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木戸孝允(きどたかよし)

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木戸孝允(きどたかよし)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1833 ● 活やくした時代   1833年〜 情報源のサイトへ
1833 長州藩(ちょうしゅうはん 山口県)の医師の和田昌景(わだ まさかげ)の 情報源のサイトへ
1833/6/26 木戸 孝允(きど たかよし、天保4年6月26日 情報源のサイトへ
1840 7歳で向かいの桂家の末期養子となり(養父:桂九郎兵衛(家禄150石))、長州藩の大組士という武士の身分と秩禄を得る。 情報源のサイトへ
1840 桂家(かつらけ)の養子になる。 情報源のサイトへ
1846 長州藩の師範代である新陰流剣術内藤作兵衛の道場に入門している。 情報源のサイトへ
1849 吉田松陰(よしだ しょういん)の松下村塾(しょうかそんじゅく)で勉強にはげむ。 情報源のサイトへ
1852 剣術修行を名目とする江戸留学を決意し、藩に許可され、ほか5名の藩費留学生たちと共に江戸に旅立つ。 情報源のサイトへ
1853 江戸で剣術や兵学を学ぶ。 情報源のサイトへ
1858 一説には、安政5年 情報源のサイトへ
1858/10 小五郎が武市半平太や坂本龍馬と、桃井道場の撃剣会で試合をしたとされるが、当時の武市・坂本は前月から土佐藩に帰ったままである。(9/3、坂本は土佐へ帰国) 情報源のサイトへ /ryouma3.jpg /37ereport-title02.jpg
1862 から 情報源のサイトへ
1862 長州藩の考え方を尊皇攘夷(そんのうじょうい)にする。    情報源のサイトへ
1863 春にかけて定着し 情報源のサイトへ
1863/5 藩命により江戸から京都に上る。京都で久坂玄瑞、真木和泉たちとともに破約攘夷活動を行い、正藩合一による大政奉還および新国家建設を目指す 情報源のサイトへ
1863/5/12 小五郎や高杉晋作たちのかねてからの慎重論(無謀論)にもかかわらず、朝廷からの攘夷要求を受けた江戸幕府による攘夷決行の宣言どおりに、久坂玄瑞率いる長州軍が下関で関門海峡を通過中の外国艦船に対し攘夷戦争を始める(この戦争は、約2年間続くが、当然のことながら、破約攘夷にはつながらず、攘夷決行を命令した江戸幕府が英米仏蘭に賠償金を支払うということで決着する)。 情報源のサイトへ /20051.6%20117.jpg /0612120102.jpg
1864 新撰組(しんせんぐみ)が池田屋をおそうが、木戸孝允はあやうくのがれる。 情報源のサイトへ
1864/6 鹿児島入りした中岡慎太郎は、西郷に薩長の協力と和親を説き、下関で桂小五郎(木戸孝允)と会うことを約束させた。しかし、西郷は大久保から緊迫した書簡を受け取ったので、下関寄港を取りやめ、急ぎ上京した 情報源のサイトへ
1866 (1866)鹿児島藩との間に薩長連合を締結。王政復古のクーデター後、五箇条の誓文草案を起草 情報源のサイトへ
1866 藩主毛利敬親から賜ったものである。それ以降、それまでの「桂」姓に替えて使用し始める 情報源のサイトへ
1866 西郷隆盛と会い、薩長同盟を結ぶ。  情報源のサイトへ /040322.DSCF0084.JPG
1866 西郷隆盛[さいごうたかもり]などと薩長同盟[さっちょうどうめい]を結ぶなど明治維新[めいじいしん]に大きな働きがあり、維新後は版籍奉還[はんせきほうかん]や廃藩置県[はいはんちけん]などの改革を手がけています。 情報源のサイトへ /040322.DSCF0084.JPG
1866/1/22 京都で薩長同盟が結ばれて以来、桂は長州の代表として薩摩の小松帯刀・大久保利通西郷隆盛黒田清隆らと薩摩・長州でたびたび会談し、薩長同盟を不動のものにして行く。薩長同盟の下、長州は薩摩名義でイギリスから武器・軍艦を購入し、薩摩は不足している米を長州から支援してもらった 情報源のサイトへ /040322.DSCF0084.JPG
1867 大政奉還(たいせいほうかん) 情報源のサイトへ
1868 腹心の大村益次郎と共に東京招魂社(靖国神社の前身)の建立に尽力し、近代国家建設のための戦いに命を捧げた同志たちを改めて追悼・顕彰して以降、自ら諱(いみな)のはずの「孝允」を公的な名前として使用するようになる。 情報源のサイトへ
1868 集議所、同 情報源のサイトへ
1868 以来、数々の開明的な建言と政策実行を率先して行い続ける。五箇条の御誓文、マスコミの発達推進、封建的風習の廃止、版籍奉還・廃藩置県、人材優先主義、四民平等、憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、教育の充実、法治主義の確立などを提言し、明治政府に実施させた 情報源のサイトへ
1868 木戸孝允の案で五箇条のご誓文(ごかじょうのごせいもん)を出す。 情報源のサイトへ
1869 公議所など、木戸自身の開明的な方針で国会の下院に相当するものを実際に構成し、機能させようとする努力は当初から為されてはいた。 情報源のサイトへ
