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後醍醐天皇(ごだいごてんのう)

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後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に関する本・DVD

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年月日 できごと 写真
1295 播磨国東大寺領、大部荘を強襲する。牛馬・兵糧・貸銭・農具を強奪した 情報源のサイトへ
1304 大宰帥となり、帥宮(そちのみや)といわれた。 情報源のサイトへ
1308 当時、皇統は大覚寺・持明院両統に分裂していたが、大覚寺統の後宇多は第1皇子である後二条天皇の子邦良(くになが)に皇位を伝えようとし、尊治は邦良幼少時の中継ぎとして1308年 情報源のサイトへ
1318 延暦寺梶井大塔宮に出家。 情報源のサイトへ
1318 即位して以後、宋学への傾倒は著しく 情報源のサイトへ
1319/11/30 邦良親王に男子(康仁親王)が生まれて邦良親王への皇位継承の時期が熟したこの時期に後醍醐が実質上の治天の君となったことが大きな謎とされ、後宇多法皇の仏道修行説、後宇多法皇の圧力による退位を警戒した後醍醐天皇による圧迫説、持明院統側からの皇位委譲要求をかわすための大覚寺統側による政治的延命工作説などが存在する。 情報源のサイトへ
1321 後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される。 情報源のサイトへ
1321 から親政をはじめ、吉田定房・北畠親房を登用。王政を復活するため倒幕を目指す 情報源のサイトへ
1322 出家)。「建武の新政」に大蔵卿 情報源のサイトへ
1322 大館宗氏と用水争いで抗争。新田義貞の裁定に従わず 情報源のサイトへ
1324 正中の変」関係者。六波羅に第一次倒幕計画が漏れ捕縛される 情報源のサイトへ /jap27c.jpg /DSCN35321.jpg
1324 腹心の貴族、僧侶、美濃源氏等を無礼講の場に集めて練った討幕計画(正中の変)の失敗後も、後醍醐は討幕を断念しなかった。 情報源のサイトへ /jap27c.jpg /DSCN35321.jpg
1324 皇位を左右する鎌倉幕府が否定さるべき存在となるのは当然で、1324年 情報源のサイトへ
1324 正中の変」で捕縛され佐渡に流罪。 情報源のサイトへ /jap27c.jpg /DSCN35321.jpg
1324 後醍醐の鎌倉幕府打倒計画が発覚して、六波羅探題が後醍醐の側近日野らを処分する正中の変が起こる。この変では、幕府は天皇にはなんの処分もしなかった 情報源のサイトへ /jap27c.jpg /DSCN35321.jpg /godaigotennou2.jpg /daihi.jpg
1326 皇太子邦良の死後、幕府は後伏見天皇の皇子量仁(光厳天皇)を皇太子としたので、後醍醐の地位はさらに危くなり 情報源のサイトへ
1326 幕府調伏祈願、延暦寺・園城寺山科寺・仁和寺。  情報源のサイトへ
1329 中宮の御産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、興福寺や延暦寺など南都の寺社に赴いて寺社勢力と接近する(ただし、有力権門である西園寺家所生の親王は邦良系に対抗する有力な皇位継承者になり得るため、実際に御産祈祷が行われていた可能性もある)。大覚寺統に仕える貴族たちはもともと邦良を支持する者が大多数であり、持明院統や幕府も基本的に彼らを支持したから、後醍醐は次第に窮地に陥ってゆく 情報源のサイトへ
1330 醍醐天皇の下で関白職。近衛基嗣と嫡流を争う 情報源のサイトへ
1331 北山行幸の際「稜王」の舞を披露『増鏡』。義良親王とともに陸奥に赴任 情報源のサイトへ
