| 年月日 |
できごと |
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年月日 |
できごと |
| 937/4/7 |
 朱雀天皇元服の大赦によって全ての罪を赦される。帰国後も、 将門は良兼を初め一族の大半と対立し |
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| 937/8/6 |
良兼は 将門の父良将や高望王など父祖の肖像を掲げて 将門の常羽 御厩を攻めた。この戦いで 将門は敗走、良兼は 将門の妻子(良兼の娘と孫とされる)を連れ帰る |
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| 937/9/10 |
再び出奔し 将門の元に戻ってしまった。妻子が戻ったことに力を得た 将門は朝廷に対して自らの正当性を訴えるという行動に出る |
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| 937/11/5 |
1つの太政官符を出した。従来、この官符は平良兼、平貞 盛、源護らに対して出された 将門追討の官符であると解釈されてきたが、前後の事実関係とのつながりとの食い違いが生じることから、これを公的には馬寮に属する常羽 御厩を良兼・貞 盛らが攻撃してしまったことによって良兼らが朝廷の怒りを買い、彼らへの追討の官符を 将門が受けたと解釈する説が有力となっている |
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| 939 |
軍兵を集めて 常陸府中(石岡)へ赴き追捕撤回を求める。常陸国府はこれを拒否するとともに宣戦布告をしたため、 将門はやむなく戦うこととなり、 将門は手勢1000人余ながらも国府軍3000人をたちまち打ち破り、常陸介藤原維幾はあっけなく降伏 |
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| 939/2 |
武蔵国へ新たに赴任した権守、興世王(出自不明)と介源経基(清和源氏の祖)が、 足立郡の郡司武蔵武芝との紛争に陥った。 将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武蔵武芝を会見させて和解させたが、武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲(経緯は不明)し、驚いた経基は 京へ逃げ出してしまう |
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| 939/5/2 |
付けで、常陸・下総・下野・武蔵・ 上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書をそえて送った。これにより朝廷は 将門への疑いを解き、逆に経基は誣告の罪で罰せられた |
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| 939/11/21 |
また、朝廷への租税を滞納していたことにより追捕令が出ていた常陸国の藤原玄明が庇護を求めると 将門は玄明を匿い常陸国府からの引渡し要求を拒否した。そのうえ天慶2年11月21日 |
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| 939/12/11 |
下野国府を占領し、続いて迎撃に出兵した 上野介藤原尚範(同国は親王任国のため、介が最高責任者。 藤原純友の叔父)を捕らえて助命する代わりに印綬を接収して国外に放逐 |
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| 939/12/19 |
指揮官を失った 上野国府を落とし、 関東一円を手中に収めて「新皇」を名乗り天皇に即位、独自に除目を行い岩井( 茨城県 坂東市)に政庁を置いた。また、この新皇僭称に際して舎弟 平将 平、小姓 伊和員経らに諫言されるも聞き入れなかった |
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| 940 |
将門謀反の報はただちに 京都にもたらされ、また同時期に西国で 藤原純友の乱の報告もあり、朝廷は驚愕する。直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられ、翌天慶3年 |
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| 940 |
カテゴリ: 平安時代の武士 | 平氏 | 君主 | 下総国の人物 | 940年没 |
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| 940/1 |
中旬、 関東では、 将門が兵5000を率いて 常陸国へ出陣して、平貞 盛と維幾の子為憲の行方を捜索している。貞 盛の行方は知れなかったが、貞 盛の妻と源扶の妻を捕らえた |
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| 940/1/9 |
源経基が以前の密告が現実になったことが賞されて従五位下に叙され |
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| 940/1/19 |
参議 藤原忠文が征東大将軍に任じられ、忠文は屋敷にかえる事無く討伐軍長官として出立したという。 |
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| 940/2/1 |
出陣、 将門の副将藤原玄 茂の武将多治経明と坂上遂高らは貞盛・秀郷軍を発見すると 将門に報告もせずに攻撃を開始、しかし玄 茂軍は敗退してしまう。貞盛・秀郷軍はこれを追撃し 下総国 川口にて 将門軍と合戦になり 将門自ら陣頭に立って奮戦し貞盛・秀郷らもたじろぐが、時が経つにつれ数に勝る官軍に 将門軍は押され、ついには退却を余儀なくされた |
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| 940/2/13 |
将門の本拠石井に攻め寄せ焼き払う「焦土作戦」に出た。これによって民衆は住処を失い路頭に迷うが、追討軍による焼き討ちを恨むよりも、 将門の「悪政」を嘆いたといい、既に民心は 将門から離れていた |
