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山内容堂(やまのうちようどう)

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年月日 できごと 写真
1827 生まれ。豊信生家である山内南家は石高1500石の分家で、連枝五家の中での序列は一番下であった 情報源のサイトへ
1827/12 いう短さでの急死で山内家は断絶の危機に瀕した。豊惇には実弟(後の16代藩主・山内豊範)がいたがわずか3歳であったため、分家で当時22歳の豊信が候補となった 情報源のサイトへ
1827/3/7 山内豊信(山内容堂)(土佐藩主(14代)) [1827年3月7日生] 情報源のサイトへ
1827/10/9 山内 容堂 / 豊信(やまうち ようどう / とよしげ、文政10年10月9日 情報源のサイトへ
1827/10/29 山内容堂、第15代土佐藩主(+ 情報源のサイトへ
1841 土佐国高知城下吉田光四郎4男で兄が早世して家を相続。山内容堂の信頼が厚く、1841年に 情報源のサイトへ
1846/3/7 山内容堂、連枝南屋敷の家督を継ぐ 情報源のサイトへ
1848/12/27 藩主となる。 情報源のサイトへ
1848/12/27 山内容堂、第十五代目の土佐藩主となる 情報源のサイトへ
1848/12/27 豊信が藩主に就任した。 情報源のサイトへ
1849 兵庫助を称する。 情報源のサイトへ
1849/1/4 山内容堂、山内豊範を養子とする 情報源のサイトへ
1850/9/11 山内容堂、三条正姫(公家三条実万の養女)と結婚 情報源のサイトへ
1850/12/16 従四位下土佐守に叙任。 情報源のサイトへ
1852/12/16 侍従兼任。 情報源のサイトへ
1853 東洋を新たに設けた「仕置役(参政職)」に任じ、家老を押しのけて藩政改革を断行した。翌 情報源のサイトへ /b9c6c001a322dba77aa490d57b36738e-1.jpeg /yozan.jpg
1853/7/29 山内容堂、吉田東洋を大監察に挙用 情報源のサイトへ
1854/3/4 山内容堂、参勤交代のため高知城下を出立 情報源のサイトへ
1854/6 東洋は山内家姻戚に当たる旗本・松下嘉兵衛との間にいさかいをおこし失脚、謹慎の身となった。しかし 情報源のサイトへ
1854/9/8 山内容堂、藩政改革の意見書を布告 情報源のサイトへ /b9c6c001a322dba77aa490d57b36738e-1.jpeg /yozan.jpg
1857 東洋を再び起用し、東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝悌らを起用した。 情報源のサイトへ
1857/4/8 山内容堂、引き続きの江戸滞府を幕府より命じられる 情報源のサイトへ
1857/7/7 山内容堂、福井藩主松平春嶽と知りあい序々に条約勅許・将軍継嗣問題に関与しはじめる 情報源のサイトへ
1858/1/27 山内容堂、条約勅許将軍継嗣問題に関連して福井藩士橋本左内に三条実万あての意見書を託す 情報源のサイトへ
1858/3/18 大脇興之助・岡崎喜久馬ら、山内容堂の密使として京都へ出立 情報源のサイトへ
1858/5/15 山内容堂、江戸鍛冶橋藩邸で三条家々来富田織部と条約勅許将軍継嗣問題について面談 情報源のサイトへ
1858/7/4 山内容堂、幕府に対し九ヶ条の難題を持ちかける 情報源のサイトへ
1858/8 二〇日山内容堂、江戸鍛冶橋藩邸で水戸藩士日下部伊三次と密勅降下運動について面談 情報源のサイトへ
1858/9/4 山内容堂、密勅の廻達について三条家諸太夫丹羽豊前守と面談 情報源のサイトへ
1858/9/17 山内容堂、密勅の写と三条実万からの手紙を薩摩藩士有馬新七より受け取る 情報源のサイトへ
