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昭和天皇(しょうわてんのう)

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昭和天皇(しょうわてんのう)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1907 昭和天皇裕仁(皇族 情報源のサイトへ
1914/3 学習院初等科を卒業。 情報源のサイトへ
1914/4 陸海軍中尉任官。 情報源のサイトへ
1919 満18歳となり、成年式が執り行なわれた。大正天皇の病状悪化の中で 情報源のサイトへ /TKY200806050061.jpg /TKY200806050063.jpg
1921   昭和天皇の名は、裕仁(ひろひと)です。大正天皇の第一皇子である昭和天皇は、大正10年 情報源のサイトへ /kenjyo3-rinkai.jpg /taisyo6.jpg
1921/2 宮内省から「婚約に変更なし」と発表された。 情報源のサイトへ
1921/5 山縣の辞表は詔により却下された。この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという 情報源のサイトへ
1921/11/25 20歳で摂政に就任し、摂政宮(せっしょうみや)と称された。 情報源のサイトへ
1922/2 山縣はひっそり世を去った。この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという 情報源のサイトへ
1923 皇太子時代、台湾台南第一中学校行(1923年) 情報源のサイトへ
1925 樺太にも行している。 情報源のサイトへ
1926 第124代:1926年 - 情報源のサイトへ
1926 大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間であった1926年 情報源のサイトへ
1926 より宮内省御用として生物学御研究所主任を永く勤め、昭和天皇の生物学研究を援助した(註1、2)。昭和4(1929)年には御進講の件などで南方熊楠を訪問した(註3) 情報源のサイトへ
1927/8 昭和天皇が奄美大島に行幸の際、お召し艦上にて植物を展覧に供す。 情報源のサイトへ
1928/6/1 南方熊楠が昭和天皇関西行幸の折、和歌山県寄港の戦艦長門艦上にて御進講し、変形菌標本を献上した。 情報源のサイトへ
1929 御進講もした。小畔四郎・上松蓊・平沼大三郎・六鵜保ら多くの研究者や採集者を育てた業績は大きい 情報源のサイトへ
1929/8/30 から学習院大学教授を勤めた。その間の昭和10(1935)年に行われた昭和天皇の南九州行幸の折には、宮崎県変形菌を高等女学校や中学校の教員らと共に採集して標本を献上した 情報源のサイトへ
1929/9/30 昭和天皇の採集品を調査して新種ナスフクロホコリを発表した(註7)。昭和9(1934)年、「硫黄酸化細菌の生理」の研究で理学博士号を取得し 情報源のサイトへ
1931 『聖上陛下の生物学御研究』を出版し、その中で昭和天皇の変形菌の研究を紹介した。 情報源のサイトへ /falkenhausen%20p.JPG /img_news.aspx?id=20070309000157&no=1&width=120
1932 徳川黎明会生物学研究所々長。昭和10(1935)年には昭和天皇の那須での変形菌の採集品をまとめて『那須変形菌類図説』を出版した(註4、5) 情報源のサイトへ
1933 福井県で陸軍大演習がおこなわれた際、昭和天皇に福井県の動植物を紹介するため大がかりな採集が行なわれた。その折に多数の変形菌を採集して標本を保存した 情報源のサイトへ /DSC_0022.JPG /img_198.jpg
1933 土屋文明が鹿児島阿久根町で行なわれたアララギ歌会に出席し、鹿児島高農を訪問した。昭和10(1935)年には昭和天皇の南九州行幸の折に、小畔四郎らとともに鹿児島の変形菌を採集して献上した 情報源のサイトへ
1933 関西に小畔四郎と南方熊楠を訪問した(註6)。昭和14(1939)年、農林技師で従七位となる 情報源のサイトへ
1933/5/23 昭和天皇は『那須の植物』の出版について記者団に次のように語っている。「今度初めて本を作って恥ずかしいような感じもしたが、みんなも喜んでくれるのでうれしく感じています 情報源のサイトへ
1933/12/23 第一皇男子継宮明仁親王降誕(皇族の誕生を示す用語)。 情報源のサイトへ /the-sinso.jpg /miyake2.jpg
1935 常陸宮 情報源のサイトへ
1935 行われた昭和天皇の南九州行幸の折に、小畔四郎らとともに鹿児島県の変形菌を採集して献上した。また 情報源のサイトへ
1939 帰朝の駐伯大使澤田節蔵氏から同研究所に、昭和天皇にお土産として、ブラジルの動植物の標本を差し上げたいから、その採集・調整の依頼がありました。この研究所は所長が神屋信一、所員として大窪文秀(天文)、酒井喜重(考古)、小生(生物)そのほかに三名ばかりが在任していました 情報源のサイトへ
1941/12/25 日本軍の勝利を確信して、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次の日記に記されている。 情報源のサイトへ
