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山内容堂(やまのうちようどう)
| 生没 | 1827年~1872年 | カテゴリ | 幕末の人物 明治時代の人物 武士・軍人 |
|---|---|---|---|
| 主なできごと |
1827年 生まれ。豊信生家である山内南家は石高1500... 1827年 いう短さでの急死で山内家は断絶の危機に瀕した... 1862年 小笠原只八・山地忠七ら、山内容堂の使者として... 1866年 薩長同盟が成立した。これによって時代が明治維... 1867年 京都において、中岡慎太郎・坂本龍馬の仲介によ... |
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| ライバルや仲間 |
松平春嶽
島津久光 板垣退助 坂本龍馬 岩倉具視 徳川慶喜 |
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| 年月日 | できごと | 写真 |
|---|---|---|
| 1827 |
生まれ。豊信生家である山内南家は石高1500石の分家で、連枝五家の中での序列は一番下であった
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| 1827/12 |
いう短さでの急死で山内家は断絶の危機に瀕した。豊惇には実弟(後の16代藩主・山内豊範)がいたがわずか3歳であったため、分家で当時22歳の豊信が候補となった
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| 1827/3/7 |
山内豊信(山内容堂)(土佐藩主(14代)) [1827年3月7日生]
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| 1827/10/9 |
山内 容堂 / 豊信(やまうち ようどう / とよしげ、文政10年10月9日
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| 1827/10/29 |
山内容堂、第15代土佐藩主(+
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| 1841 |
土佐国高知城下吉田光四郎4男で兄が早世して家を相続。山内容堂の信頼が厚く、1841年に
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| 1846/3/7 |
山内容堂、連枝南屋敷の家督を継ぐ
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| 1848/12/27 |
藩主となる。
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| 1848/12/27 |
山内容堂、第十五代目の土佐藩主となる
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| 1848/12/27 |
豊信が藩主に就任した。
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| 1849 |
兵庫助を称する。
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| 1849/1/4 |
山内容堂、山内豊範を養子とする
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| 1850/9/11 |
山内容堂、三条正姫(公家三条実万の養女)と結婚
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| 1850/12/16 |
従四位下土佐守に叙任。
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| 1852/12/16 |
侍従兼任。
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| 1853 |
東洋を新たに設けた「仕置役(参政職)」に任じ、家老を押しのけて |
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| 1853/7/29 |
山内容堂、吉田東洋を大監察に挙用
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| 1854/3/4 |
山内容堂、参勤交代のため高知城下を出立
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| 1854/6 |
東洋は山内家姻戚に当たる旗本・松下嘉兵衛との間にいさかいをおこし失脚、謹慎の身となった。しかし
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| 1854/9/8 |
山内容堂、 |
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| 1857 |
東洋を再び起用し、東洋は後に藩の参政となる |
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| 1857/4/8 |
山内容堂、引き続きの江戸滞府を幕府より命じられる
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| 1857/7/7 |
山内容堂、福井藩主 |
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| 1858/1/27 |
山内容堂、条約勅許将軍継嗣問題に関連して福井藩士橋本左内に三条実万あての意見書を託す
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| 1858/3/18 |
大脇興之助・岡崎喜久馬ら、山内容堂の密使として京都へ出立
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| 1858/5/15 |
山内容堂、江戸鍛冶橋藩邸で三条家々来富田織部と条約勅許将軍継嗣問題について面談
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| 1858/7/4 |
山内容堂、幕府に対し九ヶ条の難題を持ちかける
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| 1858/8 |
二〇日山内容堂、江戸鍛冶橋藩邸で水戸藩士日下部伊三次と |
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| 1858/9/4 |
山内容堂、密勅の廻達について三条家諸太夫丹羽豊前守と面談
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| 1858/9/17 |
山内容堂、密勅の写と三条実万からの手紙を薩摩藩士有馬新七より受け取る
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| 1858/9/21 |
吉田東洋・後藤内蔵助・麻田楠馬ら、山内容堂の朝幕間奔走を憂慮し江戸に出立
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| 1858/11/19 |
山内容堂、幕府に隠居願いを提出
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| 1859 |
結局、慶福が14代将軍・家茂となることに決まった。容堂はこれに憤慨し、安政6年
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| 1859/2 |
隠居願いを幕府に提出した。
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| 1859/2 |
官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進している
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| 1859/2/26 |
山内豊範、山内容堂の隠居にともない第十六代目の土佐藩主となる
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| 1859/9/4 |
山内容堂、土佐への帰国を願うも許されず鮫洲の別邸へ移る
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| 1859/9/11 |
山内容堂、幕府から謹慎を命じられる
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| 1859/10 |
斉昭・春嶽・宗城らと共に幕府より謹慎の命が下った。
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| 1860/9/4 |
山内容堂、文通と対客は許されないものの謹慎を解かれる
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| 1861/1/18 |
吉田東洋、 |
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| 1861/9 |
吉田東洋、山内容堂に汽船購入と航海術の必要性を進言
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| 1861/12/22 |
吉田東洋、山内容堂に改革案数箇条の裁決をもとめる
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| 1862 |
50人組に加わり、江戸で山内容堂の警備にあたり、諸藩の志士と交流。相州小田原で |
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| 1862/4/25 |
山内容堂、幕府から帰国・対客・文通を許される
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| 1862/5/6 |
東洋を暗殺するに至った。その後、瑞山は門閥家老らと結び藩政を掌握した
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| 1862/8/3 |
小南五郎衛門、山内容堂から朝命拝受の許可を得るべく江戸に向け京都を出立
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| 1862/8/11 |
山内容堂、鮫洲の別邸から鍛冶橋上屋敷へ移る
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| 1862/8/15 |
山内容堂、将軍 |
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| 1862/9/7 |
山内容堂、攘夷建議書を携えた長州藩士周布政之助と面談
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| 1862/9/14 |
