年表トップ > 平安時代の人物 > 最澄
ウェブサイト上の情報を調べて見出し情報をまとめた検索結果ページです。事実が正確に並べられた年表ではありませんのでご注意下さい。
最澄(さいちょう)
| 生没 | 767年~822年 | カテゴリ | 平安時代の人物 僧侶・宗教家 |
|---|---|---|---|
| 主なできごと |
767年 出生説に基づく。[1] 802年 高雄山寺(神護寺)法華会(ほっけえ)講師。入... 822年 カテゴリ: 天台宗 | 日本の僧 |... 822年 比叡山の中道院で没、享年56(満54歳没)。没後 822年 目、大乗戒壇設立は、弟子の光定と、藤原冬嗣、... |
||
| ライバルや仲間 |
空海
|
||
Ads by Google
| 年月日 | できごと | 写真 |
|---|---|---|
| 767 |
出生説に基づく。[1]
|
|
| 778 |
12歳のとき |
|
| 780 |
14歳のとき |
|
| 780/11/10 |
作成の「近江国府牒」に“三津首広野年拾五”との記述があり
|
|
| 780/11/12 |
得度し名を最澄と改めた。
|
|
| 783 |
17歳のとき
|
|
| 783/1/20 |
正式な僧侶の証明である度縁の交付を受ける。[2]
|
|
| 785 |
19歳のとき東大寺で具足戒を受ける。
|
|
| 785/7 |
|
|
| 797 |
内供奉(ないぐぶ)十禅師。
|
|
| 802 |
高雄山寺( |
|
| 804 |
入唐し、帰朝に当って |
|
| 804 |
書における師承は明らかでないが、延暦23年
|
|
| 804/7 |
通訳に門弟の義真を連れ、空海とおなじく |
|
| 804/9 |
明 |
|
| 805 |
書かれたものである。楷書であるが久隔帖と同じく |
|
| 805 |
『請来目録( |
|
| 805/5 |
帰路の途中和田岬( |
|
| 805/7 |
上洛、滞在中に書写した経典類は230部460巻。帰国当時、 |
|
| 806/1 |
最澄の上表により、天台業2人(止観(しかん)業1人、遮那(しゃな)業1人)が年分度者となる。これは南都六宗に準じる
|
|
| 811 |
『羯磨金剛目録』(かつまこんごうもくろく)は、最澄が唐からの請来品を |
|
| 811 |
|
|
| 812 |
冬、弟子の泰範、円澄、光定(こうじょう)らと高雄山寺におもむき、空海から灌頂(かんぢょう)を受ける。
|
|
| 813 |
『久隔帖』(きゅうかくじょう)は、 |
|
| 813/1 |
泰範、円澄、光定を高雄山寺の空海のもとに派遣して、空海から密教を学ばせることを申し入れ
|
|
| 813/11 |
最澄が「理趣釈経」の借用を申し出たが、空海は「文章修行ではなく実践修行によって得られる」との見解を示して拒絶、以後交流は相容れなかった。
|
|
| 813/11/5 |
小法弟最澄状上
|
|
| 813/11/25 |
付で書いた尺牘(せきとく、漢文の書状)で、「久隔清音」の句で始まるのでこの名がある。宛名は「高雄範闍梨」とあり、これは高雄山寺に派遣した最澄の弟子の泰範であるが、実質は空海宛である[3]
|
|
| 815 |
和気氏の要請で |
|
| 818 |
みずから具足戒を破棄。『山家学生式』(さんげがくしょうしき)を定め、天台宗の年分度者は |
|
| 822 |
カテゴリ: 天台宗 | |
|
| 822/6/4 |
|
|
| 822/6/7 |
目、大乗戒壇設立は、弟子の光定と、藤原冬嗣、良岑安世の斡旋により勅許。
|