1331 元弘の乱」に護良親王に応じて挙兵。赤坂城千早城に幕軍を釘付けにする 情報源のサイトへ /4ankokuji.jpg /kouzan.jpg
1331 しかし、南都北嶺に皇子を入れ、みずから行幸して衆徒を味方につけるとともに、関所停止令を発して商工民をひきつけ、悪党を組織して討幕に驀進(ばくしん)する後醍醐に、近臣吉田定房、北畠親房は危惧を抱き、1331年 情報源のサイトへ
1331 元弘の乱」に下山し笠置山に籠城する。捕縛され讃岐に流罪 情報源のサイトへ /4ankokuji.jpg /kouzan.jpg
1331 元弘の変」に後醍醐天皇の笠置山籠城に参陣。総大将となる 情報源のサイトへ /jap27c.jpg /DSCN35321.jpg
1331 再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山(現京都相楽郡笠置町内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる 情報源のサイトへ
1331 元弘の乱」に、配所で処刑される。息に日野朝光、邦光 情報源のサイトへ /4ankokuji.jpg /kouzan.jpg
1331 第二次倒幕計画を六波羅探題に密告「元弘の変」。 情報源のサイトへ /4686_01_t.jpg /00001749.JPG
1331 元弘の変」に捕縛され、配所先の下野国にて殺害された。息は宣房に京都にて養育され、持明院党派の公家となる 情報源のサイトへ /4686_01_t.jpg /00001749.JPG
1331 元弘の乱」に鎌倉幕府軍として上洛するが、後醍醐天皇側に走る。天皇の信任を得、寵用される 情報源のサイトへ /4ankokuji.jpg /kouzan.jpg
1331 醍醐天皇隠岐脱出に呼応して僧兵を率いて挙兵。楠木正成千早城に逃れ、十津川、熊野、吉野、高野山を拠点に活動する 情報源のサイトへ /shimoakasaka.jpg /IMG_55732.jpg
1331 元弘の変」に楠木正成征伐軍に従軍(大和道軍)。無断で帰国 情報源のサイトへ /shimoakasaka.jpg /IMG_55732.jpg /4686_01_t.jpg /00001749.JPG
1331 護良親王に呼応して挙兵。 情報源のサイトへ
1331 挙兵の陽道の為、比叡山に登る。 情報源のサイトへ
1331 笠置山落城に、護良親王の熊野落ちに従う。吉野にて護良親王の影武者として自害 情報源のサイトへ
1332 捕縛され隠岐に配流される。護良親王、吉野に挙兵 情報源のサイトへ
1332 落城の際に捕縛され六条河原で討たれた。 情報源のサイトへ
1332 還俗。大和吉野に籠城 情報源のサイトへ
1332/3 (50歳) 元弘の変に失敗して後醍醐天皇隠岐に流刑さる。 情報源のサイトへ /A4203020a.jpg /4686_01_t.jpg /00001749.JPG
1333 武者所第六番。<楠木一門衆?> 情報源のサイトへ
1333 醍醐天皇討伐軍として高氏の上洛に従う。遠江「薩??の合戦」に畠国清に破れる 情報源のサイトへ
1333 岩松経家に従い鎌倉攻略に従軍。息に又太郎・仲泰 情報源のサイトへ
1333 父・貞重は幕軍として近江に戦死。高重新田義貞軍に参加し「小手指原の合戦」に鎌倉軍を破る 情報源のサイトへ /hata.jpg /ota003.jpg /iku2.jpg /photo_01.jpg
1333 新田軍に加勢。「分部河原の合戦」に鎌倉軍を破る 情報源のサイトへ
1333 赤松円心に呼応して挙兵。各親王の地方遠征に軍船を提供する 情報源のサイトへ
1333 幕軍として上洛。 情報源のサイトへ
1333 藤房とともに上洛。後醍醐天皇に「治」の字を下賜され改名 情報源のサイトへ
1333 船上山の後醍醐天皇に塩治高貞とともに出仕。のちに惣領・塩治高貞と対立する 情報源のサイトへ
1333 「建武新政」の恩賞方、三番局。山陽道山陰道・畿内担当 情報源のサイトへ
