あしたね年表 | 気になる人物や場所にまつわるできごとを調べてみよう!

気になる人物や場所にまつわるできごとを調べてみよう!

年表トップ > 日本武尊と松尾芭蕉の年表を比べる

ウェブサイト上の情報を調べて見出し情報をまとめた検索結果ページです。事実が正確に並べられた年表ではありませんのでご注意下さい。

日本武尊(やまとたける)

 

松尾芭蕉(まつおばしょう)

/OP003400.JPG
/02basho_top.jpg

松尾芭蕉(まつおばしょう)に関する本・DVD

Ads by Google

日本武尊   松尾芭蕉
年月日 できごと   年月日 できごと
      1644 伊賀上野(三重県上野市)で、土着の郷士・松尾儀左衛門の次男として生まれ、本名を松尾忠右衛門宗房(むねふさ)と云い兄妹は、兄と姉、3人の妹の6人、松尾家は代々伊賀阿拝郡(あはいぐん)拓殖(つげ)郷に住んでいた平家の末流の一族で、父が若い頃に拓殖を離れて上野の赤坂町へ移住して来たようです。情報源のサイトへ
      1644 俳聖・松尾芭蕉は、1644年情報源のサイトへ
      1644 1644〜1694 (正保元年〜情報源のサイトへ
      1644 (1644)伊賀国上野(現、三重県上野市)に生まれる。生涯を旅に過ごし、『奥の細道』『更科紀行』など俳文学の名作を生む情報源のサイトへ
      1648 講和まで情報源のサイトへ
      1648 【ウェストファリア条約締結】情報源のサイトへ
      1651 徳川家光死去。家綱4代将軍に就任】情報源のサイトへ
      1651 【クロムウェルの航海条例】情報源のサイトへ
      1655 【オランダ人の糸割符制を廃し相対貿易とす】情報源のサイトへ
      1656/1/30 藤堂藩伊賀付の侍大将・藤堂新七郎家の跡取りである良忠(俳号・蝉吟)に仕える。情報源のサイトへ
      1656/2 父が没する。情報源のサイトへ
      1657 【江戸明暦の大火】情報源のサイトへ
      1659 【ピレネー条約】情報源のサイトへ
      1659 【江戸両国橋成る】情報源のサイトへ
      1660 【イギリス王政復古】情報源のサイトへ
      1662 明滅亡 パスカル死】情報源のサイトへ
      1663 1663年情報源のサイトへ
      1663 大和郡山では、片桐貞昌(片桐且元の甥)が小泉に「慈光院」を造り情報源のサイトへ
      1664 南都代官所が奈良に設置され、そして、翌々年情報源のサイトへ
      1664 【浅井了意「浮世物語」】情報源のサイトへ
      1664 【フランス東インド会社再興】情報源のサイトへ
      1665 1665年情報源のサイトへ
      1665 蝉吟が主催して、季吟の師であり近世俳諧の祖と云われた貞徳(ていとく)の十三回忌追善百韻が催されましたが、宗房(芭蕉)も一介の奉公人ながら、蝉吟に寵愛され、破格の待遇で、百韻の連衆に加わりました。情報源のサイトへ
      1665 【オランダ風説書の初め】情報源のサイトへ
      1665 片桐貞昌が将軍家綱の点茶師匠になりました。情報源のサイトへ
      1666 1666年情報源のサイトへ
      1666 良忠が歿するとともに仕官を退く。情報源のサイトへ
      1666/3/30 「和州南都之図」と「和州寺社記」が奈良で出来上がりました。情報源のサイトへ
      1666/4 蝉吟公(良忠)が25才で亡くなると、悲嘆にくれた宗房(芭蕉)は後に主家を辞し、北村季吟の門に入って自ら俳諧を学び、初期の俳号を「宗房(そうぼう)」と号し、宗房(芭蕉)23,4歳の春、山の辺の「内山永久寺」に参詣して、下記の句を詠み、現在その廃寺跡に句碑が建っています。なお情報源のサイトへ
      1667 【ネーデルランド戦争情報源のサイトへ
      1670 1670年情報源のサイトへ
      1670 英国内でカトリックを認める代わりにフランスの援助を受ける密約を交わした。情報源のサイトへ
      1670 大和郡山で大火があり、200余戸を焼失し情報源のサイトへ
      1670 【マドリード条約】情報源のサイトへ
      1670 【東廻り航路開く】情報源のサイトへ
      1671 【西廻り航路開く】情報源のサイトへ
      1671 郡山藩主本多政勝が没して、九六騒動が起こりました。情報源のサイトへ
      1672 1672年情報源のサイトへ
      1672/1 俳諧で身を立てることを決意した芭蕉29歳は、菅原神社(上野天満宮)へ30番句合わせた処女作「貝おほひ」1巻を社前に奉納し、自らの文運を祈願してから江戸へ下り情報源のサイトへ
      1672/1/25 『貝おほひ』を伊賀上野菅原神社に奉納。春、江戸に下る情報源のサイトへ
      1673 【イギリス審査律】情報源のサイトへ
      1673 【分地制限令を布く】情報源のサイトへ
      1674 芭蕉は、江戸で北村季吟を訪ね、本格的に俳諧師の道を歩み始め、33才の時に俳号を「桃青(とうせい)」と号し、37才の時、「泊船堂(はくせんどう)」とも号して、38才の時、門人の李下(りか)から贈られた植物の名に由来した庵の名「芭蕉」を号にしたけど、全部で13の号が知られています。情報源のサイトへ
      1676 1676年情報源のサイトへ
      1676/6 芭蕉33歳は、伊賀上野へ帰り、また、下記の句碑は上野天満宮に建っています。情報源のサイトへ
      1677 1677年情報源のサイトへ
