| 年月日 |
できごと |
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年月日 |
できごと |
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1159 |
平治の乱で 平清盛に敗れ、数え年2歳の牛若は、母の腕に抱かれて2人の同母兄・今若、乙若とともに大和( 奈良県)の山中を逃亡した。しかし常盤は実母が捕まったことを知ると、清盛の元に出頭して3人の子と母の助命を乞い、その許しを得た |
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1180 |
『吾妻鏡』治承4年 |
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1180/8/17 |
兄頼朝が 伊豆で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。秀衡から差し向けられた佐藤 継信、佐藤忠信兄弟等およそ数十騎[4]が同行した |
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1180/10/21 |
条によると、 奥州にいた義経が頼朝の挙兵を知って急ぎ頼朝に合流しようとした際、 藤原秀衡は義経を強く引き留める。しかし義経は密かに館を逃れ出て旅立ったので、秀衡は惜しみながらも留める事を諦め、追って佐藤兄弟を義経の許に送った |
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1181 |
同じく『吾妻鏡』によると、 養和元年 |
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1181/7/20 |
鶴岡 若宮宝殿上棟式典で、頼朝は義経に大工に賜る馬を引くよう命じた。義経が「ちょうど下手を引く者がいないから(自分の身分に釣り合う者がいない)」と言って断ると、頼朝は「 畠山重忠や佐貫広綱がいる |
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1183 |
範頼と義経は大軍を率いて 近江国へ進出した。翌 |
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1183/7 |
検非違使任官が頼朝との対立の原因としているのは誤りであるとの見方がされている( 上横手雅敬『源義経 流浪の勇者』P43、44、元木泰雄『源義経』P129、130  |
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1183/7/3 |
平氏の乱参照)。『玉葉』は |
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1184 |
正月、範頼と義経は 宇治川の戦いで 義仲を討ち取り、頼朝の代官として入京した。 |
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1184 |
『玉葉』によると、寿永3年 |
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1184/2/4 |
義経は搦手軍を率いて播磨国へ迂回し、 三草山の戦いで夜襲によって平資盛らを撃破。範頼は大手軍を率いて出征した |
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1184/2/7 |
条でも、義経が精兵70騎を率いて鵯越から攻撃したとあり、義経はこの合戦で大きな働きをしたとされている。ただし近年、この「戦い」において義経が果たした役割や、「逆落とし」が実際にあったか等については、様々な異論も提示されている |
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1184/2/9 |
一ノ谷の合戦後、義経は討ち取った平家一門の首を都大路に引き渡し獄門にかける事を奏聞する為、少数の兵で都に駆け戻る。朝廷側は平家が皇室の外戚である為、獄門にかける事を反対するが、義経と範頼は、これは自分達の宿意(父義朝の仇討ち)であり「 義仲の首が渡され、平家の首は渡さないのは全く理由が無い |
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1184/2/13 |
平家の首は都大路を渡り獄門にかけられた。 |
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1184/6 |
朝廷の小除目が行われ、頼朝の推挙によって範頼ら源氏3人が国司に任ぜられたが、そこに任官を願っていた義経の名は無かった。 |
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1184/8 |
範頼は大軍を率いて 山陽道を進軍して 九州へ渡る。 |
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1184/8/3 |
平氏の乱の対処にあたり、頼朝の推挙を得ずに後 白河法皇によって左衛門少尉と検非違使少尉(判官)に任官し、従五位下に叙せられ院への昇殿を許された。 鎌倉には「これは自分が望んだものではないが、法皇が度々の勲功を無視できないとして強いて任じられたので固辞する事ができなかった」と報告 |
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1184/8/3 |
頼朝は義経に 伊勢の平信兼追討を指示しているので、任官以前に義経は西海遠征から外れていたとも考えられる。また |
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1184/8/3 |
条によると |
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1184/8/6 |
兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、追討使を猶予されたと書かれている。しかし、同じく『吾妻鏡』 |
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1184/8/6 |
義経は |
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1184/8/7 |
条は、義経失脚後、その説明をするために創作されたものと思われる。 |
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1184/8/26 |
義経は平氏追討使の官符を賜っている。源範頼が平氏追討使の官符を賜ったのが同 |
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1184/9 |
義経は河越重頼の娘(郷御前)を正室に迎えた。 |
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1185 |
『玉葉』・『吾妻鏡』によると、頼朝と対立した義経は文治元年 |
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1185/8 |
