、海外諸国はわが国の隙を狙っているから争いを止めて、、、」と述べ結局、幕府軍の撤収にあたって追撃しないという事になった情報源のサイトへ
      1866/12/29 英国公使ハリー・パークス(1828-1885)はキング提督に長州藩を訪問させる事とし、井上らは三田尻で迎え饗応し、翌日停泊する英国艦提督室で毛利敬親父子との会見が実現した。この時井上と遠藤謹助が通訳をした情報源のサイトへ
1867 史叢書」のちオンデマンド版 原書房 情報源のサイトへ      
      1867/1/3 井上と遠藤はキング提督の艦艇で兵庫に到着。情報源のサイトへ
      1867/1/14 京都に入り、品川弥二郎薩摩藩の西郷大久保らと密議し情報源のサイトへ
      1867/1/23 大阪へ。情報源のサイトへ
      1867/6/29 井上は木戸孝允と薩長同盟に安芸を加える相談をする。情報源のサイトへ
      1867/9/20 成立。情報源のサイトへ
      1867/10/10 井上は藩主からの密命を持って太宰府に行き、三条ら公卿に会い、時期を見て京都へ帰ることに成る旨を伝えた。情報源のサイトへ
      1867/10/13 薩摩藩に倒幕の密勅を下す。(在京の薩摩藩幹部は倒幕で結束していたが、国許では情況は不確定な為に密勅が出たものである)情報源のサイトへ
      1867/11 下旬から薩摩軍の藩船が三田尻を経由して続々海路を目指した。情報源のサイトへ
      1867/12/28 を期して京都に兵力を投入する事になり情報源のサイトへ
      1868 九州鎮撫総督の参謀をへて新政府の官界に入る。造幣頭などをへて大蔵大輔となり財政に力を入れた情報源のサイトへ
      1868 (33歳) 情報源のサイトへ
      1868/1/29 九州鎮撫総督の参謀となり、長崎へ赴任。総督は澤宣嘉情報源のサイトへ
      1868/8/30 新田義貞の末裔武子と結婚。(結局、武子との間に子供は生まれていない情報源のサイトへ
      1868/9 より明治と改元)情報源のサイトへ
      1868/9 産業奨励の為、東京市民への貸付制度をつくり翌情報源のサイトへ
      1868/9/16 娘・聞(ぶん)誕生(母は祇園の芸者倉治つね子)、磯野小右衛門の養女となったが、後に井上姓へ戻る。情報源のサイトへ
      1869/2/22 井上と伊藤の提案により通商司が創設された。商工司は機能を発揮出来なかった為廃止情報源のサイトへ
      1869/3/3 伊藤宛に通貨下落についての対策・意見を述べて金札と正金との交換を許すべきと主張。情報源のサイトへ
      1869/3/7 大阪にて参与副島種臣に面談し、意見十箇条の中で「機械類を輸入に頼るのは禁止して横須賀長崎で作るべきであり、それについては横須賀の山尾庸三にすべて任せてくれれば死力を尽くす」また「金札は正金と引き換えるべき」と意見を述べている。情報源のサイトへ
      1869/3/12 岩倉具視より呼び出しがあり情報源のサイトへ
      1869/3/27 面談。岩倉は政府財政の窮状を語り、井上は一策を建言した情報源のサイトへ
      1869/5/16 通商司の権限を定める。通商会社の設立を奨励・支援する情報源のサイトへ
      1869/8/18 造幣頭の専任となる。情報源のサイトへ
      1869/10/12 民部大亟兼大蔵大亟に任ぜられる。情報源のサイトへ
1870 私費でドイツに留学し軍事学を研究情報源のサイトへ   1870 頃 二郎情報源のサイトへ
      1870/11/12 大蔵少輔となる、造幣頭兼任。情報源のサイトへ
      1871 私有財産の差押さえを受け、井上の知人に払い下げられた。この件について、井上馨に反発する当時の江藤新平法務大臣の意を汲む者等に利用され世間に疑獄であると印象付けた情報源のサイトへ
      1871 既に断髪廃刀の令が下されたのは、それより以前の1871年情報源のサイトへ
      1871 8月9日でしたが、士族も町民も丁髷を斬るのは指を斬られるより辛い事でした。何しろ千何情報源のサイトへ
