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年表トップ > 平将門と足利尊氏の年表を比べる

ウェブサイト上の情報を調べて見出し情報をまとめた検索結果ページです。事実が正確に並べられた年表ではありませんのでご注意下さい。

平将門(たいらのまさかど)

 

足利尊氏(あしかがたかうじ)

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平将門(たいらのまさかど)と足利尊氏(あしかがたかうじ)に関する本・DVD

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平将門   足利尊氏
年月日 できごと   年月日 できごと
937/4/7 朱雀天皇元服の大赦によって全ての罪を赦される。帰国後も、将門は良兼を初め一族の大半と対立し情報源のサイトへ      
937/8/6 良兼は将門の父良将や高望王など父祖の肖像を掲げて将門の常羽御厩を攻めた。この戦いで将門は敗走、良兼は将門の妻子(良兼の娘と孫とされる)を連れ帰る情報源のサイトへ      
937/9/10 再び出奔し将門の元に戻ってしまった。妻子が戻ったことに力を得た将門は朝廷に対して自らの正当性を訴えるという行動に出る情報源のサイトへ      
937/11/5 1つの太政官符を出した。従来、この官符は平良兼、平貞、源護らに対して出された将門追討の官符であると解釈されてきたが、前後の事実関係とのつながりとの食い違いが生じることから、これを公的には馬寮に属する常羽御厩を良兼・貞らが攻撃してしまったことによって良兼らが朝廷の怒りを買い、彼らへの追討の官符を将門が受けたと解釈する説が有力となっている情報源のサイトへ      
939 軍兵を集めて常陸府中(石岡)へ赴き追捕撤回を求める。常陸国府はこれを拒否するとともに宣戦布告をしたため、将門はやむなく戦うこととなり、将門は手勢1000人余ながらも国府軍3000人をたちまち打ち破り、常陸介藤原維幾はあっけなく降伏情報源のサイトへ      
939/2 武蔵国へ新たに赴任した権守、興世王(出自不明)と介源経基(清和源氏の祖)が、足立郡の郡司武蔵武芝との紛争に陥った。将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武蔵武芝を会見させて和解させたが、武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲(経緯は不明)し、驚いた経基はへ逃げ出してしまう情報源のサイトへ      
939/5/2 付けで、常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書をそえて送った。これにより朝廷は将門への疑いを解き、逆に経基は誣告の罪で罰せられた情報源のサイトへ      
939/11/21 また、朝廷への租税を滞納していたことにより追捕令が出ていた常陸国の藤原玄明が庇護を求めると将門は玄明を匿い常陸国府からの引渡し要求を拒否した。そのうえ天慶2年11月21日情報源のサイトへ      
939/12/11 下野国府を占領し、続いて迎撃に出兵した上野介藤原尚範(同国は親王任国のため、介が最高責任者。藤原純友の叔父)を捕らえて助命する代わりに印綬を接収して国外に放逐情報源のサイトへ      
939/12/19 指揮官を失った上野国府を落とし、関東一円を手中に収めて「新皇」を名乗り天皇に即位、独自に除目を行い岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いた。また、この新皇僭称に際して舎弟、小姓伊和員経らに諫言されるも聞き入れなかった情報源のサイトへ      
940 将門謀反の報はただちに京都にもたらされ、また同時期に西国で藤原純友の乱の報告もあり、朝廷は驚愕する。直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられ、翌天慶3年情報源のサイトへ      
940 カテゴリ: 平安時代の武士 | 平氏 | 君主 | 下総国の人物 | 940年没情報源のサイトへ      
940/1 中旬、関東では、将門が兵5000を率いて常陸国へ出陣して、平貞と維幾の子為憲の行方を捜索している。貞の行方は知れなかったが、貞の妻と源扶の妻を捕らえた情報源のサイトへ      
940/1/9 源経基が以前の密告が現実になったことが賞されて従五位下に叙され情報源のサイトへ      
940/1/19 参議藤原忠文が征東大将軍に任じられ、忠文は屋敷にかえる事無く討伐軍長官として出立したという。情報源のサイトへ      