1333 義良親王、多賀城へ。成良親王、鎌倉へ派遣 情報源のサイトへ
1333 九州に渡り大宰府を攻略。帰京する 情報源のサイトへ
1333 船上山城籠城。後詰軍> 情報源のサイトへ
1333 醍醐天皇隠岐を脱出し船上山に挙兵。 情報源のサイトへ
1333 足利千寿王を旗頭に鎌倉幕府を滅ぼす。鎌倉支配をめぐり、足利千寿王を擁する細川和氏・顕氏と対立 情報源のサイトへ
1333 幕府滅亡後に京に帰還。 情報源のサイトへ /utsu_bakuf.jpg /inamuragasaki.JPG
1333 太田守延に奉じられ挙兵。千草忠種とともに六波羅攻略に参加 情報源のサイトへ
1333 鎌倉乱入後に新田家人となった者か。四天王と呼ばれたのは後世 情報源のサイトへ /ota003.jpg /iku2.jpg
1333 この失敗にもめげず、出家を拒否し元弘の元号を使いつづける後醍醐は、護良(もりよし)親王、楠木正成の軍事行動に呼応して1333年 情報源のサイトへ /IMG_55481.jpg /IMG_55061.jpg
1333 北畠顕家、顕信とともに陸奥に下る。建武新政に東北の鎮護となる 情報源のサイトへ /20060530124730.jpg /douzou.jpg
1333 鎌倉侵攻の一手大将⑤。堀口貞満とともに巨福呂坂に10万騎 情報源のサイトへ
1333 佐々木高氏に擁立され近江太平寺城に入城、六波羅南北両探題の北条時益・北条仲時を近江息吹で討つ。後醍醐天皇の意向で九州鎮定に派遣される 情報源のサイトへ
1333 元弘の乱」に上洛し摂津四天王寺表にて楠木正成と対陣。 情報源のサイトへ /4ankokuji.jpg /kouzan.jpg /IMG_55481.jpg /IMG_55061.jpg
1333 多賀国府に出仕。 情報源のサイトへ
1333 醍醐天王の船上山の綸旨を受け鎮西探題・北条英時を襲撃。少弐貞載の離反により戦死 情報源のサイトへ
1333 丹波篠村にて鎌倉幕府から離反する。 情報源のサイトへ
1333 大和口から一手大将として京都乱入。 情報源のサイトへ
1333 醍醐天皇の復権により西園寺公宗が失脚。再度、内大臣となる 情報源のサイトへ
1333 鎌倉侵攻に従軍。越後守護代 情報源のサイトへ
1333 新田義貞の挙兵に参陣。嫡子・経兼ともに以降の消息不明 情報源のサイトへ /ota003.jpg /iku2.jpg
1333/2 隠岐を脱出。 情報源のサイトへ
1333/3 九州にて北条英時に破れ菊池武時戦死。 情報源のサイトへ
1333/4 千草忠顕、京都に敗退。 情報源のサイトへ
1333/4 足利尊氏、後醍醐天皇に呼応して丹波に挙兵。 情報源のサイトへ /img20000821215028.jpg /oike_23.jpg
1333/5 生品明神 ご照覧あれ。」 情報源のサイトへ /ota003.jpg /iku2.jpg
1333/5 京都六波羅攻略。上野国新田義貞挙兵 情報源のサイトへ /ota003.jpg /iku2.jpg
1333/6 帰京。建武新政を開始 情報源のサイトへ
1333/6 醍醐天皇富小路の御所に入り、建武の中興始まる。 情報源のサイトへ
1333/8 多賀城入城情報源のサイトへ /20060530124730.jpg /douzou.jpg
1334 弟・胤平が跡職を継承する。<九州千葉情報源のサイトへ
1334 皇太子に即位。 情報源のサイトへ
1334 (1334) 情報源のサイトへ /4ankokuji.jpg /kouzan.jpg /20061123_0.jpg
1334 結城親光・名和長年に捕縛され、鎌倉に配流。 情報源のサイトへ /ayajoenkei.jpg /p_pl_09b.jpg
1334 「建武の新政」により摂津守護となった楠木正成に従う。 情報源のサイトへ /dc091551s.jpg /040708EP002.jpg
1334 護良親王、鎌倉に幽閉される。 情報源のサイトへ /4ankokuji.jpg /kouzan.jpg /20061123_0.jpg