条によると、平家の残党を恐れる貴族達は、 四国へ平家追討に向かう義経に都に残るよう要請するが、義経は「2, |
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1185/2/3 |
かかる距離を数時間で到着し、 四国 讃岐の 瀬戸内海沿いにある平氏の拠点 屋島を奇襲する。山や民家を焼き払い、大軍に見せかける作戦で平氏を敗走させた( 屋島の戦い) |
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1185/3 |
なると兵糧が尽きてしまう。範頼がもし引き返す事になれば、 四国の武士達は平家に付き、ますます重大な事になります」と引き止める貴族達を振り切って出陣する |
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1185/3/2 |
『吾妻鏡』によると、2日 |
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1185/3/3 |
かかる距離を4時間で到着した。 |
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1185/3/16 |
屋島へ出陣する義経の宿所を訪れた公家の高階泰経(後 白河院の使いだったとされる)が「自分は兵法に詳しくないが、大将たる者は先陣を競うものではなく、まず次将を送るべきではないか」と訊いた。これに対し義経は「殊ニ存念アリ、一陣ニオイテ命ヲ棄テント欲ス(特別に思う所があって、先陣において命を捨てたいと思う)」と答えて出陣した |
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1185/3/18 |
義経は船で海を渡ろうとしたが、暴風雨が起こって船が多数破損した。兵達は船を一艘も出そうとしなかったが、義経は「朝敵を追討するのが滞るのは恐れ多い事である |
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1185/3/24 |
(西暦 |
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1185/4 |
壇ノ浦の戦いで勝利して、ついに平氏を滅ぼした。宿願を果たした義経は法皇から戦勝を讃える勅使を受け、 一ノ谷、屋島以上の大功を成した立役者として、平家から取り戻した鏡璽を奉じて |
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1185/4/15 |
頼朝は内挙を得ずに朝廷から任官を受けた 関東の武士らに対し、任官を罵り、 京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また |
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1185/4/21 |
平氏追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状[7]が頼朝に届いた。 |
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1185/4/24 |
京都に凱旋する[6]。 |
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1185/5/7 |
京を立ち、 鎌倉に凱旋しようとした。しかし義経に不信を抱く頼朝は 鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを 鎌倉に入れた |
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1185/5/24 |
兄頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近大江広元に託した書状が有名な腰越状[8]である。 |
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1185/6/9 |
頼朝が義経に対し宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「 関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放った。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した |
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1185/8 |
「検非違使留任」が両者亀裂の決定的要因であるとしている。P154-156 ) |
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1185/9 |
入り 京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく梶原景時の嫡男景季を遣わし、かつて義仲に従った叔父源行家追討を要請した。義経は憔悴した体であらわれ、自身の病と行家が同じ源氏であることを理由に断った |
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1185/10/13 |
後 白河院の元を訪れ、「頼朝が無実の叔父を誅しようとしたので、行家もついに謀反を企てた。自分は何とか制止しようとしたが、どうしても承諾せず、だから義経も同意してしまった |
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1185/10/16 |
「やはり行家に同意した。理由は先日述べた通り |
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1185/10/17 |
土佐坊ら六十余騎が 京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、自ら門戸を打って出て応戦する義経に行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わった。義経は、捕らえた昌俊からこの襲撃が頼朝の命であることを聞き出すと、これを梟首し行家と共に 京で頼朝打倒の旗を挙げた |
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1185/10/24 |
営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。 京都周辺の武士達も義経らに与せず、逆に敵対する者も出てきた |
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1185/10/29 |
頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため 九州 行きを図った。 |
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1185/11/1 |
頼朝が駿河国黄瀬川に達すると |
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1185/11/2 |
