| 年月日 |
できごと |
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年月日 |
できごと |
| 1833 |
● 活やくした時代 1833年〜 |
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| 1833 |
長州藩(ちょうしゅうはん 山口県)の医師の和田昌景(わだ まさかげ)の |
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| 1833/6/26 |
木戸 孝允(きど たかよし、天保4年6月26日 |
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1839 |
永倉新八、高杉晋作生れる |
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1839/8/20 |
天保10年8月20日 |
| 1840 |
7歳で向かいの桂家の末期養子となり(養父:桂九郎兵衛(家禄150石))、長州藩の大組士という武士の身分と秩禄を得る。 |
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| 1840 |
桂家(かつらけ)の養子になる。 |
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| 1846 |
長州藩の師範代である新陰流剣術内藤作兵衛の道場に入門している。 |
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1846 |
弘化3年 |
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1846 |
8歳の時に寺子屋・吉松塾に入り、後に晋作と共に松下村塾の双璧と言われた久坂玄瑞(年齢は晋作の1歳下)と出会う。 |
| 1849 |
吉田松陰(よしだ しょういん)の松下村塾(しょうかそんじゅく)で勉強にはげむ。 |
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| 1852 |
剣術修行を名目とする江戸留学を決意し、藩に許可され、ほか5名の藩費留学生たちと共に江戸に旅立つ。 |
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1852 |
藩校の明倫館に入学 |
| 1853 |
江戸で剣術や兵学を学ぶ。 |
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1854 |
からの民衆反乱である 太平天国の乱を見聞して |
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1854/7 |
帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。 |
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1857 |
吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り |
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1857 |
久坂玄瑞の誘いで吉田松陰が主宰していた「松下村塾」に入り、生涯の師・松陰と出会う。 |
| 1858 |
一説には、安政5年 |
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1858 |
藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所などで学ぶ。 |
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1858 |
(1858)に昌平黌に入学するが |
| 1858/10 |
小五郎が武市半平太や 坂本龍馬と、桃井道場の撃剣会で試合をしたとされるが、当時の武市・坂本は前月から土佐藩に帰ったままである。(9/3、坂本は土佐へ帰国) |
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1859 |
安政6年 |
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1859 |
藩命により、萩に帰郷を命じられた晋作は「いずれ長州でお会い出来るでしょうから、その時お目にかかりましょう」との書簡を松陰に送り、江戸を出発。その |
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1859 |
(安政6年 |
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1859/10 |
うちに刑が執行されてしまう。 |
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1859/10 |
松陰の死罪が決定し |
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1859/7 |
中旬 松陰江戸獄 高杉江戸。 |
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1859/10 |
処刑される。 |
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1859/11/26 |
長州藩の要職・周布政之助に宛てた手紙で「松陰先生の仇は必ず取ります」と激しい怒りを書き記している) |
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1860/11 |
帰郷、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女、まさと結婚する。 |
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1861/8 |
東北遊学を行い、佐久間象山や横井小楠とも交友する。 |
| 1862 |
から |
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1862 |
文久2年 |
| 1862 |
長州藩の考え方を尊皇攘夷(そんのうじょうい)にする。  |
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1862/5 |
藩命で、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情を見聞して帰国。 |
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1862/12/12 |
幕府の異勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。また、幕府の罪人として処刑された松蔭の遺骨を白昼堂々小塚原から世田谷に移して会葬する |