940/2/1 出陣、将門の副将藤原玄の武将多治経明と坂上遂高らは貞盛・秀郷軍を発見すると将門に報告もせずに攻撃を開始、しかし玄軍は敗退してしまう。貞盛・秀郷軍はこれを追撃し下総国川口にて将門軍と合戦になり将門自ら陣頭に立って奮戦し貞盛・秀郷らもたじろぐが、時が経つにつれ数に勝る官軍に将門軍は押され、ついには退却を余儀なくされた情報源のサイトへ      
940/2/13 将門の本拠石井に攻め寄せ焼き払う「焦土作戦」に出た。これによって民衆は住処を失い路頭に迷うが、追討軍による焼き討ちを恨むよりも、将門の「悪政」を嘆いたといい、既に民心は将門から離れていた情報源のサイトへ      
940/2/14 未申の刻(午後3時)、連合軍と将門の合戦がはじまった。北風が吹き荒れ、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、連合軍を攻め立てた情報源のサイトへ      
      1305 御家人足利貞氏の次男として生まれた。生誕地は綾部説(部とも情報源のサイトへ
      1305 鎌倉幕府(かまくらばくふ)の有力な御家人(ごけにん)の足利貞氏(あしかが さだうじ)情報源のサイトへ
      1311 兄・貞親から家督継承。情報源のサイトへ
      1312 家督継承。下総守護情報源のサイトへ
      1318 薩摩守護。情報源のサイトへ
      1319 家督相続。安芸守護・武田信武に従う情報源のサイトへ
      1319 伊予国の海賊を討伐し六波羅に賞される。情報源のサイトへ
      1329 上総守護代・伊勢に命じて称名寺に所領を渡す。59歳情報源のサイトへ
      1331 元弘の乱」鎮圧に島津氏とともに上洛。「建武新政」に筑後守護情報源のサイトへ
      1331 醍醐天皇が二度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵した(元弘の変)。鎌倉幕府は有力御家人である高氏に派兵を命じ、高氏は天皇の拠る笠置楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加する情報源のサイトへ
      1331 元弘の乱」鎮圧に出動。足利高氏の動きに従う情報源のサイトへ
      1331 元弘の乱」に大仏貞直に従い上洛、赤坂城攻略に軍功。情報源のサイトへ
      1331 笠置山攻略に従軍。情報源のサイトへ
      1331 元弘の乱」には六波羅軍。情報源のサイトへ
      1331 鎌倉幕府の将として、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の倒幕軍(とうばくぐん)を情報源のサイトへ
      1331 醍醐天皇の挙兵に応じた比叡山衆徒と近江の「唐崎の合戦」で敗北。幕軍として活動情報源のサイトへ
      1332 笠置山落城に後醍醐天皇隠岐へ護送。北畠具行を近江伊吹山で処刑情報源のサイトへ
      1333 六波羅軍との合戦に先陣の将。情報源のサイトへ
      1333 足利高氏の挙兵に際し丹波篠に馳せ参じる。建武政権下で惣領沼田家を救ったことから、独立色を強める情報源のサイトへ
      1333 醍醐天皇討伐軍として高氏の上洛に従う。情報源のサイトへ
      1333 鎌倉幕府方として働き、土居・得能・忽那氏と抗争。楠木正行と「四条畷合戦」に参陣情報源のサイトへ
      1333 北条仲時が自害する直前に、足利尊氏に降伏し出家。建武政権の雑訴決断所、恩賞方七番を勤める情報源のサイトへ
      1333 幕府に菊池武時の離反を密告。菊池武時・頼隆(三男)親子は戦死情報源のサイトへ
      1333 大友貞宗とともに大宰府を攻撃する。九州落ちした高氏を頼尚が出迎え留守の際に、菊池軍に襲撃され有地山城に自害情報源のサイトへ
      1333 天皇方の菊池武時を破る。情報源のサイトへ
      1333 父・(三河入道)貞重は幕軍として近江に戦死。高重新田義貞軍に参加し「鎌倉乱入」情報源のサイトへ
      1333 父の死により、兄・貞載の後見で家督。情報源のサイトへ
      1333 醍醐天皇隠岐からの帰還により関白を解任される。情報源のサイトへ
      1333 鎌倉幕府滅亡の際に六波羅軍。近江から脱出し沼田領に帰還情報源のサイトへ
      1333 陸奥守・北畠顕家(きたばたけあきいえ,1318-1338)と共に奥州に下向させた義良親王(のりよししんのう)です。奥州国府に本拠を置く南朝の猛将として、一度は足利尊氏を京都で破るほどの勇名を馳せた北畠顕家ですが情報源のサイトへ
      1333 倒幕の際に足利尊氏に従う。建武新政に美濃守護職情報源のサイトへ
      1333 「建武新政」に摂津守護・楠木正成の与力。情報源のサイトへ
      1333 船上山に籠城する後醍醐天皇の招集に応じず中立。のち一門の富士名義綱とともに参陣する情報源のサイトへ