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| 940/2/14 |
未申の刻(午後3時)、連合軍と 将門の合戦がはじまった。北風が吹き荒れ、 将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、連合軍を攻め立てた |
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1147/4/8 |
源義朝の三男として生まれる。幼名は鬼武者、または鬼 武丸[1] |
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1156 |
保元の乱に際して、頼 盛に後 白河天皇側につくことを勧めるなど、政治的判断に優れていたという。 平治の乱に敗れた源頼朝の助命を清 盛に嘆願し、流罪とした |
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1158 |
後 白河天皇准母として皇后宮となった統子内親王に仕え皇后宮権少進 |
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1159 |
保元の乱の後、二条天皇親政派と後 白河院政派の争い、急速に勢力を伸ばした 信西への反感などがあり、都の政局は流動的であった。頼朝の父・義朝は平治元年 |
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1159/1 |
中は浅井に身を潜める。その間に一行は、義朝の妻子が住む 美濃国 青墓へ至るが、ここで傷を負った次兄の源朝長を亡くし、父の義朝は 尾張国 野間で長田忠致の裏切りにより討たれる |
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1160/3/11 |
伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)[7]へと流された。なお、 同日平治の乱に関った藤原経宗、藤原惟方や同母弟希義も流刑に処されている[5] |
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1167 |
頃、21歳の頼朝は伊東祐親の下に在った。ここでは後に家人となる 土肥 実平、天野遠景、大庭景義などが集まり狩や相撲が催されている |
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1173 |
白河院に寄付を強訴して伊豆に配流された。同地で源頼朝と親交を結び、平家追討を促したと伝える |
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1178 |
誕生している事から物語上の創作と思われる。 |
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1179/10/30 |
以仁王が挙兵したことに衝撃をうけ、福原遷都を強行。 以仁王の令旨をえた源頼朝ら反平氏勢力が挙兵するなか病死 |
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1180 |
兄源頼朝の挙兵を知り合流。のち 駿河国 阿野に住む |
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1180 |
東国に下って源頼朝に従う。以後、源平合戦や 奥州合戦に従軍し戦功を重ねた |
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1180 |
源頼朝挙兵に際してはいったんは拒否したが、二万騎の兵を率いて参陣したという。 富士川の戦いの後、上洛を主張する頼朝を諌め、常陸国の佐竹氏を討つことを主張し、その中心的役割を果たした |
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1180 |
源頼朝挙兵に際し、 石橋山に一族を遣わしたが敗戦の報を聞いて引き返した。途中、 鎌倉で 畠山重忠軍と戦い破ったが、加勢を得た重忠軍に衣笠城を攻められ、一族の脱出後に討死 |
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1180 |
頼朝の蜂起後、頼朝の意向の伝達者として 鎌倉と京のパイプ役を果たし、特に兼実と頼朝との仲介役となった。(朝) |
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1180 |
源頼政の挙兵には、 以仁王の令旨を諸国の源氏に伝えた。源頼朝にはいれられず 源義仲と結んで上洛し、 備前守に任じられる |
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1180 |
から続いていた内乱も終結を迎えることになる。 |
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1180 |
秀衡のもとに寄留していた 源義経が源頼朝軍に加わろうとした際、秀衡の命で弟忠信とともに義経に従った。その後、一ノ谷・ 屋島の戦いに参加したが、 屋島で義経の身代わりとなって戦死 |
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1180 |
平氏[へいし]をたおす兵をあげ、 鎌倉を中心とした 南関東の武士政権をつくり、弟の 源義経[みなもとのよしつね]や源範頼[みなもとののりより]に平氏を都から追い出した 源義仲[みなもとのよしなか]や平氏を討たせます。その後の |
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1180 |
頼朝寄進江島神社奥津宮鳥居治承四年 |
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1180 |
鶴岡八幡宮本殿治承4年 |
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1180/4/27 |
