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杉田玄白(すぎたげんぱく)

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杉田玄白(すぎたげんぱく)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1733/9/13 杉田 玄白(すぎた げんぱく、享保18年9月13日 情報源のサイトへ
1740 一家で小浜へ移り、父の玄甫が江戸詰めを命じられる 情報源のサイトへ
1745 まで過ごす。青年期には家業の医学修行を始め、医学は奥医の西玄哲に、漢学は本郷に開塾していた古学派の儒者宮瀬竜門に学ぶ 情報源のサイトへ
1752 小浜藩医となり、上屋敷に詰める。 情報源のサイトへ
1754 京都で山脇東洋が、処刑された罪人の腑分け(人体解剖)を実施している。国内初の人体解剖は蘭書の正確性を証明し、日本の医学界に波紋を投げかけるとともに、玄白が五臓六腑説への疑問を抱くきっかけとなる 情報源のサイトへ
1757 江戸日本橋に開業し、町医者となる。 情報源のサイトへ
1757/7 江戸で本草学者の田村元雄や平賀源内らが物産会を主催。出展者には中川淳庵の名も見られ、蘭学者グループの交友はこの頃にははじまっていたと思われる 情報源のサイトへ
1765 藩の奥医師となる。 情報源のサイトへ
1769 父の玄甫が死去。家督と侍医の職を継ぎ、新大橋中屋敷へ詰める 情報源のサイトへ
1771 自身の回想録である『蘭学事始』によれば、中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』をもって玄白のもとを訪れる。玄白はオランダ語の本文は読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談してこれを購入する 情報源のサイトへ
1771/3/4 【杉田玄白ら腑分見学】 情報源のサイトへ
1774 田沼意次、老中になる、アメリカ13州が独立宣言、杉田玄白ら「解体新書」出版(1774年) 情報源のサイトへ
1774 (安永3)/一般に「ターヘル・アナトミア」(クルムス著)と呼ばれていた医学書のオランダ語版の翻訳書。幕府から咎めを受けないよう、先に「解体約図」を出版したり、本書を献上したりするなどし、またいざというときに累が及ばないよう、前野良沢の名が秘されていた 情報源のサイトへ /image3.jpg /kaitai.jpg
1774 偶然にも長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢や、中川淳庵らとともに小塚原刑場(東京都荒川区南千住)で死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに感嘆する。杉田玄白、前野良沢らは『ターヘル・アナトミア』を和訳し、安永3年 情報源のサイトへ /image3.jpg /kaitai.jpg
1774 前野良沢(1723〜1803)(中津藩医の子)、杉田玄白(1733〜1817)(小浜藩医の子)の解体新書 情報源のサイトへ /image3.jpg /kaitai.jpg
1776 藩の中屋敷を出て、近隣の竹本藤兵衛(旗本、500石取)の浜町拝領屋敷500坪のうちに地借し外宅する。 情報源のサイトへ
1790/3/11 付で江戸の来福寺での花見に言及している。 情報源のサイトへ
1803 杉田玄白(すぎたげんぱく 1733〜 情報源のサイトへ /image3.jpg /genpaku.jpg
1805 11代将軍徳川家斉に拝謁し、良薬を献上している。 情報源のサイトへ
1807 家督を子の伯元に譲り隠居。 情報源のサイトへ
1815 (文化12)頃/回顧録。刊行されたのは 情報源のサイトへ
1815 杉田玄白「蘭学事始め」を成立(1815年) 情報源のサイトへ
1817 没隠しカテゴリ: 科学者関連のスタブ項目 情報源のサイトへ
1817/6/1 江戸時代の蘭学医。若狭国小浜藩(福井県)医 情報源のサイトへ

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