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新田義貞(にったよしさだ)

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新田義貞(にったよしさだ)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1301 新田氏(にったともうじ)の長男として上野(こうずけ 群馬県)で生まれる。 情報源のサイトへ
1318 延暦寺梶井大塔宮に出家。 情報源のサイトへ
1318 31歳で即位。後宇多天皇の次男 情報源のサイトへ
1318/10 義貞の売券案が残っているが売主が新田「貞義」と誤記されており、幕府での新田本宗家の地位の低さをあらわしている。 情報源のサイトへ
1321 から親政をはじめ、吉田定房・北畠親房を登用。王政を復活するため倒幕を目指す 情報源のサイトへ
1322 出家)。「建武の新政」に大蔵卿 情報源のサイトへ
1322 一族の岩松氏系の岩松政経と本宗系に近い大舘氏の大舘宗氏が用水争いを起こした際、幕府に裁定を持ち込んでいる。おそらく義貞の裁定では収まらなかったのであろう 情報源のサイトへ
1324 正中の変」関係者。六波羅に第一次倒幕計画が漏れ捕縛される 情報源のサイトへ /jap27c.jpg /DSCN35321.jpg
1324 正中の変」で捕縛され佐渡に流罪。 情報源のサイトへ /jap27c.jpg /DSCN35321.jpg
1324 正中の変」に鎌倉に赴き後醍醐天皇を弁明。 情報源のサイトへ /jap27c.jpg /DSCN35321.jpg
1325 梶井門主。 情報源のサイトへ
1326 幕府調伏祈願、延暦寺・園城寺山科寺・仁和寺。  情報源のサイトへ
1326 元服し中務卿。 情報源のサイトへ
1330 醍醐天皇の下で関白職。近衛基嗣と嫡流を争う 情報源のサイトへ
1331 楠木正成の挙兵に参加。赤坂城の籠城戦にて戦死 情報源のサイトへ /shimoakasaka.jpg /IMG_55732.jpg
1331 第二次倒幕計画を六波羅探題に密告「元弘の変」。 情報源のサイトへ /4686_01_t.jpg /00001749.JPG
1331 元弘の変」に捕縛され、配所先の下野国にて殺害された。息は宣房に京都にて養育され、持明院党派の公家となる 情報源のサイトへ /4686_01_t.jpg /00001749.JPG
1331 挙兵の陽道の為、比叡山に登る。 情報源のサイトへ
1331 元弘の乱」に鎌倉幕府軍として上洛するが、後醍醐天皇側に走る。天皇の信任を得、寵用される 情報源のサイトへ /4ankokuji.jpg /kouzan.jpg
1331 元弘の乱」に、配所で処刑される。息に日野朝光、邦光 情報源のサイトへ /4ankokuji.jpg /kouzan.jpg
1331 元弘の変」に楠木正成征伐軍に従軍(大和道軍)。無断で帰国 情報源のサイトへ /shimoakasaka.jpg /IMG_55732.jpg /4686_01_t.jpg /00001749.JPG
1331 元弘の乱」に下山し笠置山に籠城する。捕縛され讃岐に流罪 情報源のサイトへ /4ankokuji.jpg /kouzan.jpg
1331 醍醐天皇隠岐脱出に呼応して僧兵を率いて挙兵。楠木正成千早城に逃れ、十津川、熊野、吉野、高野山を拠点に活動する 情報源のサイトへ /shimoakasaka.jpg /IMG_55732.jpg
1331 から始まった元弘の変では、大番役も兼ねて鎌倉幕府に従い、河内国で挙兵した楠木正成千早城の戦いに参加している。しかし、義貞は病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまう 情報源のサイトへ /shimoakasaka.jpg /IMG_55732.jpg /4686_01_t.jpg /00001749.JPG