伊豆国の頼朝にも、叔父の源行家より令旨が届けられる。しかし 以仁王は 源頼政らと共に宇治で平家に討たれ、平家は令旨を受けた諸国の源氏を討とうと企てた |
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1180/8/28 |
真鶴岬から船で 安房国へと向かう。 |
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1180/9/17 |
広常の参入を待たず三百余騎で下総国府に入り、常胤から源頼隆を引き合わされる。頼隆は 平治の乱で共に戦い討たれた源義隆の遺児であり、頼朝は自身と似たその境遇に感じ、常胤の上座に座らせ家人とした |
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1180/10/6 |
かつて父義朝と兄義平の住んだ 鎌倉へ入り、大倉の地に居宅となる大倉御所をかまえて 鎌倉の政治の拠点とした。また先祖の源頼義が 京都郊外の石清水八幡宮を勧請した鶴岡八幡宮を北の山麓に移し、父義朝の菩提を弔うための勝長寿院の建立を行うなど整備を続け、 鎌倉は後の 鎌倉幕府の本拠地として、発展を遂げる事となる[9] |
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1180/10/20 |
奥州の 藤原秀衡を頼っていた異母弟の 源義経が参じる。頼朝は幼い頃に見た弟との対面に涙を流し、義経を後 |
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1180/10/20 |
富士川の戦いで維盛軍と対峙するが、撤退の最中に水鳥の飛び立つ音に浮き足立った維盛軍は潰走し、頼朝軍はほとんど戦わずして勝利を得た。翌日には上洛を志すが、 千葉常胤、三浦義澄、 上総広常らは常陸源氏の佐竹氏が未だ従わず、まず東国を平定すべきであると諌め、頼朝はこれを受け容れ黄瀬川に兵をかえした |
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1181 |
その一方で 奥州の 藤原秀衡を陸奥守に任じ、秀衡に頼朝追討協力を期待する[16]。一方その頃平氏の攻撃の矛先は頼朝ではなく、 養和元年 |
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1181/6 |
横田河原の戦い以降活発化した若狭、 越前などの 北陸反乱勢力に差し向けられることとなった[16]。また、遠江には未だ独立的立場をとる安田義定がおり頼朝が平氏勢力と直接対峙することはこの時期なかった |
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1181/8 |
妻政子が嫡男の 源頼家を出産している[20]。 |
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1181/8/1 |
も平家物語と似た意の清盛の遺言と共に、それ由に平家が頼朝を許す筈がないと記されている。 |
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1181/11/30 |
頼朝は伊勢神宮に平氏打倒の願文を奉じ、 藤原秀衡の調伏を祈願し 江ノ島に弁才天を勧請する[9]。また |
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1181/11/30 |
源頼朝勢力の 京都進出後は頼朝との協調を方針とし、 源義経挙兵事件の一時的混乱を越えて、朝廷と幕府共存の道を開いた。 |
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1183 |
子の忠綱が志田義広と組んで頼朝と戦ったことから追討をうけ、郎等の桐生六郎に殺害された。これにより秀郷流足利氏の正統は滅亡 |
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1183 |
源頼朝の命で上総介広常を殺害。平家追討にも従軍するが、 屋島攻撃の際に 源義経と作戦上の問題で対立、義経失脚の一因をつくる |
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1183/7 |
平氏一門が安徳天皇と共に都を落ちると、大軍を率いて入京し、後 白河法皇に召され平宗盛ら平氏追討の命を得る。しかし寄せ集めである 義仲の軍勢は統制が取れておらず、飢饉に苦しむ都の食糧事情を悪化させ、また 義仲が皇位継承に介入した事により院や廷臣たちの反感を買った[16] |
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1183/8 |
鎌倉で頼朝と対面した中原泰定の言葉として『平家物語』に「顔大きに、背低きかりけり。容貌優美にして言語文明なり」とある |
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1183/10 |
宣旨)[17]。頼朝は既に実力で制圧していた 地域の所領の収公や御家人の賞与罰則をおこなっていたが、それは朝廷からみれば非公式なものであった |
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1183/10/9 |
条)と書いている。身長は大 山祇神社に奉納された甲冑を元に推測すると165センチ前後はあったとされ、当時の平均よりは長身である |
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1184 |
嫡子一条忠頼を殺され、自らも頼朝の勘気をこうむり、失意のうちに死んだ。 |
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1184 |
その推挙を得て武蔵守に任じられた。頼朝は義信の国務善政をたたえ、以後国司の例とするよう国庁に壁書させたという |
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1184/2/7 |
摂津国 一ノ谷の戦いで勝利し、平重衡を捕え 京に連れ帰った[17][9]。頼朝は 四国に逃れた平氏を更に追討すべく、 九州・ 四国の武士に平氏追討を求める書状を下す |