四国・ 九州の荘園支配の権限を与える院宣を得ると |
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1185/11/3 |
義経らは西国 九州の緒方氏を頼り、300騎を率いて京を落ちた。途中、 摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受け、これを撃退している( 河尻の戦い) |
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1185/11/3 |
早朝に院に使者をたて「 鎌倉の譴責を逃れる為、鎮西に落ちます。最後にご挨拶したいと思いますが、武装した身なのでこのまま出発します」と挨拶して静かに都を去った |
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1185/11/6 |
一行は 摂津国大物浦( 兵庫県 尼崎市)から船団を組んで 九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって 摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の 九州落ちは不可能となった |
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1185/11/11 |
義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。さらに頼朝は、義経らの追捕のためとして、諸国への守護と地頭の設置を求め、入洛させた 北条時政の交渉の末、設置を認めさせた |
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1186/5 |
和泉国で叔父・行家が 鎌倉方に討ち取られ、各地に潜伏していた郎党達も次々と発見され殺害される。院や貴族が義経を逃がしている事を疑う頼朝は |
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1186/10/30 |
義経は郎党や愛妾の白拍子・静御前を連れて吉野に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。逃れた義経は反 鎌倉の貴族、寺社勢力に匿われ 京都周辺に潜伏するが、翌年の |
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1186/11 |
「 京都側が義経に味方するならば大軍を送る」と恫喝している。 |
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1187 |
藤原秀衡は 関東以西を制覇した頼朝の勢力が 奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて 鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年 |
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1187/2/10 |
記録によると、義経は追捕の網をかいくぐり、 伊勢・ 美濃国を経て 奥州へ向かい、正妻と子らを伴って平泉に身を寄せた。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたという |
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1187/10/29 |
病没した。頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ 藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた |
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1188 |
一方、義経は文治4年 |
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1188/2 |
出羽国に出没し、 鎌倉方と合戦をしている。また |
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1189 |
カテゴリ: 源義経 | 平安時代の武士 | 鎌倉時代の武士 | 河内源氏 | 自殺した人物 | 1159年生 | 1189年没 |
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1189/1 |
義経が 京都に戻る意志を書いた手紙を持った 比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている。 |
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1189/4/30 |
500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基 成の 衣川館に襲った。義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討たれた |
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1189/6/13 |
首実検が和田義盛と梶原景時らによって、腰越の浦で行われた。 |
| 1295 |
播磨国東大寺領、大部荘を強襲する。牛馬・兵糧・貸銭・農具を強奪した |
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| 1304 |
大宰帥となり、帥宮(そちのみや)といわれた。 |
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| 1308 |
当時、皇統は 大覚寺・持明院両統に分裂していたが、 大覚寺統の後宇多は第1皇子である後二条天皇の子邦良(くになが)に皇位を伝えようとし、尊治は邦良幼少時の中継ぎとして1308年 |
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| 1318 |
延暦寺梶井大塔宮に出家。 |
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| 1318 |
即位して以後、宋学への傾倒は著しく |
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| 1319/11/30 |
邦良親王に男子(康仁親王)が生まれて邦良親王への皇位継承の時期が熟したこの時期に後醍醐が実質上の治天の君となったことが大きな謎とされ、後宇多法皇の仏道修行説、後宇多法皇の圧力による退位を警戒した後 醍醐天皇による圧迫説、持明院統側からの皇位委譲要求をかわすための大覚寺統側による政治的延命工作説などが存在する。 |
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| 1321 |
後宇多法皇は院政を停止して、後 醍醐天皇の親政が開始される。 |