1331 醍醐天皇(ごだいごてんのう)が元弘の乱(げんこうのらん)をおこす。 情報源のサイトへ /4ankokuji.jpg /kouzan.jpg
1331 北山行幸の際「稜王」の舞を披露『増鏡』。義良親王とともに陸奥に赴任 情報源のサイトへ
1331 笠置山落城に、護良親王の熊野落ちに従う。吉野にて護良親王の影武者として自害 情報源のサイトへ
1331 元弘の変」に後醍醐天皇の笠置山籠城に参陣。総大将となる 情報源のサイトへ /jap27c.jpg /DSCN35321.jpg
1331 護良親王に呼応して挙兵。 情報源のサイトへ
1331/5 うちに上納せよと命じ、これに義貞が反発したという。また、元弘の変で出兵中、ひそかに護良親王から北条氏打倒の令旨を受け取っていたとの説もある 情報源のサイトへ /4686_01_t.jpg /00001749.JPG
1332 捕縛され隠岐に配流される。護良親王、吉野に挙兵 情報源のサイトへ
1332 落城の際に捕縛され六条河原で討たれた。 情報源のサイトへ
1332 還俗。大和吉野に籠城 情報源のサイトへ
1332 醍醐天皇鎌倉幕府にとらえられえ、隠岐島(おきのしま 島根県)に流される。 情報源のサイトへ /A4203020a.jpg
1333 醍醐天王の船上山の綸旨を受け鎮西探題・北条英時を襲撃。少弐貞載の離反により戦死 情報源のサイトへ
1333 義良親王、多賀城へ。成良親王、鎌倉へ派遣 情報源のサイトへ
1333 船上山の後醍醐天皇に塩治高貞とともに出仕。のちに惣領・塩治高貞と対立する 情報源のサイトへ
1333 九州に渡り大宰府を攻略。帰京する 情報源のサイトへ
1333 新田義貞の挙兵に参陣。嫡子・経兼ともに以降の消息不明 情報源のサイトへ
1333 鎌倉侵攻に従軍。越後守護代 情報源のサイトへ
1333 足利千寿王を旗頭に鎌倉幕府を滅ぼす。鎌倉支配をめぐり、足利千寿王を擁する細川和氏・顕氏と対立 情報源のサイトへ
1333 太田守延に奉じられ挙兵。千草忠種とともに六波羅攻略に参加 情報源のサイトへ
1333 鎌倉侵攻の一手大将⑤。堀口貞満とともに巨福呂坂に10万騎 情報源のサイトへ
1333 北畠顕家、顕信とともに陸奥に下る。建武新政に東北の鎮護となる 情報源のサイトへ /20060530124730.jpg /douzou.jpg
1333 佐々木高氏に擁立され近江太平寺城に入城、六波羅南北両探題の北条時益・北条仲時を近江息吹で討つ。後醍醐天皇の意向で九州鎮定に派遣される 情報源のサイトへ
1333 鎌倉乱入後に新田家人となった者か。四天王と呼ばれたのは後世 情報源のサイトへ
1333 岩松経家に従い鎌倉攻略に従軍。息に又太郎・仲泰 情報源のサイトへ
1333 鎌倉極楽寺口防衛軍司令官として新田義貞 情報源のサイトへ
1333 藤房とともに上洛。後醍醐天皇に「治」の字を下賜され改名 情報源のサイトへ
1333 醍醐天皇の復権により西園寺公宗が失脚。再度、内大臣となる 情報源のサイトへ
1333 父・貞重は幕軍として近江に戦死。高重は新田義貞軍に参加し「小手指原の合戦」に鎌倉軍を破る 情報源のサイトへ /hata.jpg /photo_01.jpg
1333 新田軍に加勢。「分部河原の合戦」に鎌倉軍を破る 情報源のサイトへ
1333 大和口から一手大将として京都乱入。 情報源のサイトへ
1333 醍醐天皇討伐軍として高氏の上洛に従う。遠江「薩??の合戦」に畠国清に破れる 情報源のサイトへ
1333 丹波篠村にて鎌倉幕府から離反する。 情報源のサイトへ
1333 武者所第六番。<楠木一門衆?> 情報源のサイトへ