1334/10 天皇の命で護良親王を捕縛。 情報源のサイトへ
1335 関東足利尊氏追討軍に従軍。義貞の戦死後も越前を転戦するが斯波高経の軍勢に討たれる 情報源のサイトへ /01092101.JPG /tokusodaigongen.jpg
1335 公武不和のために新政が瓦解。 情報源のサイトへ
1335 中先代の乱」に武蔵「府中の合戦」に戦死。<土岐家と同様に 情報源のサイトへ /004.jpg /onakage.jpg
1335 征夷大将軍に任官。持明院統光明天皇の皇太子に約束されるが、後醍醐天皇吉野に逃亡し罷免される 情報源のサイトへ
1335 西園寺公宗逮捕の部隊を率いる。 情報源のサイトへ
1335 足利尊氏討伐軍に三郎左衛門とともに従軍。<金ヶ崎落城に際し長浜とともに討死する由良氏はこのひとか?> 情報源のサイトへ /01092101.JPG /tokusodaigongen.jpg
1335 足利尊氏征伐軍の侍大将衆に名前が見えないので、小身(騎少ない)の侍か。> 情報源のサイトへ /01092101.JPG /tokusodaigongen.jpg
1335 奥羽・出羽の軍勢を率いて上洛し足利尊氏九州に追い落とす。しかし 情報源のサイトへ /01092101.JPG /tokusodaigongen.jpg
1335 京都の攻防戦にて戦死。 情報源のサイトへ
1335 から南朝方として働く。 情報源のサイトへ
1335/11/30 九州で体制を立て直し、光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都へ迫る。楠木正成は後醍醐に尊氏との和睦を進言するが後醍醐はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる 情報源のサイトへ /denki1.JPG /kusunokimasatura570_380.jpg
1336 偽って投降し大友貞載を討つ。 情報源のサイトへ
1336 新田義貞とともに出陣し、仁木頼章、上杉重能軍との「六条大宮の合戦」に草野秀永に討たれ戦死。 情報源のサイトへ /kama-15.jpg /060118a.jpg
1336 「多々良浜の合戦」に足利軍に敗北し戦死する。兄弟の戦死に対して宮方からは何の恩賞もなく、父・惟時は武家方に走る 情報源のサイトへ
1336 新田義貞足利征伐軍に弟・武吉とともに従軍。京都新田義貞軍として活躍する 情報源のサイトへ /kama-15.jpg /060118a.jpg
1336 北朝に転じた惣領(兄)・重清に代わり、南朝方惣領伊予落ちした脇屋義助を援助 情報源のサイトへ
1336 醍醐天皇方に与し、室町幕府下では弟・頼遠が家督を継承するか。> 情報源のサイトへ /xin_11010205090914087275.jpg /12345083_2005052608464428850200.jpg
1336 足利尊氏の西国落ちに従軍。<「正中の変」で討死した(兄?)頼員に代わり土岐惣領職継承 情報源のサイトへ /kanjo.JPG /0908-2.jpg /jap27c.jpg /DSCN35321.jpg
1336 比叡山籠城。娘婿に宇津宮(武茂)情報源のサイトへ
1336 北陸軍に従わず後醍醐天皇に随行。伊予守護 情報源のサイトへ /xin_11010205090914087275.jpg /12345083_2005052608464428850200.jpg
1336 比叡山籠城に相馬とともに軍功。北国落ちに従わず、足利軍に降服するが六条河原にて処刑される 情報源のサイトへ
1336 湊川の合戦」に軍功。 情報源のサイトへ
1336 合戸氏は新田荘の留守居を務め、岩松経家、小俣氏の攻撃を受ける。> 情報源のサイトへ
1336 足利軍との京都攻防戦にて由良(三郎)左衛門尉とともに戦死。<足利方の高ノ師直や上杉憲房的な存在の人物 情報源のサイトへ
