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年表トップ > 平塚らいてうと湯川秀樹の年表を比べる

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平塚らいてう(ひらつからいちょう)

 

湯川秀樹(ゆかわひでき)

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平塚らいてう(ひらつからいちょう)に関する本・DVD

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平塚らいてう   湯川秀樹
年月日 できごと   年月日 できごと
1903 「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針に憧れて日本女子大学校家政学部に「女子には女学校以上の学問は必要ない」という父を説得して入学。しかし情報源のサイトへ      
1905 禅の存在を知り、日暮里にある禅の道場「両忘庵」に通い始めるようになった。情報源のサイトへ      
1906 日本女子大学校を卒業。両忘庵で禅の修行をしながら、二松学舎、女子英学塾で漢文や英語を学び情報源のサイトへ      
      1907 東京府東京麻布区兵衛町(現:東京都港区)に地質学者・小川琢治と小雪の三男として生まれる。情報源のサイトへ
1908 平塚らいてうとの恋愛事件が話題になるが、社会的に非難されたため情報源のサイトへ   1908 父・琢治の京都帝国大学教授就任に伴い、父親の一家で京都府京都市に移住する。このため、麻布の家には誕生後情報源のサイトへ
1911/9 創刊され、男女で両極端な反響を巻き起こした。女性の読者からは手紙が殺到し、時には平塚家に訪ねてくる読者もいたほどだったが、その一方、男性の読者あるいは新聞は冷たい視線で、青鞜社を揶揄する記事を書き、時には平塚家に石が投げ込まれるほどだった情報源のサイトへ      
1912 青鞜社は『青鞜』の他にも1912年情報源のサイトへ      
1912 夏に茅ヶ崎で5歳年下の画家志望の青年奥村博史と出会い、青鞜社自体を巻き込んだ騒動ののちに事実婚を始めている。らいてうはその顛末を『青鞜』の編集後記上で読者に報告し、同棲を始めた直後の情報源のサイトへ      
1912/5/5 読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に与謝野晶子パリ行きを取り上げた。翌情報源のサイトへ      
1912/5/6 晶子の出発の様子を「ソコへ足早に駆け付けたのは青鞜同人の平塚明子で(中略)列車の中へ入って叮嚀に挨拶を交換して居る。」などと報じた(総勢500余名が見送った)情報源のサイトへ      
1912/6 『中央公論』(与謝野晶子特集号)では、鴎外によって「樋口一葉さんが亡くなってから、女流のすぐれた人を推すとなると、どうしても此人であらう。(中略)序だが、晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ情報源のサイトへ      
1914 『現代と婦人の生活』平塚らいてう著、日月社情報源のサイトへ      
1915/1 号から伊藤野枝に『青鞜』の編集権を譲った。『青鞜』は従来の文芸雑誌+αとは別の、強いて言えば「無政府主義者の論争誌」として活気付いたが、その情報源のサイトへ      
1917 『現代の男女へ:らいてう第三文集』平塚らいてう著、南北社情報源のサイトへ      
1918 婦人公論情報源のサイトへ      
1918/9 号で『与謝野、平塚2氏の論争』(真の母性保護は社会主義国でのみ可能)という論文を発表。その後、山田わかなどが論争に加わると一躍社会的な現象になった情報源のサイトへ      
1919/11/24 市川房枝、奥むめおらの協力のもと、らいてうにより協会設立が発表され、「婦人参政権運動」と「母性の保護」を要求し、女性の政治的・社会的自由を確立させるための日本初の婦人運動団体として設立された[11]。協会の機関紙「女性同盟」では再びらいてうが創刊の辞を執筆情報源のサイトへ      
1921 しかし、1921年情報源のサイトへ      
1923 末に解散。らいてうは文筆生活に入った情報源のサイトへ   1923 京都府立京都第一中学校卒業。情報源のサイトへ
      1929 京都帝国大学理学部物理学科卒業。同大学玉城嘉十郎研究室の副手となる情報源のサイトへ
1933 『雲・草・人』平塚明著、小山書店情報源のサイトへ      
      1934 「「中間子」理論を着想した湯川秀樹博士の回顧談を読み返すたび、擬娩という言葉が頭に浮かぶ。二人目のお子さんがいまにも生まれる1934年情報源のサイトへ
      1934 (昭和9)素粒子論で原子核に働く中間子の存在を予言した。情報源のサイトへ
      1935 「素粒子の相互作用について」を発表、中間子(現在のπ中間子)の存在を予言する。この研究が評価され情報源のサイトへ
