| 年月日 |
できごと |
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年月日 |
できごと |
| 660 |
頃~ |
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| 700 |
薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁の死後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、 平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、 平城京遷都前には亡くなったものと思われる |
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| 708 |
続 日本紀、 元明天皇の和銅元年 |
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| 708/4/20 |
項に柿本朝臣猨(エン、さる?)の死亡記事がある。この柿本サルこそが、政争に巻き込まれ皇族の怒りを買い、 和気清麻呂のように変名させられた人麻呂ではないかとする説もある |
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| 720 |
頃)は、飛鳥時代の歌人。三十六歌仙の一人 |
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848 |
藤原良房は左大臣にまで昇り詰めた。そして |
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850 |
二人の間に惟仁親王(これひとしんのう) が誕生した。 |
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850 |
仁明天皇が亡くなると、 承和の変で皇太子になっていたあの藤原順子の息子、道康親王が晴れて天皇となった。 文徳天皇(もんとくてんのう)(827-在位850-858)である |
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855 |
始められた「続 日本後紀(しょくにほんこうき)」の編纂にも関わり |
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857 |
ついに左大臣・右大臣の上に立つ太政大臣(だじょうだいじん)にまで任命されたのだった。だが 文徳天皇との仲は決してよくなかったらしい |
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858 |
なったからである。政治を執り行うことの出来ない幼帝の実質的な摂政(せっしょう)として、彼は外戚(がいせき)の立場から天皇の政治の代行を行うことになったのだ |
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858 |
文徳天皇は脳卒中で突然亡くなってしまったのである。 |
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862 |
菅原道真が文章生(もんじょうのしょう)の試験に合格する。 |
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863 |
初めて記録に残る御霊会(ごりょうえ)が、 神泉苑(しんせんえん)で開かれた。すでに橘逸勢は御霊扱いになっている |
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865/11/30 |
兄の藤原 長良( ふじわらのながら)の娘である藤原高子( ふじわらのたかいこ)(842-910)が 清和天皇の妻となったからである。彼女は天皇に嫁ぐ前には、「伊勢物語」の主人公ともされるプレイボーイ貴族、六歌仙(ろっかせん)と賛えられるほどの歌の巧み、在原業平(ありわらのなりひら)(825-880)と恋愛関係にあったともされ、後にも密通の疑いを掛けられるなど、恋多き女だったらしい |
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866 |
良房にとってもう一つうれしいことがあった。 |
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866 |
起きた。 |
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866 |
しておいても悪くはないだろう。ただしこの時の摂政は、実質的には成人後の天皇の政治を執り行う「関白(かんぱく)」の役職に他ならなかった |
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869 |
貞明親王(さだあきらしんのう)を生んだのである。そしてどうも驚く、わずか2ヶ月で赤子は立太子されたのである |
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870 |
方略試に中の上で合格し、規定によれば3階位を進めるべきところ、それでは五位に達してしまうというので1階のみ増して正六位上に叙せられた。 |
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870 |
菅原道真が役人になるための最高試験である方略試(ほうりゃくためし)に |
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871/11/30 |
右大臣となった 藤原基経( ふじわらのもとつね)(836-891)であった。 |
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872 |
亡くなっている。これをもって「鼻血(872)で亡くなる 藤原良房」とは覚えないから気を付けよう |
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874 |
菅原道真が兵部少輔(ひょうぶのしょう)になる。ついで、民部少輔(みんぶのしょう) |
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876 |
清和天皇の後ろで何か陰謀でもあったものだろうか。 清和天皇は突然「仏教に生きる!」と言い出して、天皇を譲位してしまったのである |
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876 |
して、わずか9歳で天皇となった。これによって基経は、幼帝の外戚として、良房の例に倣って幼帝の摂政に任じられたのである |
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877 |
菅原道真が式部少輔(しきぶのしょう)になる。 |
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878 |
