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山名持豊(やまなもちとよ)
| 生没 | 1404年~1473年 | カテゴリ | 室町時代の人物 武士・軍人 |
|---|---|---|---|
| 主なできごと |
1404年 移動: ナビゲーション, 検索 山... 1435年 父の時熙が死去し 1441年 』といいます。将軍暗殺後に本拠地の播磨・坂本... 1467年 』が発生することになります。 1473年 病死、享年69。法名:達碧院殿最高宗峰大居士 |
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| ライバルや仲間 | |||
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| 年月日 | できごと | 写真 |
|---|---|---|
| 1404/5/29 |
移動: ナビゲーション, 検索 山名 宗全/山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ、応永11年5月29日
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| 1413 |
元服し、将軍 |
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| 1432 |
家督を相続。
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| 1435 |
父の時熙が死去し
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| 1437 |
兄弟の山名持熙が持豊の家督相続に不満を持ち |
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| 1439/1 |
正四位下左衛門佐に叙任。
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| 1440 |
侍所頭人となる。
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| 1441 |
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| 1441 |
』といいます。将軍暗殺後に本拠地の播磨・坂本城に戻った |
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| 1441/6/24 |
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| 1441/7/12 |
幕府の侍所所司を辞任。
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| 1442/1 |
従三位右衛門佐に昇叙遷任。
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| 1443 |
山名熙貴の娘を猶子に迎え、大内教弘に嫁がせ
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| 1444 |
以降、右衛門督に転任。
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| 1447 |
同じく熙貴の娘を幕府管領の |
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| 1450 |
出家し、宗峰と号する。後に宗全と改める
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| 1450/5 |
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| 1454 |
赤松氏の出仕を巡り8代将軍 |
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| 1454/11 |
隠居し、家督を教豊に譲る。
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| 1458 |
赦免されて再び上洛。幕政を巡り、娘婿である勝元と対立するようになる
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| 1466 |
勝元と共謀して、政所執事の伊勢貞親や季瓊真蘂らを失脚させる文正の政変を行う。
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| 1466/12 |
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| 1467 |
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| 1467 |
応仁{おうにん}の乱が始まった(史料1)。細川方(東軍)には24か国16万人、山名方(西軍)には20か国11万人がこの戦いに加わった
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| 1467 |
』が発生することになります。
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| 1467/1/3 |
義就が山名持豊の屋敷で開いた酒宴に出席し、その席で義政は、義就による畠山氏の家督相続を認めました。同時に義政は、管領であった |
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| 1467/5 |
宗全と対立する赤松政則が |
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| 1467/8 |
周防から上洛した大内政弘と合流し、一進一退の状況になる。
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| 1472 |
和平交渉も行われたが、赤松政則の抵抗などで失敗
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| 1472/5 |
宗全は自害を試みている。
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| 1473 |
病死、享年69。法名:達碧院殿最 |
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| 1473 |
カテゴリ: 山名氏 | 室町時代の人物 | 守護大名 | 1404年生 | 1473年没
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