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年表トップ > 徳川慶喜と松平容保の年表を比べる

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徳川慶喜(とくがわよしのぶ)

 

松平容保(まつだいらかたもり)

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徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に関する本・DVD

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徳川慶喜   松平容保
年月日 できごと   年月日 できごと
1837 徳川慶喜、板垣退助生れる 情報源のサイトへ      
1837 徳川家慶情報源のサイトへ      
1837 水戸藩主(みとはんしゅ)の徳川斉昭(とくがわ なりあき)の7男として生まれる。情報源のサイトへ      
1837 ● 活やくした時代   1837年〜情報源のサイトへ      
1837/9/29 江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれる。母は正室・登美宮吉子[1]情報源のサイトへ      
      1846/4/27 陸奥国会津藩主の後継者となる。情報源のサイトへ
1847 徳川慶喜、一ッ橋家を相続。情報源のサイトへ      
1847 (1847)一橋家を相続。第13代将軍家定の継嗣をめぐり、和歌山藩主徳川慶福を推す井伊直弼と対立情報源のサイトへ      
1847 一橋家(ひとつばしけ)をつぐ。一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)をなのる情報源のサイトへ      
1847/8/1 幕府より水戸藩に七郎麻呂[2]を御三卿・一橋家の世嗣とする旨の台命が下る。 これを受けて七郎麻呂は情報源のサイトへ      
1847/9/1 一橋家を相続し情報源のサイトへ      
1847/12/1 第12代将軍・徳川家慶から偏諱を賜わり慶喜と名乗る。情報源のサイトへ      
      1852 会津藩を継ぐ。情報源のサイトへ
      1852 第9代:1852年 -情報源のサイトへ
      1852/2/25 藩主となる。肥後守に転任情報源のサイトへ
1853 徳川家定情報源のサイトへ      
1853 黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ第13代将軍・徳川家定は病弱で男子を儲ける見込みがなかったため、将軍継嗣問題が浮上する。慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立した情報源のサイトへ      
1854 幕府が日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を結ぶ。情報源のサイトへ      
1855/12/3 一条美賀と結婚(維新後に美賀子と改名)。美賀との間には女子(瓊光院殿池水影現大童女)が情報源のサイトへ      
1855/12/3 一条忠香の養女・美賀と結婚。参議に補任情報源のサイトへ      
1857 徳川家定の後継問題で有力候補となる。情報源のサイトへ      
1858 徳川家茂情報源のサイトへ      
1858 徳川家茂(とくがわ いえもち)が14代将軍なる。情報源のサイトへ      
1858/6/20 将軍家定の養子となる。情報源のサイトへ      
1858/7/20 早世。以後、美賀との間に子は生まれず、明治になって誕生した10男11女は皆、二人の側室との間に儲けた子女である情報源のサイトへ      
1858/7/20 早世。以後、美賀との間に子女は生まれず、明治になって誕生した10男11女は皆、二人の側室との間に儲けた子女である情報源のサイトへ      
1859 隠居謹慎処分となる(安政の大獄)。情報源のサイトへ      
1859/8/27 安政の大獄において隠居謹慎蟄居の処分を受ける。情報源のサイトへ      
1860 桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)がおこる。情報源のサイトへ      
1860/9/4 謹慎は解除される。情報源のサイトへ      
1860/9/4 隠居謹慎蟄居解除。情報源のサイトへ      
1862 (1862)朝命により将軍後見職となり、幕政改革を推進。情報源のサイトへ   1862 新設の幕政参与に任ぜられ、のち新設の京都守護職に推される。元々病弱な体質でこの当時も風邪をひき病臥していた容保は、はじめ家臣の西郷頼母らの反対により固辞するも、やがてそれが噂になり、面子がなくなった養子の容保は慶永らの強い勧めによりこの大役を引き受けることとなる情報源のサイトへ
1862 島津久光率いる薩摩藩兵に護衛されて勅使・大原重徳が江戸に入り、「徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽(慶永)を大老に登用すべし」という孝明天皇の勅命が下される。情報源のサイトへ      
1862 一橋家の再び当主になる。情報源のサイトへ      
1862/7/6 幕府は慶喜を将軍後見職、春嶽を政事総裁職に任命した。慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行なった情報源のサイトへ      
1862/7/6 一橋家を再相続。同日、(勅命を受け)将軍後見職就任情報源のサイトへ      
      1862/7/9 春嶽は新設の政事総裁職に就任し、慶喜とともに京都守護職の設置、会津藩主松平容保の守護職就任、将軍の上洛など公武合体政策を推進する(→文久の改革)。春嶽は熊本藩出身の横井小楠を政治顧問に迎え、藩政改革幕政改革にあたって彼の意見を重用した情報源のサイトへ