      1871/2/13 薩・長・土の藩兵を東京に集結させ、この軍事力を背景に施策を推し進めた。情報源のサイトへ
      1871/4/23 九州鎮撫の為に西海道鎮台設置(本営は小倉、分営は博多・日田に置く)、東北には東山道鎮台(石巻、分営は福島盛岡)を設置した情報源のサイトへ
      1871/6 伊藤博文米国より帰国し、1.金本位制、2.金札引換公債証書の発行、3.ナショナル・バンクの設立を建白。吉田清成(1845-1891)の主張するイギリスの制度と伊藤の報告するアメリカの制度のどちらを採用するか議論となったが、井上と渋沢栄一の判断で、結局アメリカの制度に習う事になった情報源のサイトへ
      1871/6/25 大蔵少輔兼造幣頭を免ぜられる。:木戸は参議主任、大久保は大蔵卿になる情報源のサイトへ
      1871/6/29 制度取調専務を仰せ付けられる。情報源のサイトへ
      1871/7/28 大蔵大輔に任ぜられる。(民部省廃止)情報源のサイトへ
      1871/9/4 収入額が不明な情況で大久保が山県有朋の所管する陸・海軍の支出を決めた事について渋沢栄一・谷鉄臣・安場保和・渡辺清・岡本健三郎ら大蔵大丞は、予算は収支をあわせ論ずるのが筋であると大久保に言った事から大久保は激怒。渋沢栄一は辞表を井上に持参したが、井上は「間も無く大久保の外遊があるから待て」と慰留している情報源のサイトへ
      1871/10 産業奨励の為長崎県下の民間会社に資本金10万円を貸付。情報源のサイトへ
      1871/10/8 岩倉具視全権大使、木戸孝允大久保利通を副使として欧米派遣を命ぜられる。派遣の趣旨は幕末に締結された通商条約が情報源のサイトへ
      1871/11 岩倉特命全権大使一行が欧米各国を歴訪した折、耶蘇教禁止令が各国の非難をあびた。情報源のサイトへ
      1871/12/26 井上が関与していたとされる尾去澤おさりざわ銅山事件の裁判が終結。情報源のサイトへ
      1871/12/29 (40歳) 元老院議官となる。情報源のサイトへ
      1872 正月に教徒赦免の建議をし情報源のサイトへ
      1872 井上は大蔵大輔の職にあったが、長崎府庁在任時に関わった事から情報源のサイトへ
      1872/7/25 井上は山口県令として部下の俊才・七等出仕中野梧一を指名した。全国で最初の地租改正を実施情報源のサイトへ
      1872/9/1 第一国立銀行設立を建議。情報源のサイトへ
      1872/10/3 母婦佐子没。情報源のサイトへ
      1873 禁制の高札を除去し、各藩に移住させられた教徒は帰した。情報源のサイトへ
      1873 (1873) 渋沢栄一とともに大蔵省を辞任。情報源のサイトへ
      1873 明治初年、官職が率先して全員の丁髷(ちょんまげ)を斬り洋服に改めたいという服制改革の先頭を切ったのは、大阪の造幣寮(現在の造幣局)であり、1873年情報源のサイトへ
      1873/2/9 出来事でした。情報源のサイトへ
      1873/2/25 政府は悪貨に対処すべく福井藩士三岡八郎と小原二兵衛を参与兼会計事務局判事とし起用した。情報源のサイトへ
      1873/4/3 大阪へ出張、副総裁三条実美の宿舎にてキリスト教徒に関し外国公使と折衝。情報源のサイトへ
      1873/4/11 京都へ出張し木戸と打合せを為す。(耶蘇教問題と贋造貨幣問題を協議)情報源のサイトへ
      1873/4/21 官制を変更。3職8局を廃止、太政官に7官(議政・行政・神祗・会計・軍務・外国・刑法)を置き、立法・行政・司法の3権を規定した情報源のサイトへ
      1873/4/25 商工業を奨励するため、商法司を会計官中に設ける。情報源のサイトへ
      1873/4/29 図書館所蔵情報源のサイトへ
      1873/5 新政府の財政窮乏に対処すべく太政官札(金札)を発行するが、流通悪く、価格は下落を続ける。情報源のサイトへ