      1936 『科学文献抄7 ベータ線放射能の理論』岩波書店(1936年)情報源のサイトへ
1937 『子供の研究と教育叢書』第7、平塚明子著、刀江書院情報源のサイトへ      
      1938 理学博士(大阪帝国大学)。情報源のサイトへ
      1939 『量子物理学7 新粒子論』共立出版(1939年)情報源のサイトへ
      1941 単行本,情報源のサイトへ
      1943 最年少で文化勲章受章。さらに情報源のサイトへ
      1946 湯川秀樹の呼びかけで発刊された論理物理学学術誌情報源のサイトへ
      1947 『量子力学序説』弘文堂(1947年)情報源のサイトへ
      1948 『素粒子論序説(上)』岩波書店(1948年)情報源のサイトへ
      1949 『続・理論物理学講話』朝日新聞社(1949年)情報源のサイトへ
      1949 ノーベル物理学賞を受賞した。これは日本人として初めてのノーベル賞受賞であり、このニュースは敗戦・占領下で自信を失っていた日本国民に大きな力を与えた情報源のサイトへ
      1950 湯川胃腸病院と改称)の院長湯川家の婿養子となり、小川姓から湯川姓となる。情報源のサイトへ
1951 『われら母なれば:平和を祈る母たちの手記』平塚らいてふ、櫛田ふき共監修、青銅社情報源のサイトへ      
      1953 京都大学基礎物理学研究所初代所長。国際理論物理学会議東京京都議長情報源のサイトへ
1953/4 日本婦人団体連合会を結成し初代会長に就任。情報源のサイトへ      
1955 『わたくしの歩いた道』平塚らいてう著、新評論社情報源のサイトへ   1955 湯川秀樹,田村松平『物理学通論(上)(中)(下)』大明堂(1955年,情報源のサイトへ
      1958 角川文庫情報源のサイトへ
      1960 ;「『旅人』以後」追補(挿絵・向井久万),講談社情報源のサイトへ
      1961 『現代科学と人間』岩波書店(1961年)情報源のサイトへ
      1961 第2版,情報源のサイトへ
1962 野上弥生子、いわさきちひろ、岸輝子らとともに「新日本婦人の会」を結成した。情報源のサイトへ      
1962 らいてうは森鴎外の回想文で次のように書いた。「「新婦人協会」という婦人の組織つくりをはじめたとき、「青鞜」の場合と違い、こんどは男の方々にも賛助員をお願いすることにしましたが、そのときもちろん鴎外先生をその中に加えるのを忘れませんでした情報源のサイトへ      
1962/8/26 執筆と明記)。なお後述のとおり、「新婦人協会」の設立に関しても、鴎外に言及した情報源のサイトへ      
1962/10 そしてこれらのことは漱石の婦人に対する態度、その無関心さと、無理解さと比べて何という違い方でしょう。」(「鴎外先生について」『文学散歩』1962年10月。情報源のサイトへ      
      1963 湯川秀樹,朝永振一郎,坂田昌一『平和時代を創造するために―科学者は訴える』岩波書店(1963年)情報源のサイトへ
      1965 湯川秀樹,坂田昌一,武谷三男『素粒子の探求』勁草書房(1965年)情報源のサイトへ
1966 ベトナム話し合いの会」を結成情報源のサイトへ      
      1968 湯川秀樹,朝永振一郎,坂田昌一『核時代を超える―平和の創造をめざして』岩波書店(1968年)情報源のサイトへ
      1969 『定本・創造への飛躍』講談社(1969年)情報源のサイトへ
1970/6 市川房枝らと共に安保廃棄のアピールを発表する。またベトナム戦争が勃発すると反戦運動を展開情報源のサイトへ      
1970/7 ベトナム母と子保健センター」を設立する。「女たちはみな一人ひとり天才である」と宣言する孤高の行動家として、終生婦人運動及び反戦・平和運動に献身した情報源のサイトへ      
1971     「平塚 らいてう」をamazon.co.jpで検索情報源のサイトへ      
1971 没 | 東京都出身の人物隠しカテゴリ: 書きかけの節のある項目情報源のサイトへ      
      1972 ;ただし第2版情報源のサイトへ
      1975 講談社学術文庫,情報源のサイトへ
      1976 『外的世界と内的世界』岩波書店(1976年)情報源のサイトへ
      1978 では、湯川秀樹,豊田利幸編で、I,IIとして刊行情報源のサイトへ
      1979/3/8 発行情報源のサイトへ
      1981 カテゴリ: 日本の物理学者 | 文化勲章受章者 | ノーベル物理学賞受賞者 | 阪神間モダニズム | 東京都出身の人物 | 1907年生 | 1981年没情報源のサイトへ
      1981 肺炎に心不全を併発し京都市左京区の自宅で死去する。74歳情報源のサイトへ
      1981/9/8 (満74歳没)情報源のサイトへ

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