      1333 久下、波々伯部とともに細川定禅軍に合流し大江山に陣する。情報源のサイトへ
      1333 藤房とともに上洛。後醍醐天皇に「治」の字を下賜され改名情報源のサイトへ
      1333 隠岐を脱出した後醍醐天皇討伐に父・尊氏が出陣。人質として鎌倉に入府情報源のサイトへ
      1333 新田義貞に従い「鎌倉乱入」。「中先代の乱」に足利尊氏に従い軍功情報源のサイトへ
      1333/1 苔縄で反幕府の挙兵。摩耶城に入城情報源のサイトへ
      1333/4 足利尊氏、後醍醐天皇に呼応して丹波に挙兵。情報源のサイトへ
      1333/4 京都攻撃に敗北。倒幕後、一時的に播磨守護職情報源のサイトへ
      1333/5/7 六波羅探題を滅亡させた。同時期に上野国の御家人である新田義貞も挙兵しており、高氏の嫡子で鎌倉から脱出した千寿王(後の義詮)を奉じて鎌倉へ進軍し、幕府を滅亡させた情報源のサイトへ
      1334 豊前国筑前国守護職。情報源のサイトへ
      1334 から駿河国・伊豆国守護を歴任。斯波家長の戦死後、北畠顕家の抑えとして奥州に下向情報源のサイトへ
      1334 建武新政に後醍醐天皇の賀茂神社行幸の際、足利尊氏隋兵(内衆)として従う。情報源のサイトへ
      1334 元弘の乱」に北条氏に従い大打撃を受ける。武田信武と抗争情報源のサイトへ
      1334 安芸守任官。情報源のサイトへ
      1335 鎌倉で北条氏の生き残りが反乱を起こす。情報源のサイトへ
      1335 中先代の乱」後に関東執事職。足利義詮を後見して北畠顕家に対抗する情報源のサイトへ
      1335 鎮守将軍・北畠顕家の南侵に敗北。再び北畠顕家に対抗して奥州総大将<1337>に任ぜらる情報源のサイトへ
      1335 家督継承。足利尊氏に同族の千田胤貞(大隈家)とともに従軍情報源のサイトへ
      1335 足利尊氏征伐軍に高貞とともに従軍した源太左衛門か。>情報源のサイトへ
      1335 信濃国で、北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、時行軍は鎌倉を一時占拠する。その際、直義が独断で護良親王を殺した情報源のサイトへ
      1335 新田義貞との箱根「竹ノ下の合戦」に従軍。「観応の擾乱」に直・とともに、上杉能憲(1333〜1378)により討たれる情報源のサイトへ
      1335 一時、新田義貞軍に降り内部調略、再び足利軍に帰参。足利直義に従い「竹ノ下の合戦」に軍功情報源のサイトへ
      1335 叔父・時光の死により家督相続。奥州にて北畠顕家配下の岩城城主・広橋経と抗争する情報源のサイトへ
      1335 常陸国守護に任官。情報源のサイトへ
      1335 尊氏の関東下向に従う、第17軍。<足利家に従う新田氏族か情報源のサイトへ
      1335 播磨浦上荘地頭職。<在地の浦上家と抗争するか情報源のサイトへ
      1335 北条時行の乱」に足利尊氏の関東出征に従軍。兄・国清の関東執事就任に従い関東にて奮戦情報源のサイトへ
      1335 武家方として挙兵。<足利直冬に従い備後宮家を攻撃情報源のサイトへ
      1335 「竹ノ下の合戦」に足利方勝利に呼応し田井新左衛門・信高とともに備前に挙兵、備中に乱入。情報源のサイトへ
      1335 武家方として挙兵。国司・源ノ定清を襲撃し討取る情報源のサイトへ
      1335 「矢矧川の合戦」に負傷。弟・秀長が惣領家を継承する情報源のサイトへ
      1335 尊氏の関東下向に従う。遠江「橋本の合戦」に安保光泰と先陣を勤める情報源のサイトへ
      1335 中先代の乱」に諏訪頼重と合戦。足利党として力戦、信濃に所領を獲得する情報源のサイトへ
      1335 京都落ちした尊氏の殿軍として男山に籠城するが新田軍に敗北。情報源のサイトへ
      1335 武家方として挙兵。父・通治は南朝方の主力情報源のサイトへ
      1335 足利高氏の挙兵に応じる。近江守護職情報源のサイトへ
      1335/12 尊氏は新田軍を箱根竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇へ連絡を取り、京都進軍の正統性を得る工作をしている情報源のサイトへ
      1335/12 越後新田軍と「松崎・沼垂表の合戦」。<鎌倉幕府の楠木攻囲関東軍に加地左衛門入道・安綱あり情報源のサイトへ
      1336 「北朝・室町幕府成立」。情報源のサイトへ
      1336 湊川の戦いで新田義貞楠木正成を下して軍事的優位を明らかにし、比叡山から下山してきた後醍醐天皇を花山院に幽閉します。情報源のサイトへ