      1873/5 井上は長崎に於ける外国官吏に対する接遇の式法を制定。情報源のサイトへ
      1873/5/3 井上馨辞職。財政上の意見を異にして、渋沢栄一と共に意見書を提出した情報源のサイトへ
      1873/5/4 長崎裁判所を長崎府庁と改める。澤総督は長崎府知事となり、井上は長崎府判事兼外国官判事に任命された情報源のサイトへ
      1873/6/19 長崎府製鉄所御用を命ぜられる。情報源のサイトへ
      1873/6/29 第三国立銀行認可するも、発起人内の意見対立で開業に至らず。情報源のサイトへ
      1873/7 貿易商は届け出制により鑑札を受ける事。貿易税として価格の0.5%、兵器は3%を収納すべしと決定情報源のサイトへ
      1873/7/17 江戸を改め、東京と称す。情報源のサイトへ
      1873/7/19 井上は奥羽制圧の為、兵員の輸送の他、軍資金の確保と兵器の補給に忙殺された。兵員については、長崎で守備にあたっていた振遠隊318名と島原藩兵を含め第一陣の550人を英国汽船フィーロン号に乗船させ東北の戦線に送り出した情報源のサイトへ
      1873/7/24 秋田船川港に上陸し情報源のサイトへ
      1873/7/26 秋田城下に入った。その後第2陣、第3陣と続き、秋田での各藩からの征討軍は3千人に及んだ情報源のサイトへ
      1873/8 天草県肥後一円、筑前怡土郡を直轄区域にした。情報源のサイトへ
      1873/10 第二国立銀行設立。この銀行は横浜為替会社の転業が認められたことによる情報源のサイトへ
1874 結婚情報源のサイトへ      
      1874/11 小野組の破産。情報源のサイトへ
      1874/12/15 期日を指定しての適用で破綻に至った。情報源のサイトへ
1875 ドイツ公使館付武官として軍政研究に従事。情報源のサイトへ      
      1875/7/4 を改正の期日と定めてあり、その前に改正点を調査することにあった。情報源のサイトへ
      1875/12/14 井上大蔵大輔・大隈参議・寺島外務大輔がオーストリアヴィーンでの博覧会御用となる。情報源のサイトへ
      1876/2/26 黒田清隆全権大使・井上馨副使としてに渡り、修好条規を締結。情報源のサイトへ
      1876/3/6 帰国。情報源のサイトへ
      1876/6/25 財政経済研究のため欧米への出張を命ぜられ、横浜よりアメリカ合衆国へ出張。情報源のサイトへ
      1876/7/18 サンフランシスコ到着。情報源のサイトへ
      1876/9/2 ニューヨーク出発し情報源のサイトへ
      1877/1/4 ロンドンを発ちベルリン、ヴィーンを歴遊。情報源のサイトへ
      1877/7/14 欧州より帰国(横浜に到着)。情報源のサイトへ
      1877/7/29 参議兼工務卿となる。情報源のサイトへ
      1877/11/30 兄光遠の次男井上勝之助(1861-1929)を養子とする。情報源のサイトへ
1878 帰国後、参謀本部管西局長となる。情報源のサイトへ   1878 営業開始したものである。情報源のサイトへ
      1879 第5代: 1879年 -情報源のサイトへ
      1879/2/19 法制局長官兼任となる。情報源のサイトへ
      1879/7/4 米国前大統領グラント来訪 情報源のサイトへ
      1879/7/6 井上が招待 情報源のサイトへ
      1879/9/10 外務卿兼任となる。情報源のサイトへ
      1879/9/15 藤田伝三郎らが贋札製造の疑惑によって拘引され情報源のサイトへ
      1879/10/16 東京に移送される。井上馨が贋金製造に関係しているように噂されるが情報源のサイトへ
      1879/12/20 何ら証拠がなく藤田は無罪放免となる。情報源のサイトへ
      1880/1 創立者笠井順八に政府資金の借入出願手続き等を教示し、同社は設立に到った。情報源のサイトへ
      1881/5 小野田セメント株式会社を設立。井上は情報源のサイトへ