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| 1321 |
から親政をはじめ、吉田定房・ 北畠親房を登用。王政を復活するため倒幕を目指す |
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| 1322 |
出家)。「建武の新政」に大蔵卿 |
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| 1322 |
大館宗氏と用水争いで抗争。 新田義貞の裁定に従わず |
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| 1324 |
「 正中の変」関係者。六波羅に第一次倒幕計画が漏れ捕縛される |
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| 1324 |
腹心の貴族、僧侶、美濃源氏等を無礼講の場に集めて練った討幕計画( 正中の変)の失敗後も、後醍醐は討幕を断念しなかった。 |
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| 1324 |
皇位を左右する 鎌倉幕府が否定さるべき存在となるのは当然で、1324年 |
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| 1324 |
「 正中の変」で捕縛され 佐渡に流罪。 |
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| 1324 |
後醍醐の 鎌倉幕府打倒計画が発覚して、六波羅探題が後醍醐の側近 日野資 朝らを処分する 正中の変が起こる。この変では、幕府は天皇にはなんの処分もしなかった |
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| 1326 |
皇太子邦良の死後、幕府は後伏見天皇の皇子量仁(光厳天皇)を皇太子としたので、後醍醐の地位はさらに危くなり |
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| 1326 |
幕府調伏祈願、延暦寺・ 園城寺・ 山科寺・ 仁和寺。  |
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| 1329 |
中宮の御産祈祷と称して密かに 関東調伏の祈祷を行い、興福寺や延暦寺など南都の寺社に赴いて寺社勢力と接近する(ただし、有力権門である西園寺家所生の親王は邦良系に対抗する有力な皇位継承者になり得るため、実際に御産祈祷が行われていた可能性もある)。大覚寺統に仕える貴族たちはもともと邦良を支持する者が大多数であり、持明院統や幕府も基本的に彼らを支持したから、後醍醐は次第に窮地に陥ってゆく |
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| 1330 |
醍醐天皇の下で関白職。近衛基嗣と嫡流を争う |
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| 1331 |
北山行幸の際「稜王」の舞を披露『増鏡』。義良親王とともに陸奥に赴任 |
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| 1331 |
「 元弘の乱」に護良親王に応じて挙兵。 赤坂城、 千早城に幕軍を釘付けにする |
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| 1331 |
しかし、南都 北嶺に皇子を入れ、みずから行幸して衆徒を味方につけるとともに、関所停止令を発して商工民をひきつけ、悪党を組織して討幕に驀進(ばくしん)する後醍醐に、近臣吉田定房、 北畠親房は危惧を抱き、1331年 |
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| 1331 |
「 元弘の乱」に下山し笠置山に籠城する。捕縛され 讃岐に流罪 |
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| 1331 |
「 元弘の変」に後 醍醐天皇の笠置山籠城に参陣。総大将となる |
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| 1331 |
再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽 京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。はじめ 比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山(現 京都府 相楽郡 笠置町内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる |
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| 1331 |
「 元弘の乱」に、配所で処刑される。息に日野朝光、邦光 |
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| 1331 |
第二次倒幕計画を六波羅探題に密告「 元弘の変」。 |
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| 1331 |
「 元弘の変」に捕縛され、配所先の下野国にて殺害された。息は宣房に 京都にて養育され、持明院党派の公家となる |
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| 1331 |
「 元弘の乱」に 鎌倉幕府軍として上洛するが、後 醍醐天皇側に走る。天皇の信任を得、寵用される |
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| 1331 |
醍醐天皇の 隠岐脱出に呼応して僧兵を率いて挙兵。 楠木正成の 千早城に逃れ、十津川、熊野、吉野、 高野山を拠点に活動する |
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| 1331 |
「 元弘の変」に 楠木正成征伐軍に従軍( 大和道軍)。無断で帰国 |
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| 1331 |
護良親王に呼応して挙兵。 |
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| 1331 |
挙兵の陽道の為、 比叡山に登る。 |
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| 1331 |
笠置山落城に、護良親王の 熊野落ちに従う。 吉野にて護良親王の影武者として自害 |
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| 1332 |
捕縛され 隠岐に配流される。護良親王、 吉野に挙兵 |
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| 1332 |