1336 里見・鳥山一族は京都奪回戦にて足利尊氏本陣に突入し討死。> 情報源のサイトへ /kanjo.JPG /0908-2.jpg
1336 「建武新政」に信濃国司。 情報源のサイトへ
1336 千草忠顕に従い出陣し「雲母坂の合戦」に戦死。 情報源のサイトへ
1336 比叡山籠城。<鎌倉時代に但馬・備中に伊達家分家あり 情報源のサイトへ
1336 京都を占領した足利軍に降伏し、陣中にて足利の将・大友貞載を討ち果たし戦死。 情報源のサイトへ /PICT01351.jpg /06kusu.jpg
1336 比叡山籠城に北陸道の兵員を率いて参戦。中院定平と河内に落ちる 情報源のサイトへ
1336 顕家に従い上洛し、足利尊氏を破る。「奥州幕府」式評定衆7人のひとり 情報源のサイトへ /kanjo.JPG /0908-2.jpg
1336 関東の情勢悪化のため再度、奥州に派遣される。 情報源のサイトへ
1336 〈朕の新儀は未来の先例〉という言葉のとおり、その政治は著しく専制的で、武将・貴族たちの強い反発を招き、新政は1336年 情報源のサイトへ
1336 常陸国に派遣され佐竹貞義と抗争。 情報源のサイトへ
1336 足利方に属し本領安堵。楠木正行の遺児・教正を養子とする 情報源のサイトへ
1336 湊川の合戦」に玉砕。 情報源のサイトへ /PICT01351.jpg /06kusu.jpg
1336 光明天皇(持明院統)に譲位するが、吉野に拠点を移し南朝を設立。 情報源のサイトへ
1336 「三井寺の合戦」に畑時能と武功を競う。 情報源のサイトへ
1336 金ヶ崎の陣では斯波高経に当初従うが、弟達が脇屋義助を居城に迎えたため新田方に転じる。 情報源のサイトへ
1336 恒良親王に従い越前下向。<戦国時代に、美濃にて河野氏の流れの稲葉・林・一柳一族が栄えるのも、南北朝の頃の縁かもしれませんね 情報源のサイトへ
1336 北国落ちに従軍した土居(通増)・得能氏は「塩津の合戦」に戦死。 情報源のサイトへ
1336 北陸遠征に従う南朝方武将> 情報源のサイトへ
1336 三河吉良荘に乱入。細川頼種、仁木義高を討取る 情報源のサイトへ
1336/2/29 延元 1336年2月29日 - 情報源のサイトへ
1336/4 武者所六番。<楠木一門衆?> 情報源のサイトへ
1336/5 正成とともに「湊川の合戦」にて戦死。正成の一族16人のひとり 情報源のサイトへ
1336/6 比叡山籠城戦に「雲母坂の合戦」にて足利家執事・高ノ師重を討取る。 情報源のサイトへ
1336/9 四国上陸。伊予国忽那滞在 情報源のサイトへ
1336/10 瓦解する。 情報源のサイトへ
1337 越前金ヶ崎城の籠城戦にて新田義顕とともに戦死。 情報源のサイトへ
1337 北朝方・細川顕氏の与力・土屋宗直に占領された河内国八尾城を攻囲。 情報源のサイトへ
1337 兄の戦死後家督。南朝方として働く 情報源のサイトへ
1337 河内国の「東条の合戦」には武家方。息の光重は楠木正行の家老和田氏を討つ 情報源のサイトへ /b1_imiw2.jpg /b1_imiw3.jpg
1337 瓜生保、天野、小野寺、斉藤とともに金ヶ崎城を救援に向かい、瓜生保・義鑑房とともに戦死。 情報源のサイトへ
1337 二回に亘り足利尊氏討伐のために上洛。 情報源のサイトへ /b1_imiw2.jpg /b1_imiw3.jpg
1337 小田治久と結び常陸乱入。上洛 情報源のサイトへ
1337 北畠顕家の南征軍に上野国で参加、七歳。父とは行動を別とし関東で軍事行動 情報源のサイトへ
1337/1 高ノ師軍と対峙。 情報源のサイトへ
1337/2 金ヶ崎救援に出陣するが敗北し戦死。<若狭に縁があり?安芸武田家と嫡流を争う甲斐武田氏か?> 情報源のサイトへ
1337/6 斯波高経の足羽城を総攻撃しない新田義貞に業を煮やし離反。藤島城主 情報源のサイトへ
1337/8 北畠顕家に従い再度上洛、土岐頼遠との「青野原の合戦」に打撃を受け、近江の高ノ師直軍を避けて伊勢に入る。大和から京都奪還を計画するが、桃井直常・直信兄弟に「般若坂の合戦」で敗北 情報源のサイトへ