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1862/12/12 |
同志とともに品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ちを実行。行動の過激の度合いを強めていく |
| 1863 |
春にかけて定着し |
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1863 |
(1863)萩藩外国船攻撃の際、登用されて奇兵隊を結成し、外国勢と戦う。 |
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1863 |
奇兵隊[きへいたい]をつくりました。萩藩の方針を倒幕[とうばく]にしたり、長州征伐[ちょうしゅうせいばつ]に来た幕府の軍隊を負かしたりするなど活躍しましたが、明治時代になる前に病気で亡くなってしまいます |
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1863 |
文久3年 |
| 1863/5 |
藩命により江戸から京都に上る。京都で久坂玄瑞、真木和泉たちとともに破約攘夷活動を行い、正藩合一による大政奉還および新国家建設を目指す |
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1863/5/10 |
幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行うが、逆に米仏の報復に逢い惨敗する。高杉は下関の防衛を任せられ |
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1863/5/10 |
関門海峡において外国船砲撃。 |
| 1863/5/12 |
小五郎や 高杉晋作たちのかねてからの慎重論(無謀論)にもかかわらず、朝廷からの攘夷要求を受けた江戸幕府による攘夷決行の宣言どおりに、久坂玄瑞率いる長州軍が下関で関門海峡を通過中の外国艦船に対し 攘夷戦争を始める(この戦争は、約2年間続くが、当然のことながら、破約攘夷にはつながらず、攘夷決行を命令した江戸幕府が英米仏蘭に賠償金を支払うということで決着する)。 |
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1863/6 |
廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない画期的な軍隊・奇兵隊を結成し、奇兵隊開闢(初代)総督となる。 |
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1863/6 |
廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成し、阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠とするが |
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1863/8/18 |
政変で長州藩が追放され |
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1863/9 |
教法寺事件の責任を問われ総監を罷免された。 |
| 1864 |
新撰組(しんせんぐみ)が池田屋をおそうが、木戸孝允はあやうくのがれる。 |
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1864 |
文久4年 |
| 1864/6 |
鹿児島入りした中岡慎太郎は、西郷に薩長の協力と和親を説き、下関で桂小五郎(木戸孝允)と会うことを約束させた。しかし、西郷は大久保から緊迫した書簡を受け取ったので、下関寄港を取りやめ、急ぎ上京した |
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1864/8 |
イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台占拠を行い、晋作が和議交渉全権を担う。 |
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1864/8 |
イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。 |
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1864/10 |
福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、再び下関へ帰還 |
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1864/12 |
幕府による第一次長州征伐が迫る中、長州藩では俗論派(佐幕派)が台頭。功山寺にいる五卿の前で「今こそ長州男児の肝っ玉をご覧に入れます」と気勢を挙げ、伊藤俊輔( 伊藤博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて挙兵(功山寺挙兵) |
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1864/12/15 |
夜半、伊藤俊輔( 伊藤博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。後に奇兵隊ら諸隊も加わり |
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1865/3 |
海外渡航を試みて長崎でイギリス商人グラバーと接触するが、反対される。 |
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1865/3 |
俗論派の首魁椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。 |
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1865/6 |
桂小五郎の斡旋により帰郷。 |
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1865/9/29 |
藩命により谷 潜蔵と改名する。 |
| 1866 |
(1866)鹿児島藩との間に薩長連合を締結。王政復古のクーデター後、五箇条の誓文草案を起草 |
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1866 |
慶応2年 |
| 1866 |
藩主 毛利敬親から賜ったものである。それ以降、それまでの「桂」姓に替えて使用し始める |
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1866 |
すでに読んでいたという記録も残っており、正確ではないという説もある。 |
| 1866 |
西郷隆盛と会い、薩長同盟を結ぶ。  |
