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日野富子(ひのとみこ)

 

足利義政(あしかがよしまさ)

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足利義政(あしかがよしまさ)に関する本・DVD

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日野富子   足利義政
年月日 できごと   年月日 できごと
      1436 8代将軍・義政を産んだことで影響力を強め、幕政の重要な決定事項を左右するようになりました。情報源のサイトへ
      1436 6代将軍足利義教(あしかが よしのり)の次男として生まれる。情報源のサイトへ
1440 移動: ナビゲーション, 検索 日野 富子(ひの とみこ、永享12年〔情報源のサイトへ      
      1441 父の義教が嘉吉の乱赤松満祐に殺された後、将軍職は同母兄の足利義勝が継いだが情報源のサイトへ
      1441 嘉吉の乱(かきつのらん)がおこる。情報源のサイトへ
      1441/4 結城合戦で結城城が陥落して足利持氏の子の春王・安王は殺害されますが、結城城に篭城せずに信濃の国人・大井持光(おおいもちみつ)に匿われていた8歳の持氏の子・成氏(しげうじ)は生き残り情報源のサイトへ
      1442 足利義勝情報源のサイトへ
      1447/11 蔵書の大半を足利学校に寄進して目的のない放浪の旅に出ます。情報源のサイトへ
      1448 再び鎌倉に戻ります。成氏の幼名は、永寿王丸あるいは万寿王丸であったといいます情報源のサイトへ
      1449 永享の乱以降断絶していた鎌倉府の職務体制(足利氏の鎌倉公方と上杉氏の関東管領)が復活しました。しかし、鎌倉公方・足利成氏と関東管領・上杉憲忠は家臣団の対立もあって関係が悪化し情報源のサイトへ
      1449 室町幕府征夷大将軍(在任:1449年 -情報源のサイトへ
      1450 江ノ島合戦の争乱は、親成氏派の管領・畠山持国(はたけやまもちくに,1398-1455)と憲忠の弟・上杉道悦(どうえつ)によって和解が進められるのですが情報源のサイトへ
      1450/2/11 正徹が将軍・足利義政に謁見。「若君=義尚」の命によって歌を進上した情報源のサイトへ
      1450/4 両者が軍事衝突して成氏が憲忠を相模国へと追い落としました(江ノ島合戦,情報源のサイトへ
1450/5 足利義政・日野富子の意を受けた山名宗全入道(山名持豊)が、管領家の斯波義廉・畠山義就らをともなって細川勝元の屋敷を襲った。これがその後情報源のサイトへ   1450/5 足利義政・日野富子の意を受けた山名宗全入道(山名持豊)が、管領家の斯波義廉・畠山義就らをともなって細川勝元の屋敷を襲った。これがその後情報源のサイトへ
      1450/12/19 天龍寺に出家していた弟の香厳院を還俗させた上、「政」の偏諱と官途を与え、足利左馬頭政知と名乗らせ、鎌倉に派遣した。しかし、関東の情勢は非常に悪化しており、政知は箱根を越えることができず、駿河守護職・今川家の影響力が及ぶ伊豆国堀越に館を構え、地名を取って「堀越公方」と呼ばれた情報源のサイトへ
      1451 復活させ、これは以後16世紀半ばまで続いた。貿易による経済交流と文化発展に寄与することとなった情報源のサイトへ
      1452 管領となった親上杉派の細川勝元(ほそかわかつもと,1430-1473)が足利成氏に挑発的な対応をしたため、成氏が暴走して情報源のサイトへ
      1454/12 上杉憲忠を鎌倉の邸宅で暗殺しました。この憲忠暗殺の後に、関東地方で成氏派と上杉派の激しい戦闘が繰り返されるようになりますが、この一連の内乱のことを『享徳の乱(きょうとくのらん)』といいます情報源のサイトへ
1455 日野富子(ひのとみこ)をつまにむかえる。情報源のサイトへ   1455 8代将軍・足利義政の時代に関東地方で勃発した内乱である享徳の乱鎌倉公方と扇谷・山内上杉氏の戦い)は、1455年〜情報源のサイトへ