落城の際に捕縛され六条河原で討たれた。 |
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| 1332 |
還俗。 大和・ 吉野に籠城 |
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| 1332/3 |
(50歳) 元弘の変に失敗して後 醍醐天皇、 隠岐に流刑さる。 |
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| 1333 |
武者所第六番。<楠木一門衆?> |
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| 1333 |
醍醐天皇討伐軍として高氏の上洛に従う。遠江「薩?? 山の合戦」に畠 山国清に破れる |
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| 1333 |
岩松経家に従い 鎌倉攻略に従軍。息に又太郎・仲泰 |
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| 1333 |
父・貞重は幕軍として近江に戦死。 高重は 新田義貞軍に参加し「小手指原の合戦」に 鎌倉軍を破る |
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| 1333 |
新田軍に加勢。「 分部河原の合戦」に 鎌倉軍を破る |
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| 1333 |
赤松円心に呼応して挙兵。各親王の地方遠征に軍船を提供する |
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| 1333 |
幕軍として上洛。 |
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| 1333 |
藤房とともに上洛。後 醍醐天皇に「治」の字を下賜され改名 |
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| 1333 |
船上山の後 醍醐天皇に塩治高貞とともに出仕。のちに 惣領・塩治高貞と対立する |
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| 1333 |
「建武新政」の恩賞方、三番局。 山陽道・ 山陰道・畿内担当 |
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| 1333 |
義良親王、 多賀城へ。成良親王、 鎌倉へ派遣 |
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| 1333 |
九州に渡り大宰府を攻略。帰京する |
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| 1333 |
船上 山城籠城。後詰軍> |
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| 1333 |
醍醐天皇、 隠岐を脱出し船上山に挙兵。 |
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| 1333 |
足利千寿王を旗頭に 鎌倉幕府を滅ぼす。 鎌倉支配をめぐり、足利千寿王を擁する細川和氏・顕氏と対立 |
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| 1333 |
幕府滅亡後に京に帰還。 |
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| 1333 |
太田守延に奉じられ挙兵。千草忠種とともに六波羅攻略に参加 |
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| 1333 |
鎌倉乱入後に新田家人となった者か。四天王と呼ばれたのは後世 |
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| 1333 |
この失敗にもめげず、出家を拒否し元弘の元号を使いつづける後醍醐は、護良(もりよし)親王、 楠木正成の軍事行動に呼応して1333年 |
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| 1333 |
北畠顕家、顕信とともに陸奥に下る。建武新政に 東北の鎮護となる |
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| 1333 |
鎌倉侵攻の一手大将⑤。堀口貞満とともに巨福呂坂に10万騎 |
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| 1333 |
佐々木高氏に擁立され 近江 太平寺城に入城、六波羅南北両探題の北条時益・北条仲時を 近江息吹 山で討つ。後 醍醐天皇の意向で 九州鎮定に派遣される |
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| 1333 |
「 元弘の乱」に上洛し 摂津 四天王寺表にて 楠木正成と対陣。 |
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| 1333 |
多賀国府に出仕。 |
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| 1333 |
醍醐天王の船上山の綸旨を受け鎮西探題・北条英時を襲撃。少弐貞載の離反により戦死 |
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| 1333 |
丹波 篠村にて 鎌倉幕府から離反する。 |
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| 1333 |
大和口から一手大将として 京都乱入。 |
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| 1333 |
醍醐天皇の復権により西園寺公宗が失脚。再度、内大臣となる |
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| 1333 |
鎌倉侵攻に従軍。 越後守護代 |
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| 1333 |
 新田義貞の挙兵に参陣。嫡子・経兼ともに以降の消息不明 |
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| 1333/2 |
隠岐を脱出。 |
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| 1333/3 |
九州にて北条英時に破れ菊池武時戦死。 |
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| 1333/4 |
千草忠顕、 京都に敗退。 |
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| 1333/4 |