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1866 |
さらに慶応2年 |
| 1866 |
西郷隆盛[さいごうたかもり]などと薩長同盟[さっちょうどうめい]を結ぶなど明治維新[めいじいしん]に大きな働きがあり、維新後は版籍奉還[はんせきほうかん]や廃藩置県[はいはんちけん]などの改革を手がけています。 |
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1866 |
(1866)薩摩藩との間に薩長連合を締結。 |
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1866/1 |
桂小五郎(後の 木戸孝允)らと共に、土佐藩の 坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との軍事同盟である薩長盟約を締結。 |
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1866/1/21 |
(一説には |
| 1866/1/22 |
京都で薩長同盟が結ばれて以来、桂は長州の代表として薩摩の小松帯刀・ 大久保利通・ 西郷隆盛・ 黒田清隆らと薩摩・長州でたびたび会談し、薩長同盟を不動のものにして行く。薩長同盟の下、長州は薩摩名義でイギリスから武器・軍艦を購入し、薩摩は不足している米を長州から支援してもらった |
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1866/5 |
伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、長崎で丙寅丸(オテントサマ丸)を単独購入。 |
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1866/6 |
第二次長州征伐( 四境戦争)では海軍総督として、幕府艦隊を退け周防大島を奪還に成功。 |
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1866/6 |
第2次長州征討で指揮をとり、各地で幕府軍を打ち破ったが |
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1866/7 |
将軍 徳川家茂の死去の報を受けた幕府軍総督小笠原長行は戦線を離脱。事実上幕府軍の敗北に終わり、幕府の権威は大きく失墜し |
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1866/7 |
将軍 徳川家茂の死去の報を受けた小笠原がこれ幸いと戦線を離脱したため幕府敗北は決定的となり、この敗北によって幕府の権威は大きく失墜し、翌 |
| 1867 |
大政奉還(たいせいほうかん) |
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1867 |
戦い続けた晋作の身体は、その間、病に冒されていた。肺結核のため桜山で療養し回復に努めるも、慶応3年 |
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1867 |
カテゴリ: 日本の儒学者 | 陽明学者 | 江戸時代の人物 | 幕末維新側人物 | 山口県の歴史 | 長門国の人物 | 1839年生 | 1867年没 |
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1867/3/29 |
新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる。 |
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1867/3/30 |
祭奉賛会「東行高杉晋作」 |
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1867/4/14 |
(1839~1867) |
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1867/4/14 |
深夜に死去。大政奉還を見ずしてこの世を去ることとなる(享年27) |
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1867/5/17 |
京におり、詳細は定かではない。墓所は山口県下関市 |
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1867/5/17 |
(太陽暦)、江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去る(享年27)。臨終には、父・母・妻と倅がかけつけ、野村望東尼と山県狂介、田中顕助が立ち会ったとされるが、田中の残した日記によれば、彼は |
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1867/5/17 |
諱(本名)は春風。通称は晋作、東一、和助 |
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1867/5/17 |
日本の武士・長州藩士。幕末の長州藩の尊王倒幕志士として活躍 |
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1867/5/30 |
馬関で病死した。 |
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1867/11 |
大政奉還へと導かれる事となる。 |
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1867/12 |
奇兵隊等諸隊の決起を促して挙兵。死を覚悟し「故奇兵隊開闢総督高杉晋作、則ち西海一狂生東行墓」の墓誌を用意した |
| 1868 |
腹心の大村益次郎と共に東京招魂社(靖国神社の前身)の建立に尽力し、近代国家建設のための戦いに命を捧げた同志たちを改めて追悼・顕彰して以降、自ら諱(いみな)のはずの「孝允」を公的な名前として使用するようになる。 |
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| 1868 |
集議所、同 |
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| 1868 |
以来、数々の開明的な建言と政策実行を率先して行い続ける。五箇条の御誓文、マスコミの発達推進、封建的風習の廃止、版籍奉還・廃藩置県、人材優先主義、四民平等、憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、教育の充実、法治主義の確立などを提言し、明治政府に実施させた |
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| 1868 |
木戸孝允の案で五箇条のご誓文(ごかじょうのごせいもん)を出す。 |
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| 1869 |
