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山名持豊(やまなもちとよ)

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年月日 できごと 写真
1404/5/29 移動: ナビゲーション, 検索 山名 宗全/山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ、応永11年5月29日 情報源のサイトへ
1413 元服し、将軍足利義持の名を一字賜り、持豊を名乗る。 情報源のサイトへ
1432 家督を相続。 情報源のサイトへ
1435 父の時熙が死去し 情報源のサイトへ
1437 兄弟の山名持熙が持豊の家督相続に不満を持ち備後で挙兵し、これを鎮圧する。 情報源のサイトへ
1439/1 正四位下左衛門佐に叙任。 情報源のサイトへ
1440 侍所頭人となる。 情報源のサイトへ
1441 赤松満祐らが6代将軍足利義教を殺害し、領国の播磨国で挙兵した嘉吉の乱では義教と同席していたが抵抗せずに脱出し、討伐軍の主力を率いて戦い鎮圧に貢献し、赤松氏の領国を加えて播磨国など8ヶ国の守護職を回復して再び権勢を得た。 情報源のサイトへ /kakitmap.jpg /daigaku.jpg /p09.jpg /ando-family4.JPG
1441 』といいます。将軍暗殺後に本拠地の播磨・坂本城に戻った赤松満祐は、総司令官・山名持豊、副司令官・細川持常の幕府の連合軍に攻撃されて、城山城で自害することになります 情報源のサイトへ /kakitmap.jpg /daigaku.jpg /akamatuduka.jpg /8437_0.jpg
1441/6/24 京都の赤松邸に招かれたのは将軍・足利義教と義教の御相伴衆(ごしょうばんしゅう)を務める細川持之(ほそかわもちゆき)・畠山持永(はたけやまもちなが)・山名持豊(やまなもちとよ)・京極高数(きょうごくたかかず)・一色教親(いっしきのりちか)・細川持常(もちつね)・大内持世(おおうちもちよ)・公卿の三条実雅(さんじょうさねまさ)という幕政の中枢を占める錚々たる大物のメンバーでしたが、生命を賭けてまで義教を守ろうとする忠義の家臣は殆どいませんでした。日が暮れる夕方になると兼ねてからの計画通り、赤松家の武装した数十人の武士が酒宴に雪崩れ込み、剛勇無双で知られる安積行秀(あづみゆきひで)が恐怖の魔王と恐れられた将軍・足利義教の首を一刀の下に斬首しました 情報源のサイトへ /p09.jpg /ando-family4.JPG
1441/7/12 幕府の侍所所司を辞任。 情報源のサイトへ
1442/1 従三位右衛門佐に昇叙遷任。 情報源のサイトへ
1443 山名熙貴の娘を猶子に迎え、大内教弘に嫁がせ 情報源のサイトへ
1444 以降、右衛門督に転任。 情報源のサイトへ
1447 同じく熙貴の娘を幕府管領の細川勝元に嫁がせて、大内氏や細川氏と縁戚関係を結ぶ。 情報源のサイトへ
1450 出家し、宗峰と号する。後に宗全と改める 情報源のサイトへ
1450/5 足利義政・日野富子の意を受けた山名宗全入道(山名持豊)が、管領家の斯波義廉・畠山義就らをともなって細川勝元の屋敷を襲った。これがその後 情報源のサイトへ /12_2.jpg /ryoanji1.JPG
1454 赤松氏の出仕を巡り8代将軍足利義政と対立し、政務を引退して但馬へ下国。赤松則尚が播磨で宗全の孫に当たる山名政豊を攻めると、但馬から出兵してこれを駆逐する 情報源のサイトへ
1454/11 隠居し、家督を教豊に譲る。 情報源のサイトへ
1458 赦免されて再び上洛。幕政を巡り、娘婿である勝元と対立するようになる 情報源のサイトへ
1466 勝元と共謀して、政所執事の伊勢貞親や季瓊真蘂らを失脚させる文正の政変を行う。 情報源のサイトへ
1466/12 畠山義就を上洛させ、将軍と対面させる。 情報源のサイトへ
1467 畠山政長が失脚して、管領は山名派の斯波義廉となる。さらに上御霊社の戦いでは義就を加勢し、政長を駆逐させる 情報源のサイトへ /1A1A1A1A1A_1A1A00.JPG /kyoto001.jpg /men002_11.jpg /men002_13.jpg
1467 応仁{おうにん}の乱が始まった(史料1)。細川方(東軍)には24か国16万人、山名方(西軍)には20か国11万人がこの戦いに加わった 情報源のサイトへ /1A1A1A1A1A_1A1A00.JPG /kyoto001.jpg /kitasenjyo.jpg
1467 』が発生することになります。 情報源のサイトへ /ounin01.jpg /story_08_img.gif /nina_mon.jpg
1467/1/3 義就が山名持豊の屋敷で開いた酒宴に出席し、その席で義政は、義就による畠山氏の家督相続を認めました。同時に義政は、管領であった畠山政長を罷免(ひめん)し、屋敷の明け渡しを命じます 情報源のサイトへ /1A1A1A1A1A_1A1A00.JPG /kyoto001.jpg
1467/5 宗全と対立する赤松政則が播磨へ侵攻したのをはじめ、双方で散発的な衝突が起こる。 情報源のサイトへ
1467/8 周防から上洛した大内政弘と合流し、一進一退の状況になる。 情報源のサイトへ /ounin01.jpg /story_08_img.gif
1472 和平交渉も行われたが、赤松政則の抵抗などで失敗 情報源のサイトへ
1472/5 宗全は自害を試みている。 情報源のサイトへ
1473 病死、享年69。法名:達碧院殿最高宗峰大居士 情報源のサイトへ
1473 カテゴリ: 山名氏 | 室町時代の人物 | 守護大名 | 1404年生 | 1473年没 情報源のサイトへ

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