      1336 「多々良浜の合戦」に白石・八木とともに先陣。北畠顕家との大和での合戦に、桃井軍の先陣を勤める情報源のサイトへ
      1336 風間氏の居城を攻撃。情報源のサイトへ
      1336 能登守護。情報源のサイトへ
      1336 中先代の乱」鎮圧に向かう足利尊氏軍に従軍し、遠江国「橋本の合戦」に千田胤貞と先駆けの功名を争う。情報源のサイトへ
      1336 「竹ノ下の合戦」後に岩松氏とともに上野国新田荘に乱入。留守居の額田氏を討伐情報源のサイトへ
      1336 九州落ちした足利尊氏を全面支援。尊氏とともに宗像大社に戦勝を祈願した情報源のサイトへ
      1336 相良定頼とともに尊氏軍に参陣しようとして南朝方・内河義真と「八代の合戦」。九州肥前の武家方として活動情報源のサイトへ
      1336 西国落ちした足利軍に与力する。情報源のサイトへ
      1336 湊川の合戦」にも軍功。武功により播磨国下揖保荘の地頭情報源のサイトへ
      1336 足利尊氏の都落ちに際して、北九州の少弐氏への密使として派遣される。<1350年代足利直冬の臣に豊田直貞あり情報源のサイトへ
      1336 湊川の合戦」以前に新田義貞を播磨に足留めし、足利軍の上洛を有利に導いた。白旗城主情報源のサイトへ
      1336 九州からの足利尊氏上洛に呼応し挙兵。仁木頼章を旗頭に丹波高山寺に籠城情報源のサイトへ
      1336 陸奥出羽の所領を相続。北朝に属す情報源のサイトへ
      1336 鎌倉足利軍征伐に北畠顕家から離反する。情報源のサイトへ
      1336 高氏西国落ちに、守護・厚東太郎(武実)とともに長門を守備。情報源のサイトへ
      1336 「西国落ち」に従い、丹波に戻り丹波但馬で朝廷軍を阻止する。越前国金崎城の合戦」、河内国四条畷の合戦」に軍功情報源のサイトへ
      1336 比叡山攻囲に岩松・桃井を従え出陣。新田軍と戦い討死(捕虜となり処刑とも)情報源のサイトへ
      1336 比叡山攻略に高師重の副将。新田軍に敗北する情報源のサイトへ
      1336 九州落ちに際して、少弐氏の元に派遣される。情報源のサイトへ
      1336 12歳で下総結城氏の家督を相続。足利尊氏に従い箱根「竹ノ下の合戦」に先陣を勤める情報源のサイトへ
      1336 足利尊氏が入京し、光明天皇を立てる。後醍醐天皇吉野へ移り、南北朝時代が始まる情報源のサイトへ
      1336/1 山城国宇治を吉見三河守と守備。情報源のサイトへ
      1336/3 初旬、筑前多々良浜の戦いにおいて後醍醐天皇方の菊池武敏を破り勢力を立て直した尊氏は、京に上る途中で光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。情報源のサイトへ
      1336/8/15 光厳上皇の弟の豊仁親王(ゆたひとしんのう)が、三種の神器の無いまま光厳上皇の院宣により即位して北朝第2代・光明天皇(在位1336-1348)となります。北朝第1代・光厳上皇は、弟である第2代・光明天皇と第1子である第3代・崇光天皇(在位1348-1351)の在位中に治天の君として隠棲を行いました情報源のサイトへ
      1336/11/2 光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲り、その直後の情報源のサイトへ
      1336/11/7 尊氏は建武式目十七条を定めて政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言した。一方、後醍醐天皇情報源のサイトへ
      1336/12/21 京都を脱出して吉野大和国)に逃れ、足利尊氏が奉じた北朝に対立する南朝(吉野朝廷)を開設しました。南朝の後醍醐天皇は北朝の光明天皇に移譲した三種の神器は『偽もの』であると宣言して、自分が君臨する南朝こそが唯一の正統な王朝であると主張しました情報源のサイトへ
      1337 足利義詮を後見して北畠顕家に対抗する。直義派情報源のサイトへ
      1337 斯波高経の捕虜となる。情報源のサイトへ
      1337 義貞戦死後に兄と別れ下野に帰還。武茂家家督を兄に替わり相続情報源のサイトへ
      1337 下野守護職。息に氏政情報源のサイトへ
      1337 新田義貞に従い土居通増・得能通綱は越前にて戦死する。懐良親王との関係から一時南朝方とも情報源のサイトへ
      1337 比叡山攻囲に従軍。河内表の東条攻略に軍功情報源のサイトへ
      1337 越前にて瓜生兄弟を破る。新田義貞を討取る情報源のサイトへ
      1337 新田軍との京都の攻防戦にて上杉憲房、二階堂行重、曽我太郎左とともに戦死。情報源のサイトへ
