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志賀直哉(しながなおや)

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志賀直哉(しながなおや)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1883 志賀 直哉(しが なおや、明治16年 情報源のサイトへ
1883 志賀直哉 生 作家。「暗夜行路」が代表作[ 情報源のサイトへ
1883/2/20 陸前石巻(現在の石巻住吉町)に、銀行員の父直温(なおはる)、母銀の次男として志賀直哉生まれる。祖父直道は旧相馬中村藩士で、二宮尊徳の門人 情報源のサイトへ
1889 学習院の初等科へ入学 情報源のサイトへ
1895 学習院の中等科へ進学。 情報源のサイトへ
1901 足尾銅山鉱毒事件の見解について、父と衝突。以後の決定的な不和のキッカケとなる 情報源のサイトへ /P1040418.jpg /as_jiken_01.jpg
1906 東京帝国大学へ入学。 情報源のサイトへ
1907 父と結婚についての問題で再度衝突。 情報源のサイトへ
1907/4/4 会》をつくり、毎月創作を批評しあう。また、美術への関心も深める 情報源のサイトへ
1908 処女作となる『或る朝』を発表。 情報源のサイトへ
1908 ごろ、7年間師事した内村鑑三の下を去り、キリスト教から離れる。国文科に転じた後に大学を中退した 情報源のサイトへ
1910 学習院時代からの友人武者小路実篤らと、文芸雑誌『白樺』を創刊した。このころ、元々作家となること反対していた父との対立が結婚問題などにより、さらに深まったため家を出る 情報源のサイトへ /saneatsuphoto.jpg /04100415.P1010115.JPG
1910 (1910)、武者小路実篤有島武郎らと『白樺』を創刊し、「網走まで」を発表。その後尾道松江京都などに居を移し、執筆を中断した時期を経て、『城の崎にて』(1917)、『和解』(1917)、『暗夜行路』(1921~1937)などを著す 情報源のサイトへ /saneatsuphoto.jpg /04100415.P1010115.JPG /travel-urabe104zy.jpg /N_231_m.jpg
1910/8 除隊。 情報源のサイトへ
1912 『大津順吉』『正義派』を発表。 情報源のサイトへ
1912/10 父との不和が原因で、東京を離れ広島県尾道市に渡る。 情報源のサイトへ
1913 『清兵衛と瓢箪』『范の犯罪』を発表。 情報源のサイトへ
1914 勘解由小路康子(武者小路実篤の従妹にあたる)と婚約。 情報源のサイトへ /illust_yanagi_l.gif /03_s.jpg
1915 柳宗悦にすすめられて我孫子に移住。 情報源のサイトへ /illust_shiga_l.gif
1916/12 我孫子(東葛飾郡村根戸船戸1090)に転居。我孫子には志賀直哉・柳宗悦が住み、後にバーナード・リーチも移住 情報源のサイトへ /illust_musha_l.gif /01_s.jpg
1917 『城ノ崎にて』『和解』を発表。 情報源のサイトへ
1919/11/30 改造の文芸欄担当記者として志賀直哉を知り、暗夜行路を改造に貰った。 情報源のサイトへ
1920 『小僧の神様』『焚火』を発表。 情報源のサイトへ
1921 著者唯一の長編小説である『暗夜行路』(1921年 - 情報源のサイトへ
1922 そのヒロインのりんが亡くなった。志賀直哉に誘われ、志賀の住む我孫子へ移った 情報源のサイトへ
1925 京都山科から奈良市幸町に引っ越してきた志賀は、奈良公園に隣接し若草山の眺望も良い高畑に居宅を 情報源のサイトへ
1925 以来住んだ奈良を引き上げ東京に帰る。 情報源のサイトへ
1926 ,当時奈良に住んだ志賀直哉に師事,小説家としても第八回芥川賞候補になるなど活躍した人物です。 情報源のサイトへ
1927/8/19 付) 情報源のサイトへ
1929 建設した。この際設自ら設計に携わり 情報源のサイトへ
1930/12 新しき村を離村、志賀直哉が住む奈良に移る。以後、村外会員となり、村の財政と活動を外から支えた 情報源のサイトへ
1931/11 訪ねて来た小林多喜二を宿泊させ懇談。 情報源のサイトへ /tezuka.jpg /letter.jpg
1933 『万暦赤絵』を発表。 情報源のサイトへ
1935 インタビューでは、人をうつ力があれば主人持ちでもかまわないという趣旨の発言をしている(聞き手は貴司山治)。また、戦後一時期新日本文学会の賛助会員として名を連ねたが、中野重治が発表した文章に不快感をおぼえ、賛助会員を辞退したということもあった 情報源のサイトへ
1935 取材) 情報源のサイトへ
1937 近代日本文学の代表作の一つに挙げられ、小説家・大岡昇平は近代文学の最高峰であると讃えている。 情報源のサイトへ
1937 『暗夜行路』の後編を発表し、完結させる。 情報源のサイトへ
1938 から鎌倉に移り住むまでの10年間を家族と共にこの家で過ごした。数寄屋造りに加え洋風や中国風の様式も取り入れており、洋風サンルームや娯楽室、書斎、茶室、食堂を備えたモダンかつ合理的な建物であった 情報源のサイトへ
1938 東京に居を戻したものの、戦後の一時期、熱海大洞台に移住、『山鳩』『朝顔』などの小品を発表した。生涯を通じて極めて寡作であった 情報源のサイトへ
1946 熱海志賀邸を訪問した際、斜視の青年に向かって志賀が突然「君の眼は、こうこう(と首を左右に振り)なってるので、どっちを見ればいいのか、わかりゃしない」と怒鳴りつけたため、青年の心情を思いやって居たたまれない思いをしたことを記している(『文芸編集者の戦中戦後』大空社 情報源のサイトへ
1947/5/8 付) 情報源のサイトへ
1948/7 志賀直哉、長与善郎、安倍能成らと共に『心』を創刊(〜 情報源のサイトへ
1949 (1949)文化勲章受章。 情報源のサイトへ
1949 親交を深めていた谷崎潤一郎と共に文化勲章受章。交友関係では、学習院以来の武者小路実篤、細川護立、柳宗悦らの他、梅原龍三郎、安倍能成、広津和郎、安井太郎、谷川徹三ら、限定されつつも一流の文化人と交流があり、その様子は、残された多くの日誌、書簡にみることができる 情報源のサイトへ /S025R101.jpg
1956 随筆では、学習院の下級生滋野清武に「鉄拳制裁」と称して集団で暴力をふるった体験を述べた後で、「兎に角、妙に人に好かれぬ男だつた」と被害者への中傷で文を結んでいる。 情報源のサイトへ
1956 好人物の夫婦1956年 情報源のサイトへ
1957 志賀直哉夫妻と小旅行する会に同行した。 情報源のサイトへ
1957 正義派1957年 情報源のサイトへ
1959 東宝 情報源のサイトへ
1971 88歳で肺炎と衰弱のため没した。 没後、多くの原稿類は日本近代文学館に寄贈された 情報源のサイトへ
1971 77歳、志賀直哉没。高山市名誉市民になった 情報源のサイトへ
1971 カテゴリ: 日本の小説家 | 宮城県出身の人物 | 文化勲章受章者 | 1883年生 | 1971年没 情報源のサイトへ
1971/10/21 日本の小説家。 情報源のサイトへ
1971/10/21 志賀直哉(作家『暗夜行路』)[1971年10月21日没] 情報源のサイトへ

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