蝦夷が反乱を起こしたのである。それは朝廷に帰属した俘囚(ふしゅう)らが 秋田城を襲うことによって開始され、藤原保則( ふじわらのやすのり)(825-895)、小野春風(おののはるかぜ)などが、兵糧を民衆に放出したり、寛大の政策を掲げて懐柔することによって、北方独立を目差した俘囚らの反乱もようやく下火になったという |
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879 |
呼ぶが、 桓武天皇の頃に対して、侵略制服的軍事活動が後退している姿を見ることが出来るかも知れない。 |
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879 |
六国史(りっこくし)の5番目、「 日本 文徳天皇実録」が完成しているが、もちろん 藤原基経もこれに関わっている。そのような活躍の末 |
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880 |
彼は太政大臣(だいじょうだいじん)となった。しかし、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)憂いあらずかと思えば、実はそうでもない |
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883 |
宮中で 殺人事件が起こった。これが天皇の仕業だとはまさか明記されていないのだが、他のご乱心と取り合わせて、ついに 藤原基経は彼を事実上の廃位として、 仁明天皇の息子のひとり時康(ときやす)親王を担ぎ出して、 光孝天皇(こうこうてんのう)(830-在位884-887)が即位することになったのである |
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887 |
「阿衡(あこう)」という職をめぐって論議が起こる。 |
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887 |
病気に伏した 光孝天皇が、どうしても息子を皇太子にしたくて 藤原基経にお願いしたものか、この源定省が急ぎ皇太子に立てられて、 光孝天皇が亡くなるとすぐに 宇多天皇(うだてんのう)(867-在位 |
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887 |
して即位したのである。この即位を |
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888 |
「 阿衡事件(あこうじけん)」または「阿衡の紛議(ふんぎ)」である。 |
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888 |
基経は娘の藤原温子( ふじわらのよしこ・おんし)(872-907)を 宇多天皇の妻にすることに成功している。まさに基経にとっては |
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890 |
京に戻り、 宇多天皇の信任を得て政界へ進出していくことになるだろう。 |
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891 |
菅原道真が蔵人頭(くらんどのとう)になる。 |
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891 |
天上に昇っていったのである。これをもって「白衣(891)の天使」とは言わない |
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891 |
吐く息(891)も荒く 藤原基経が亡くなると、基経の息子である 藤原時平( ふじわらのときひら)(871-909)はまだ21歳で、天皇を押さえ込むほどの政界での勢力を持ち得なかった。そのうえ 宇多天皇は控えめな天皇にはあらせられず、それは気品ある帝であらせられるから、「うだうだぬかしてんじゃねえ!」と叫んだりはしないが、自らがリーダーシップを発揮して政権の再編を目ざしたのである |
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893 |
菅原道真も参議入りを果たすこととなった。また皇子は 宇多天皇と藤原胤子( ふじわらのいんし・たねこ)(?-896)の子、敦仁(あつぎみ・あつひと)親王とされ、 藤原時平が外戚となり摂政関白を欲しいままにすることを牽制した |
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894 |
遣唐大使に菅原道真が、副使に紀長谷雄(きのはせお)が任命されたのである。しかし菅原道真は理論家タイプの難い奴であったから、唐の実情と遣唐使の効果についてなど吟味し、最終的にこの遣唐使派遣は |
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897 |
藤原時平が蔵人所別当(くろうどどころのべっとう)に任命されると、実際に蔵人を束ねていた蔵人頭(くろうどのとう)の上に、長官として置かれる役職が登場した。 |
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897 |
娘を 宇多天皇の子・斉世親王の妻とした。 |
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897 |
ついに13歳になった敦仁親王に天皇を譲位。こうして 醍醐天皇(だいごてんのう)(885-在位897-930) が誕生した |
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899/11/30 |
三善清行は道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。 |
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901 |
菅原道真が太宰権死(だいざいのごんのそつ)に落とされ、 九州へ追放される。 |
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901 |
藤原氏をはじめとする勢力の陰謀により大宰府[だざいふ]( 福岡県)に左遷され、その地で |
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901/8 |
完成している。左遷された事もあり編纂者から名は外されている |
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903 |
でした。 |
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903 |
太宰府(だざいふ)で死ぬ(59才)  |
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903 |
大宰府で薨去し同地に葬られた(現在の太宰府天満宮)。道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名 |
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903/3/26 |
日本の平安時代の学者、漢詩人、政治家である。特に漢詩に優れた |