1333 多賀国府に出仕。 情報源のサイトへ
1333 赤松円心に呼応して挙兵。各親王の地方遠征に軍船を提供する 情報源のサイトへ
1333 幕軍として上洛。 情報源のサイトへ
1333 醍醐天皇隠岐を脱出し船上山に挙兵。 情報源のサイトへ
1333 船上山城籠城。後詰軍> 情報源のサイトへ
1333 元弘の乱」に上洛し摂津四天王寺表にて楠木正成と対陣。 情報源のサイトへ /4ankokuji.jpg /kouzan.jpg /IMG_55481.jpg /IMG_55061.jpg
1333 「建武新政」の恩賞方、三番局。山陽道山陰道・畿内担当 情報源のサイトへ
1333/2 隠岐を脱出。 情報源のサイトへ
1333/3 九州にて北条英時に破れ菊池武時戦死。 情報源のサイトへ
1333/4 足利高氏反幕府の挙兵。 情報源のサイトへ
1333/4 千草忠顕、京都に敗退。 情報源のサイトへ
1333/5 上野へ帰った新田義貞は生品明神において挙兵し、東山道を西進して鎌倉進撃を開始した。新田軍は一族や周辺豪族を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて武蔵国へ進む 情報源のサイトへ
1333/5/8 新田義貞は上野国生品明神で鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。この旗揚げ時の新田軍は、義貞以下一族の大館宗氏、堀口貞満、岩松経家、里見義胤、脇屋義助、江田行義、桃井尚義ら総勢150騎ばかりであったと謂われる 情報源のサイトへ
1333/5/8 醍醐天皇の呼びかけに応え、生品明神に一族を集め鎌倉幕府討伐のため挙兵。最初に集まった軍勢はわずか150騎にすぎなかったと伝えられている 情報源のサイトへ
1333/5/16 武蔵国多摩川河畔の分倍河原(現在の東京都府中市)において、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。 情報源のサイトへ
1333/6 帰京。建武新政を開始 情報源のサイトへ
1333/8 多賀城入城情報源のサイトへ /20060530124730.jpg /douzou.jpg
1334 弟・胤平が跡職を継承する。<九州千葉情報源のサイトへ
1334 (1334) 情報源のサイトへ /4ankokuji.jpg /kouzan.jpg /20061123_0.jpg
1334 護良親王、鎌倉に幽閉される。 情報源のサイトへ /4ankokuji.jpg /kouzan.jpg /20061123_0.jpg
1334 皇太子に即位。 情報源のサイトへ
1334 「建武の新政」により摂津守護となった楠木正成に従う。 情報源のサイトへ /dc091551s.jpg /040708EP002.jpg
1334 結城親光・名和長年に捕縛され、鎌倉に配流。 情報源のサイトへ /ayajoenkei.jpg /p_pl_09b.jpg
1334/10 天皇の命で護良親王を捕縛。 情報源のサイトへ
1335 関東足利尊氏追討軍に従軍。義貞の戦死後も越前を転戦するが斯波高経の軍勢に討たれる 情報源のサイトへ /01092101.JPG /tokusodaigongen.jpg
1335 足利尊氏征伐軍の侍大将衆に名前が見えないので、小身(騎少ない)の侍か。> 情報源のサイトへ /01092101.JPG /tokusodaigongen.jpg
1335 征夷大将軍に任官。持明院統光明天皇の皇太子に約束されるが、後醍醐天皇吉野に逃亡し罷免される 情報源のサイトへ
1335 西園寺公宗逮捕の部隊を率いる。 情報源のサイトへ