      1882 医師兼画家工から贋札と用紙及び印刷器具が押収され冤罪が晴れたのであるが、薩長の軋轢が反政府者の利用する所となっていた。情報源のサイトへ
      1882/10/4 外賓待遇礼式取調委員長となる。情報源のサイトへ
1883 後、陸軍省総務局長、陸軍次官を歴任して軍政改革を推進した。情報源のサイトへ   1883 外務卿として不平等条約改正交渉のため、鹿鳴館を建設。さらにパリベルリンに劣らぬ首都を建設しようと官庁集中計画を進めた(井上辞任に伴い頓挫した)情報源のサイトへ
      1883/2/23 アーサー米国大統領は下関賠償金の日本への返還を決裁。米国公使ビンガムより賠償金を受領情報源のサイトへ
      1883/11/28 鹿鳴館が竣工し1200名を招待して落成の祝宴を行う。(祝宴当日は井上馨の誕生日である情報源のサイトへ
      1884 華族令で伯爵情報源のサイトへ
      1884/10/30 専ら外国人との融和交際の為に会員制の東京倶楽部が設けられ、鹿鳴館をクラブハウスとした。情報源のサイトへ
      1885 内閣制度成立直後の外務大臣となって,条約改正のため欧化政策をとり,いわゆる鹿鳴館時代を現出させた。しかし,世論の批判を俗びて辞職情報源のサイトへ
      1885 官界復帰後,外務卿として条約改正の準備にあたり,明治十八年情報源のサイトへ
      1885/12/22 第一次伊藤内閣にて外務大臣。情報源のサイトへ
1886 没)との間に1男2女。2番目の妻貞子(旧姓・宍道、歌子の兄の未亡人情報源のサイトへ      
      1886/5/1 各国公使と条約改正会議(第一回)を開催。情報源のサイトへ
      1886/8/4 北海道出張を内閣より依頼され情報源のサイトへ
      1886/8/5 山縣内相と横浜薩摩丸に乗船し出港。情報源のサイトへ
      1887 前後)、浮世外太郎情報源のサイトへ
      1887/7/19 条約改正会議の無期延期を各国公使に通告。情報源のサイトへ
      1887/9/16 井上馨外務大臣辞任。情報源のサイトへ
      1888 農商務大臣となった井上馨が是清に、外国から輸入した新式の機械を保護するために、初めて輸入した者に専売特許を与えるような法律をつくるよう指示した際に、是清は次のように答えている。「英国に滞在中に聞いた話であるが、条約改正において日本から外国に求むるべき事は多くあれど、外国から日本に求むるものは少ない情報源のサイトへ
      1888/2/1 大隈重信外務大臣となり、井上に引き続いて懸案の条約改正に専念する。情報源のサイトへ
      1888/4/22 新島襄( -1890)は情報源のサイトへ
      1888/4/22 井上馨邸にて談話中に発病。同氏に乞われて同志社の大学設置の募金運動を開始情報源のサイトへ
1890 没)との間に1男2女。3番目の妻可那子(旧姓・木村、名古屋時代に出会い情報源のサイトへ      
      1890/1/23 新島の死に至るまで募金活動に協力した。情報源のサイトへ
      1890/7/25 井上馨農商務大臣となる。情報源のサイトへ
      1890/10/5 井上馨の発意により野村靖・渋沢栄一らと自治政研究会を組織。鹿鳴館で開会情報源のサイトへ
      1890/11/3 帝国ホテル落成開業。鹿鳴館との密接な関連を持たせたホテルとして井上が渋沢栄一と大倉喜八郎の両氏を説いて有限会社帝国ホテル会社を設立させ建設したものである情報源のサイトへ
1891 より事実婚情報源のサイトへ      
1891 第3師団長に転じ戦争に出征情報源のサイトへ      
      1892 第10代:1892年 -情報源のサイトへ
      1892 開墾事業に投資したが失敗し、井上が救済を取り纏めている。その後も経営危機に至り、貸付先である炭鉱の7、8割が不良債権と判断された情報源のサイトへ
      1892/8/2 第二次伊藤内閣にて内務大臣。情報源のサイトへ