足利尊氏、後 醍醐天皇に呼応して 丹波に挙兵。 |
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| 1333/5 |
「 生品明神 ご照覧あれ。」 |
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| 1333/5 |
京都六波羅攻略。 上野国に 新田義貞挙兵 |
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| 1333/6 |
帰京。建武新政を開始 |
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| 1333/6 |
後 醍醐天皇、 富小路の御所に入り、建武の中興始まる。 |
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| 1333/8 |
多賀城入城。 |
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| 1334 |
弟・胤平が跡職を継承する。< 九州 千葉氏 |
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| 1334 |
皇太子に即位。 |
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| 1334 |
(1334) |
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| 1334 |
結城親光・名和長年に捕縛され、 鎌倉に配流。 |
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| 1334 |
「建武の新政」により 摂津守護となった 楠木正成に従う。 |
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| 1334 |
護良親王、 鎌倉に幽閉される。 |
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| 1334/10 |
天皇の命で護良親王を捕縛。 |
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| 1335 |
関東 足利尊氏追討軍に従軍。義貞の戦死後も越前を転戦するが斯波高経の軍勢に討たれる |
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| 1335 |
公武不和のために新政が瓦解。 |
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| 1335 |
「 中先代の乱」に武蔵「 府中の合戦」に戦死。< 土岐家と同様に |
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| 1335 |
征夷大将軍に任官。持明院統光明天皇の皇太子に約束されるが、後 醍醐天皇が 吉野に逃亡し罷免される |
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| 1335 |
西園寺公宗逮捕の部隊を率いる。 |
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| 1335 |
足利尊氏討伐軍に 三郎左衛門とともに従軍。<金ヶ崎落城に際し長浜とともに討死する 由良氏はこのひとか?> |
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| 1335 |
足利尊氏征伐軍の侍大将衆に名前が見えないので、小身( 寄騎少ない)の侍か。> |
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| 1335 |
奥羽・出羽の軍勢を率いて上洛し 足利尊氏を 九州に追い落とす。しかし |
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| 1335 |
京都の攻防戦にて戦死。 |
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| 1335 |
から南朝方として働く。 |
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| 1335/11/30 |
九州で体制を立て直し、光厳上皇の院宣を得たのちに再び 京都へ迫る。 楠木正成は後醍醐に尊氏との和睦を進言するが後醍醐はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる |
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| 1336 |
偽って投降し大友貞載を討つ。 |
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| 1336 |
新田義貞とともに出陣し、仁木頼章、上杉重能軍との「 六条 大宮の合戦」に草野秀永に討たれ戦死。 |
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| 1336 |
「多々良浜の合戦」に 足利軍に敗北し戦死する。兄弟の戦死に対して 宮方からは何の恩賞もなく、父・惟時は武家方に走る |
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| 1336 |
新田義貞の 足利征伐軍に弟・ 武吉とともに従軍。 京都で 新田義貞軍として活躍する |
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| 1336 |
北朝に転じた 惣領(兄)・重清に代わり、南朝方 惣領。 伊予落ちした脇屋義助を援助 |
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| 1336 |
醍醐天皇方に与し、室町幕府下では弟・頼遠が家督を継承するか。> |
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| 1336 |
足利尊氏の西国落ちに従軍。<「 正中の変」で討死した(兄?)頼員に代わり 土岐 惣領職継承 |
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| 1336 |
比叡山籠城。娘婿に宇津宮(武茂) 泰藤 |
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| 1336 |
北陸軍に従わず後 醍醐天皇に随行。 伊予守護 |
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| 1336 |
比叡山籠城に相馬とともに軍功。北国落ちに従わず、 足利軍に降服するが六条河原にて処刑される |
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| 1336 |
「 湊川の合戦」に軍功。 |