1335 信濃国で北条氏残党が高時の遺児・北条時行を擁立し、鎌倉を占領する中先代の乱が起きると、足利尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま討伐に向かい、鎌倉に本拠を置いて武家政権の既成事実化をはじめる。尊氏は義貞を君側の奸であるとしてその追討を後醍醐に上奏するが、逆に後醍醐は義貞に尊氏追討令を発し、義貞は尊良親王を奉じて東海道を鎌倉へ向かう 情報源のサイトへ /004.jpg /onakage.jpg
1335 から南朝方として働く。 情報源のサイトへ
1335 足利尊氏討伐軍に三郎左衛門とともに従軍。<金ヶ崎落城に際し長浜とともに討死する由良氏はこのひとか?> 情報源のサイトへ /01092101.JPG /tokusodaigongen.jpg
1335 京都の攻防戦にて戦死。 情報源のサイトへ
1335 公武不和のために新政が瓦解。 情報源のサイトへ
1335 中先代の乱」に武蔵「府中の合戦」に戦死。<土岐家と同様に 情報源のサイトへ /004.jpg /onakage.jpg
1335 奥羽・出羽の軍勢を率いて上洛し足利尊氏九州に追い落とす。しかし 情報源のサイトへ /01092101.JPG /tokusodaigongen.jpg
1335 足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐天皇にそむき、反乱をおこす。 情報源のサイトへ /01092101.JPG /tokusodaigongen.jpg
1336 里見・鳥山一族は京都奪回戦にて足利尊氏本陣に突入し討死。> 情報源のサイトへ /kanjo.JPG /0908-2.jpg
1336 常陸国に派遣され佐竹貞義と抗争。 情報源のサイトへ
1336 足利軍との京都攻防戦にて由良(三郎)左衛門尉とともに戦死。<足利方の高ノ師直や上杉憲房的な存在の人物 情報源のサイトへ
1336 合戸氏は新田荘の留守居を務め、岩松経家、小俣氏の攻撃を受ける。> 情報源のサイトへ
1336 比叡山籠城に相馬とともに軍功。北国落ちに従わず、足利軍に降服するが六条河原にて処刑される 情報源のサイトへ
1336 光明天皇(持明院統)に譲位するが、吉野に拠点を移し南朝を設立。 情報源のサイトへ
1336 北陸軍に従わず後醍醐天皇に随行。伊予守護 情報源のサイトへ /xin_11010205090914087275.jpg /12345083_2005052608464428850200.jpg
1336 湊川の合戦」に軍功。 情報源のサイトへ
1336 北朝に転じた惣領(兄)・重清に代わり、南朝方惣領伊予落ちした脇屋義助を援助 情報源のサイトへ
1336 正月、入京した尊氏と京都市外で再び戦い、奥州より上ってきた北畠顕家と連絡し、京都楠木正成らと連合して足利軍を駆逐する事に成功。再入洛を目指す足利軍を摂津国豊島河原(大阪府池田市)で破る 情報源のサイトへ /PICT01351.jpg /06kusu.jpg
1336 比叡山籠城に北陸道の兵員を率いて参戦。中院定平と河内に落ちる 情報源のサイトへ
1336 「三井寺の合戦」に畑時能と武功を競う。 情報源のサイトへ
1336 千草忠顕に従い出陣し「雲母坂の合戦」に戦死。 情報源のサイトへ
1336 「建武新政」に信濃国司。 情報源のサイトへ
1336 三河吉良荘に乱入。細川頼種、仁木義高を討取る 情報源のサイトへ
1336 北陸遠征に従う南朝方武将> 情報源のサイトへ
1336 北国落ちに従軍した土居(通増)・得能氏は「塩津の合戦」に戦死。 情報源のサイトへ
1336 「多々良浜の合戦」に足利軍に敗北し戦死する。兄弟の戦死に対して宮方からは何の恩賞もなく、父・惟時は武家方に走る 情報源のサイトへ
1336 比叡山籠城。娘婿に宇津宮(武茂)情報源のサイトへ
1336 恒良親王に従い越前下向。<戦国時代に、美濃にて河野氏の流れの稲葉・林・一柳一族が栄えるのも、南北朝の頃の縁かもしれませんね 情報源のサイトへ