1858/9/21 吉田東洋・後藤内蔵助・麻田楠馬ら、山内容堂の朝幕間奔走を憂慮し江戸に出立 情報源のサイトへ
1858/11/19 山内容堂、幕府に隠居願いを提出 情報源のサイトへ
1859 結局、慶福が14代将軍・家茂となることに決まった。容堂はこれに憤慨し、安政6年 情報源のサイトへ
1859/2 隠居願いを幕府に提出した。 情報源のサイトへ
1859/2 官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進している 情報源のサイトへ
1859/2/26 山内豊範、山内容堂の隠居にともない第十六代目の土佐藩主となる 情報源のサイトへ
1859/9/4 山内容堂、土佐への帰国を願うも許されず鮫洲の別邸へ移る 情報源のサイトへ
1859/9/11 山内容堂、幕府から謹慎を命じられる 情報源のサイトへ
1859/10 斉昭・春嶽・宗城らと共に幕府より謹慎の命が下った。 情報源のサイトへ
1860/9/4 山内容堂、文通と対客は許されないものの謹慎を解かれる 情報源のサイトへ
1861/1/18 吉田東洋、藩政改革について山内容堂に承認をもとめる 情報源のサイトへ /b9c6c001a322dba77aa490d57b36738e-1.jpeg /yozan.jpg
1861/9 吉田東洋、山内容堂に汽船購入と航海術の必要性を進言 情報源のサイトへ
1861/12/22 吉田東洋、山内容堂に改革案数箇条の裁決をもとめる 情報源のサイトへ
1862 50人組に加わり、江戸で山内容堂の警備にあたり、諸藩の志士と交流。相州小田原で刃傷事件情報源のサイトへ /genba4.jpg /images607666.jpg
1862/4/25 山内容堂、幕府から帰国・対客・文通を許される 情報源のサイトへ
1862/5/6 東洋を暗殺するに至った。その後、瑞山は門閥家老らと結び藩政を掌握した 情報源のサイトへ
1862/8/3 小南五郎衛門、山内容堂から朝命拝受の許可を得るべく江戸に向け京都を出立 情報源のサイトへ
1862/8/11 山内容堂、鮫洲の別邸から鍛冶橋上屋敷へ移る 情報源のサイトへ
1862/8/15 山内容堂、将軍徳川家茂に拝謁し今後とも政務についての意見を求められる 情報源のサイトへ /nobecho.jpg /image56115111.jpg
1862/9/7 山内容堂、攘夷建議書を携えた長州藩士周布政之助と面談 情報源のサイトへ
1862/9/14 五十人組、山内容堂護衛のため高知城下を出立 情報源のサイトへ
1862/9/27 山内容堂、御用部屋出座の命をうけ実質的に閣老に準ずる 情報源のサイトへ
1862/11/5 山内容堂、長州藩世子毛利定広に招かれるも長州藩士久坂玄瑞らとの間にイザコザを生ず 情報源のサイトへ
1862/11/12 小南五郎右衛門、山内容堂の使者として毛利定広に拝謁し長州藩士高杉晋作らの横浜襲撃計画を伝える 情報源のサイトへ /h170902_02L.jpg /uma.jpg
1862/11/14 小笠原只八・山地忠七ら、山内容堂の使者として蒲田梅屋敷をたずねるも長州藩士周布政之助が容堂に対して暴言を吐いたため両藩の間に紛争が生じる(蒲田梅屋敷事件情報源のサイトへ
1862/11/19 山内容堂、松代藩主真田幸教に対し佐久間象山の招聘許可を願う手紙を書く 情報源のサイトへ
1863 ,山内容堂により土佐勤王党がほろぶと長州に行く。そして,武力で幕府をたおすほかに道はないと考えて,薩長同盟をすすめ,陸援隊をつくって,幕府をたおすために活やくした 情報源のサイトへ
1863/1/15 山内容堂、勝海舟坂本龍馬らの脱藩罪赦免について内諾をあたえる 情報源のサイトへ /354c1b1eb741449f24b135033e444567.jpg /20071202123050.jpg /walk3.jpg /article25.jpg