1869 「孝允」名は、桂家当主を引き継いで以来の諱(いみな)を兼ねた桂家当主としての名前であったが、戊辰戦争終了の明治2年 情報源のサイトへ /060827e1.jpg /20070113_217289.JPG
1869 大島口・芸州口・石州口の三カ所で極めて短期間の内に幕府軍を撃破し、残りの小倉口も高みから徹底抗戦し続けていた肥後藩士たちの戦意喪失により長州側の勝利が確定する。この結果、浜田藩(天領・石見銀山含む)と小倉藩の主要部分は明治2年 情報源のサイトへ
1869 版籍奉還(はんせきほうかん)を行う。 情報源のサイトへ
1870 木戸孝允が参議(さんぎ 政治を行う役職)になる。 情報源のサイトへ
1870/6 参議。 情報源のサイトへ
1871 明治政府草創期の朝令暮改や百家争鳴状態を解消するため、廃藩置県の断行を控えた明治4年 情報源のサイトへ
1871 廃藩置県(はいはんちけん)を行う。 情報源のサイトへ
1871/6 西郷、大久保、岩倉、三条実美達から、木戸がただひとり参議となるように求められる。「命令一途」の効率的な体制を構築するよう懇請されたわけであるが、リベラルな合議制を重んじる木戸は、これを堅く固持し続ける 情報源のサイトへ
1871/7 政務に疎い西郷を補うためという口実で、肥前の大隈重信を参議入りさせることを西郷に提案し、西郷も『それでは土佐の板垣退助も参議にすべきだ』と応じ、薩長土肥一人ずつの共和制的な参議内閣制が確立される。 情報源のサイトへ /061121-3.jpg /061121-4.jpg /180522%201121.jpg
1871/11/12 三条・西郷らに留守内閣(留守政府)をまかせ、特命全権大使岩倉具視、副使木戸孝允・大久保利通伊藤博文・山口尚芳ら外交使節団が条約改正のために横浜から欧米各国へ出発した(随員中に宮内大丞村田新八もいた)。西郷らは 情報源のサイトへ /350px-Iwakura_mission.jpg /okubo_m.gif /18.jpg
1873 地租改正(ちそかいせい)を行う。 情報源のサイトへ
1873/9 岩倉が帰国すると、先に外遊から帰国していた木戸孝允・大久保利通らの内治優先論が表面化してきた。大久保らが参議に加わった 情報源のサイトへ /350px-Iwakura_mission.jpg /shigakko.jpg
1874 西郷らが主張する征韓論や大久保らが主張する台湾出兵には一貫して反対し、またあくまで農民を不公正な税制と重税から解放するために積極的に推し進めた地租改正や武士の特権を廃止して彼らに新たな生活の途を探させるための手段として構想された秩禄処分が、実行された時にはこれに激しく反発した。そして、台湾出兵が決定された1874年 情報源のサイトへ
1874/5 これに抗議して参議を辞職している。 情報源のサイトへ
1875 木戸と板垣とを明治政府に取り戻したい大久保利通井上馨らは、明治8年 情報源のサイトへ
1875/7/17 を、自ら議長として挙行した。このとき採択された五法案は、地方警察、地方民会など地方自治の確立を促進する法案であるが、のちの内務省の台頭により、いずれもそのままの形では実施されなかった 情報源のサイトへ
1875/8 大阪会議に彼らを招待する。木戸・板垣は、立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立を条件として参議復帰を受け入れ、直ちに立憲政体の詔書が発布される 情報源のサイトへ /01705150.jpg /350px-OICC_Osaka_International_Conference_Centre_and_Dojima_River01.jpg
1877 カテゴリ: 幕末維新側人物 | 明治の元勲 | 明治時代の人物 | 長門国の人物 | 山口県出身の人物 | 桂氏 | 神道無念流剣術 | 1833年生 | 1877年没 情報源のサイトへ
1877 西郷隆盛(さいごう たかもり)が西南戦争(せいなんせいそう)をおこす。 情報源のサイトへ /06s.JPG /kumamoto013.jpg /DSCF00241.jpg /DSCF0075-thumb.JPG
1877 病死する。(45才) 情報源のサイトへ
1877/2 西南戦争が勃発すると、すぐさま鹿児島征討の任にあたりたいと希望した。また大久保利通は、西郷への鎮撫使として勅使の派遣を希望した 情報源のサイトへ /06s.JPG /genre042.jpg /kumamotojyo13.jpg
1877/5/26 朦朧状態の中、大久保の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去った。享年45 情報源のサイトへ /188094N92868D918DC591818FC8C9A93I2623380813B98H.jpg /04.jpg
1877/5/26 幕末~明治初期に活躍した日本の武士・政治家。名の孝允は「こういん」と有職読みされることもある 情報源のサイトへ
1877/5/26 (1833~1877) 情報源のサイトへ
1877/6 藩老分裂の責により一時蟄居を命じられる。 情報源のサイトへ

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