      1680 までの足掛け4年間、芭蕉は武(ぶ)の小石川の水道工事に従事し、ほぼ年に一度の割合で、樋(とい)のない開渠(かいきょ)部分の底をさらう工事を、数百人の人足を使って請け負いました。情報源のサイトへ
      1680 深川に草庵を結ぶ。門人の李下から芭蕉を贈られ、芭蕉の木を一株植えたのが大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付けた情報源のサイトへ
      1682 1682年情報源のサイトへ
      1682 天和の大火(いわゆる八百屋お七の火事)で庵を焼失し、甲斐国谷村藩(山梨県都留市)の国家老高山伝右衝門に招かれ流寓する。情報源のサイトへ
      1682/11/30 奈良では、「大和名所記(和州旧蹟幽考)」が刊行されています。情報源のサイトへ
      1682/12 江戸馬込の大円寺から出火した大火によって、深川にあった芭蕉の草庵も焼失し、焼け出された芭蕉は、その後漂泊生活を送り情報源のサイトへ
      1684 1684年情報源のサイトへ
      1684/8 芭蕉41歳は、江戸を立って「甲子吟行(かしぎんこう)」で知られる旅に出て情報源のサイトへ
      1684/8 松尾芭蕉が門人千里とともに「野ざらし紀行」の旅へ。情報源のサイトへ
      1684/9 故郷の伊賀上野を訪ね、母の墓参りをして、その足で奈良の「お水取り」を見て,京都、滋賀、美濃大垣、名古屋と巡り歩き、江戸へ戻ったのは情報源のサイトへ
      1685 (1685)。そのとき千那・尚白など大津最初の蕉門が誕生した情報源のサイトへ
      1685/3/30 本多忠平が大和郡山城主になりました。情報源のサイトへ
      1685/4 でしたが、この旅の紀行文が「野ざらし紀行」で、門人苗村千里の招きで、「竹内の興善庵」に10日間滞在し、千里の案内で「當麻寺」にも参詣して諸仏を拝み、その合間に芭蕉が詠んだ句が次で、現在「竹内街道」沿いに「綿弓(わたゆみ)塚」があり、また、吉野の「西行庵」にも行き情報源のサイトへ
      1686 芭蕉43歳の時、かの有名な蛙の句を詠み、その句碑は現在、蓑虫庵の「古池塚」と、上野市永田の「ふるさと芭蕉の森」に建っていますが、上野市平野の「くれは水辺公園」と共に「ふるさと芭蕉の森」には、他にも沢山の芭蕉の句碑(全部で8基)が建っています。情報源のサイトへ
      1686 1686年情報源のサイトへ
      1687 1687年情報源のサイトへ
      1687/8 芭蕉44歳は、鹿島、潮来に遊び、この時の紀行文が「鹿島詣(かしまもうで)」で、茨城から戻ると情報源のサイトへ
      1687/10 芭蕉は再び東海道の旅に出て、兵庫の須磨から明石まで足を伸ばし、この時の紀行文が「笈(おい)の小文(こぶみ)」で、「葛城一言主神社」にも参拝し、その帰り道情報源のサイトへ
      1687/10/25 松尾芭蕉。「笈の小文」の旅に情報源のサイトへ
      1687/12 上野市赤坂町の生家で、自分の臍(へそ)の緒を見て情報源のサイトへ
      1688 1688年情報源のサイトへ
      1689 弟子の河合曾良を伴って『奥の細道』の旅に出情報源のサイトへ
      1689 1689年情報源のサイトへ
      1689 松尾芭蕉 奥州に旅立つ「奥の細道」情報源のサイトへ
      1689/5/6 本以外での芭蕉像など情報源のサイトへ
      1689/5/16 江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『奥の細道』がある。情報源のサイトへ
      1691 江戸に帰った。情報源のサイトへ
      1691/10/12 (現在は新暦で実施される)は、桃青忌・時雨忌・翁忌などと呼ばれる。時雨は旧暦情報源のサイトへ
      1694 没隠しカテゴリ: 書きかけの節のある項目情報源のサイトへ
      1694 1694年情報源のサイトへ
      1694/11/28 現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師である。幼名は金作情報源のサイトへ
1958 東宝)情報源のサイトへ      
1960 日本武尊』人物叢書、吉川弘文館、1960年情報源のサイトへ      
1977 吉井巌『ヤマトタケル』(学生社、1977年情報源のサイトへ      
1985 上田正昭『日本武尊』(吉川弘文館人物叢書、1985年) ISBN情報源のサイトへ      
1986 ISBN 4086108208情報源のサイトへ      
1994 放映されたTBS系列のアニメ作品についてはヤマトタケル (アニメ)をご覧ください。情報源のサイトへ      
1994/1 本神話情報源のサイトへ      
1994/7 姫の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた(『日本書紀』では「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語した日本武尊が神の怒りをかったことが明記されており、同様に妾の弟橘媛の犠牲によって難を免れたことが記されているが、和歌の挿入はない)。情報源のサイトへ      
1996 新装版) ISBN 4198605408情報源のサイトへ      
2004 OD版) ISBN情報源のサイトへ      

あしたね年表について

このページのトップに戻る