1863/1/22 山内容堂、大坂において三箇条の布告をなし土佐勤王党の動きを牽制 情報源のサイトへ
1863/2/14 山内容堂、攘夷実行期限について徳川慶喜松平春嶽松平容保らと連署し朝廷へ奉じる 情報源のサイトへ /matsumoto_kijirou.jpg /A02l.jpg /sakaima.jpg /12_07.jpg /12_06.jpg
1863/2/23 武市半平太、土佐勤王党の血判状を山内容堂に示す 情報源のサイトへ
1863/3/4 武市半平太ら、山内容堂に薩長和解や国事周旋について相談するため京都を出立 情報源のサイトへ
1863/3/12 山内容堂、高知城にいたる 情報源のサイトへ
1863/3/26 山内容堂、海防の充実などを理由に京都をはなれ土佐へ出立 情報源のサイトへ
1863/5/23 山内容堂、山内豊範の名において軽格尊王派に対し君臣の義や父子の親をうたった諭告書を示す 情報源のサイトへ
1863/6/3 武市半平太、山内容堂に対し藩政改革を建言 情報源のサイトへ /b9c6c001a322dba77aa490d57b36738e-1.jpeg /yozan.jpg
1863/7/23 武市半平太、山内容堂に薩長和解案を示しこれを京都に送る 情報源のサイトへ
1863/7/29 武市半平太、山内容堂に直諫を試みる 情報源のサイトへ
1863/8/18 政変)が強行され、長州側が一触即発の事態を回避したため、これ以後しばらく佐幕派による粛清の猛威が復活した。容堂も謹慎を解かれ、土佐に帰国し、藩政を掌握した 情報源のサイトへ
1863/9/4 朝廷より上洛の命が山内容堂に達す 情報源のサイトへ
1863/9/6 薩摩藩老公島津久光の使者として高崎猪太郎が土佐を訪れ山内容堂に上洛を促す 情報源のサイトへ /096.JPG /satsueiwar.jpg
1863/9/30 京都で会津藩・薩摩藩による長州藩追い落としのための朝廷軍事クーデター 情報源のサイトへ
1863/12 容堂は上京し、朝廷から参預に任ぜられ、国政の諮問機関である参預会議に参加するが、容堂自身は病と称して欠席が多く短期間で崩壊した。 情報源のサイトへ
1863/12/21 山内容堂、汽船南海にて土佐を出立し京都へむかう 情報源のサイトへ
1863/12/27 山内容堂、京都へ入り日光御里坊を宿舎とする 情報源のサイトへ
1864/4/18 従四位上に昇叙し、左近衛権少将に転任。土佐守如元 情報源のサイトへ
1865 ,牢の中で自刄した。 情報源のサイトへ
1866 東洋暗殺の直前に脱藩していた土佐の志士たち(坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元)の仲介によって、慶応2年 情報源のサイトへ /5_8_17%2016711.jpg /img573ae61dzik8zj.jpeg
1866 参政、坂本龍馬の建策により山内容堂を説いて大政奉還の建白を実現。維新後は 情報源のサイトへ /5_8_17%2016711.jpg /img573ae61dzik8zj.jpeg
1866/1/22 薩長同盟が成立した。これによって時代が明治維新へと大きく動き出した 情報源のサイトへ /p1002835815.jpg /5f217a330ce52262.jpg
1867/5 薩摩藩主導で設置された四侯会議に参加するが、幕府権力の削減を図る薩摩藩の主導を嫌い、欠席を続ける。結局この会議は短期間で崩壊 情報源のサイトへ