      1862/8/18 政変では薩摩藩と手を結んで御所を封鎖し、三条実美ら長州派を朝廷から排除した。その後は朝廷参預に任命されたが、参預会議は崩壊情報源のサイトへ
1862/11 権中納言転任。情報源のサイトへ      
      1862/12/24 会津藩主松平容保が、京都守護職として入京しました。情報源のサイトへ
      1863/8 「新撰組」に改称情報源のサイトへ
      1863/8/18 公武合体派によるクーデターがありました。午前1時に公武合体派の公卿が京都守護職松平容保や薩摩藩に参内を命じ、朝4時頃、御所内の9つの門が会津、薩摩、淀などの藩によって固められました情報源のサイトへ
1863/12 朝議参預就任。情報源のサイトへ      
      1864 松平容保、軍事総裁職となる情報源のサイトへ
      1864/2/12 参議に補任されるも固辞。情報源のサイトへ
1864/3/25 将軍後見職辞任。同日、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮転職情報源のサイトへ      
1864/11/30 号は就任年情報源のサイトへ      
1866 将軍の地位につきますが、海外からの圧力と国内の倒幕[とうばく]の動きに負け情報源のサイトへ   1866 孝明天皇が崩御し、容保本人は守護職辞退を何度も申し立てるが幕府も朝廷も認めなかった。朝廷の命令により、容保は京都残留となる情報源のサイトへ
1866 徳川慶喜、15代将軍になる。情報源のサイトへ      
1866 徳川慶喜情報源のサイトへ      
1866 (1866)第15代将軍となる。高知藩の建白により情報源のサイトへ      
1866 14代将軍の徳川家茂がなくなる。情報源のサイトへ      
1866/7 晦日、禁裏御守衛総督辞職。情報源のサイトへ      
1866/8/20 徳川宗家相続。情報源のサイトへ      
1866/12/5 徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(将軍在職:慶応2年12月5日情報源のサイトへ      
1866/12/5 将軍宣下を受けて将軍に就任した。これはいわば恩を売った形で将軍になることで、政治を有利に進めていく狙いがあった情報源のサイトへ      
1866/12/5 正二位権大納言兼右近衛大将に叙任。同日、征夷大将軍就任情報源のサイトへ      
1866/12/5 徳川慶喜(30)第15代将軍に就任(12月5日)情報源のサイトへ      
1867 徳川慶喜が大政奉還(たいせいほうかん)をする。情報源のサイトへ   1867 松平容保、二条城において板倉勝静・永井尚志らの登城往復に新選組の警護を提案。情報源のサイトへ
1867 大阪での慶喜情報源のサイトへ      
1867 第47代:1867年 -情報源のサイトへ      
1867 将軍の地位を朝廷[ちょうてい]に返し、江戸幕府は終わります。情報源のサイトへ      
1867 第15代:1867年 -情報源のサイトへ      
1867 兵庫開港勅許。徳川慶喜、大政奉還情報源のサイトへ      
      1867/4/23 参議に補任(以後、会津宰相の称が生じる)。情報源のサイトへ
1867/9 内大臣転任。右近衛大将如元情報源のサイトへ      
1867/10 大政奉還を行い、徳川家の復権を図るも、倒幕派に敗れ恭順、謹慎。維新後の情報源のサイトへ      
1867/10/14 将軍徳川慶喜が大政奉還を決め、朝廷に上奏しました。これにより初代徳川家康以来、15代、270年間続いてきた徳川幕府も、事実上終わりを告げます情報源のサイトへ      
1867/10/14 明治天皇に政権返上を上奏し、翌日勅許された(大政奉還)。当時の朝廷に行政能力が無いと判断し、列侯会議を主導する形での徳川政権存続を模索していたと言われる情報源のサイトへ      
1867/10/14 大政奉還。情報源のサイトへ      
1867/12/9 征夷大将軍職辞職。情報源のサイトへ      
1868 戊辰戦争(ぼうしんせんそう)が始まる。情報源のサイトへ      
1868/1/3 御三卿・一橋徳川家の第9代当主情報源のサイトへ      
1868/1/3 勃発した鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が形勢不利になったと見るや、まだ兵力を十分に保持しているにも関わらず、兵を置き去りにし、陣中に伴った愛人と共に軍鑑開陽丸で江戸へ退却した。慶喜がこのような行動を取った動機については幾つかの説があるが、今に至るも不明である情報源のサイトへ      
      1868/1/10 解官。情報源のサイトへ
1868/2 勝海舟に事態収拾を一任して自らは上野の寛永寺大慈院において謹慎する。また、徳川宗家の家督は養子である田安亀之助(のちの徳川家達)に譲ることになった情報源のサイトへ      
      1868/2/4 致仕。藩主の地位を降りる情報源のサイトへ
      1868/2/8 登城禁止処分となる。情報源のサイトへ
1868/7 徳川家は駿府に移された。これにより、徳川家による政権は幕を閉じた情報源のサイトへ      
      1868/8/23 早朝、城下の藩士の屋敷に火の手が上がっているのを見て、鶴ケ城が燃えたと勘違いし、藩主の松平容保も既に死んだと思い込んで、これに殉じたものです。情報源のサイトへ
      1868/9/22 会津藩主・松平容保はついに白旗をかかげました。情報源のサイトへ
      1868/11/2 因幡国鳥取藩に幽閉。情報源のサイトへ
      1868/12/7 鳥取藩に永預り処分となる。情報源のサイトへ
1869 (1869)謹慎を解かれるが駿府に居住。情報源のサイトへ      