1336 金ヶ崎の陣では斯波高経に当初従うが、弟達が脇屋義助を居城に迎えたため新田方に転じる。 情報源のサイトへ
1336 比叡山籠城。<鎌倉時代に但馬・備中に伊達家分家あり 情報源のサイトへ
1336 足利尊氏の西国落ちに従軍。<「正中の変」で討死した(兄?)頼員に代わり土岐惣領職継承 情報源のサイトへ /kanjo.JPG /0908-2.jpg /jap27c.jpg /DSCN35321.jpg
1336 醍醐天皇方に与し、室町幕府下では弟・頼遠が家督を継承するか。> 情報源のサイトへ /xin_11010205090914087275.jpg /12345083_2005052608464428850200.jpg
1336 京都を占領した足利軍に降伏し、陣中にて足利の将・大友貞載を討ち果たし戦死。 情報源のサイトへ /PICT01351.jpg /06kusu.jpg
1336 湊川の合戦」に玉砕。 情報源のサイトへ /PICT01351.jpg /06kusu.jpg
1336 顕家に従い上洛し、足利尊氏を破る。「奥州幕府」式評定衆7人のひとり 情報源のサイトへ /kanjo.JPG /0908-2.jpg
1336 楠木正成北畠顕家らと連絡した宮方勢に京都とその近辺で敗れ海路西走し、途中播磨国の赤松則村(円心)らに助けられ、再興を賭けて九州に下る。尊氏は、足利方に味方した肥前国守護の少弐頼尚らに迎えられる 情報源のサイトへ /xin_11010205090914087275.jpg /12345083_2005052608464428850200.jpg
1336 関東の情勢悪化のため再度、奥州に派遣される。 情報源のサイトへ
1336 偽って投降し大友貞載を討つ。 情報源のサイトへ
1336 新田義貞の足利征伐軍に弟・武吉とともに従軍。京都で新田義貞軍として活躍する 情報源のサイトへ
1336 新田義貞とともに出陣し、仁木頼章、上杉重能軍との「六条大宮の合戦」に草野秀永に討たれ戦死。 情報源のサイトへ
1336 足利方に属し本領安堵。楠木正行の遺児・教正を養子とする 情報源のサイトへ
1336 湊川の戦いで新田義貞、楠木正成らを破り京都へ入り、施政方針を定めた建武式目を制定する。尊氏は後醍醐から三種の神器を接収して光明天皇を即位させ 情報源のサイトへ /utsu_bakuf.jpg /inamuragasaki.JPG /xin_11010205090914087275.jpg /12345083_2005052608464428850200.jpg
1336/4 武者所六番。<楠木一門衆?> 情報源のサイトへ
1336/5 正成とともに「湊川の合戦」にて戦死。正成の一族16人のひとり 情報源のサイトへ
1336/5/25 摂津国湊川(現、兵庫県神戸市中央区兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞、楠木正成の軍との間で行われた合戦である。 情報源のサイトへ /kanjo.JPG /0908-2.jpg /xin_11010205090914087275.jpg /12345083_2005052608464428850200.jpg /PICT01351.jpg /06kusu.jpg
1336/6 比叡山籠城戦に「雲母坂の合戦」にて足利家執事・高ノ師重を討取る。 情報源のサイトへ
1336/9 四国上陸。伊予国忽那滞在 情報源のサイトへ
1337 小田治久と結び常陸乱入。上洛 情報源のサイトへ
1337 北畠顕家の南征軍に上野国で参加、七歳。父とは行動を別とし関東で軍事行動 情報源のサイトへ
1337 兄の戦死後家督。南朝方として働く 情報源のサイトへ