      1337 関東執事。上洛し情報源のサイトへ
      1337 侍所頭人。父・時は「中先代の乱」に加担し、熱田大宮司に捕縛され斬首される情報源のサイトへ
      1337 南朝方の惣領家・千葉貞胤に対して、千葉余三・清胤(柏山千葉or粟飯原?)とともに抗戦。情報源のサイトへ
      1337/5 越後新田軍と「岩船宿表の合戦」。<越後の佐々木一族でしょう情報源のサイトへ
      1338 美濃黒地にて北畠顕家の率いる奥州軍の進路を代える。摂津天王寺表に北畠顕家を討取る情報源のサイトへ
      1338 二代目奥州総大将になる。北畠顕信を擁する伊達家と抗争情報源のサイトへ
      1338 美濃「青野原の合戦」での北畠顕家との対戦に第三軍の将。<父・時は北条時行の「中先代の乱」に加担情報源のサイトへ
      1338 北朝の第2代・光明天皇(在位1336-1348)から征夷大将軍に任命(補任)されて室町幕府を開設します。建武式目には幕府を開設する場所を、源頼朝が開府した鎌倉にするか鎌倉以外の場所にするとかという興味深い問答も乗っていますが、結局、足利尊氏は朝廷のある京都にそのまま室町幕府を開設することにしました情報源のサイトへ
      1338 所領を息の行仲・行貞・良勝房に譲渡する。情報源のサイトへ
      1338 近江守護。出雲飛騨・上総の守護を兼任する情報源のサイトへ
      1338 中条秀長とともに相模半国守護。情報源のサイトへ
      1338 足利尊氏情報源のサイトへ
      1338 」で北畠顕家に勝利する。「四条畷の合戦情報源のサイトへ
      1338 醍醐天皇の腹臣・北畠親房を迎える。情報源のサイトへ
      1338 越前金ヶ崎城の新田義貞討伐に軍功。足利直義派として高ノ師直と対立情報源のサイトへ
      1338 北朝の光明天皇から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、室町幕府情報源のサイトへ
      1338 から関東に在り情報源のサイトへ
      1338 義良親王を奉じて奥州軍で鎌倉を攻略したものの、その後に足利氏の執事・高師直が率いる軍勢に石津の戦い(いしづのたたかい)で敗れて死去しました。恒良親王・尊良親王を奉じて北陸地方に下っていった新田義貞(1301-1338)は、敦賀の金ヶ崎城(かねがさきじょう)に拠点を定めますが、足利方の高師泰(こうのもろやす)に敗れてしまいます情報源のサイトへ
      1338/7 越後新田軍の南下に防戦。のち宗良親王を迎え南朝方に離反情報源のサイトへ
      1339 父の死により家督を継承。美濃守護職情報源のサイトへ
      1339 室町幕府「政所執事」。安堵方頭人情報源のサイトへ
      1339/10 高ノ師冬を大将とする鎮圧軍が編成される。情報源のサイトへ
      1340 高ノ師冬の攻勢に抗しきれず情報源のサイトへ
      1340 妙法院宮を焼き討ちし上総に流罪。情報源のサイトへ
      1341 孫の太田に執事職を譲る。情報源のサイトへ
      1341 隠岐守。情報源のサイトへ
      1341 京都を脱出し自領に帰還する際、追手の山名時氏、桃井直常に討伐される。情報源のサイトへ
      1341/11 降伏。北朝政権下でも冷遇される情報源のサイトへ
      1342 叔父の自害により家督継承。革手城に本拠に定め、国衆・斎藤氏を従える情報源のサイトへ
      1342 光厳上皇狼藉事件」を起こす。情報源のサイトへ
      1342 懐良親王の薩摩入り情報源のサイトへ
      1342 伊予国の河野昌義討伐に従軍。情報源のサイトへ
      1342 細川頼春に従い伊予出兵。大館氏明討伐軍に従軍情報源のサイトへ
      1343 武蔵国守護。鎌倉公方足利基氏を後見するが、関東にて両職の上杉憲顕に敗北する情報源のサイトへ
      1343 北畠親房に従わず足利方に転ずる。弟に南朝方の結城朝光、朝胤情報源のサイトへ
      1343 高ノ師冬に従い、北畠親房の籠城する常陸関城攻撃に奮戦し戦死。情報源のサイトへ
      1343 戦死。情報源のサイトへ
      1343/8 師直邸に参じる。情報源のサイトへ
      1344 内談方。雑所決断所・引付寄人情報源のサイトへ
      1344 引付衆三番頭人。<伊勢の関家は左近将監を代々相続するようです情報源のサイトへ
      1344 所領を譲与される。情報源のサイトへ
      1344 内談衆一方頭人。『諏訪大明神(縁起)画詞』を著作情報源のサイトへ
      1344/8 直義邸を守備。<播磨島津一門か情報源のサイトへ