1869 謹慎(きんしん)を許される。情報源のサイトへ      
1869/9 戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され、引き続き、駿府改め静岡に居住した。生存中に将軍職を退いたのは11代家斉以来であるが、過去に大御所として政治権力を握った前将軍とは違い、政治的野心は全く持たず、写真、狩猟、投網、囲碁、謡曲など趣味に没頭する生活をおくり、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた情報源のサイトへ      
1869/9/28 謹慎解除。情報源のサイトへ      
      1871/3/14 陸奥国斗南藩に預替となる。情報源のサイトへ
1871/6/29 長男:敬事(明治4年6月29日-情報源のサイトへ      
      1871/8 東京に移住。情報源のサイトへ
1871/9/8 次男:善事(明治4年9月8日-情報源のサイトへ      
1872/10/5 三男:琢磨(明治5年10月5日-情報源のサイトへ      
1874/2/21 四男:徳川厚(明治7年2月21日-情報源のサイトへ      
1875/4/3 次女:金子(明治8年4月3日-情報源のサイトへ      
1878/8/17 五女:脩子(明治11年8月17日-情報源のサイトへ      
1878/8/17 六男:斉(明治11年8月17日-情報源のサイトへ      
      1880 日光東照宮の宮司となった。正三位まで叙任し情報源のサイトへ
      1880 その後は鳥取藩に預けられ東京に移されて蟄居するが、嫡男・容大(かたはる)が家名存続を許されて華族に立てられた。容保はそれからまもなく蟄居を許され、明治13年情報源のサイトへ
      1880/2/2 栃木県日光市山内鎮座の日光東照宮宮司に就任する。情報源のサイトへ
      1880/3/13 東京都台東区上野鎮座の上野東照宮祠官を兼務する。情報源のサイトへ
      1880/5/18 正四位に昇叙。情報源のサイトへ
1880/8/24 六女:良子(明治13年8月24日-情報源のサイトへ      
      1884 日光東照宮宮司並びに上野東照宮祠官を免職。情報源のサイトへ
1884/9/2 七男:徳川慶久(明治17年9月2日-情報源のサイトへ      
1885/9/22 八男:寧(明治18年9月22日-情報源のサイトへ      
      1887/9 日光東照宮宮司に復職。栃木県日光市山内鎮座の二荒山神社宮司も兼務する情報源のサイトへ
1887/10/31 九男:徳川誠(明治20年10月31日-情報源のサイトへ      
      1887/12/6 従三位に昇叙。情報源のサイトへ
1888/6/20 従一位昇叙。情報源のサイトへ      
1890/2/25 池田輝知養子情報源のサイトへ      
1890/12/30 結婚、徳川達道夫人情報源のサイトへ      
      1893 カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 松平氏 | 尾張徳川氏 | 江戸の大名 | 親藩 | 幕末徳川側人物 | 1836年生 | 1893年没情報源のサイトへ
      1893/9/22 二荒山神社宮司辞職。情報源のサイトへ
      1893/12/4 正三位に昇叙。情報源のサイトへ
      1893/12/5 東京・目黒の自宅にて肺炎のため死亡する。享年59情報源のサイトへ
      1893/12/5 死亡。情報源のサイトへ
1895/12/7 結婚、松平斉夫人情報源のサイトへ      
1895/12/26 結婚、蜂須賀正韶夫人情報源のサイトへ      
1897 東京・巣鴨に移り住む。情報源のサイトへ      
1897/1/9 結婚、伏見宮博恭王妃情報源のサイトへ      
1897/11/19 東京・巣鴨に移住。情報源のサイトへ      
1898/3/2 明治天皇情報源のサイトへ      
1899 徳川慶喜が明治維新(めいじいしん)以来、はじめて明治天皇に会う。情報源のサイトへ      
1899/1/20 勝海舟婿養子情報源のサイトへ      
1901/5/7 結婚、大河内輝耕夫人情報源のサイトへ      
1902 公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就いて、35年ぶりに政治に携わることになった。情報源のサイトへ      
1903 徳川慶喜が公爵(こうしゃく)になる。情報源のサイトへ      
1906/5/19 結婚、四条隆愛夫人情報源のサイトへ      
1908/4/30 大政奉還の功により、明治政府から勲一等旭日大綬章を授与される。情報源のサイトへ      
1910 嫡男・慶久に家督を譲って貴族院議員を辞し、隠居。再び趣味に没頭する生活をおくる情報源のサイトへ      
1911/4/29 結婚、徳川圀順夫人情報源のサイトへ      
1913 感冒にて死去。享年77(満76歳と情報源のサイトへ      
1913 東京で死ぬ(77才)情報源のサイトへ      
1913 カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 征夷大将軍 | 幕末徳川側人物 | 徳川氏 | 水戸徳川氏 | 一橋徳川氏 | 武蔵国の人物 | 明治時代の人物 | 明治維新 | 日本の華族 | 日本の国会議員 (1890-1947) | 1837年生 | 1913年没情報源のサイトへ      
1913/25 徳川歴代将軍の中でも最長命であった。情報源のサイトへ      
1913/11/22 (1837~1913)情報源のサイトへ      

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