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島津義久(しまづよしひさ)

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年月日 できごと 写真
1533/2/9 第15代当主・島津貴久の長男として伊作城で生まれる。 情報源のサイトへ
1564 従五位下修理大夫 情報源のサイトへ
1566 父の隠居により家督を相続し、島津家第16代当主となる。この頃、日向の伊東義祐との抗争が激化し 情報源のサイトへ
1566 第16代:1566年 - 情報源のサイトへ
1569 男児(祐光次男)を生んだという。のちに男児は肥後国八代で死去した鮫島次郎三郎の名跡を相続して鮫島宗(大蔵)と称したという話もある[10] 情報源のサイトへ
1572/5 伊東義祐は重臣の伊東祐安に3千余人の軍勢で島津方に侵攻するよう命じた。義久の弟・島津義弘はわずか300余人を率いて出陣し、木崎原に兵を伏せて、誘い込んで強襲した 情報源のサイトへ /i_11.jpg
1578 伊東義祐が亡命したことにより大友宗麟天正6年 情報源のサイトへ /20.jpg /matuo%20nawabari.gif
1578/10 大軍を率いて、日向に侵攻してきた。宗麟は務志賀(延岡市無鹿)に止まり、田原紹忍が総大将となり、田北鎮周・佐伯宗天ら4万3千を率いて、戦いの指揮を取ることになった 情報源のサイトへ
1578/11 義久は2万余人の軍勢を率いて出陣し、佐土原に着陣した。島津軍は大友軍に奇襲をかけて成功し、高城川を挟んで大友軍の対岸の根城坂に着陣した 情報源のサイトへ
1581/5/3 従四位下 情報源のサイトへ
1582 龍造寺方の千々石城を攻め落とした。 情報源のサイトへ
1582 龍造寺隆信の圧迫に耐えかねた有馬晴信が八代にいた義弘・家久に援軍を要請してきた。それに応えた島津軍は天正10年 情報源のサイトへ
1582/11/30 有馬氏の親戚である安徳城主・安徳純俊が龍造寺氏に背いた。島津軍は八代に待機していた新納忠・川上忠堅ら千余人が援軍として安徳城に入り、深江城を攻撃した 情報源のサイトへ
1583/3/13 (旧暦)に御料様の記載があることや、『薩藩旧記雑録』に所収された 情報源のサイトへ
1584 義久は家久を総大将として島原に派遣し、自らは肥後水俣まで出陣。家久は島原湾を渡海し、安徳城に入った 情報源のサイトへ
1584 龍造寺氏が島津氏の軍門に降り、肥後の隈部親永・親父子、筑前の秋月種実、筑後の筑紫広門らが、次々と島津氏に服属や和睦していった。 情報源のサイトへ
1584/11/30 肥後の阿蘇惟光を下し、九州で残すところは大友氏のみになっていた。しかし、ここで豊臣秀吉から書状が届けられた 情報源のサイトへ /matsuzaka_02.jpg /PICT20071.jpg
1586 義久は豊臣秀吉から直書をもって大友宗麟との和睦と豊臣氏への臣従を迫られたが 情報源のサイトへ /592.jpg /20080602-19910320-2-026.jpg /zabieru.jpg /0106285.JPG
1586 島津忠長・伊集院忠棟を大将とした2万余人が高橋紹運の篭る岩屋城を落とした(岩屋城の戦い)。 情報源のサイトへ /c0125356_2054260.jpg
1586/1/11 出した書状では宛名を細川幽斎にして和睦・臣従を拒むという返信を送っている。この内容は秀吉の出自の低さを厳しく指摘する内容であり[7]、その後、島津氏に対する秀吉の心証を非常に害した可能性がある[8] 情報源のサイトへ
1587 豊臣軍の先鋒・豊臣秀長率いる10万余人が豊前に到着したのを皮切りに、豊臣秀吉率いる12万余人が小倉に上陸した。豊臣軍の上陸を知った豊後の義弘・家久らは退陣を余儀なくされ、大友軍に追撃されながら退却した 情報源のサイトへ /b0063958_22494646.jpg /azemati33.jpg
1593 朝鮮で久保が病死したため、久保の弟・恒に亀寿を再嫁させて後継者としている。 情報源のサイトへ
1594 義弘は石田三成に検地実施を要請する。検地の結果、島津氏の石高は倍増したが、義久の直轄地は大隅国や日向国に置かれ、義弘に鹿児島周辺の主要地が宛行われることとなった[1] 情報源のサイトへ /okori1.jpg /p1.jpg
1599/6 も)の 情報源のサイトへ
1599/7 目(「諸家系図」では 情報源のサイトへ
1600 建てた逆修塔がある。また、高野山にも供養塔がある 情報源のサイトへ
1600 関ヶ原の戦いにおいては京都にいた義弘は西軍に加担することになる。この間、再三義弘は国元に援軍を要請するが、義久も忠恒も動かなかった 情報源のサイトへ /20071122_02.jpg /nakasen58c.jpg
1602 家康による領土安堵後の慶長7年 情報源のサイトへ
1602 「御重物」と当主の座を正式に島津忠恒に譲り渡して隠居したが、以後も江戸幕府と都度都度書状をやりとりするなど絶大な権威を持ち、死ぬまで家中に発言力を保持していた。この頃の体制を指して「三殿体制」とよぶ 情報源のサイトへ
1604 大隅の国分国分城(舞鶴城)を築き、移り住んだ。 情報源のサイトへ
1610 頃には「龍伯様(義久)、惟新様(義弘)、中納言様(忠恒)が疎遠になられ、召し使う侍も三方に別れ、世上に不穏な噂が流れて」[5]いたという。 情報源のサイトへ
1611 カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 守護大名 | 戦国大名 | 九州地方の歴史 | 島津氏 | 1533年生 | 1611年没 情報源のサイトへ
1611/1/1 反省を行う習慣があった。後世のアメリカの海軍元帥チェスター・ニミッツにもよく似た逸話がある 情報源のサイトへ
1611/1/21 国分城にて病死した。享年79 情報源のサイトへ

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