1943 第三南遣艦隊司令長官拝命の挨拶の為に参内した岡新海軍中将に対して、赴任先のフィリピン方面での陸海軍の協力体制について下問があった。「頗る順調」という意味の返答をした岡中将に対して、「陸軍は航空機運搬船(あきつ丸・神州丸など)を開発・運用しているが、海軍には搭載する艦載機のない空母がある 情報源のサイトへ
1945 戦争終結に関する日本の決断に、陛下はどこまで関与されたのでしょうか。また陛下が乗り出された動機となった要因は何だったのですか 情報源のサイトへ
1945 ポツダム宣言を受諾し御前会議での昭和天皇の英断を経て玉音放送により大東亜戦争は終結した。 その後はGHQ占領軍の統治がはじまり東京裁判によって戦争犯罪人の処罰が行われた 情報源のサイトへ /gozenkaigi.gif /a2.jpg
1945/2/14 行われた近衛文麿の上奏がある。近衛は敗戦必至であるとして、和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだと提案している 情報源のサイトへ /1929929902.jpg /story02.jpg
1945/3/6 皇太子へあてた手紙。橋本明『昭和抱擁』(日本教育新聞社 情報源のサイトへ
1945/8/14 ポツダム宣言を受諾するとの結論に達した。この決定は翌 情報源のサイトへ /gozenkaigi.gif /a2.jpg
1946/1/30 昭和天皇に取材して作成した『昭和天皇独白録』 情報源のサイトへ
1947/7/18 ^ 『芦田均日記』第二巻・1947年7月18日 情報源のサイトへ
1950 昭和天皇の高知県への行幸の際には変形菌標本を展覧に供した(註1)。 情報源のサイトへ
1953 自身でブラジルの変形菌を報告した。 情報源のサイトへ
1956 エチオピア皇帝ハイレ・セラシエの来日を迎え、満州国皇帝溥儀以来の大掛かりな祝宴を張って皇帝を歓迎した。ハイレ・セラシエはその後、大阪万博にも見学に来日している 情報源のサイトへ
1958 土屋文明は『アララギ』 情報源のサイトへ
1959 皇太子明仁親王と正田美智子の成婚に出席(朝見の儀において)。 情報源のサイトへ
1959 伊勢湾台風の直後、被害状況を説明する農林大臣の福田赳夫に突然「時に農林大臣、桑名のシジミはどうなったか」と尋ねた。桑名と言えばハマグリなのになぜシジミなのか、と福田は疑問に思いつつ退出したが、後で調べると当時桑名ではハマグリはほとんど採れず、シジミが名産品となっていた 情報源のサイトへ
1965 207頁。 情報源のサイトへ
1971 訪欧時にも、オランダで抗議にあって憔悴した皇后を気遣ったエピソードがある。 情報源のサイトへ
1971/10/14 かけて17日間、再度イギリスオランダスイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問した。訪問先には数えられていないが、このとき、経由地としてアラスカのアンカレッジに立ち寄っており、当時アメリカ合衆国大統領のリチャード・ニクソンとも会見、実質的にアメリカも訪問している 情報源のサイトへ
1972 札幌オリンピック、バブル経済前夜の 情報源のサイトへ
1973 なお、1973年 情報源のサイトへ
1973/4/30 抗争」の際、参内した大平正芳に一言も返さないという強い態度で非難の意を示したことが記録されている。 情報源のサイトへ
1973/5/26 認証式のため参内した増原惠吉防衛庁長官が内奏時の会話の内容を漏らすという事件があった。 情報源のサイトへ
1974 も訪米が計画されたが、調整不足もあって実現には至らなかった。訪米前には「アメリカ人は天皇の訪米にあまり関心がない」という報道がなされ、侍従長・入江相政によると、「天皇に対する激しい憎しみをわにしたアメリカ人もいた」といい、関係者を悩ませた 情報源のサイトへ
1974/5/29 参議院内閣委員会における秦豊議員の「侍従は国家公務員であり、天皇の名代ということも個人的な資格ということが許されないと思う。伊勢神宮は明らかに宗教法人であるありように合わせ、明らかに憲法二十条に抵触する習慣であると思う 情報源のサイトへ
1974/9 以降、宮内庁は宮中三殿での祭祀の方式を簡略化、伊勢神宮と橿原神宮に派遣される勅使を、従来の侍従から国家公務員の身分を持たない掌典に変更した。 情報源のサイトへ
1974/9 上旬にはNBCと 情報源のサイトへ
1975 沖縄国際海洋博覧会にはイラン帝国のパビリオンも出展された。強引な建国であった 情報源のサイトへ
1975 しかし、この会談内容については全ての関係者が口を噤み、否定も肯定もしない為、真偽の程は明らかではない。昭和天皇自身は、1975年 情報源のサイトへ
1975 行われた記者会見でこの問題に関する質問に対し、「(その際交わした外部には公開しないという)男同士の約束ですから」と肯定も否定もしなかった。翌 情報源のサイトへ
1975/9/20 アメリカ・ニューズ・ウィークのインタビュー[30] 情報源のサイトへ
1975/9/30 記念事業として、立川飛行場跡地に国営昭和記念公園が建設された。 情報源のサイトへ