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| 1336 |
合戸氏は新田荘の 留守居を務め、岩松経家、小俣氏の攻撃を受ける。> |
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| 1336 |
足利軍との 京都攻防戦にて 由良(三郎)左衛門尉とともに戦死。< 足利方の高ノ師直や上杉憲房的な存在の人物 |
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| 1336 |
里見・鳥山一族は 京都奪回戦にて 足利尊氏本陣に突入し討死。> |
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| 1336 |
「建武新政」に信濃国司。 |
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| 1336 |
千草忠顕に従い出陣し「雲母坂の合戦」に戦死。 |
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| 1336 |
比叡山籠城。< 鎌倉時代に但馬・ 備中に伊達家分家あり |
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| 1336 |
京都を占領した 足利軍に降伏し、陣中にて 足利の将・大友貞載を討ち果たし戦死。 |
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| 1336 |
比叡山籠城に 北陸道の兵員を率いて参戦。中院定平と河内に落ちる |
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| 1336 |
顕家に従い上洛し、 足利尊氏を破る。「 奥州幕府」式評定衆7人のひとり |
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| 1336 |
関東の情勢悪化のため再度、 奥州に派遣される。 |
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| 1336 |
〈朕の新儀は未来の先例〉という言葉のとおり、その政治は著しく専制的で、武将・貴族たちの強い反発を招き、新政は1336年 |
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| 1336 |
常陸国に派遣され佐竹貞義と抗争。 |
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| 1336 |
足利方に属し本領安堵。楠木正行の遺児・教正を養子とする |
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| 1336 |
「 湊川の合戦」に玉砕。 |
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| 1336 |
光明天皇(持明院統)に譲位するが、 吉野に拠点を移し南朝を設立。 |
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| 1336 |
「三井寺の合戦」に畑時能と武功を競う。 |
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| 1336 |
金ヶ崎の陣では斯波高経に当初従うが、弟達が脇屋義助を居城に迎えたため新田方に転じる。 |
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| 1336 |
恒良親王に従い越前下向。<戦国時代に、 美濃にて河野氏の流れの稲葉・林・一柳一族が栄えるのも、南北朝の頃の縁かもしれませんね |
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| 1336 |
北国落ちに従軍した土居(通増)・得能氏は「塩津の合戦」に戦死。 |
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| 1336 |
北陸遠征に従う南朝方武将> |
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| 1336 |
三河吉良荘に乱入。細川頼種、仁木義高を討取る |
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| 1336/2/29 |
延元 1336年2月29日 - |
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| 1336/4 |
武者所六番。<楠木一門衆?> |
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| 1336/5 |
正成とともに「 湊川の合戦」にて戦死。正成の一族16人のひとり |
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| 1336/6 |
比叡山籠城戦に「雲母坂の合戦」にて 足利家執事・高ノ師重を討取る。 |
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| 1336/9 |
四国上陸。 伊予国忽那 島滞在 |
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| 1336/10 |
瓦解する。 |
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| 1337 |
越前金ヶ崎城の籠城戦にて新田義顕とともに戦死。 |
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| 1337 |
北朝方・細川顕氏の与力・土屋宗直に占領された河内国 八尾城を攻囲。 |
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| 1337 |
兄の戦死後家督。南朝方として働く |
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| 1337 |
河内国の「東条の合戦」には武家方。息の光重は楠木正行の家老和田氏を討つ |
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| 1337 |
瓜生保、天野、小野寺、斉藤とともに金ヶ崎城を救援に向かい、瓜生保・義鑑房とともに戦死。 |
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| 1337 |
二回に亘り 足利尊氏討伐のために上洛。 |
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| 1337 |
小田治久と結び常陸乱入。上洛 |
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| 1337 |
北畠顕家の南征軍に 上野国で参加、七歳。父とは行動を別とし 関東で軍事行動 |
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| 1337/1 |