      1345 吉良貞家、畠山国氏(吉良・畠山両家とも嫡流)が下向し解任される。情報源のサイトへ
      1345 越後新田軍と「沼川の合戦」に敗北。<長尾基景と同一人物か情報源のサイトへ
      1345 天竜寺奉納に従軍、二番隊16人衆のひとり。<二階堂山城守・直の息か?>情報源のサイトへ
      1345 天竜寺供養に従軍。><のちの伊勢新九郎長氏(北条早雲)に繋がるか情報源のサイトへ
      1345 /貞和元年情報源のサイトへ
      1345 奥州探題となり留守・宮城氏の協力を得る。情報源のサイトへ
      1345/8 師直邸に参じる。<武蔵七党・横山党の一派か情報源のサイトへ
      1346 筑前・三河の地頭職。情報源のサイトへ
      1346 足利尊氏の命で吉良氏とともに奥州に派遣される。多賀城を占拠情報源のサイトへ
      1346 奥州管領に従い、南朝側の伊達・田村氏を攻撃。情報源のサイトへ
      1346 鎌倉府・義詮の頃、義詮側近に太郎右衛門。>情報源のサイトへ
      1346 まで室町幕府「政所執事」。情報源のサイトへ
      1346 幕命により備後国内の治安維持。情報源のサイトへ
      1347 奥州探題に就任。情報源のサイトへ
      1347 肥前守護。情報源のサイトへ
      1347 南朝方の霊山城、宇津峯城を兄・国氏とともに攻囲。尊氏派情報源のサイトへ
      1347 足利直義邸にて中条秀長と座位を争い敗れ、出家する。情報源のサイトへ
      1347 父の死により家督相続。情報源のサイトへ
      1348 湊川の合戦」に従軍。長崎・青木の協力で和田正朝を討取る情報源のサイトへ
      1348 楠木正行を「四条畷の合戦」で破る。直義の部下、上杉重能(*〜1349)・畠山直宗と対立し情報源のサイトへ
      1348 対楠木正行戦 足利家執事・高ノ直(武蔵守手兵7000余騎)。高ノ越後守手兵3000余騎)情報源のサイトへ
      1348 隈府城(わいふじょう)を中心とした征西府(せいせいふ)を開設します。情報源のサイトへ
      1348 南朝方に勝利。尊氏派情報源のサイトへ
      1348 四條畷の戦いで楠木正成の子である楠木正行・正時兄弟が足利氏の執事・高師直(こうのもろなお,)に敗れてしまい、南朝の吉野行宮が陥落させられます。後村上天皇をはじめとする南朝一行は、大和国の賀名生(あのう,奈良県五條市)に落ち延びて、南朝の劣勢の度合いが強まっていきます情報源のサイトへ
      1348 この『直義派』と高氏を中心とする『反直義派』が争い合った室町幕府の内部対立は、最終的に尊氏と直義が武力衝突する『観応の擾乱(かんのうのじょうらん,1350-1352)』へと行き着きます情報源のサイトへ
      1348 湊川の合戦」に従軍。<楠木軍の本陣突入を阻止し討死した松田次郎左衛門はこのひとか?>情報源のサイトへ
      1349 執事を解任される。情報源のサイトへ
      1349 「観応の擾乱」に直義派。高兄弟と対立する直義を河内石川城に匿い、南朝軍に降る情報源のサイトへ
      1349 長井広秀とともに評定衆。情報源のサイトへ
      1349 父・直の副将として別働隊を率い足利直義邸、将軍御所を包囲する。「観応の擾乱」に直・とともに、上杉能憲(1333〜1378)により討たれる情報源のサイトへ
      1349 直義派の讒言に激昂した高師直・高師泰が挙兵して、京都の直義邸を襲撃し尊氏邸に逃げ込んだ足利直義を包囲します。尊氏に対して直義らの身柄引き渡しを要求した高氏は、遂に直義を出家に追い込み幕府の政務から引退させることで和解しました情報源のサイトへ
      1349 「観応の擾乱」に直義派として鎌倉入り先陣。小笠原政長に敗北する情報源のサイトへ
      1349 足利直義の命で高ノ師直暗殺の準備をする。貞和情報源のサイトへ
      1349 兄・足利義詮の上洛により、関東公方として鎌倉に下向。高ノ師冬・上杉憲顕を執事とする情報源のサイトへ
      1349 足利直冬の支配下に一時降る。兄・冬綱が北朝方に転じた合戦で戦死情報源のサイトへ
      1349/8 師直邸に参じる。<なぜ外様衆と行進しているのか謎情報源のサイトへ
      1349/8 直義邸を守備。<宣茂がどこの国の和田に属するのか不明情報源のサイトへ
      1350 「観応の擾乱」では、九州探題・一色範氏に対抗して足利直冬に従う。一色氏と結んだ大友氏泰に敗北情報源のサイトへ
      1350 伊予守護。足利直冬討伐軍・細川頼春に敗北し世田山城にて戦死情報源のサイトへ
      1350 弟の足利直義(あしかが ただよし)と意見が対立し、争いが起こる。情報源のサイトへ
      1350 伊予守護。湯築城城主情報源のサイトへ