1975/10/14 まで14日間にわたって、アメリカ合衆国を公式訪問した。天皇の即位後の訪米は史上初の出来事である(これ以前に実現しなかった理由には、国事行為の臨時代行に関する法律が整備されていなかったという事情もあった) 情報源のサイトへ
1976/12/23 から発行され、発行枚数は7000万枚に上った。 情報源のサイトへ
1977/8/23 昭和天皇の会見によると、日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の主な目的である[10][12][13]。 この詔書は人間宣言と呼ばれている[14] 情報源のサイトへ
1978 独特の魅力を持っており、アメリカのフォード大統領も訪日の際、昭和天皇に謁見したが、そのカリスマに終始手を震わせたと帰国後に告白している。鄧小平も1978年 情報源のサイトへ
1981/4/17 報道各社社長との記者会見[30] 情報源のサイトへ
1984 特に海外の要人に対する心遣いが深く、1984年 情報源のサイトへ
1986 在位 情報源のサイトへ
1987 以降)から、各マスコミは来るべき天皇崩御に備え、原稿や紙面構成、テレビ放送の計画など密かに報道体制を準備していた。そのなかで、来るべき崩御当日は「Xデー」と呼ばれるようになる 情報源のサイトへ
1987 までに40回、ほとんど毎年赴いており、贔屓の力士も蔵間、富士桜、霧島など複数が伝わっている。特に富士桜の取り組みには身を乗り出して観戦したと言われ、同タイプの力士であり毎回熱戦となる麒麟児との取り組みは、しばしば天覧相撲の日に組まれた 情報源のサイトへ
1987 病臥した1987年 情報源のサイトへ
1988/1/7 昭和天皇崩御(註17)、皇太子つぐのみや宮あきひと明仁親王が皇位を承し、平成と改元。 情報源のサイトへ
1988/9 昭和天皇の急病によるマスコミ等の自粛。 情報源のサイトへ
1988/9/19 吐血直後は、すべての放送局が報道特番を放送。不測の事態に備えて日本放送協会(NHK)が終夜放送をおこなったほか、病状に変化があった際は直ちに報道特番が流され、人気番組でも放送が中止・中断されることがあった 情報源のサイトへ
1989 昭和天皇死去、平成と改元(1989年 情報源のサイトへ
1989/1/7 午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)により崩御(87歳)。歴代の天皇で(神代を除き)最も長寿であった 情報源のサイトへ
1989/1/7 昭和天皇崩御。皇太子明仁親王(今上天皇)即位のため、元号法の規定に基き元号を改める政令 情報源のサイトへ /img7aa37e1bzikdzj.jpeg /heisei.jpg
1989/1/8 終日までは、NHK(総合)および民放各局が特別報道体制に入り、崩御報道を受けてのニュース、あらかじめ制作されていた昭和史を回顧する特集、昭和天皇の業績を偲ぶ番組などが放送された。 情報源のサイトへ
1991 文藝春秋、ISBN 4163450505) 情報源のサイトへ
1992 ^ 永積寅彦『昭和天皇と私』学習研究社、1992年 情報源のサイトへ
1994 文藝春秋・文春文庫、ISBN 情報源のサイトへ
1995 生物学御研究所) 情報源のサイトへ
1995 TBS) 情報源のサイトへ
1997 創樹社、ISBN 4794305222) 情報源のサイトへ
1998 より。 情報源のサイトへ
1999/7/16 衆議院内閣委員会)と証言している。 情報源のサイトへ
1999/10/21 付けで次のように書いている。「(菊池)氏の粘菌新種の研究が、この粘菌研究にご造詣の深い昭和天皇のお目に止まり、粘菌新種・研究資料を献上することになりましたが、代わるべきもない貴重な資料を取り上げるには忍びないという、陛下の温情あふれるお言葉で差し戻されたと菊池氏から聞かされ、当時の新聞掲載を見せられました 情報源のサイトへ
2002 原書房、ISBN 4562035730) 情報源のサイトへ
2004 黒田勝弘・畑好秀編『昭和天皇語録』(講談社・講談社学術文庫、2004年、ISBN 情報源のサイトへ
2004 岩波書店) 情報源のサイトへ
2004 天皇イメージの転換 情報源のサイトへ
2005 趣味に関するもの 情報源のサイトへ
2005/1/7 昭和天皇崩御の後、それまでの天皇誕生日を「生物学者であり自然を愛した昭和天皇をしのぶ日」として「緑の日」とすることとなった。しかし、実際に制定された法律では、昭和天皇を偲ぶという趣旨は盛り込まれず、このため、「昭和の日」に改称する法律案が超党派の国会議員により提出されたが廃案となる 情報源のサイトへ /20071229_278281.jpg /up-20060105092439-28729.jpg
2007/5/1 ^ 「富田メモ抜粋」日本経済新聞2007年5月1日・同 情報源のサイトへ
2008 TBS) 情報源のサイトへ
2008/11 貼付されました。 情報源のサイトへ
2008/11 | 日本の天皇 | 摂関 | 太平洋戦争の人物 | 日本国会議員 (1890-1947) | スカウト関係者 | 金羊毛騎士団員 | ガーター勲章 | 1901年生 | 情報源のサイトへ /hoheisentokyoren.jpg /03.jpg

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