1338 東国に向かい神宮寺城主・小田治久に迎えられる。 情報源のサイトへ /CKIZU018.JPG
1338 越前陥落後は伊予にて脇屋義助を援助。息の義冬は幕府に降服する 情報源のサイトへ
1338 播磨東条に挙兵。播磨島軍と抗争 情報源のサイトへ
1338 紀清両党を率いて吉野に参じる。 情報源のサイトへ /P61900561.jpg /ise_map.jpg
1338 足立、本庄とともに丹波高山寺に挙兵。 情報源のサイトへ
1338 新田義貞の要請で前遠征。義貞の戦死により帰 情報源のサイトへ /takiguti00012.jpg /305.jpg
1338 北畠親房とともに東国に向け出航するが遭難。遠江の井伊に居住する 情報源のサイトへ /CKIZU018.JPG
1338 四国に渡海。錦打入道の後見で土佐「大高坂城攻撃」 情報源のサイトへ
1338 捕縛され京都の花山院幽閉される。 情報源のサイトへ
1338 父・宗広が伊勢に死去すると中立し、南朝と距離を置く。 情報源のサイトへ
1338 高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れ北畠顕家とともに戦死。 情報源のサイトへ /P61900561.jpg /ise_map.jpg
1338/1/30 急死する。 情報源のサイトへ
1338/3 斯波高経の府中城を奪取。越前70カ城を平定する 情報源のサイトへ
1338/9 義良親王を補佐し関東に渡海。途中遭難し伊勢吹上に病没 情報源のサイトへ
1339 吉野に即位し京都奪還を目指す。賀名生(あのう)、住吉、河内「観心寺」を拠点とする 情報源のサイトへ
1339 父・後醍醐天皇の命で九州に派遣される。五条頼元・中院義定ら12人が補佐 情報源のサイトへ /5dai501.jpg /5dai502.jpg
1339 脇屋義助の挙兵に呼応する。畑時能とともに越前で幕府軍に抵抗 情報源のサイトへ
1339 子息・義良親王(後村上天皇)に譲位し、京都奪還を託す。52歳で崩御 情報源のサイトへ /5dai509.jpg /5dai507.jpg /5dai508.jpg
1339 先ず吉水院(きっすいいん 現在の吉水神社)に入った後醍醐は、さらに蔵王堂近くの実城寺を行在所(あんざいしょ 行宮(あんぐう)の中での天皇の御在所)とし、各地に激をとばすが、1339年 情報源のサイトへ
1339 越前にて挙兵するが敗北、美濃に潜伏。のち四国伊予にて挙兵 情報源のサイトへ
1339 カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 日本の天皇 | 平安・鎌倉時代の皇族 | 南北朝時代の人物 (日本) | 隠岐諸島の歴史 | 吉野町 (奈良県) | 1288年生 | 1339年没 情報源のサイトへ
1339 石見に挙兵した新田義氏の与力。新田義氏とともに益田家を攻撃 情報源のサイトへ
1339 石見国に入り南朝勢力を束ねる。福屋、高津、工藤三郎、津野、三隅氏、周布兼氏を率い、上野頼兼、益田兼見(兼方の息)、小笠原氏と戦う 情報源のサイトへ
1339 父の死により家督を継承。美濃守護職 情報源のサイトへ
1339 吉野で死んだ。後醍醐を最後として、天皇は全国的な政治の実権から離れることとなる 情報源のサイトへ
1339/2 関東に下向し下野攻撃。 情報源のサイトへ
1339/8/15 吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して死去した。享年52(満50歳) 情報源のサイトへ /5dai509.jpg /5dai507.jpg /5dai508.jpg
1339/10 高ノ師冬を大将とする鎮圧軍が編成される。 情報源のサイトへ

あしたね年表について

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