      1893/3/18 井上馨内務大臣官邸にいわゆる「曹洞宗内紛」の調停のために曹洞宗両本山を重職を招き、調停の労をとる。情報源のサイトへ
      1894/12 鹿鳴館の廃止により東京倶楽部は移転の必要に迫られた。(?)そこで、再度井上馨はこれに熱意を傾け、麹町内幸町に敷地を宮内省の所有地の麹町情報源のサイトへ
1896 台湾総督、東京防禦総督を経て情報源のサイトへ   1896 東京倶楽部は土橋脇にいったん移転してるようですが?情報源のサイトへ
      1896/11/30 西郷従道は、正式な受命を経ていない情報源のサイトへ
      1896/12/27 新田義貞の碑を相州稲村ヶ崎に建てる。情報源のサイトへ
      1897/5 杉孫七郎が仲介で『児玉が凶漢であった』とあらためて紹介している。他の2名のうち中井栄治郎は萩政府の壊滅にあたって、捕えられ椋梨一派と共に処刑され、周布藤吾は井上の配下として口に奮戦したがその時の傷により死亡した情報源のサイトへ
1898 勅令第258号))情報源のサイトへ   1898 勅令第258号))情報源のサイトへ
1898 第三次伊藤内閣陸相。情報源のサイトへ   1898 以後は官につかず元老となる。財界には大きな力をもち,三井財閥の最高顧問にもなって“三井の大番頭”ともいわれた情報源のサイトへ
      1899/11/30 伊藤博文による立憲政友会の結成に協力する。情報源のサイトへ
1900 第4次伊藤内閣まで留任し、義和団鎮圧を担当、一段落したところで辞任。情報源のサイトへ   1900 俗謡が得意でその時の戯名)情報源のサイトへ
1900/9/15 拓殖大学の前身である台湾協会学校を創立している。また、現在の獨協大学の前身である獨逸学協会学校の校長を情報源のサイトへ      
      1900/11/30 第百十銀行の破綻救済。情報源のサイトへ
1901 田中正造足尾鉱毒事件で天皇に直訴(1901/12/10)情報源のサイトへ   1901 伊藤博文と山県有朋は、井上に内閣を組織させようと意図していた。井上は、もし渋沢が大蔵大臣を引き受けるなら、と答えていた情報源のサイトへ
1901 第一次内閣を組織し戦争を遂行。情報源のサイトへ      
1901/6 山本権兵衛海軍大臣、兒玉陸相の留任を除いて、小粒な内閣が発足した。蔵相兼外務大臣の曾禰荒助をはじめ、初めて大臣になるという官僚が大半で、その多くが内務省出身の山県閥官僚であった情報源のサイトへ      
1901/9 小村寿太郎を外相に起用した。同盟締結を推進するためで、桂は自伝で、自分と小村とは問題の解決は武力によるしかないと最初から覚悟していたと語っている(もっとも、この自伝について山縣は、桂本人に都合のいい作文みたいなものだと酷評している)情報源のサイトへ      
1902  明治天皇/桂太郎 明治時代 政治・経済・社会第一次同盟協約締結情報源のサイトへ      
1904 第一次協約調印情報源のサイトへ   1904 東本願寺借財整 1904年情報源のサイトへ
1904  明治天皇/桂太郎 明治時代 政治・経済・社会戦争はじまる(−05.9)情報源のサイトへ      
      1904/1/29 戦争が不可避の様相となり、井上馨と松方正義は財界要人を三井集会所に召集して国債発行を相談。国内での国債の発行は成功であったが、戦費予算約19億円の大半を外債に頼らざるを得ず、日銀副総裁高橋是清を外債募集の担当にした情報源のサイトへ
      1904/6/17 第百三十銀行の経営危機を救う。情報源のサイトへ
1905 ポーツマス条約調印、講和反対国民大会(日比谷焼き打ち事件)(1905/9/5)情報源のサイトへ      
1905 桂・タフト協定(1905/7/29)情報源のサイトへ      
1905 第二次協約調印(1905/11/17)情報源のサイトへ      
      1905/3/11 曹洞宗内紛の終結。情報源のサイトへ
      1907 功により侯爵となり情報源のサイトへ
1908 第二次内閣を組織して条約改正を完成、韓国併合を強行するとともに大逆事件、南北朝正閏問題の処理に当たる。情報源のサイトへ      