1455 室町幕府の足利将軍家と縁戚関係を持っていた日野家の出身で、義政の生母日野重子は富子の大叔母にあたる。富子も康正元年情報源のサイトへ   1455 正月には、指導力の無い義政の治世を慨嘆する『政(まつりごと)は三魔(さんま)に出ずる也(なり)。御今・有馬・烏丸也』という落書が貼り出され、将軍義政が『御今(乳母の今参局)、有馬(近習の有馬郡守護・赤松持家)、烏丸(日野重子の親族の日野資任,ひのすけとう)』に幕政を壟断されている不甲斐なさが示唆されています情報源のサイトへ
      1455 日野富子(ひのとみこ)をつまにむかえる。情報源のサイトへ
      1455/8 日野富子(ひのとみこ,1440-1496)を正室に迎えたことで日野重子・富子のほうが優位な立場に立つようになってきます。情報源のサイトへ
1455/8/27 16歳で義政の正室となり情報源のサイトへ      
      1457 』が起きます。オシャマンベの首長コシャマインを中心としたアイヌが一斉に蜂起を起こして蝦夷地の和人館12館のうち10館を陥落させますが、その後、蠣崎季繁(かきざきすえしげ,生年不詳-1462)と武田信広(たけだのぶひろ,1431-1494)の軍勢に鎮圧されました情報源のサイトへ
      1458 蠣崎季繁の女婿となった武田信広は和人館がある道南を統一して松前藩の始祖となります(蠣崎氏の子孫が松前氏と改姓します)。情報源のサイトへ
      1459 日野富子が生んだ男児が死産すると、今参局が富子に呪詛をかけたという讒言(告げ口)があり、義政の激怒を買った今参局は大奥を追放されて近江国・甲良で自害することになります情報源のサイトへ
1459/1/9 うちに夭折。それを義政の乳母の今参局が呪いを掛けたせいだとし、彼女を琵琶湖沖島に流罪とし(本人は途中で自刃)、更に義政の側室四人を追放する情報源のサイトへ      
1459/1/9 第1子が生まれるが情報源のサイトへ      
      1459/1/22 8代・義政の治世の室町幕府では、日野富子が政治に無関心な夫(義政)に代わって幕政に介入する絶大な権限を振るうようになり、富子が産んだ足利義尚(よしひさ,1465-1489)と細川勝元が後見する足利義視(よしみ,1439-1491)との将軍後継問題も深刻になってきます情報源のサイトへ
      1461 全国で大ききんがおこる。情報源のサイトへ
1464 父・義政は実子をなかなか授からないため、義尚の叔父にあたる足利義視を養子にしていた。ところが生母の日野富子は義尚を第9代将軍にしたいと願望して当時の実力派大名であった山名宗全(山名持豊)と結託し、一方の義視も管領の細川勝元と結託して両派は将軍位をめぐって抗争し、これに勝元と宗全の権力争い、畠山氏や斯波氏の内紛なども重なって、応仁の乱の一因となった情報源のサイトへ      
1464 段階で第103代・後土御門天皇(在位1464-1500)に譲位しており、応仁の乱の時には室町第に身を寄せていました。将軍義政も山名宗全と結んでいる日野富子・日野勝光の影響を受けており、勝元に対する牙旗の授与を拒絶します情報源のサイトへ      
1464/11/30 日野富子に足利義尚が産まれます。情報源のサイトへ      
1464/11/30 男子の生まれない義政は実弟で仏門に入っていた義尋を還俗させ、名を足利義視と改めて細川勝元を後見に将軍後継者としていた事に対し、富子が反発していた事から来た噂のようだが、はっきりとしたことは分からない。幸いにも義政の耳には入らなかったが、この頃から悪妻の噂が立ち始めた情報源のサイトへ      
1465 上述したように日野富子に足利義尚が誕生し、山名党が後見する義尚と細川党が後見する足利義視との対立が深まってきますが情報源のサイトへ   1465 ころが、寛正6年情報源のサイトへ
      1465 実の息子 足利義尚(あしかが よしひさ)が生まれる。情報源のサイトへ