五十人組、山内容堂護衛のため高知城下を出立
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| 1862/9/27 |
山内容堂、御用部屋出座の命をうけ実質的に閣老に準ずる
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| 1862/11/5 |
山内容堂、長州藩世子毛利定広に招かれるも長州藩士久坂玄瑞らとの間にイザコザを生ず
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| 1862/11/12 |
小南五郎右衛門、山内容堂の使者として毛利定広に拝謁し長州藩士 |
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| 1862/11/14 |
小笠原只八・山地忠七ら、山内容堂の使者として蒲田梅屋敷をたずねるも長州藩士周布政之助が容堂に対して暴言を吐いたため両藩の間に紛争が生じる( |
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| 1862/11/19 |
山内容堂、松代藩主真田幸教に対し佐久間象山の招聘許可を願う手紙を書く
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| 1863 |
,山内容堂により土佐勤王党がほろぶと長州に行く。そして,武力で幕府をたおすほかに道はないと考えて,薩長同盟をすすめ,陸援隊をつくって,幕府をたおすために活やくした
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| 1863/1/15 |
山内容堂、 |
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| 1863/1/22 |
山内容堂、大坂において三箇条の布告をなし土佐勤王党の動きを牽制
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| 1863/2/14 |
山内容堂、攘夷実行期限について |
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| 1863/2/23 |
武市半平太、土佐勤王党の血判状を山内容堂に示す
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| 1863/3/4 |
武市半平太ら、山内容堂に薩長和解や国事周旋について相談するため京都を出立
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| 1863/3/12 |
山内容堂、高知城にいたる
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| 1863/3/26 |
山内容堂、海防の充実などを理由に京都をはなれ土佐へ出立
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| 1863/5/23 |
山内容堂、山内豊範の名において軽格尊王派に対し君臣の義や父子の親をうたった諭告書を示す
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| 1863/6/3 |
武市半平太、山内容堂に対し |
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| 1863/7/23 |
武市半平太、山内容堂に薩長和解案を示しこれを京都に送る
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| 1863/7/29 |
武市半平太、山内容堂に直諫を試みる
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| 1863/8/18 |
政変)が強行され、長州側が一触即発の事態を回避したため、これ以後しばらく佐幕派による粛清の猛威が復活した。容堂も謹慎を解かれ、土佐に帰国し、藩政を掌握した
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| 1863/9/4 |
朝廷より上洛の命が山内容堂に達す
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| 1863/9/6 |
薩摩藩老公 |
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| 1863/9/30 |
京都で会津藩・薩摩藩による長州藩追い落としのための朝廷軍事クーデター
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| 1863/12 |
容堂は上京し、朝廷から参預に任ぜられ、国政の諮問機関である |
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| 1863/12/21 |
山内容堂、汽船南海にて土佐を出立し京都へむかう
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| 1863/12/27 |
山内容堂、京都へ入り日光御里坊を宿舎とする
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| 1864/4/18 |
従四位上に昇叙し、左近衛権少将に転任。土佐守如元
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| 1865 |
,牢の中で自刄した。
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| 1866 |
東洋暗殺の直前に脱藩していた土佐の志士たち( |
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| 1866 |
参政、 |
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| 1866/1/22 |
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| 1867/5 |
薩摩藩主導で設置された |
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| 1867/6/22 |
京都において、中岡慎太郎・ |
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| 1867/10/14 |
容堂はこれを妙案と考え、15代将軍・ |
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| 1867/11/9 |
慶喜は朝廷に大政奉還した。
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| 1867/12/9 |
維新政府(以下「政府」とする)議定に就任。
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| 1868 |
容堂は、慶応4年
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| 1868/1/3 |
旧幕府側の発砲で |
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| 1868/1/3 |
開かれた |
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| 1868/1/14 |
内国事務総裁兼任。
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| 1868/1/21 |
内国事務総裁依願免職。
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| 1868/4/21 |
議定解任。
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| 1868/6/3 |
従二位権中納言に昇叙転任し、政府議政官の上局たる議定に就任。
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| 1868/9/19 |
議事体裁取調方総裁を兼任。
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| 1868/12/13 |
学校知事も兼任。
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| 1869 |
明治維新後は内国事務総裁に就任したが、かつて家臣や領民であったような身分の者とは馴染まず、明治2年
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| 1869 |
辞職。しかし |
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| 1869/4/17 |
制度寮総裁を兼任。議事体裁取調方総裁を止む
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| 1869/4/20 |
学校知事を辞任。
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| 1869/5/7 |
制度寮総裁解任し、上局議長に就任。
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| 1869/5/15 |
議定辞任に伴い上局議長を止む。
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| 1869/5/17 |
学校知事就任。
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| 1869/7/9 |
学校知事依願退職し、麝香間祇候となる。
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| 1869/9/26 |
正二位に昇叙。
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| 1872 |
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| 1872 |
積年の飲酒が元で脳溢血に倒れ、46歳(数え年)の生涯を閉じた。墓所は土佐藩下屋敷があった大井公園(品川区東大井4丁目)にある
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| 1872/6/21 |
薨去。
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| 1872/6/28 |
贈従一位。
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| 1872/7/26 |
日本の武士・外様大名・土佐藩15代藩主(在任期間:
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