1908 「戊申詔書」発布(1908/10/13)情報源のサイトへ      
1908 第14代:1908年 -情報源のサイトへ      
1909 新聞紙法公布(1909/5/6)情報源のサイトへ   1909 没 吉田松陰の松下村塾に学んだ後、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、井上馨、山県有朋らと倒幕運動に奔走した。情報源のサイトへ
1909 大逆事件情報源のサイトへ      
1910 朝鮮総督設置情報源のサイトへ      
1910 白瀬中尉ら南極探検に出帆(1910/11/29)情報源のサイトへ      
1910/11/30 西郷従道は、正式な受命を経ていない情報源のサイトへ      
1911 新通商航海条約調印(1911/2/21)情報源のサイトへ   1911 ようやく竣工している。(?)情報源のサイトへ
1911 南北朝正閏問題(1911/2/4)情報源のサイトへ      
1911 第3回同盟協約調印情報源のサイトへ      
1911  明治天皇/桂太郎 明治時代 政治・経済・社会工場法公布情報源のサイトへ      
1911 工場法公布(1911/3/29)情報源のサイトへ      
1912 内大臣兼侍従長から第三次内閣を組織するが、第一次護憲運動の高まりの中で情報源のサイトへ      
1913 没)情報源のサイトへ      
1913 辞任。立憲同志会の結成に着手するが中途で病死情報源のサイトへ      
1913 カテゴリ: 日本の内閣総理大臣 | 日本の閣僚経験者 | 日本の陸軍軍人 | 日本の華族 | 日本国会議員 (1890-1947) | 台湾総督 | 山口県の政治家 | 長門国の人物 | 桂氏 | 1848年生 | 1913年没情報源のサイトへ      
1913 本日情報源のサイトへ      
1913/2 第3次内閣を組閣する。この桂園時代は立憲政友会の原敬との攻防と「情意投合」、盟友である西園寺との信頼関係のもと、凋落する元老世代からの自立を図った時代でもある情報源のサイトへ      
1913/7 政争の合い間に桂のために切り替え手続きを行ったものの、桂は情報源のサイトへ      
1913/8 桂はドイツに留学した。但し、賞典禄を元手にした私費留学であったことから現地での生活はかなり苦しく、ヨーロッパ使節団のためドイツへ来訪した木戸孝允(桂小五郎)を訪ね、官費留学の待遇切り替えを依頼している情報源のサイトへ      
1913/8 胃ガンで死去した。戦争を勝利に導いた総理大臣であるにも関わらず、国葬をもって送られることはなかった情報源のサイトへ      
1913/8 桂を倒したはずの民衆までも大挙して押し寄せた。情報源のサイトへ      
1913/10 半ばに留学を打ち切って帰国した。情報源のサイトへ      
1913/10/5 戦争を勝利に導いた「第二流内閣」情報源のサイトへ      
1913/10/10 大勲位菊花章頸飾情報源のサイトへ      
1913/10/10 同盟・戦争遂行に尽力した首相・桂太郎の命です。情報源のサイトへ      
1913/10/10 日本の武士(長州藩士)、軍人、政治家。第11・13・15代内閣総理大臣情報源のサイトへ      
1913/12 兒玉源太郎と交代した。もちろん、すべて山縣の意向である情報源のサイトへ      
      1915 カテゴリ: 幕末維新側人物 | 長門国の人物 | 明治の元勲 | 明治時代の人物 | 日本の華族 | 日本の閣僚経験者 | 日本の条約改正 | 山口県の政治家 | 三井グループの人物 | 1836年生 | 1915年没情報源のサイトへ
      1915 (大正4)年情報源のサイトへ
      1915 興津の別邸で病没。享年80歳情報源のサイトへ
      1915/9/1 (81歳) 興津おきつの別邸で病死。情報源のサイトへ

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