1867/6/22 京都において、中岡慎太郎・坂本龍馬の仲介により、薩摩の小松帯刀・大久保利通西郷隆盛と土佐の後藤象二郎板垣退助・福岡孝弟・寺村左膳・間部栄三郎が会談し、幕府排除と王政復古のための薩土同盟が成立した。これにより、土佐藩全体が徐々に倒幕路線に近付いていくことになった 情報源のサイトへ /ryoumashouzou.jpg /kyoto_10.jpg
1867/10/14 容堂はこれを妙案と考え、15代将軍・徳川慶喜に建白した。これにより慶応3年10月14日 情報源のサイトへ /top_img_03.jpg /top_img_01.jpg
1867/11/9 慶喜は朝廷に大政奉還した。 情報源のサイトへ
1867/12/9 維新政府(以下「政府」とする)議定に就任。 情報源のサイトへ
1868 容堂は、慶応4年 情報源のサイトへ
1868/1/3 旧幕府側の発砲で戊辰戦争が勃発すると、自分が土佐藩兵約百名を上京させたにもかかわらず、土佐藩兵はこれに加わるなと厳命した。しかし、土佐軍指揮官・板垣退助はこれを無視し、自発的に新政府軍に従軍した 情報源のサイトへ /060827e1.jpg /20070113_217289.JPG /n_s19.jpg /kougakuji3.jpg
1868/1/3 開かれた小御所会議に於いて、薩摩、尾張、越前、芸州の各藩代表が集まり、容堂も泥酔状態ながら遅参して会議に参加した。容堂は、自分自身直接会議に参加して認めていた王政復古の大号令を、それまでの自分の持論であった列侯会議路線すなわち徳川宗家温存路線と根本的に反するが故に、岩倉具視ら一部公卿による陰謀と決め付け、大政奉還の功労者である徳川慶喜がこの会議に呼ばれていないのは不当であるなどと主張した 情報源のサイトへ /yamaoka3.jpg /nijyou.gif /img67d59bafzik5zj.jpeg /20070407_299671.jpg
1868/1/14 内国事務総裁兼任。 情報源のサイトへ
1868/1/21 内国事務総裁依願免職。 情報源のサイトへ
1868/4/21 議定解任。 情報源のサイトへ
1868/6/3 従二位権中納言に昇叙転任し、政府議政官の上局たる議定に就任。 情報源のサイトへ
1868/9/19 議事体裁取調方総裁を兼任。 情報源のサイトへ
1868/12/13 学校知事も兼任。   情報源のサイトへ
1869 明治維新後は内国事務総裁に就任したが、かつて家臣や領民であったような身分の者とは馴染まず、明治2年 情報源のサイトへ
1869 辞職。しかし木戸孝允とは仲が良く、自邸に招いては明治政府の将来などについて語り合ったという 情報源のサイトへ /tamaya.jpg /oomura_zou.jpg
1869/4/17 制度寮総裁を兼任。議事体裁取調方総裁を止む 情報源のサイトへ
1869/4/20 学校知事を辞任。 情報源のサイトへ
1869/5/7 制度寮総裁解任し、上局議長に就任。 情報源のサイトへ
1869/5/15 議定辞任に伴い上局議長を止む。 情報源のサイトへ
1869/5/17 学校知事就任。 情報源のサイトへ
1869/7/9 学校知事依願退職し、麝香間祇候となる。 情報源のサイトへ
1869/9/26 正二位に昇叙。   情報源のサイトへ
1872 カテゴリ: 質問があるページ | 江戸の大名 | 外様大名 | 幕末維新側人物 | 土佐国の人物 | 高知県の歴史 | 土佐山内氏 | 1827年生 | 1872年没 情報源のサイトへ
1872 積年の飲酒が元で脳溢血に倒れ、46歳(数え年)の生涯を閉じた。墓所は土佐藩下屋敷があった大井公園(品川区東大井4丁目)にある 情報源のサイトへ
1872/6/21 薨去。 情報源のサイトへ
1872/6/28 贈従一位。 情報源のサイトへ
1872/7/26 日本の武士・外様大名・土佐藩15代藩主(在任期間: 情報源のサイトへ

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