高ノ師 泰軍と対峙。 |
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| 1337/2 |
金ヶ崎救援に出陣するが敗北し戦死。<若狭に縁があり?安芸武田家と嫡流を争う甲斐武田氏か?> |
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| 1337/6 |
斯波高経の 足羽城を総攻撃しない 新田義貞に業を煮やし離反。藤島城主 |
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| 1337/8 |
北畠顕家に従い再度上洛、土岐頼遠との「 青野原の合戦」に打撃を受け、近江の高ノ師直軍を避けて 伊勢に入る。 大和から 京都奪還を計画するが、桃井直常・直信兄弟に「般若坂の合戦」で敗北 |
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| 1338 |
東国に向かい神宮寺城主・小田治久に迎えられる。 |
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| 1338 |
越前陥落後は 伊予にて脇屋義助を援助。息の義冬は幕府に降服する |
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| 1338 |
播磨東条に挙兵。 播磨島 津軍と抗争 |
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| 1338 |
紀清両党を率いて吉野に参じる。 |
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| 1338 |
足立、 本庄とともに 丹波高山寺に挙兵。 |
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| 1338 |
新田義貞の要請で 越前遠征。義貞の戦死により帰 越 |
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| 1338 |
北畠親房とともに東国に向け出航するが遭難。遠江の井伊に居住する |
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| 1338 |
四国に渡海。錦打入道の後見で土佐「大高坂城攻撃」 |
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| 1338 |
捕縛され 京都の花山院幽閉される。 |
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| 1338 |
父・宗広が 伊勢に死去すると中立し、南朝と距離を置く。 |
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| 1338 |
高兄弟との「 阿倍野の合戦」に破れ 北畠顕家とともに戦死。 |
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| 1338/1/30 |
急死する。 |
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| 1338/3 |
斯波高経の 府中城を奪取。 越前70カ城を平定する |
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| 1338/9 |
義良親王を補佐し 関東に渡海。途中遭難し 伊勢吹上に病没 |
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| 1339 |
吉野に即位し 京都奪還を目指す。賀名生(あのう)、住吉、河内「観心寺」を拠点とする |
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| 1339 |
父・後 醍醐天皇の命で 九州に派遣される。五条頼元・中院義定ら12人が補佐 |
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| 1339 |
脇屋義助の挙兵に呼応する。畑時能とともに 越前で幕府軍に抵抗 |
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| 1339 |
子息・義良親王(後 村上天皇)に譲位し、 京都奪還を託す。52歳で崩御 |
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| 1339 |
先ず吉水院(きっすいいん 現在の吉水神社)に入った後醍醐は、さらに 蔵王堂近くの実城寺を行在所(あんざいしょ 行宮(あんぐう)の中での天皇の御在所)とし、各地に激をとばすが、1339年 |
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| 1339 |
越前にて挙兵するが敗北、美濃に潜伏。のち 四国 伊予にて挙兵 |
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| 1339 |
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 日本の天皇 | 平安・ 鎌倉時代の皇族 | 南北朝時代の人物 ( 日本) | 隠岐諸島の歴史 | 吉野町 ( 奈良県) | 1288年生 | 1339年没 |
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| 1339 |
石見に挙兵した新田義氏の与力。新田義氏とともに 益田家を攻撃 |
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| 1339 |
石見国に入り南朝勢力を束ねる。福屋、高津、工藤三郎、津野、三隅氏、 周布兼氏を率い、 上野 頼兼、益田兼見(兼方の息)、小笠原氏と戦う |
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| 1339 |
父の死により家督を継承。美濃守護職 |
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| 1339 |
吉野で死んだ。後醍醐を最後として、天皇は全国的な政治の実権から離れることとなる |
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| 1339/2 |
関東に下向し下野攻撃。 |
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| 1339/8/15 |
吉野へ戻っていた義良親王(後 村上天皇)に譲位し、翌日、 吉野金輪 王寺で朝敵討滅・ 京都奪回を遺言して死去した。享年52(満50歳) |
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| 1339/10 |
高ノ師冬を大将とする鎮圧軍が編成される。 |
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