      1350 家督相続。安芸守護・武田氏信に従う情報源のサイトへ
      1350 「観応の擾乱」に上杉憲顕が新田義興・義宗と結び反乱。「武蔵野の合戦」に撃破情報源のサイトへ
      1350 室町幕府「政所執事」。内談方情報源のサイトへ
      1350/10/27 直義が京都を脱け出して南朝に降参しました。南朝に恭順した直義は、直冬と連携しながら支持勢力を結集して情報源のサイトへ
      1351 紀伊国守護。情報源のサイトへ
      1351 諏訪氏の軍勢に包囲され自害。<高ノ師直の養子となるほど、年齢が離れている?>情報源のサイトへ
      1351 父・武村の指示により九州探題・一色範氏を救援。足利直冬の率いる少弐頼尚、細川、門司親胤と抗争情報源のサイトへ
      1351 尊氏、義詮親子を丹波に匿う。息に貞重情報源のサイトへ
      1351 和議が成立した。高兄弟は護送中に上杉能憲により謀殺されている情報源のサイトへ
      1351 惣領・千葉貞胤が没し、氏胤が継承したさいに後見人。息は東師氏情報源のサイトへ
      1351 新田義宗との「笛吹峠の合戦」に先陣。情報源のサイトへ
      1351 薩摩の所領を一門の行春、孫の直行に譲渡する。情報源のサイトへ
      1351 直義派の吉良貞家に「岩切城の合戦」に討たれる。吉良貞家 <1345〜1353>(*〜*1394)修理権大夫・右京大夫情報源のサイトへ
      1351 岩切城を攻撃し畠山国氏親子を討つ。のち国府を南朝方の北畠顕信に奪取される情報源のサイトへ
      1351 上杉定軍の土屋平三の攻撃を受け戦死。小旗一揆旗頭情報源のサイトへ
      1351 相模守護。情報源のサイトへ
      1351 「越水の合戦」に敗戦。足利直義の謀略で主・師直とともに討たれる情報源のサイトへ
      1351 京都で死没。61歳情報源のサイトへ
      1351 父の死により15歳で家督相続。上総・下総・伊賀の三カ国守護情報源のサイトへ
      1351 桃井軍の秋山新蔵人光政と「秋山河原の合戦」に一騎打ち。情報源のサイトへ
      1351/1 足利義詮が守る京都へと進軍し義詮を京都から追い落としました(観応の擾乱)。義詮は備前の尊氏と合流して京都に戻るが、直義に再び敗れて播磨へと後退します情報源のサイトへ
      1351/2/17 摂津国で行われた打出浜の戦いで直義軍が尊氏軍を打ち破り、高師直・高師泰を出家させるという条件で和睦しました。しかし、この高氏の出家の約束は果たされることなく、京都への護送中に高師直も高師泰も殺害されてしまいます情報源のサイトへ
      1351/3 九州探題に任命されました。しかし、尊氏派と直義派の対立は再び激しくなり、足利尊氏・義詮はそれぞれ佐々木道(ささきどうよ)・赤松則祐(あかまつのりすけ)の南朝軍を討伐すると偽って、尊氏・義詮・佐々木・赤松で直義派を挟撃しようとしました情報源のサイトへ
      1351/10 成立し、これを正平一統という。平行して尊氏は直義を追って東海道を進み、駿河薩捶静岡県静岡市清水区)、相模早川尻(神奈川県小田原市)などでの戦闘で撃ち破り、直義を捕らえて鎌倉に幽閉した情報源のサイトへ
      1351/11 上杉憲顕(うえすぎのりあき)が守る鎌倉に入りました。直義派は関東北陸山陰九州を拠点とし、尊氏派は東海四国・山陽を拠点としていますが、地政学的な不利を悟った尊氏・義詮は南朝と一時的に講和を結びます情報源のサイトへ
      1351/11/7 崇光天皇と皇太子・直仁親王(花園天皇の皇子)が廃位されました。情報源のサイトへ
      1351/12 鎌倉にて急死。息・満持が家督継承情報源のサイトへ
      1352 南朝についた弟の足利直義を毒殺する。情報源のサイトへ
      1352 / 観応情報源のサイトへ
      1352 幕府侍所頭人。情報源のサイトへ
      1352 公家・寺社の荘園領主が支配する本所領(荘園)の年貢の半分を武士が受け取ることが出来る『半済令』を出したことでも知られます。九州地方の大勢力となり『九州国王』と呼ばれるほどの勢威を得た懐良親王は、幼少期には紀伊の海賊や熊野水軍の支援を受けて薩摩へと上陸します情報源のサイトへ
      1352 新田義宗の挙兵に対し、足利尊氏に従い「武蔵野の合戦」に出陣。情報源のサイトへ
      1352 新田義興・義宗の上野挙兵に足利方の鎮圧軍として出動。情報源のサイトへ
      1352 南朝方の武将として満良親王を奉じて、鷲頭弘直を攻撃。情報源のサイトへ
      1352 尊氏の命により鎌倉にて直義を毒殺する。関東公方・足利基氏の執事に就任情報源のサイトへ