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1184/4 |
頼朝の推薦を受けずに朝廷の官職についた御家人たちの容姿を細かくあげつらって罵倒する記述があるが、これは頼朝が御家人一人一人の容貌を含めて熟知していた事を示すものである。ある合戦の報告を聞いて「○は討ち死に、△は遁走、というがそんな事はあるまい |
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1184/8/6 |
京に在った義経は頼朝の内挙を得ずに任官し、憤った頼朝は義経を平家追討軍から除く。 |
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1184/8/8 |
範頼を大将とする平氏追討軍が 鎌倉から出陣する。従わせた家人は 北条義時、足利義兼、 千葉常胤、三浦義澄、小山朝光、 比企能員、和田義盛、天野遠景らである |
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1184/8/27 |
京へ入ると |
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1184/9/1 |
西海へと赴いた[8]。 |
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1184/10/6 |
公文所を開き大江広元を別当に任じる。公文所は後に政所と名を改め、後の 鎌倉幕府における政務と財政を司る事となる[8] |
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1185 |
源頼朝の許可なく右衛門尉に任官したため、一時勘気をこうむった。 |
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1185 |
壇ノ浦で捕らえられ、 鎌倉に護送されて源頼朝と対面した。 京都に送られる途中、近江国 篠原で斬殺された |
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1185/1/6 |
西海の範頼から兵糧と船の不足、 関東への帰還を望む東国武士達の不和など窮状を訴える書状が届く。頼朝は安徳天皇や建礼門院の無事と、軍を動かさず筑紫の武士からくれぐれも反感を得ぬ様に記した書状を返し、 九州の武士には、範頼に従い平氏を討つ事を求める[8] |
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1185/1/10 |
義経は 讃岐国屋 島に拠る平氏追討へ向かう。 |
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1185/3/24 |
壇ノ浦の戦いで安徳天皇ら平氏一門は入水し、平宗盛、建礼門院らを捕え、遂に平氏を滅ぼした。 |
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1185/4/27 |
平宗盛を捕らえた功により、従二位へ昇った。 |
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1185/6/9 |
宗盛父子と平重衡を伴なわせ帰洛を命じる。義経は頼朝を深く恨み、「 関東に於いて怨みを成すの輩は、義経に属くべき」と言い放つ |
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1185/9 |
入り 京の義経の様子を探るべく梶原景季を遣わすと、義経は痩せ衰えた体で景季の前に現れ、行家追討の要請を受けると、自身の病と行家が同じ源氏である事を理由に断った。 |
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1185/10/24 |
多くの御家人を集め盛大に法要が催される。一方の義経の下に追討の兵は集まらず |
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1185/10/24 |
夜、朝廷の頼朝追討宣旨に対抗し御家人達に即時上洛の命を出すが、その時 鎌倉に集まっていた2098人の武士のうち、命に応じた者はわずか58人であった。頼朝は自らの出陣を決め、行家と義経を討つべく |
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1185/11/8 |
頼朝は頼朝追討の院宣が出された事を激怒している旨を都へ伝える使者を送ると、黄瀬川を発って 鎌倉へ戻る。 |
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1185/11/12 |
大江広元は処置を考える頼朝に対して全国への守護・地頭の設置を進言。これに賛同した頼朝は、周章する朝廷に対し強硬な態度を示して攻勢をかける[26] |
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1185/11/24 |
頼朝の代官として1000騎を兵を率いて入京した 北条時政は、頼朝の忿怒を院に告げ 鎌倉側の要求を提出し、法皇との交渉に入った。狼狽する法皇と 泰経は |
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1185/11/25 |
行家と義経の探索を命じる宣旨を重ねて出し、「行家・義経が逆風の難にあったのは天罰である」と義経を罵り、 泰経に謹慎を命じる。それでも効き目はなく |
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1185/11/28 |
時政は吉田経房を通じ義経らの追捕の為として「守護・地頭の全国への設置」を迫り、これを認めさせる事に成功する(文治の勅許)。これによって 鎌倉の権力の全国的政権への確定が行われる事になる |
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1186/4 |
頃から義経が 京都周辺に出没している風聞が飛び交い、頼朝は貴族・院が陰で操っている事を察して憤りながらも、 東北へも意識を向け 奥州の 藤原秀衡に「秀衡は奥六 郡の主、自分は 東海道の 惣官である。水魚の交わりをなすべきである |
