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後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)
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| 年月日 | できごと | 写真 |
|---|---|---|
| 1180/7/14 |
後 |
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| 1183 |
安徳天皇が退位しないまま後 |
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| 1183 |
平氏が木曾 |
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| 1183 |
から |
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| 1183/8/20 |
寿永 (1183年8月20日) -
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| 1185 |
まで在位期間が2年間重複している。三種の神器を安徳天皇とともに平氏が持ち去ったために神器が無い場合の緊急避難措置として後 |
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| 1192/1/13 |
条)。
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| 1192/3 |
までは、後 |
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| 1196 |
源通親の娘に皇子が産まれた事を機に政変
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| 1196 |
政変)が起こり、九条兼実の勢力は朝廷から一掃され、兼実の娘・任子も中宮の位を奪われ宮中から追われた。この政変には頼朝の同意があったとも言う
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| 1198 |
院がいつごろから歌作に興味を持ちはじめたかは分明ではないが、通説では建久9年
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| 1198/1 |
譲位、ならびに同
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| 1198/1/11 |
土御門天皇に譲位し、以後、土御門、順徳、仲恭と
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| 1198/2/18 |
諱は尊成(たかひら)
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| 1198/8 |
熊野御幸以降急速に和歌に志すようになり
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| 1199 |
頼朝の死後も台頭する |
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| 1199 |
以降盛んに歌会・歌合などを行うようになった。院は当初から、当時新儀非拠達磨歌と毀誉褒貶相半ばしていた九条家歌壇、ことにその中心人物であった |
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| 1200/7 |
主宰した正治初度百首和歌においては、式子内親王、藤原良経、藤原俊成、慈円、寂蓮、 |
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| 1200/8 |
以降、正治後度百首和歌を召す。対象となった歌人は藤原雅経、源具親、鴨長明、宮内卿ら院の近臣を中心とする新人のグループで、この時期、院は熱心に新たな歌人を発掘し、周囲に仕えさせることで、後に新古今歌人群のなかにあって、 |
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| 1201 |
二度の百首歌を経ていよいよ和歌に志を深めた院はついに勅撰集の撰進を思い立ち、建仁元年
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| 1201/7 |
和歌所を再興する。寄人は藤原良経、慈円、源通親、源通具、釈阿(俊成)、 |
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| 1201/11 |
ついに |
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| 1202 |
九条兼実が出家し、土御門通親が急死した。既に後 |
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| 1202/11/30 |
除目は上皇主導で行われ、 |
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| 1206 |
延暦寺堂衆の挙兵を鎮圧。子息・小野成時とともに後鳥羽上皇の側近となる
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| 1216 |
(建保4)−現存分−/後鳥羽院政期の上皇の日常記録。散逸しており部分的にしか残っていない
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| 1219/3/9 |
後鳥羽上皇の使者が、 |
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| 1221 |
鳥羽上皇に従い、山城国守護・伊賀光季を討伐。美濃・ |
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| 1221 |
まで、3代23年間に渡り上皇として院政を敷く。上皇になると通親をも排し、殿上人を整理(旧来は天皇在位中の殿上人はそのまま院の殿上人となる慣例であった)して |
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| 1221 |
「 |
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| 1221/5/14 |
後鳥羽上皇は、時の執権 |
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| 1221/7/9 |
19万と号する大軍を率いて上京した義時の嫡男 |
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| 1226/2 |
後鳥羽上皇、皇子の |
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| 1226/5/14 |
後鳥羽上皇は「 |
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| 1233/8 |
後 |
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| 1234 |
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| 1239 |
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| 1239 |
カテゴリ: |
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| 1239/2/20 |
配所にて崩御。
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| 1239/3/28 |
平安末期から |
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| 1239/5 |
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