公議所など、木戸自身の開明的な方針で国会の下院に相当するものを実際に構成し、機能させようとする努力は当初から為されてはいた。 |
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| 1869 |
「孝允」名は、桂家当主を引き継いで以来の諱(いみな)を兼ねた桂家当主としての名前であったが、 戊辰戦争終了の明治2年 |
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| 1869 |
大島口・芸州口・石州口の三カ所で極めて短期間の内に幕府軍を撃破し、残りの小倉口も高みから徹底抗戦し続けていた肥後藩士たちの戦意喪失により長州側の勝利が確定する。この結果、浜田藩(天領・石見銀山含む)と小倉藩の主要部分は明治2年 |
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| 1869 |
版籍奉還(はんせきほうかん)を行う。 |
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| 1870 |
木戸孝允が参議(さんぎ 政治を行う役職)になる。 |
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| 1870/6 |
参議。 |
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| 1871 |
明治政府草創期の朝令暮改や百家争鳴状態を解消するため、廃藩置県の断行を控えた明治4年 |
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| 1871 |
廃藩置県(はいはんちけん)を行う。 |
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| 1871/6 |
西郷、大久保、岩倉、 三条実美達から、木戸がただひとり参議となるように求められる。「命令一途」の効率的な体制を構築するよう懇請されたわけであるが、リベラルな合議制を重んじる木戸は、これを堅く固持し続ける |
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| 1871/7 |
政務に疎い西郷を補うためという口実で、肥前の 大隈重信を参議入りさせることを西郷に提案し、西郷も『それでは土佐の 板垣退助も参議にすべきだ』と応じ、薩長土肥一人ずつの共和制的な参議内閣制が確立される。 |
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| 1871/11/12 |
三条・西郷らに留守内閣(留守政府)をまかせ、特命全権大使 岩倉具視、副使木戸孝允・ 大久保利通・ 伊藤博文・山口尚芳ら外交使節団が条約改正のために横浜から欧米各国へ出発した(随員中に宮内大丞村田新八もいた)。西郷らは |
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| 1873 |
地租改正(ちそかいせい)を行う。 |
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| 1873/9 |
岩倉が帰国すると、先に外遊から帰国していた木戸孝允・ 大久保利通らの内治優先論が表面化してきた。大久保らが参議に加わった |
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| 1874 |
西郷らが主張する征韓論や大久保らが主張する台湾出兵には一貫して反対し、またあくまで農民を不公正な税制と重税から解放するために積極的に推し進めた地租改正や武士の特権を廃止して彼らに新たな生活の途を探させるための手段として構想された秩禄処分が、実行された時にはこれに激しく反発した。そして、台湾出兵が決定された1874年 |
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| 1874/5 |
これに抗議して参議を辞職している。 |
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| 1875 |
木戸と板垣とを明治政府に取り戻したい 大久保利通・ 井上馨らは、明治8年 |
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| 1875/7/17 |
を、自ら議長として挙行した。このとき採択された五法案は、地方警察、地方民会など地方自治の確立を促進する法案であるが、のちの内務省の台頭により、いずれもそのままの形では実施されなかった |
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| 1875/8 |
大阪会議に彼らを招待する。木戸・板垣は、立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立を条件として参議復帰を受け入れ、直ちに立憲政体の詔書が発布される |
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| 1877 |
カテゴリ: 幕末維新側人物 | 明治の元勲 | 明治時代の人物 | 長門国の人物 | 山口県出身の人物 | 桂氏 | 神道無念流剣術 | 1833年生 | 1877年没 |
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| 1877 |
西郷隆盛(さいごう たかもり) が西南戦争(せいなんせいそう)をおこす。 |
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| 1877 |
病死する。(45才) |
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| 1877/2 |
西南戦争が勃発すると、すぐさま鹿児島征討の任にあたりたいと希望した。また 大久保利通は、西郷への鎮撫使として勅使の派遣を希望した |
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| 1877/5/26 |
朦朧状態の中、大久保の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去った。享年45 |
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| 1877/5/26 |
幕末~明治初期に活躍した日本の武士・政治家。名の孝允は「こういん」と有職読みされることもある |
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| 1877/5/26 |
(1833~1877) |
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| 1877/6 |
藩老分裂の責により一時蟄居を命じられる。 |
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