      1352/2 南朝軍が京都に侵攻して義詮の軍勢を追い払い、光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・直仁親王(なおひとしんのう)は大和国賀名生(あのう)と河内国金剛寺に長期情報源のサイトへ
      1352/2 急死し、室町幕府の内部対立である観応の擾乱はとりあえず終結します。九州中国地方で一大勢力となっていた足利直冬は、養父・直義が死んだ情報源のサイトへ
      1352/8 直義邸を守備。情報源のサイトへ
      1353 足利直義派の奥州管領・吉良満家を追討するため、次男・最上兼頼(1315〜1379)を出羽国に派遣。吉良・畠山・石堂を抑える情報源のサイトへ
      1353 武家方として南朝軍との合戦に軍功。情報源のサイトへ
      1353 山名時氏の攻勢に京都を追われる。将軍・義詮の影武者として近江堅田にて戦死情報源のサイトへ
      1353 足利義詮救援の為、足利尊氏に従い上洛。鎌倉公方足利家を支える情報源のサイトへ
      1353 少弐頼尚を古浦城に追い詰めるが、菊池武光が救援に出動し、「針摺原の合戦」に敗北。情報源のサイトへ
      1353 備前守護。のち情報源のサイトへ
      1353 足利尊氏の正月行事「鎌倉的始め」の射手三番六人のひとり。情報源のサイトへ
      1353 義信が夭折したため京極高詮を養子とする。尊氏死後は義詮の下で軍功情報源のサイトへ
      1353 南朝の攻勢により後光厳天皇、将軍・足利義詮とともに美濃落ちに同行。のち情報源のサイトへ
      1353 幕府「政所執事」。情報源のサイトへ
      1353/9 帰京しますが、当時は『尊氏と義詮の室町幕府・中国地方の直冬派・九州地方の懐良親王(かねよししんのう)』の三大勢力がせめぎあっていました。室町幕府の二代将軍・足利義詮(1330-1367)は、尊氏の死後情報源のサイトへ
      1354 息・国詮が挙兵するが敗北し二本松に拠る。情報源のサイトへ
      1354 京都を南朝に一時奪われるが情報源のサイトへ
      1354 二階堂政元とともに評定衆。情報源のサイトへ
      1354 周防制圧。厚東義武の長門国へ勢力を拡大する情報源のサイトへ
      1354 奥州管領。吉良・畠山・石堂を抑える情報源のサイトへ
      1354/8 師直邸に参じる。情報源のサイトへ
      1355 足利尊氏と兵庫で合戦。子息に頼房、義憲がいる情報源のサイトへ
      1355 九州に逃れる。大内弘世の勢力伸張に圧迫される情報源のサイトへ
      1355 南朝方・上杉憲将、宇佐美一族を攻略。直峰城主情報源のサイトへ
      1355 足利直冬・桃井直常と結びに応じて京都乱入。情報源のサイトへ
      1355 奪還した。尊氏は自ら直冬討伐を企てるが情報源のサイトへ
      1355 佐々木高氏の駿河守護就任に、千葉氏胤とともに実力で反対。情報源のサイトへ
      1356 足利直冬、富田直貞軍を破る。情報源のサイトへ
      1357 まで加賀守護。情報源のサイトへ
      1357 九州の経営に失敗し隠居。情報源のサイトへ
      1357 ことでした。南朝軍に天皇・上皇を連れ去られた北朝・義詮は、光厳院の第三皇子で崇光天皇の弟になる弥仁親王(いやひとしんのう)を、北朝第4代・後光厳天皇(在位1352-1371)として即位させました情報源のサイトへ
      1357 讃岐国に所領を得る。雨霧城主情報源のサイトへ
      1358 隠居し、息・胤頼が家督相続。情報源のサイトへ
      1358 新田義興を謀殺し鎮圧。情報源のサイトへ
      1358 ニ代将軍・義詮に執事に任命される。情報源のサイトへ
      1358 征夷大将軍に任命されますが、この時には九州地方にいた南朝方の征西府の将軍・懐良親王(かねよししんのう,1329-1383)が非常に強大な勢力になっていました。懐良親王は南朝の始祖である後醍醐天皇が、南朝の勢力を日本各地で強化するために派遣した皇子の一人であり、後醍醐天皇の子である懐良親王は8歳の時に征西大将軍として九州に赴きました情報源のサイトへ
      1358 二条良基の跡の関白職。情報源のサイトへ
      1358 足利尊氏は55歳で死去しました。悪性の腫れ物が原因だったといわれています情報源のサイトへ
      1358 父の死により家督。1358〜情報源のサイトへ
      1358 カテゴリ: 足利氏 | 鎌倉時代の武士 | 南北朝時代の人物 (日本) | 征夷大将軍 | 1305年生 | 1358年没情報源のサイトへ

あしたね年表について

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