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1186/4/8 |
鶴岡八幡宮で静に舞を求めると、静は義経を追慕する歌を詠んだ。頼朝は憤るが妻の政子は、頼朝との 伊豆での馴初めから 石橋山の戦いまで、自身が頼朝を想い案じた心を静になぞられ、頼朝の怒りを宥めた |
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1186/5/12 |
和泉国に潜んでいた行家を討ち取る。頼朝は捜査の実行によって義経を匿う寺院勢力に威圧を加え、彼らの行動を制限した |
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1186/11 |
「義経を逮捕できない原因は朝廷にある。義経を匿ったり義経に同意しているものがいる」と頼朝は朝廷に強硬な申し入れを行なった |
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1187 |
父の跡を継ぎ、陸奥・出羽両国の押領使となる。 兄国衡・ 源義経とともに「三人一味」せよという父の遺言に反し、源頼朝の命に従い義経を討つ |
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1187/10 |
藤原秀衡が子の 泰衡らに義経を将軍とする様に遺言して没する。 |
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1188/4 |
頼朝は義経追討の院宣を院に求め、 泰衡に義経を召し進せよとの宣旨が下される。屈した 泰衡は |
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1189/4 |
衣川の館に住む義経を襲い、自害へと追いやった。 |
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1189/6/13 |
義経の首が 鎌倉に届けられると、頼朝は和田義盛と梶原景時に実検させる。 |
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1189/7/25 |
宇都宮に到着、 宇都宮大明神に戦勝を祈願するとともに佐竹秀義らを軍に加えた。 |
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1189/8/7 |
陸奥国 伊達郡 国見へ至り、藤原国衡と対峙する。国衡は 阿津賀 志山に城壁を築き、阿武隈川の水を引き入れた堀を設け、二万の兵を率いていた |
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1189/8/20 |
頼朝は先陣に「 平泉に入るに於いては、僅か一二千騎を率い馳せ向かうべからず。二万騎の軍兵を相調え競い至るべし |
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1190/11/24 |
右近衛大将へと任ぜられた。 |
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1192 |
源頼朝は征夷大将軍に任命されました。よく言われる、「いい国作ろう、 鎌倉幕府」というのは、この時のことですが、別に征夷大将軍になったから幕府が始まったわけではありません |
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1193 |
曾我兄弟仇討ち事件で頼朝暗殺が誤り伝えられると、 鎌倉 留守居役だった範頼の不用意な発言が問題となり |
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1193/5/28 |
御家人を集め 駿河国で巻狩を行っており、その夜に御家人の工藤祐経が曾我兄弟の仇討ちに遭い討たれる。宿場は一時混乱へと陥り、頼朝が討たれたとの誤報が 鎌倉に伝わると、源範頼は嘆く 北条政子に対し「範頼左て候へば御代は何事か候べきと」と慰めた |
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1193/8/10 |
頼朝の寝床に” 當麻の太郎”という男がひそんでいる所を捕縛された。男によると範頼の命だと白状する |
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1194 |
有力御家人である安田義定を誅している。 |
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1195 |
源頼朝上洛の際に、対面を遂げた。 |
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1195/2 |
頼朝は東大寺再建供養に出席するため、政子と頼家・大姫ら子女達を伴って再び上洛し、長女・大姫を後 鳥羽天皇の妃にすべく朝廷に 入内運動を始める。だが、盟友である九条兼実は既に娘・任子を入内させており、反対されることを頼朝は危惧した |
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1197/7 |
入内計画は大姫の死により失敗に終わる。 |
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1198 |
源頼朝は死去しました。 相模 川で橋の供養に出席した帰りに落馬し、重傷を負ったのが原因だということです |
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1198/12/27 |
相模 川で催された橋供養からの帰路で体調を崩す。原因は落馬と言われるが定かでは無い |
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1199 |
カテゴリ: 河内源氏 | 平安時代の武士 | 鎌倉時代の武士 | 相模国の人物 | 征夷大将軍 | 静岡県の歴史 | 神奈川県の歴史 | 鎌倉市 | 1147年生 | 1199年没 |
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1199/1/13 |
死去した。享年53(満51歳没) |