1466 富子は足利義尚を出産する。ところが、義尚は義政の子ではなく後土御門天皇の子ではないかという噂が広まった情報源のサイトへ   1466 で失脚した相国寺の蔭涼軒主(いんりょうけんしゅ)・季瓊真蘂(きけいしんずい,1401-1469)もそういった臨済宗の僧侶の一人でした。情報源のサイトへ
1467 正月に、将軍義政が畠山義就を室町第に招聘して、旧領の河内・紀伊越中を義就に回復したことで、政長の立場は弱くなり管領を罷免されて山名党の斯波義廉が管領の職に就くことになります。畠山義就を利用した山名宗全の謀略にはまった細川勝元(政長の後見)は義政のいる室町第に押し掛けようとしますが、時既に遅し、政長の管領・守護の職を取り戻すことは出来ませんでした情報源のサイトへ   1467 応仁の乱(おうにんのらん)がおこる。情報源のサイトへ
      1467 遂に応仁の乱が起こる。戦乱は南朝の末裔(後南朝)まで参加するなど、収拾がつかない全国規模なものへ発展した情報源のサイトへ
      1472/9 東常縁が下総に下っているときに土岐成頼の守護代・斎藤妙椿に篠脇城を奪われた。城を奪った斎藤妙椿はもともと常縁の歌の友で、ともに足利義政の奉公衆だった情報源のサイトへ
      1473 本姓は源氏情報源のサイトへ
      1473 応仁の乱の最中、将軍職を子の足利義尚にゆずる。情報源のサイトへ
      1473/3 山名宗全が死去し情報源のサイトへ
      1475 花の御所が京都市街の戦火で焼失して富子と息子・足利義尚が小川邸へ移ると、義政は逃げるように東山へ移っている。情報源のサイトへ
1476 花の御所(京都市上京区)が焼失すると小川御所(上京区堀川)へ移る。情報源のサイトへ      
      1477 細川勝元山名宗全の病死により、応仁の乱がほぼ終わる。情報源のサイトへ
      1483 までの長期にわたって続き、一時は中世日本を代表する都市である鎌倉が大規模に消失するほどの損害を受けました。上杉憲忠を殺害した成氏は幕府に弁明しましたが、幕府は許さず将軍義政の弟・足利政知(まさとも,1435-1491)を鎌倉公方として関東に派遣しました情報源のサイトへ
      1483 東山のやしきに移り住む。(東山文化)情報源のサイトへ
      1485 全国で一揆(いっき)(農民の反乱)がおこる。情報源のサイトへ
1489 六角高頼を討伐に遠征中の義尚が没し、次いで義政も没する。そこで義視と自分の妹の間に生まれた足利義材(後の義稙)を将軍に擁立した情報源のサイトへ   1489 子の義尚が延徳元年情報源のサイトへ
1489 六角討伐の陣中で死去したため、やむなく政務の場に復帰することを決意するが、正室の日野富子が義政の復帰に反対し、さらに義政自身も中風に倒れて政務を執ることが困難となったため、美濃に亡命していた弟の義視と和睦し、義視の嫡男・足利義材(義稙)を自らの養子に迎えることで第10代将軍に指名して後事を託した。情報源のサイトへ   1489 銀閣寺(ぎんかくじ)をつくりはじめる。情報源のサイトへ
      1490 死 去(55才)情報源のサイトへ
      1490 カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 足利氏 | 征夷大将軍 | 茶人 | 室町時代の人物 | 1436年生 | 1490年没情報源のサイトへ
1493 細川政元と共にクーデターを起こし義材を廃し、義政の甥で堀越公方足利政知の子足利義澄を将軍に就ける(明応の政変)。だが、寿命もあって情報源のサイトへ      
1493 義視の死後、義材も父の遺志を継ぎ富子に反発。だが、明応2年情報源のサイトへ      
1496 死去してしまう。享年57情報源のサイトへ      
1496 カテゴリ: 日野家 | 室町時代の人物 | 1440年生 | 1496年没情報源のサイトへ      
1496/6/30 〕)は、室町時代の人物。室町幕府8代将軍足利義政の正室情報源のサイトへ      

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