1337 新田義貞は北陸で戦力を整えようとするが失敗し、足利軍に攻められ 情報源のサイトへ
1337 二回に亘り足利尊氏討伐のために上洛。 情報源のサイトへ /b1_imiw2.jpg /b1_imiw3.jpg
1337 瓜生保、天野、小野寺、斉藤とともに金ヶ崎城を救援に向かい、瓜生保・義鑑房とともに戦死。 情報源のサイトへ
1337 河内国の「東条の合戦」には武家方。息の光重は楠木正行の家老和田氏を討つ 情報源のサイトへ /b1_imiw2.jpg /b1_imiw3.jpg
1337 北朝方・細川顕氏の与力・土屋宗直に占領された河内国八尾城を攻囲。 情報源のサイトへ
1337 越前金ヶ崎城の籠城戦にて新田義顕とともに戦死。 情報源のサイトへ
1337/1 高ノ師軍と対峙。 情報源のサイトへ
1337/2 金ヶ崎救援に出陣するが敗北し戦死。<若狭に縁があり?安芸武田家と嫡流を争う甲斐武田氏か?> 情報源のサイトへ
1337/3/6 落城し、尊良親王、義顕は自害し、恒良親王は捕らえられへ護送される。 情報源のサイトへ
1337/6 斯波高経の足羽城を総攻撃しない新田義貞に業を煮やし離反。藤島城主 情報源のサイトへ
1337/8 北畠顕家に従い再度上洛、土岐頼遠との「青野原の合戦」に打撃を受け、近江の高ノ師直軍を避けて伊勢に入る。大和から京都奪還を計画するが、桃井直常・直信兄弟に「般若坂の合戦」で敗北 情報源のサイトへ
1338 北畠親房とともに東国に向け出航するが遭難。遠江の井伊に居住する 情報源のサイトへ /CKIZU018.JPG
1338 高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れ北畠顕家とともに戦死。 情報源のサイトへ /P61900561.jpg /ise_map.jpg
1338 足立、本庄とともに丹波高山寺に挙兵。 情報源のサイトへ
1338 播磨東条に挙兵。播磨島軍と抗争 情報源のサイトへ
1338 東国に向かい神宮寺城主・小田治久に迎えられる。 情報源のサイトへ /CKIZU018.JPG
1338 四国に渡海。錦打入道の後見で土佐「大高坂城攻撃」 情報源のサイトへ
1338 新田義貞の要請で前遠征。義貞の戦死により帰 情報源のサイトへ
1338 捕縛され京都の花山院幽閉される。 情報源のサイトへ
1338 父・宗広が伊勢に死去すると中立し、南朝と距離を置く。 情報源のサイトへ
1338 紀清両党を率いて吉野に参じる。 情報源のサイトへ /P61900561.jpg /ise_map.jpg
1338 越前陥落後は伊予にて脇屋義助を援助。息の義冬は幕府に降服する 情報源のサイトへ
1338 カテゴリ: 鎌倉時代の武士 | 南北朝時代の人物 (日本) | 新田氏 | 1301年生 | 1338年没 情報源のサイトへ
1338 越前(えちぜん 福井県)の灯明寺畷(とうみょうじなわて)で斯波高経 情報源のサイトへ
1338/1/30 急死する。 情報源のサイトへ
1338/3 斯波高経の府中城を奪取。越前70カ城を平定する 情報源のサイトへ
1338/7 武家方に寝返った平泉寺衆徒が籠もる藤島を攻める味方部隊を督戦に向かうが、越前国藤島の燈明寺畷(福井県福井市新田塚)で黒丸城から加勢に向かう敵軍と偶然遭遇し戦闘の末戦死した。『太平記』においては、乗っていた馬が矢を受けて弱っていたため堀を飛び越えられず転倒し、左足が馬の下敷きになったところに流れ矢を眉間に受け、自分で首を掻き切ったと記述されている 情報源のサイトへ
1338/7 新田義貞、福井近郊灯明寺畷にて戦死。37歳 情報源のサイトへ
1338/9 義良親王を補佐し関東に渡海。途中遭難し伊勢吹上に病没 情報源のサイトへ

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