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後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)

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後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1180/7/14 鳥羽天皇(ごとばてんのう、治承4年7月14日 情報源のサイトへ /510ba10.jpg /510ba08.jpg /510ba09.jpg
1183 安徳天皇が退位しないまま後鳥羽天皇が即位したため寿永2年 情報源のサイトへ /imayama.jpg /minase29.jpg /syonenji.jpg /gotoba.jpg
1183 平氏が木曾義仲の軍に京都から追い出された為、平氏とともに西走した安徳天皇の代わりに新たな帝を立てる必要が生じた。義仲北陸宮を推挙したが、後白河法皇は尊親王を即位させる事に決めた 情報源のサイトへ
1183 から平氏滅亡情報源のサイトへ /yamatotakeru.jpg
1183/8/20 寿永 (1183年8月20日) - 情報源のサイトへ
1185 まで在位期間が2年間重複している。三種の神器を安徳天皇とともに平氏が持ち去ったために神器が無い場合の緊急避難措置として後白河法皇の院宣により即位した 情報源のサイトへ
1192/1/13 条)。 情報源のサイトへ
1192/3 までは、後白河法皇による院政が続いた。後白河の死後は関白九条兼実が朝廷を指導した 情報源のサイトへ
1196 源通親の娘に皇子が産まれた事を機に政変 情報源のサイトへ
1196 政変)が起こり、九条兼実の勢力は朝廷から一掃され、兼実の娘・任子も中宮の位を奪われ宮中から追われた。この政変には頼朝の同意があったとも言う 情報源のサイトへ
1198 院がいつごろから歌作に興味を持ちはじめたかは分明ではないが、通説では建久9年 情報源のサイトへ
1198/1 譲位、ならびに同 情報源のサイトへ
1198/1/11 土御門天皇に譲位し、以後、土御門、順徳、仲恭と 情報源のサイトへ
1198/2/18 諱は尊成(たかひら) 情報源のサイトへ
1198/8 熊野御幸以降急速に和歌に志すようになり 情報源のサイトへ
1199 頼朝の死後も台頭する鎌倉幕府に対しても強硬な路線を採った。 情報源のサイトへ
1199 以降盛んに歌会・歌合などを行うようになった。院は当初から、当時新儀非拠達磨歌と毀誉褒貶相半ばしていた九条家歌壇、ことにその中心人物であった藤原定家の歌風につよい憧れを持っていたらしく 情報源のサイトへ
1200/7 主宰した正治初度百首和歌においては、式子内親王、藤原良経、藤原俊成、慈円、寂蓮、藤原定家、藤原家隆ら、九条家歌壇・御子左家系の歌人に詠進を求めている。この百首歌を契機に、院は藤原俊成に師事し、定家の作風に直接の影響を受けるようになり、その歌作は急速に進歩してゆく 情報源のサイトへ
1200/8 以降、正治後度百首和歌を召す。対象となった歌人は藤原雅経、源具親、鴨長明、宮内卿ら院の近臣を中心とする新人のグループで、この時期、院は熱心に新たな歌人を発掘し、周囲に仕えさせることで、後に新古今歌人群のなかにあって、九条家グループ、御子左家グループと鼎立する院近臣グループの基盤がここに整ったといえる 情報源のサイトへ
1201 二度の百首歌を経ていよいよ和歌に志を深めた院はついに勅撰集の撰進を思い立ち、建仁元年 情報源のサイトへ
1201/7 和歌所を再興する。寄人は藤原良経、慈円、源通親、源通具、釈阿(俊成)、藤原定家、寂蓮、藤原家隆、藤原隆信、藤原有家(六条藤家)、源具親、藤原雅経、鴨長明、藤原秀能の十四名(最後の三名は後に追加)、開闔は源家長である 情報源のサイトへ /kumanokodou06010700941.jpg /resize118991.jpg
1201/11 ついに藤原定家、藤原有家、源通具、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮の六人に勅撰集の命を下し、『新古今和歌集』撰進がはじまった。同集の編集にあたっては、『明月記』そのほかの記録から、院自身が撰歌、配列などに深く関与し、実質的に後鳥羽院が撰者の一人であったとも言っても決して過言ではない 情報源のサイトへ /kumanokodou06010700941.jpg /resize118991.jpg
1202 九条兼実が出家し、土御門通親が急死した。既に後白河法皇・源頼朝も死去しており、後鳥羽上皇が名実ともに治天の君となった 情報源のサイトへ
1202/11/30 除目は上皇主導で行われ、藤原定家は「除目偏出自叡慮云々」と記している(『明月記』 情報源のサイトへ
1206 延暦寺堂衆の挙兵を鎮圧。子息・小野成時とともに後鳥羽上皇の側近となる 情報源のサイトへ
1216 (建保4)−現存分−/後鳥羽院政期の上皇の日常記録。散逸しており部分的にしか残っていない 情報源のサイトへ
1219/3/9 後鳥羽上皇の使者が、倉橋長江の地頭解任の要求を幕府に伝えた。 情報源のサイトへ
1221 鳥羽上皇に従い、山城国守護・伊賀光季を討伐。美濃・近江で幕府軍と抗戦し敗北、逃亡する 情報源のサイトへ
1221 まで、3代23年間に渡り上皇として院政を敷く。上皇になると通親をも排し、殿上人を整理(旧来は天皇在位中の殿上人はそのまま院の殿上人となる慣例であった)して院政機構の改革を行うなどの積極的な政策を採り 情報源のサイトへ
1221 承久の乱」に後鳥羽上皇の命を受けた小野盛綱に攻撃される。 情報源のサイトへ /syouen.jpg /gyakusetu.jpg
1221/5/14 後鳥羽上皇は、時の執権北条義時追討の院宣を出し、畿内・近国の兵を召集して承久の乱を起こしたが、幕府の大軍に完敗。わずか2ヶ月あとの 情報源のサイトへ /syouen.jpg /gyakusetu.jpg /C0215.10.jpg /yumi.jpg
1221/7/9 19万と号する大軍を率いて上京した義時の嫡男時によって、後鳥羽上皇は隠岐島(隠岐国海士郡中ノ島、現海士町)に配流された。父の倒幕計画に協力した順徳上皇は佐渡に流され、関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐に遷った 情報源のサイトへ
1226/2 後鳥羽上皇、皇子の鎌倉下向を拒絶。 情報源のサイトへ
1226/5/14 後鳥羽上皇は「北条義時追討」の院宣を出す。 情報源のサイトへ
1233/8 堀河上皇(四条天皇の父)が相次いで亡くなり、これは後堀河上皇の伯父後鳥羽上皇の怨念によるものだと噂された。このため 情報源のサイトへ
1234 隠岐に配流となった後鳥羽上皇の帰洛を幕府に諮ったが失敗に終わり 情報源のサイトへ
1239 隠岐に流される直前に出家して法皇となった後鳥羽上皇は、四条天皇代の延応元年 情報源のサイトへ
1239 カテゴリ: 日本の天皇 | 平安・鎌倉時代の皇族 | 院政 | 鎌倉時代の歌人 | 日本刀の刀工 | 隠岐諸島の歴史 | 隠岐国の人物 | 1180年生 | 1239年没 情報源のサイトへ
1239/2/20 配所にて崩御。 情報源のサイトへ
1239/3/28 平安末期から鎌倉初期の第82代天皇(在位: 情報源のサイトへ
1239/5 顕徳院と諡された。後高倉皇統の断絶によって後嵯峨天皇土御門院皇子)の即位となった 情報源のサイトへ

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